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寄稿

令和年6月15日号 「断捨離」 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 テレビから流れた「だんしゃり」の言葉を初めて耳にした時「何のこと…」であったがその後度々耳にするにつれ、「使用度の少ない古い品物はさっさと捨てて、安価で便利な新しい品に買い替えよう…」と言うことのようだ。
 「地球の資源は無限ではない。だから物を大切に…」とか「もったいない」が流行語になったのはついこの前のことであったのに、それが美徳ではなくなり、さらに「いつ用いるのか分からない品々を後生大事に保管しているのは無駄なこと…、そのスペースをもっと有効利用しよう…との考えに変わったことを示す言葉のようだ。
 ついこの間までどの家でも「ものは大切に…」と、包装紙やヒモなどは再利用に備えて保管するのが常識であったのが、手のひらを返すように突然「断捨離」とは…。
 昨年の暮、妻が突然入院した。退院後のアドバイスを受けた中で、ネックとなったのは階段の上り下りであった。我が家は改築と増築を重ねた家なので、変則的な階段から成る。この際寝室を1階に移す改造をせねばなるまい…。それならいっそ転居しようか。しかし住み慣れた地を離れるのは、生活も一変することだろう…と迷った。
 孟子の母は吾子の将来を考えて住居を三度も替えたことから「孟母三遷」の格言が生まれたとか。また江戸末期の絵師葛飾北斎は生涯に93回の転居をした記録を持つ。歴史に残る名作「神奈川沖浪裏」は、荒波の中の小舟とその向こうに白い峰の富士山を描いたものである…、これは切手にもなっているから広く知られる名画である。この作品は最後の引っ越しから間もなくの作品であると伝えられている。
 NHK大河ドラマ『いだてん』でビートたけしが演じている古今亭志ん生もまた転宅を繰り返した人で、回数では北斎に及ばないものの、その後に人気が出て「名人」と呼ばれ、後世に名を残している。
 両者の転宅理由を単純に言えば「借金に追われて…」が真相のようだが、その後歴史に残る大家と呼ばれたのはご存じの通りである。私が改造をあきらめて引っ越しを選んだのは、「私もこの二人にあやかろう…」などと考えたわけではない。
 寒中にポツンと一人で荷物の整理を始めると、見る間に馴染みのない品物の山に囲まれた。「18歳で東京へ旅立つ時はたしかボストンバッグ一つであったのに…」と独り言を吐いていた。その後名古屋で新所帯を持ってから3度目の転居を経て鶴岡へ来たのだが、その後もさらに3度引っ越し、昭和51年に「我が家」を得て落ち着いたのである。その頃日本は経済高度成長期であったことも手伝って、家具や道具類を買い集めたのである。子供へも「自分のような乏しい思いをさせたくない…」とばかり、次々に買い与えてきたように思える。その結果がこの山である。子供の品もさることながら、自分への褒美とか生活の潤いなどと理屈をつけては衝動買いした品々も少なくない。どれも楽しいひと時を演出してくれた品々である。
 『断捨離』という言葉を知ってからも『我が家にはそんな品はない、だから断捨離とは無縁だ…』と自信満々であったのだが、作業を開始するやあっと言う間に「廃棄物」の山ができていた。しかし翌日になるとその山に首を入れ、懸命に探す…そんなことが二度、三度と繰り返した。その頃『山新』掲載の川柳に「愛着と惜しさ残る 断舎離後」(鶴岡 今野興和)を見つけ大きく首肯してしまった。
 不用品に分別したのに一晩のうちに「手放し難い品」に変身するのは、購入時の価格とか骨董的な価値よりも、むしろその品と共に残っている思い出の濃さや、その品との出会いやその後のストーリーにある。これが人と人なら「愛」と表現するのだろうが、人対品物の場合にも似た感情がある。これを「愛着」とか「愛惜」というのだろうか。

