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寄稿

令和元年10月1日号 「ペダルを踏んで」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

 平成から令和に変わった前後、全国で高齢ドライバーによる交通事故が多発した。原因は「ブレーキとアクセルを間違えた…」などの単純ミスである。その被害者が肉親の場合が多かった。このような事故が死亡事故全体の26%に及んだ…との発表に認識を新たにさせられた。山形県は高齢者ドライバーが全国5位とのことからこの種の事故も多くなる。その陰には公共交通機関の貧弱さから、老いてもマイカーが手放せない…という事情があろう。
 それに反応したわけではないが、私も運転免許証を返納した。「歩けばいい…」と決断したのだが、数年経過すると、想像以上の速さで体力が減退した。この現実には逆らう術もなく、しかたなく自転車を購入した。
 風を切って走るのは予想以上に気持ちがいい。これまで車窓のガラス越しで見ていた風景も、直視するととても新鮮に感じられる。また細い道へ進入してみたりと、新発見の日々が続いている。
 こんな体験は高校以来だ、当時は自転車で1時間余の道程を息せき切って走った。それは、朝寝坊のせいで時間に追われていたからである。それだけに疲れた日や向かい風の日の坂道はとても応えた。
 本町三の信号がある坂道は印象に深い。当時は「この坂があるから『カミ坂の町』なのだろう…」と思いこんでいた。後日「下坂の町」の存在を知り、坂もないのに『何故下坂町なのだろう』…との疑問が深まり、早速現地調査に出かけた。川端通りから大泉橋へ向かうとわずかの上り坂が感じられた。『ハハアーこれが町名の由来だな…』などと勝手な推測をし、一見落着とした記憶がある。「下肴」の字をあてることを知ったのは随分後のことである。
 鶴岡市街地の地盤は櫛引、金峯山方向から京田や栄方面に向かって緩やかな傾斜になっている。川が南から北へ流れるのはそのためである。すなわち南高北低なのだが、例外の個所が散在する。
 老体でペダルを踏んでいると、時々急に重くなる場所がある。これはパンクや故障ではなく、上り坂の証しだ。それが南高北低と逆方向であったりするから面白い。私にとってはそれが一大発見であり大きな喜びなのである。また反対に自転車が勝手に走り出す下り坂を見つけた時も感動を覚える。
 南高北低の鶴岡に幾つかの例外が存在する。例えば北の山王町よりも、南に位置する鳥居町のほうが低かったり、北の上畑町が南の泉町より高いなど、高低が逆転した地が残っている。
 荘内病院の敷地に「コンマ製作所」があった頃、にわか雨が降ると工場内に上畑町から谷川のような水が流れてきた。その対策に従業員が大慌てで防水対策を施した…」と今間信一郎氏が述懐してくれたのを思い出した。
 馬場町から家中新町へ向かうと鶴南高の校門前でペダルが急に重くなる。南高は江戸時代に藩の米蔵があった場所だから、水没しないように高い場所を選んだのだろう。このように鶴岡市街地には南高北低ではない場所がまだまだ隠れているようだ。
 赤川が現在地を流れるのは江戸時代初期からとか。それまでは現内川を流れていた…とのこと。それまでの間、洪水が年中行事の如く襲っていたのかもしれない。その爪痕がこのような南高北低ではない場所を造ったのであろう。
 旧高町(山王通りの西裏通り)から龍覚寺、NHKへ至る旧高畑町は、その頃の赤川が運んだ砂利や砂の沖積跡なのだろう。
 南高北低を覆す場所がまだまだあるのではないかと思われる。

令和元年9月1日号 「戦国の庄内‐手紙が伝える人間関係‐」
 致道博物館学芸員 菅原 義勝さん

 古文書=こもんじょ。その紙面には「くずし字」といわれるミミズの這うような文字が書き綴られている。丁寧な筆運びで書いたものもあれば、汚い字で書き殴ったものもある。うだるような真夏の暑さの中で書いた手紙だろうか、夜陰に蝋燭を灯して書いたのだろうか。古びた一片の和紙の背景には、さまざまなドラマがあったはずである。
