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寄稿 2021年

掲載インデックス

「土用丑の日」

2021年7月1日号 鶴岡市上畑町 花筏 健さん

「名字」

2021年4月15日号 鶴岡市上畑町 花筏 健さん

「生きづらさの背景にあるもの」

2021年3月1日号 鶴岡市上畑町 南波 純さん

「もろく壊れやすい民主主義 〜アメリカの苦悩に思う〜」

2021年2月15日号 荘内教会 牧師 矢澤 俊彦

「生きづらさの背景にあるもの」

2021年2月1日号 鶴岡市上畑町 南波 純さん

特別エッセイ 「村」がなくなる

2021年1月1日号 作家 佐藤 賢 一さん

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2021年7月1日号 「土用丑の日」
 鶴岡市上畑町 花筏 健さん

 ノンベーの私だが、春の花見ダンゴを見ると思わず買ってしまうのが恒例となっている。この時期になると「あの店がいい…」とか「あっちがうまい…」などの評判をよく耳にするし、「◯◯店のアンは絶品…」とか「ダンゴの味はアンで決まるのよね…」等々のダンゴ談義が流れる。これらのメンバーはほぼ女性であるが、中には男が交じっていたりすると「チェ、大の男が…」と軽蔑を顕わにする人もいる。中には「男の風上にも置けない…」とばかり顔をしかめる強硬派もいる。しかし時代劇には旅人が茶店でダンゴを食べる姿がよく登場する。それが甘い物とは縁遠いようなひげ面男であっても、何ら抵抗を感じないのは何故だろう。
 当時のダンゴは〝甘いオヤツ〟 ではなく、今日のおにぎりやラーメンのような軽食であったからであろう。  春が深まれば、今度はヨモギの香りの草ダンゴを楽しみ、秋にはキナコをつけた『月見ダンゴ』に替わる。黄金色のキナコをまぶしたダンゴを満月に見立てたもの…であることは容易に推測できる。だが『ミタラシダンゴ』のミタラシにはどんな意味が隠されているのだろう。
 『ミタラシ』を辞書で調べると「御手洗」と書かれている。手を洗って食べる…すなわち串に刺していないダンゴのことなのか。「御手洗」を語源辞典で見ると、神仏に参拝する前に手と口をすすぐ行為のこと…とある。  神に願をかける場合、参詣人は拝殿へ至る以前にまず身体を清めるのが礼儀とされた。そのため、どの神社にも境内に小川が流れていた。しかし時代とともに川から離れた場所にも社殿が建てられるようになり、川で身を清めることができない神社が多くなった。そのため、川に代わるものとして大きな石の鉢に川水を引き、そこで手と口をすすぐようにしつらえた。すなわち全身清浄が省略化されて、手と口をすすぐだけで許してもらうことになったのである(力士が土俵の上で力水をつけるのもこれを模したもの)。
 京都の北野天満宮では7月7日の『御手洗祭』に、天神様が歌詠みを好んだことにちなみ、御手水(オチョウズ)とともに硯、水差しも神前にお供えするのが恒例だそうだ。また賀茂御祖(カモミオヤ)神社では参拝前に境内の御手洗川へ足を浸してから、祈願する『御手洗会』(ミタラシエ)が行われた。これは全身ではなく手足だけの清浄で許されることから、大層な人出で賑わったようだ。このように初夏の縁日は、信心と行楽を重ねた人々で賑わったようだ。これを商人が黙って見過ごすはずもなく、この人々の昼食にとダンゴ売りを考え付いたのである。
 これまでのように一串ごとに、アンコをペタペタ塗っていたのでは手が足りない。そこで前もって醤油と甘みを合せたタレを作り、それを壺に入れて用意し、出来たてのダンゴをポチャンと入れる…方法を考案した。このスピード調理は現代の電子レンジのような調理法で、アンコ塗りに比べ所要時間は半分以下である。居並ぶ同業者もこれを真似て、御手洗祭に売られたことから『御手洗(ミタラシ)ダンゴ』と呼ばれたようである。
 多くの茶店が繁盛したのだが、中には短期間で閉店した落ちこぼれが出たかもしれない。その原因は茶店に看板娘がいたか否かではなく、ダンゴそのものの質の良し悪しであった。食事であるが故にモチの舌触りやこしの強さが評価され、次第に淘汰されたと思われる。今日のラーメン屋やうどん屋が、麺の上のトッピッングにのみ気を取られ、麺やスープを二の次にしてしまうと途端に客足が遠のくのと似ている。昔の店はPRや店内の飾り付けをやらなかった分、麺やスープに精魂を込めていたのではないだろうか。タレの味以上に主食であるモチへの評価が厳しかったのかもしれない。
 甘辛のタレといえばウナギの蒲焼きが浮かんでくる。土用丑の日の蒲焼きは江戸中期の学者、平賀源内が考案した…と伝えられるが、それより以前に御手洗ダンゴが存在したのだから、あるいは「御手洗の二番煎じ…」とも考えられよう。  ふと街はずれのダンゴ屋を思い出し、ふらっと向かった。看板もない普通の住宅なのでつい通り過ごし、高校のグラウンドへ着いてしまった。毎年花見の時のみの『期間限定』営業を続けていると聞く。コロナ禍で青息吐息の店が多い中、別世界のような清々しさだ。