令和元年5月1日号 「憲法記念日」 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 ゴールデンウイークは子供だけではなく老若男女もが心待ちにする一週間であるが、「飛び石連休」の別称通り、祝日と祝日の間に平日が邪魔をするかのように居座るのが通年であった。ところが今年は令和天皇の即位式や振替休日などが、その空間を見事に埋めたため10連休という超大型になった。
 それぞれの祝日には来歴があり、それに至る経過は新聞やテレビが解説してくれるので、それなりに理解しているつもりなのだが、「昭和の日」や「子供の日」にくらべ5月3日の「憲法記念日」は「現在の憲法が出来た日では…」との程度に捉えていた。マスコミはこの日も祝祭日に至った由来などを説明しているのだろうが、連休の谷間にあって「聞く耳持たぬ状態」なのだろう。
 この日は明治22年に発布された『大日本帝国憲法』を大きく改めて、昭和21年11月3日に戦争放棄を謳った新しい憲法が公布され、それが半年後の翌22年5月3日から施行された、それを記念する日であるとのこと。
 明治4年11月、岩倉具視ら一行が欧米を巡った時、欧米人は「通商条約の改正なんてとんでもない、憲法もない国が…」と陰で笑っていた…との話が残っている。しかし当時の日本には明治元年に天皇から公表された『五箇条の御誓文』が存在していたし、さらに遡れば日本が国家らしき体制となった飛鳥時代の西暦604年に、推古天皇は憲法17条を制定した。その1条が「和を以て尊(たっと)しとなす…」であることを記憶している人も少なくないことだろうが、これを欧米人が知る由もないだろうし、たとえ知っていたとしても、これを『憲法』とは認めていなのだろう。
 『法』が成立した時は重要な決まりであるのだが、時間の経過や環境の違いによって、それが適合しなくなることが発生する。為政者たちはその時々で改正せねばならなくなるのだが、そんな時自分の利益になることばかりに知恵を絞り、我田引水の法令を編みがちであった。これは洋の東西を問わず、中世から近世の独裁者たちはこのような策を繰り広げてきたことは歴史が伝えている。日本でも「犬を殺してはならない、棒でたたいたら罰金…」などという法を作った将軍がいた。そんなことを伝え聞いた半可通たちの口から「憲法の無い国」が出たのではないだろうか…。
 しかし明治元年、天皇が発した『五箇条の御誓文』は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」…以下4条が公にされた。しかしこれを多くの本は、憲法ではなく「国是」と書き表している。
 しからば憲法とは何ぞや…辞書には「国家の掟」とあり、日本では明治22年2月に発布されたのが初の憲法とされ、推古天皇の「和を以て…」や明治の『五箇条』は憲法とは認めていない。
 「憲法」と「国是」の違いを知るには、まず『憲』の字の意味を知る必要がある。手持ちの漢和辞典をめくると、「決まり」とか「手本」、「悟りが早い」と三つの意味が書かれていた。古くからこの文字は人名に用いられているが、その理由が分かった気がした。
 これらの意味からすれば「和を以て」や『五箇条』も憲法と呼べるものではないか…。
 さらにこの字を分解すれば「ウ+主+四+心」から成る…と思っていたら、四ではなく目の字を横にしたもので、「罪人の目の上に施した刺青を表したもの」…と辞典にある。日本の罪人が二の腕に太い二本線を刺青されたのは中国のこれを倣ったものであろうと推測した。1300ページ足らずの机上辞典にもこんな興味深いことが載っているのだから、分厚くて重い立派な辞典ならもっと面白いことが書いてあるのでは…と図書館へ向かった。しかし辞書の価値は必ずしも重量や大きさと比例しないようだ。
 刺青のことから「憲法とは刑罰から出発した…」のではとの推測を巡らし、新たな興味をそそられたが、それを裏付ける本とはまだ出会えていない。