 現在、致道博物館で開催中の企画展「戦国の庄内‐大宝寺・上杉・最上 争乱の果て‐」では、戦国時代に作られた古文書を中心に展示している。戦国時代の庄内に関する古文書を一堂に集めた展覧会は初めての試みである。最上義光や伊達政宗、上杉景勝、直江兼続など全国的にも有名な武将、あるいは庄内ゆかりの領主らが作成した書状のほか、最上義光や本庄繁長所用の兜も展示。テレビやゲーム、書籍でよく登場する戦国時代の歴史をよりリアルに感じていただけるはずである。
 古文書というだけで「難しそう」な展覧会だと感じる方も多くいるだろう。そこで今回、解説文を作成する上での課題は、文章量をどれだけ少なくし、かつ戦国時代の庄内を分かりやすく紹介できるかであった。その課題を達成できたかというと、至らないと思うところはあるものの、実際に足を運んでくださった方からは予想を上回る反応があった。
 現代を生きる私たちは、スマホやパソコンさえあれば、メールをはじめ、LINEなどのSNSといった通信手段で世界中の誰とでもすぐにつながることができる。画像や動画を添付すれば、文字を打たずとも意思や近況を伝えることだってできる。何とも便利な世の中なわけだが、私は日向君という大学時代の親しい後輩と、いまだに手書きの文通を続けている(次の文通のネタは、ここに名前を記したことになるかも…)。
 仕事で、あるいは私的な形で文書や手紙を作成する際には一定のルールがある。「拝啓」で始めて「敬具」で終える、時候の挨拶~本文~結びの挨拶の順で書くなどである。日付や自分の名前、宛名の位置も気にしなければならない。
 さまざまな決まりごとは、奈良時代や平安時代ごろには作られていた。当然、時代が変われば様式も変わるが、人々は基本的にはその時代のルールを意識しながら書き記していた。
 さて、戦国時代には、多くの外交文書が作成された。「外交」というと国際的な意味合いを思い浮かべるかもしれないが、戦国時代の日本国内では、自らの領国を持った主権者が乱立していた。彼らが支配する地域国家間の交渉を指して「外交」と表現している。
 外交では、大名から大名へ、大名から大名の家臣へなど、多くの手紙(書状)がやり取りされた。差出人と受取人の間には、身分格差や地域国家間の実力差がある場合があったので、両者の間柄、上下関係によって手紙の書き方にもさまざまな形で差をつけていた。つまり、差出人が受取人に対し、敬いの心をもって丁重に接する(厚礼の態度をとる)か、自分を尊大にみせて接する(薄礼の態度をとる)かで、手紙の様式を書き分けたのである。
 このような関係性を意識して手紙に目を向けるとじつに面白い。相手の名前をどのくらい上に書くか、紙はどの種類を使うか、自分の名前の下に花押(サインのようなもの)を記すか、あるいは印章を捺して済ませるかなど。一見して分かるほどに、相手に対する態度の違いが如実に表れるのである。
 例えば、今回展示している庄内の領主・土佐林禅棟が秋田の大名・安東堯季に送った手紙では、高級な紙を使っており、宛名の上に「進上」と付けた、とても丁重な書式で書き送っている。禅棟より堯季が上の立場の者であることが、文面を読まずとも伝わるわけである。
 手紙の実物を見ると、戦国の世を渡り歩いた武将たちの心遣い、手紙を送り合った者同士の関係性までをもうかがい知ることができる。武将の息吹が感じられる一つ一つの古文書には、見る者の想像力をかき立てる、無限の可能性が広がっている。

令和元年6月15日号 「断捨離」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 テレビから流れた「だんしゃり」の言葉を初めて耳にした時「何のこと…」であったがその後度々耳にするにつれ、「使用度の少ない古い品物はさっさと捨てて、安価で便利な新しい品に買い替えよう…」と言うことのようだ。
 「地球の資源は無限ではない。だから物を大切に…」とか「もったいない」が流行語になったのはついこの前のことであったのに、それが美徳ではなくなり、さらに「いつ用いるのか分からない品々を後生大事に保管しているのは無駄なこと…、そのスペースをもっと有効利用しよう…との考えに変わったことを示す言葉のようだ。