2021年4月15日号 「名字」
 鶴岡市上畑町 花筏 健さん

 年度替わりは生活を一変させる、大きな分岐点となることがある。しかし現役を退くと興味深く拝観していたテレビ番組が終わってしまうので残念…程度の気楽なものになる。この間まで見ていたNHKの「日本人のお名前」も終わってしまうのか…。
私が名字に関心を持ったのは昭和の晩期である。中学の相撲大会で選手を呼び上げる進行係を仰せ付かった時、『利部』という初めて見る名前に遭遇し、とっさに「トシべ」と読み上げた失敗から始まった。これは「カガブ」と読み秋田県では珍名には入らないほど知られた名字であるとか。この体験が難読名字や珍名字へ興味を持つきっかけとなったのである。  この番組を一年見続け、新発見や「目からうろこ…」の連続であった。そして最後に「名字の大半は居住地の位置や地形、方角などが元になっているものが多く、次が先祖の職業、役職など…と解説していた。
 地名が名字になった件については、子供の頃冠婚葬祭などで親類が集まった時、互いに名字を呼び合うことはなく「藤島の父ちゃ」「温海の婆さ」などと、地名で呼び合うのが常であったことを思い出した。この風習からして、地名が「名字」になったことは容易にうなずけるものであった。しかしこれは庄内の一部でのみ通用する説…と言われれば返す言葉もない。
 「タニマチ」という言葉を知っている人は、かなりの相撲通であろう。これは谷町と書き、大阪の中心繁華街であるミナミからほど近くにある地名である。その一帯は生玉丘陵と呼ばれる高台で、雨が降ると雨水が流れ下る地であった。長年の間に溝がやがて谷となる。このような地には地下水の出口があるもので、その湧水を求めて人が住み着いたのはごく自然な成り行きである。やがてそれが町になった『谷町』と呼ばれる。
 相撲界で御ひいき筋のことを「たにまち」と呼ぶ…と知っているのはかなりの相撲通である。昭和に入るまで相撲協会は江戸と大阪の両方にあり(それ以前は京都にも)、別々に興行していたが、大阪の本場所に数人の江戸力士が出場する…のも恒例であった。ある年のこと、大阪へ乗り込んだ東京力士の付き人が急病となり入院した。旅先での病気は苦痛以上に、精神的な心細さにさいなまれるものである。医師はそれを察知し、力士にとっての薬は「食事」とばかり多めに用意させた。完治すると、その力士が心配したのは治療代に上乗せされるであろう、食事の別料金であった。
 ところがこの医者は食事代どころか、治療代すら請求しなかった…。この美談はたちまち東京相撲界へ伝わり、誰が言うとなしに、「御厚情な方」をタニマチと言うようになった。それがエスカレートし、うどん代をおごってくれる人まで「たにまち」と呼ぶようになった。この経緯は古くから相撲雑誌等に書かれてきたが、その年代や医師名を明記したものはなかった。今回、とある本で医師は「薄怒一先生」で「明治25年」のことであると知った。本来このような美談は「ススキ」と本名が広がるところであろうに、なぜ住所になったのだろう。
 これこそ庄内の「藤島の父ちゃ」と同根で、地名を呼ぶことのほうが相手を尊ぶことであったのかもしれない…。ちなみにこの「薄」姓は福島県の会津地方にあるとか。
 私が立浪部屋に入門したころ、「泥」と言う本名の先輩がいた。この苗字にはどのような経緯や意味が含まれているのか知る由もないが、相撲界は結構縁起を担ぐ場合が多く、本人を差し置いて、周囲があれやこれやと口を出す場合が多い。「土」を嫌うのは当然だが「泥」はその上を行く、とうとう「京錦」と改めた。この苗字の源を知りたかったが番組にはまだ登場しない。
 何か手掛かりがないかと各県の「珍名」表を眺めていたら、「泥」と書いて「なずみ」と読む名字が兵庫県にあることを突き止めた。その裏にどのような事情が潜んでいるのか…。