2019年1月1日号 「二十年」  作家  佐藤 賢一さん

鶴岡に戻って、二十年になる。高校三年、十八歳まで暮らしたが、大学、大学院と進み、かたわら作家になった十二年ほどは余所で暮らした。作家一本と決めて、大学院に退学届を出したのが一九九八年の九月、それからUターンで鶴岡に居を定め、二十年なのである。
 鶴岡は鶴岡のまま、何も変わらないような気がする。が、これを機会と二十年前を思い出してみると、驚くほど変わったことに気づかされる。
 私が鶴岡に戻ってきた頃、話題になっていたのが庄内の四年制大学新設だった。どこに置くかで議論があったが、結論は「酒田に学部、鶴岡に大学院」だった。私はまんなかに置くべきだと思っていたので、これは駄目だなと内心がっかりしたが、あにはからんやで鶴岡には慶応大学先端生命科学研究所が置かれることになった。これが大成功で、研究所が世界に注目される成果を多く世に送り出すのみならず、近年は様々なベンチャー事業さえ創出している。今や鶴岡の希望の星である。
 亡くなられたばかりの藤沢周平さんも、当時は話題だった。私にとっては丸谷才一さんと並ぶ同郷の大先輩作家で、ずっと意識もしていたが、意外や地元で盛り上がりをみせたのは、追悼かたがたで取り上げられた、この頃からではなかったかと思う。それがブームというほど熱したのは、藤沢作品の『たそがれ清兵衛』を山田洋次監督が映画化する、それも鶴岡で撮影するという話になってからだ。これが始まりで藤沢作品の映画化が続き、さらに他の時代劇も、一般の映画まで撮影されるようになって、今や鶴岡は全国でも知られたロケ地のひとつなのである。これまた、ますます将来が楽しみだ。
 その『たそがれ清兵衛』の上映をみたのが、最後の鶴岡シネマ旭だった。もう鶴岡に映画館がなくなる、三川に行くしかなくなると淋しく感じたが、数年後に鶴岡まちなかキネマができた。嬉しいと思う反面、続くのだろうかと心配もしたが、先の地元ロケとも連動しながら、ますます盛況である。なるほど、私自身けっこう行く。地元贔屓を抜きにも、しごく心地よい映画館だと思う。
 映画館だけでなく、イオン三川(旧ジャスコ)自体の建設も大ニュースだった。二十年前は鶴岡にジャスコもダイエーもあったが、こりゃ拙いなと私でも思うほど、閑古鳥が鳴いていた。三川にイオンができて、大型商業施設まで併設されるとなると、これからの市街地はどうなるものかと塞いだが、全くの杞憂だった。いや、その実は危機感あって、皆で奮闘した賜物なのかもしれないが、いずれにせよさびれたりしていない。二十年前より勢いがあるくらいで、エスモールなど以前のダイエーと比べれば、もう嘘のような賑わいだ。
 三川がそのままなので、無頓着に鶴岡がどうこうと書いてしまうが、その鶴岡も二十年前は鶴岡市、櫛引町、羽黒町、藤島町、温海町、朝日村に分かれていた。平成の大合併で新鶴岡市になったわけだが、市民生活が目にみえて変化したわけではない。これは変化しなかったこと、行政サーヴィスが落ちなかったことが、かえって成功なのかと思う。
 二十年前といえは、庄内に高速道路が開通したばかりだった。どんどん便利になるかと思ったが、なかなか先につながっていかない。鉄道についていえば、二十年前どころか、それ以前から羽越線の高速化、新幹線化が議論されてきた。これは新潟駅で同一ホーム乗り換えができるところまで来た。今春、ようやくのことだ。いずれにせよ、高速交通の整備は思うように進んでいない。県だの、国だの、JRだのと協働する事業となると、どういうわけか振るわない。平成の大合併で山形県下で第二の大都市になったのだから、そのあたりアピールしながら、もっと強気に求めていってよい気もする。
 あれやこれや挙げてきたが、二十年で鶴岡も変わったものだと驚く——というより、いよいよ感心させられる。これだけ変わった地域、それも悪く変わったのでなく、良く変わった地域というのは、県内でも、いや、全国でも珍しいのではないか。鶴岡は稀有にも変わる力がある地域なのだ。先の高速交通、さらに教育、医療、福祉、観光、産業育成と、なお残る課題も多いが、多いだけ次の十年、二十年が楽しみな気がしてくる。