 ついこの間までどの家でも「ものは大切に…」と、包装紙やヒモなどは再利用に備えて保管するのが常識であったのが、手のひらを返すように突然「断捨離」とは…。
 昨年の暮、妻が突然入院した。退院後のアドバイスを受けた中で、ネックとなったのは階段の上り下りであった。我が家は改築と増築を重ねた家なので、変則的な階段から成る。この際寝室を1階に移す改造をせねばなるまい…。それならいっそ転居しようか。しかし住み慣れた地を離れるのは、生活も一変することだろう…と迷った。
 孟子の母は吾子の将来を考えて住居を三度も替えたことから「孟母三遷」の格言が生まれたとか。また江戸末期の絵師葛飾北斎は生涯に93回の転居をした記録を持つ。歴史に残る名作「神奈川沖浪裏」は、荒波の中の小舟とその向こうに白い峰の富士山を描いたものである…、これは切手にもなっているから広く知られる名画である。この作品は最後の引っ越しから間もなくの作品であると伝えられている。
 NHK大河ドラマ『いだてん』でビートたけしが演じている古今亭志ん生もまた転宅を繰り返した人で、回数では北斎に及ばないものの、その後に人気が出て「名人」と呼ばれ、後世に名を残している。
 両者の転宅理由を単純に言えば「借金に追われて…」が真相のようだが、その後歴史に残る大家と呼ばれたのはご存じの通りである。私が改造をあきらめて引っ越しを選んだのは、「私もこの二人にあやかろう…」などと考えたわけではない。
 寒中にポツンと一人で荷物の整理を始めると、見る間に馴染みのない品物の山に囲まれた。「18歳で東京へ旅立つ時はたしかボストンバッグ一つであったのに…」と独り言を吐いていた。その後名古屋で新所帯を持ってから3度目の転居を経て鶴岡へ来たのだが、その後もさらに3度引っ越し、昭和51年に「我が家」を得て落ち着いたのである。その頃日本は経済高度成長期であったことも手伝って、家具や道具類を買い集めたのである。子供へも「自分のような乏しい思いをさせたくない…」とばかり、次々に買い与えてきたように思える。その結果がこの山である。子供の品もさることながら、自分への褒美とか生活の潤いなどと理屈をつけては衝動買いした品々も少なくない。どれも楽しいひと時を演出してくれた品々である。
 『断捨離』という言葉を知ってからも『我が家にはそんな品はない、だから断捨離とは無縁だ…』と自信満々であったのだが、作業を開始するやあっと言う間に「廃棄物」の山ができていた。しかし翌日になるとその山に首を入れ、懸命に探す…そんなことが二度、三度と繰り返した。その頃『山新』掲載の川柳に「愛着と惜しさ残る 断舎離後」(鶴岡 今野興和)を見つけ大きく首肯してしまった。
 不用品に分別したのに一晩のうちに「手放し難い品」に変身するのは、購入時の価格とか骨董的な価値よりも、むしろその品と共に残っている思い出の濃さや、その品との出会いやその後のストーリーにある。これが人と人なら「愛」と表現するのだろうが、人対品物の場合にも似た感情がある。これを「愛着」とか「愛惜」というのだろうか。

令和元年5月1日号 「憲法記念日」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 ゴールデンウイークは子供だけではなく老若男女もが心待ちにする一週間であるが、「飛び石連休」の別称通り、祝日と祝日の間に平日が邪魔をするかのように居座るのが通年であった。ところが今年は令和天皇の即位式や振替休日などが、その空間を見事に埋めたため10連休という超大型になった。
 それぞれの祝日には来歴があり、それに至る経過は新聞やテレビが解説してくれるので、それなりに理解しているつもりなのだが、「昭和の日」や「子供の日」にくらべ5月3日の「憲法記念日」は「現在の憲法が出来た日では…」との程度に捉えていた。マスコミはこの日も祝祭日に至った由来などを説明しているのだろうが、連休の谷間にあって「聞く耳持たぬ状態」なのだろう。
