寄稿
【掲載インデックス】 特別エッセイ「新陳代謝」
2025年1月1日号 作家 佐藤 賢一さん
寄稿バックナンバー
・2024年寄稿
・2023年寄稿
・2022年寄稿
・2021年寄稿
・2020年寄稿
・2019年寄稿
・2018年寄稿
2025年1月1日号 特別エッセイ「新陳代謝」
作家 佐藤 賢 一さん
私の目に触れた範囲だけの話だろうか。昨二〇二四年の鶴岡では、閉店するところが多かったように思う。小売店だったり、食べ物屋だったり、会社のオフィスだったり。何とはなしに歩いていて、あるいは車を運転していて、あれ、ここが閉まっている、ここも閉まった、ここまで閉まったのかと驚かされたことが、やけに多かった気がするのだ。
急に決まったことなのか。すでに開店休業状態で、前々から予定していたのか。コロナのときに受けた打撃から、遂に立ちなおれなかったのか。それとも不幸があったとか、後継者がいないとかの、担い手の問題か。建物の老朽化が進んで、営業に堪えられなくなった場合もあったかもしれない。
実際、閉店から間もなく、店舗が取り壊された場所も、いくつかみられた。そうなると、街並みに欠けが生まれて、何だか歯抜けのようになって、みすぼらしいというか、わびしいというか。閉まった一軒、二軒に留まらず、このまま鶴岡全体がさびれていってしまうのかと、不安な気持ちに駆られたりもした。
隙間ない並びに欠けが生まれるといえば、住宅街も然りで、家屋がなくなった更地も妙に目についた。もっとも取り壊されたのは、大半が古い建物のようだった。それこそ私が子供の頃の記憶にあるくらいだから、築五十年からになっていたか。想像すれば、もう住む人がいなくなって、それでも子や孫が家を継ぐというような時代でもなくなり、それならば長く空き家にするのも問題なので解体することにしたと、そんなところか。
さておき、そうした更地には、新しい家も建てられていた。私の目に触れたかぎりでも、数軒あった。また近所には似たような新築——この数年で建てられたと思しき家々が少なくないことにも興味を惹かれた。界隈が生まれ変わったというか、ぐっと若返ったというか、みているだけで気持ちが明るくなってくるが、それも考えてみれば当たり前の話だ。およそ五十年前に行われた宅地開発で、その界隈に一斉に家を建てた、当時三十代くらいの人たちが、段々いなくなっているのだ。家も古屋となれば、取り壊しが相次ぐのは道理で、空いたところに新しい世代が、どんどん移り住んでいるわけなのだ。
起きているのは、いってみれば地域の新陳代謝である。それは住宅街に限らず、商業地でも、工業地でも、同じことなのかもしれない。鶴岡全体でみても、新陳代謝が活性化するサイクルに入ったのかもしれない。
それを五十年としても、あながちおかしくないだろう。鶴岡に限らず、まず間違いなく地域が変わったのが、明治維新のあとの一八七〇年代である。旧来の城下町が文明開化で一変、大きく発展した。次が一九二〇年代で、工業化の時代、鉄道の時代に入った。鶴岡駅ができたのが一九一九年、羽越本線の全線開通が一九二四年で、ここで駅前という新しい界隈ができたわけだ。続くのが一九七〇年代で、高度経済成長の時代、自家用車の時代に入った。郊外の、それまで田畑だったところに、どんどん住宅街が広がって、鶴岡は人口が増え、その規模も大きくなった。このサイクルが終わり、次のサイクルが始まったのが、今の二〇二〇年代なのだ。
古いものは持ち堪えられずになくなり、かわりに新しいものが、どんどん作られていく。あちこち欠ける街並みは、これからも欠けていくだろうが、あとには新しい街並みが現れる。新陳代謝を経ながら、住宅街も、商業地も、工業地も生まれ変わり、次の時代に歩を踏み出す、いや、踏み出さなければならない。力強い前進を決定づける、大きな一歩を刻む年になれかしと、二〇二五年、この年始に祈る気持ちである。