2018年9月1日号 「ロケット」 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

昨年初夏も、酷暑が続きうんざりしていた頃「日本初の民間宇宙ロケットを発射」というニュースに体がシャキッとなった。胸をときめかせながら待っていたら、濃霧のためとか、機器の不調などで発射が2度も延期されて、7月30日に発射と発表された。日本の宇宙ロケットはこれまで「種子島の宇宙センター」がお定まりであっただけに、民間会社が北海道から発射させるのには少なからず興奮させられた。
   ◆     ◆
 宇宙へのロケットは、できるだけ赤道近くから発射するのが燃料費の節約になる…と何かで読んだことがあるが、何故北海道なのだろう…それは日本のロケットが東北から始まったからではないか。
 昭和30年8月6日は、秋田県由利郡岩城町(現由利本荘市)でロケットの研究を重ねていた東大の糸川英夫教授を中心とするグループが、日本で初のロケット打ち上げに成功した日である。当地からお送りいただいた資料によれば「ロケットは全長が23㌢、直径1・8㌢のマジックペンのような形に尾翼を付けたもので、水平に3分間飛んだ…」とある。
 この実験地が何故秋田なのか、当時『国際地球観測年』で、日本での観測範囲が秋田周辺に指定されていたからであった。このロケットは「ペンシルロケット」と呼ばれ、中学生だった私にも親しみが持てるものであったが、この実験成功が、今後の生活にどのような影響を及ぼすのだろう…などと興味半分で話し合った覚えがある。新聞やラジオを懸命に探ったり、先生に質問したりしたのだが、納得できる答えに出会うことはなかった。
 糸川教授は明治45年に東京で生まれ、昭和10年東大を卒業して中島飛行機へ入社。16年東大へ移りロケットの研究に入るが、戦後は「ポツダム宣言」により、日本は航空機の製造、研究が禁止される。糸川は足をもぎ取られたカニ状態となり、仕方なくチェロ演奏やヴァイオリン製造に情熱を注いだとか。28年シカゴ大の客員教授に招かれ、そこでロケット開発との運命的な出会いがあった。帰国後も研究を進めていたところへ地球観測年の仕事が入る。早速その拠点を探すが、戦後の日本は食料不足からの脱出に向けて、耕地拡大を国策に掲げて、開発整備が進められていた。そんな中で研究所の用地を探すのは一苦労であった。火薬を使うことから人家や工場から離れているのが条件だし、田を埋め立てるなどはもってのほか、峠を越えた山奥ではトンネルが必要となるし、橋を架けねばならないので論外である。当時コンクリートの防波堤はまだ少なく、白砂青松の地が多かったが、港の近くは避けねばならないし、鉄道が通っていてはだめだ。これらの条件をクリアしてやっと由利本荘市の海岸に定まったのである。最初の打ち上げ日には近隣から1000人余の人が詰めかけ、アイスキャンデー屋も数人来た…と記事にある。「シュッ」の音を残し海へ向かって飛んだロケットは23秒後に海水へ入った。一瞬の出来事ではあったが関係者も観衆も大満足した。その後何度も打ち上げ実験が行われたが、その度ロケットが大型化した。研究員にすればこれは成長であろうが、周辺住民にとっては不安の膨張であった。そんな最中の37年5月、88機目の打ち上げ直後、ロケットが爆発炎上し、破片が飛び散り実験場が火の海と化した。近隣の住民に害がなかったのは不幸中の幸いであったが、周辺住民を不安に陥れてしまった。これを機に実験場移転の声が高くなり、取りあえず能代市(秋田)へ移り、翌年完成した鹿児島県内之浦へ移転した。
 当時はロケットに人が乗れるなどとは想像すらできなかった時代ではあったが、自分がロケットの運転席に座る姿を想像しながら成長したのである。
 老人になっても、そんな夢が心の底にくすぶっているのか、『せめて実物のロケットが飛び立つ雄姿だけでも一目見たいものだ…』と、かつてのロケット少年たちが、孫の車に乗って発射場近くに駆けつけた。発射予定が午前から午後4時に延期されたが、不平も漏らさずジーッと待つことができるのだろう。エンジンの振動がかすかに伝わると、もう息が止まりそうになるほど興奮し、自分も機内の人になりきっていた。噴射した機体がやがて視界から消えるが、それでも誰ひとりとして腰を上げず見守り続けていた。
   ◆     ◆
 大気圏と宇宙空間の境となる高度100㌔を目指したのだが、機器が損傷したらしくロケットからの送信が途絶え、これ以上飛ばすのは危険と決断してエンジンを停止させた。「狙った軌道にほぼロケットをコントロールできていた。今回は失敗でも長い目で見ればすごく大きな一歩だった…。近く再挑戦したい」と会社創業者の堀江貴文氏は語った。
 今年の6月30日、再び打ち上げに挑戦し残念な結果となったが、糸川教授も秋田で88機を発射し、5回の失敗があったようだ。堀江氏の3度目の正直に期待したい。