 この日は明治22年に発布された『大日本帝国憲法』を大きく改めて、昭和21年11月3日に戦争放棄を謳った新しい憲法が公布され、それが半年後の翌22年5月3日から施行された、それを記念する日であるとのこと。
 明治4年11月、岩倉具視ら一行が欧米を巡った時、欧米人は「通商条約の改正なんてとんでもない、憲法もない国が…」と陰で笑っていた…との話が残っている。しかし当時の日本には明治元年に天皇から公表された『五箇条の御誓文』が存在していたし、さらに遡れば日本が国家らしき体制となった飛鳥時代の西暦604年に、推古天皇は憲法17条を制定した。その1条が「和を以て尊(たっと)しとなす…」であることを記憶している人も少なくないことだろうが、これを欧米人が知る由もないだろうし、たとえ知っていたとしても、これを『憲法』とは認めていなのだろう。
 『法』が成立した時は重要な決まりであるのだが、時間の経過や環境の違いによって、それが適合しなくなることが発生する。為政者たちはその時々で改正せねばならなくなるのだが、そんな時自分の利益になることばかりに知恵を絞り、我田引水の法令を編みがちであった。これは洋の東西を問わず、中世から近世の独裁者たちはこのような策を繰り広げてきたことは歴史が伝えている。日本でも「犬を殺してはならない、棒でたたいたら罰金…」などという法を作った将軍がいた。そんなことを伝え聞いた半可通たちの口から「憲法の無い国」が出たのではないだろうか…。
 しかし明治元年、天皇が発した『五箇条の御誓文』は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」…以下4条が公にされた。しかしこれを多くの本は、憲法ではなく「国是」と書き表している。
 しからば憲法とは何ぞや…辞書には「国家の掟」とあり、日本では明治22年2月に発布されたのが初の憲法とされ、推古天皇の「和を以て…」や明治の『五箇条』は憲法とは認めていない。
 「憲法」と「国是」の違いを知るには、まず『憲』の字の意味を知る必要がある。手持ちの漢和辞典をめくると、「決まり」とか「手本」、「悟りが早い」と三つの意味が書かれていた。古くからこの文字は人名に用いられているが、その理由が分かった気がした。
 これらの意味からすれば「和を以て」や『五箇条』も憲法と呼べるものではないか…。
 さらにこの字を分解すれば「ウ+主+四+心」から成る…と思っていたら、四ではなく目の字を横にしたもので、「罪人の目の上に施した刺青を表したもの」…と辞典にある。日本の罪人が二の腕に太い二本線を刺青されたのは中国のこれを倣ったものであろうと推測した。1300ページ足らずの机上辞典にもこんな興味深いことが載っているのだから、分厚くて重い立派な辞典ならもっと面白いことが書いてあるのでは…と図書館へ向かった。しかし辞書の価値は必ずしも重量や大きさと比例しないようだ。
 刺青のことから「憲法とは刑罰から出発した…」のではとの推測を巡らし、新たな興味をそそられたが、それを裏付ける本とはまだ出会えていない。

2019年1月1日号 「二十年」
 作家  佐藤 賢一さん

 鶴岡に戻って、二十年になる。高校三年、十八歳まで暮らしたが、大学、大学院と進み、かたわら作家になった十二年ほどは余所で暮らした。作家一本と決めて、大学院に退学届を出したのが一九九八年の九月、それからUターンで鶴岡に居を定め、二十年なのである。
 鶴岡は鶴岡のまま、何も変わらないような気がする。が、これを機会と二十年前を思い出してみると、驚くほど変わったことに気づかされる。
 私が鶴岡に戻ってきた頃、話題になっていたのが庄内の四年制大学新設だった。どこに置くかで議論があったが、結論は「酒田に学部、鶴岡に大学院」だった。私はまんなかに置くべきだと思っていたので、これは駄目だなと内心がっかりしたが、あにはからんやで鶴岡には慶応大学先端生命科学研究所が置かれることになった。これが大成功で、研究所が世界に注目される成果を多く世に送り出すのみならず、近年は様々なベンチャー事業さえ創出している。今や鶴岡の希望の星である。
 亡くなられたばかりの藤沢周平さんも、当時は話題だった。私にとっては丸谷才一さんと並ぶ同郷の大先輩作家で、ずっと意識もしていたが、意外や地元で盛り上がりをみせたのは、追悼かたがたで取り上げられた、この頃からではなかったかと思う。それがブームというほど熱したのは、藤沢作品の『たそがれ清兵衛』を山田洋次監督が映画化する、それも鶴岡で撮影するという話になってからだ。これが始まりで藤沢作品の映画化が続き、さらに他の時代劇も、一般の映画まで撮影されるようになって、今や鶴岡は全国でも知られたロケ地のひとつなのである。これまた、ますます将来が楽しみだ。
 その『たそがれ清兵衛』の上映をみたのが、最後の鶴岡シネマ旭だった。もう鶴岡に映画館がなくなる、三川に行くしかなくなると淋しく感じたが、数年後に鶴岡まちなかキネマができた。嬉しいと思う反面、続くのだろうかと心配もしたが、先の地元ロケとも連動しながら、ますます盛況である。なるほど、私自身けっこう行く。地元贔屓を抜きにも、しごく心地よい映画館だと思う。
 映画館だけでなく、イオン三川(旧ジャスコ)自体の建設も大ニュースだった。二十年前は鶴岡にジャスコもダイエーもあったが、こりゃ拙いなと私でも思うほど、閑古鳥が鳴いていた。三川にイオンができて、大型商業施設まで併設されるとなると、これからの市街地はどうなるものかと塞いだが、全くの杞憂だった。いや、その実は危機感あって、皆で奮闘した賜物なのかもしれないが、いずれにせよさびれたりしていない。二十年前より勢いがあるくらいで、エスモールなど以前のダイエーと比べれば、もう嘘のような賑わいだ。
 三川がそのままなので、無頓着に鶴岡がどうこうと書いてしまうが、その鶴岡も二十年前は鶴岡市、櫛引町、羽黒町、藤島町、温海町、朝日村に分かれていた。平成の大合併で新鶴岡市になったわけだが、市民生活が目にみえて変化したわけではない。これは変化しなかったこと、行政サーヴィスが落ちなかったことが、かえって成功なのかと思う。
 二十年前といえは、庄内に高速道路が開通したばかりだった。どんどん便利になるかと思ったが、なかなか先につながっていかない。鉄道についていえば、二十年前どころか、それ以前から羽越線の高速化、新幹線化が議論されてきた。これは新潟駅で同一ホーム乗り換えができるところまで来た。今春、ようやくのことだ。いずれにせよ、高速交通の整備は思うように進んでいない。県だの、国だの、JRだのと協働する事業となると、どういうわけか振るわない。平成の大合併で山形県下で第二の大都市になったのだから、そのあたりアピールしながら、もっと強気に求めていってよい気もする。
 あれやこれや挙げてきたが、二十年で鶴岡も変わったものだと驚く——というより、いよいよ感心させられる。これだけ変わった地域、それも悪く変わったのでなく、良く変わった地域というのは、県内でも、いや、全国でも珍しいのではないか。鶴岡は稀有にも変わる力がある地域なのだ。先の高速交通、さらに教育、医療、福祉、観光、産業育成と、なお残る課題も多いが、多いだけ次の十年、二十年が楽しみな気がしてくる。

2018年9月1日号 「ロケット」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 昨年初夏も、酷暑が続きうんざりしていた頃「日本初の民間宇宙ロケットを発射」というニュースに体がシャキッとなった。胸をときめかせながら待っていたら、濃霧のためとか、機器の不調などで発射が2度も延期されて、7月30日に発射と発表された。日本の宇宙ロケットはこれまで「種子島の宇宙センター」がお定まりであっただけに、民間会社が北海道から発射させるのには少なからず興奮させられた。
   ◆     ◆
 宇宙へのロケットは、できるだけ赤道近くから発射するのが燃料費の節約になる…と何かで読んだことがあるが、何故北海道なのだろう…それは日本のロケットが東北から始まったからではないか。