2018年8月15日号 「消夏にどうぞ」 鶴岡市大塚町 佐藤喜一郎さん

旧温海町山五十川老人クラブの語りと採録による『山戸昔語り集』の第二集に、「ひとりではえたものは食べるな」が収録されている。「蒔かぬ種は生えぬ」のたとえを知らなくもないが、人が植えたものを食え、働いて自分で植えよ、との話であった。当誌のエッセイに「種」の話があり、リレーめくが、驥尾(きび)に付こうと思い立った次第である。
 昔語りの骨子は、裏山にわるさをした白猫を埋めたところ、誰も植えていないのに、毒カボチャがなったというものなのだが、聖トマス・カンティループなる聖人がイタリアで客死したという中世の話をも連想させてくれた。
 大釜で煮て骨を取り出し、内臓はその地の寺に納めて、骨だけ故国イギリスへ送ったのだが、湯を捨てた場所で奇跡が頻発したという。猫のたたりとは趣が異なるものの、気になる。
 ルイ九世の王女イザベルは、臨終の際は遺言に従い、着衣のまま切断・煮沸された上、急いで骨が取り出され安置された旨の話も残る。
 話が逸れて〝命の危険がある暑さ〟 の折も折、食欲が失せては何もならない。特別チャーター列車「きらきらうえつ」のツアー客に、だだちゃ豆などが振る舞われた旨の新聞記事を目にした。猛暑・酷暑のさなかに、縁起でもないが不慮の熱中症による〝客死〟 もなく、〝食の都庄内 〟〝食の宝庫〟 で元気をもらい、旅の醍醐味を満喫したことだろう。
 おもてなしを味わうといえば、北国の春が酣の頃、湯野浜温泉旅館での一夕、名物わっぱ煮(地魚の石焼味噌汁実演)の饗応に与った。時季として今頃だったら至福感は違ったものになっただろうかなどと贅沢ともとれる感慨すら浮かぶ昨今である。美味しかった。
 傍らに控えた板長が徐に熱した小石を大きな器に放り込むと、ジュッという音がし、芳香や野趣が醸し出される趣向は魅力的だった。
 魚汁を食する時、空の器にトギ(魚の骨)を吐き出せるのはいい。一度口の中にしたものの処置は、サクランボのタネとばしならともかく、人前ではためらってしまうのが人情だろう。
 寒ダラまつりには参加したことがない老生だが、眼ン玉や他の呑み込めないものは、その都度ウダラナイ(捨てない)で、器の底に沈めながらでも賞味できるものだろうか?という素朴な疑問を抱き続けて久しい。バケツにだって抵抗がありそうである。舌がヤゲパダ(火傷)するようなツヨ(汁)と骨の髄をスワズル(吸う)醍醐味は洒落でなしに捨てがたい。
 鶴岡で講演した際、図書館の方に栃餅を所望した五木寛之さんの食物エッセイに、サクランボにまつわるものもある。風呂の中で食べるのがうまいらしく、〈サクランボの種子をプッと飛ばすのは、学生の頃読んだプーシキンの小説に出てくる主人公の真似〉で、いつも〝種子は洗面器の中へプッと吹いて飛ばす〟 のだとか。スイカの好き嫌いはどうなのだろう。未見のエッセイがあるなら読んでみたい。
 新聞のコラム欄で「サクランボの種受け」と題する一文を読んだ。初耳のことばかりで興味深かった。和紙で作られた円錐状の筒がサクランボの種受けで、白い和紙をくるくる巻いたものを「プー」と呼ぶことも知った。サクランボの軸は中ほどで切ること、或いは切って出されては食べにくいこと等々の反響をも併せて読んだ。「色艶も茎ありてこそさくらんぼ」の句を引いた方もあった。
 若年の頃山形市七日町のグリル・レストランの厨房で、シェフが泥つきのホウレンソウの束を湯鍋に放り込んでから水洗いしていた。サドケ(潔癖)ならずとも寒気立った。
 国道112号月山道路に架かっている牡丹餅沢橋という名を評して暑苦しいと言った方があった。〝夏をツマミに〟といった卓抜なビールの広告は真逆で、一理ありそうである。
 最後に震撼させられる事柄を二つほど。NHKBSで、兎を毛付きで丸ごと鍋で煮るシーンを観た。はたまた元新聞記者(門田勲)の著作『古い手帖』には、悪食(猿の脳味噌を食べる)や熊のてのひらが原形のままではがした黒い皮ともども皿にのって出てくる話があった。拙稿を読んで消夏になっただろうか。鱈を丸ごとぶつ切りにして、ドンガラやアブラワダを大鍋で煮て食べる食習慣のある庄内人には何ということもない話柄だったろうか……。

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