 昭和30年8月6日は、秋田県由利郡岩城町(現由利本荘市)でロケットの研究を重ねていた東大の糸川英夫教授を中心とするグループが、日本で初のロケット打ち上げに成功した日である。当地からお送りいただいた資料によれば「ロケットは全長が23㌢、直径1・8㌢のマジックペンのような形に尾翼を付けたもので、水平に3分間飛んだ…」とある。
 この実験地が何故秋田なのか、当時『国際地球観測年』で、日本での観測範囲が秋田周辺に指定されていたからであった。このロケットは「ペンシルロケット」と呼ばれ、中学生だった私にも親しみが持てるものであったが、この実験成功が、今後の生活にどのような影響を及ぼすのだろう…などと興味半分で話し合った覚えがある。新聞やラジオを懸命に探ったり、先生に質問したりしたのだが、納得できる答えに出会うことはなかった。
 糸川教授は明治45年に東京で生まれ、昭和10年東大を卒業して中島飛行機へ入社。16年東大へ移りロケットの研究に入るが、戦後は「ポツダム宣言」により、日本は航空機の製造、研究が禁止される。糸川は足をもぎ取られたカニ状態となり、仕方なくチェロ演奏やヴァイオリン製造に情熱を注いだとか。28年シカゴ大の客員教授に招かれ、そこでロケット開発との運命的な出会いがあった。帰国後も研究を進めていたところへ地球観測年の仕事が入る。早速その拠点を探すが、戦後の日本は食料不足からの脱出に向けて、耕地拡大を国策に掲げて、開発整備が進められていた。そんな中で研究所の用地を探すのは一苦労であった。火薬を使うことから人家や工場から離れているのが条件だし、田を埋め立てるなどはもってのほか、峠を越えた山奥ではトンネルが必要となるし、橋を架けねばならないので論外である。当時コンクリートの防波堤はまだ少なく、白砂青松の地が多かったが、港の近くは避けねばならないし、鉄道が通っていてはだめだ。これらの条件をクリアしてやっと由利本荘市の海岸に定まったのである。最初の打ち上げ日には近隣から1000人余の人が詰めかけ、アイスキャンデー屋も数人来た…と記事にある。「シュッ」の音を残し海へ向かって飛んだロケットは23秒後に海水へ入った。一瞬の出来事ではあったが関係者も観衆も大満足した。その後何度も打ち上げ実験が行われたが、その度ロケットが大型化した。研究員にすればこれは成長であろうが、周辺住民にとっては不安の膨張であった。そんな最中の37年5月、88機目の打ち上げ直後、ロケットが爆発炎上し、破片が飛び散り実験場が火の海と化した。近隣の住民に害がなかったのは不幸中の幸いであったが、周辺住民を不安に陥れてしまった。これを機に実験場移転の声が高くなり、取りあえず能代市(秋田)へ移り、翌年完成した鹿児島県内之浦へ移転した。
 当時はロケットに人が乗れるなどとは想像すらできなかった時代ではあったが、自分がロケットの運転席に座る姿を想像しながら成長したのである。
 老人になっても、そんな夢が心の底にくすぶっているのか、『せめて実物のロケットが飛び立つ雄姿だけでも一目見たいものだ…』と、かつてのロケット少年たちが、孫の車に乗って発射場近くに駆けつけた。発射予定が午前から午後4時に延期されたが、不平も漏らさずジーッと待つことができるのだろう。エンジンの振動がかすかに伝わると、もう息が止まりそうになるほど興奮し、自分も機内の人になりきっていた。噴射した機体がやがて視界から消えるが、それでも誰ひとりとして腰を上げず見守り続けていた。
   ◆     ◆
 大気圏と宇宙空間の境となる高度100㌔を目指したのだが、機器が損傷したらしくロケットからの送信が途絶え、これ以上飛ばすのは危険と決断してエンジンを停止させた。「狙った軌道にほぼロケットをコントロールできていた。今回は失敗でも長い目で見ればすごく大きな一歩だった…。近く再挑戦したい」と会社創業者の堀江貴文氏は語った。
 今年の6月30日、再び打ち上げに挑戦し残念な結果となったが、糸川教授も秋田で88機を発射し、5回の失敗があったようだ。堀江氏の3度目の正直に期待したい。

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