2021年3月1日号 「Netflixとまちキネ」
 鶴岡市上畑町 南波 純さん

 昨年の流行語大賞候補に「第4次韓流ブーム」がノミネートされていた。韓流とは、韓国発の世界的なエンタメブームを指し、キーワードは「BTS」「愛の不時着」。日本でのブームの新たな担い手は、我々のような中高年のおじさんらしい。
 実は私も今、「韓流ドラマ」にハマっている一人であり、韓流ドラマを見ない日はない。年末年始には8時間以上視聴していた日もあり、まさに中毒状態であるのだが、それくらい韓国のドラマはハズレなくどれも面白い。
 単なる「ラブコメ」とか「韓流時代劇」とかではない。韓国ドラマには必ず何らかの社会的メッセージやテーマが入っている。昨年人気があった「梨泰院(イテウォン)クラス」というドラマでは、「起業」「トランスジェンダー」「人種差別」などのテーマが散りばめられているし、どのドラマでも韓国における「貧困」と「格差」の問題が常に提起され、人々の共感を誘う。
 韓流ブームの高まりは日本だけではなく、世界中を席巻している。その背景には、コロナ禍の巣ごもり需要に対応した「インターネット配信」がある。その主役はアメリカの動画配信サービス大手「Netflix(ネットフリックス)」である。契約者数は全世界で2億人、昨年9月以降だけでも876万人の新規契約があったという。
 なぜネットフリックスは世界中で契約者を増やしているのか。まず挙げられるのがコンテンツの充実度である。配信される作品は、国内はもちろん、欧米やアジア各国制作のドラマ、映画、アニメと豊富で、毎月オリジナル作品がどんどん配信されている。
 そしてその便利さ。wi‐fi環境さえあればスマホでもパソコンでも、さらに自宅のテレビでも、いつでもどこでも、すぐに続きのシーンから視聴できるのだ。しかも料金は基本タイプで月1500円程度。映画館での鑑賞1回分で見たい映画やドラマが見放題なのだ。
 日本ではかなり前から、「テレビがつまらない」「観るものがない」という声をよく耳にするようになった。私も50年来のテレビっ子。しかし、日本のドラマで継続して見ているのは「朝ドラ」と「大河ドラマ」くらいであり、地上波でゴールデンタイムに日々流される番組にはやや辟易している。年代を問わず、そう感じている方はいるのではないだろうか。
 「デジタルネイティブ」と呼ばれる若者世代の多くは既にテレビから離脱しており、ネット配信のコンテンツやYoutubeなどの動画を視聴しているに違いない。報道なのかバラエティーなのかわからない自称ニュース番組より、ツイッターやYoutubeの方が、テレビや新聞が伝えない、政治や社会の真実に触れることができたりする。共感も生まれやすく、広がりやすい。
 今、コロナ禍にあって世界的に映画館が苦境にあるらしいが、世界の潮流(トレンド)は「オンライン」「ネット配信」「モバイル」であり、トレンドやマーケティングを見誤れば早晩、事業は撤退を余儀なくされる。
 鶴岡では昨年、「鶴岡まちなかキネマ」が閉館し、市民有志の間では、復活に向けて署名運動も行われた。閉館したのは至極残念だったが、私は復活に向けての署名には賛同できなかった。
 まちキネの経営や客の入りはどのような状況だったのか、十分に情報を得ることができなかったし、原因や背景について、しっかりした検証が必要であり、検証に沿った再生案なしに復活を要望するのは無責任なのではないかと思ったからである。
 そのような中、先日、まちキネ再生についての記事を目にした。まちキネの施設は、市社会福祉協議会が取得し、事務所に改修して利用する。映画館だったスペースの一部は、近隣の山王商店街が中心となるまちづくり会社「山王まちづくり」が、映画の上映や交流の場として運営する。市は、中心市街のまちづくりの観点から、改修や準備の費用を支援するらしい。
 私が真っ先に思い浮かんだのは、巨額の税金を投入しながら、来館者数の低迷が続き、いつの間にか閉館した「釣りバカ会館」「アマゾン民族館・アマゾン自然館」など市が運営に関わった第3セクター施設の件である。
 社協が施設を利活用するのはともかく、復活させる「まちの映画館」には果たしてどれぐらいの人が来るのだろうか。商業施設としての映画館の経営が難しかったというのならば、単なる映画館では二の舞を演じることになるのではないか。
 今回こそ、市民レベルで再生に向けて知恵とアイデアを出し合い、多くの市民がいつでも何度でも訪れたくなるような場所になってほしい。「市民が創り、集う空間」としての復活が求められていると感じる。

【南波 純さん】
1960年鶴岡市生まれ。84年〜2020年まで田川管内の公立中学校教諭。18年筑波大学大学院教育研究科修了。16年度「東書教育賞」中学校部門入賞。17年度「金融教育に関する実践 報告コンクール」入賞。日本社会科教育学会会員、デジタル教科書学会会員。

2021年2月15日号 「もろく壊れやすい民主主義 〜アメリカの苦悩に思う〜」
 荘内教会 牧師 矢澤 俊彦

 大統領選挙が不正に行われたと扇動された群衆が暴徒となり、連邦議会を襲撃。大混乱の中で大統領弾劾が議されているアメリカ。それを対岸で沈黙しつつ眺めている我が国民。我々は、やはり言挙げせぬ美徳を持つ「政治的天才」だと自賛し、米国を見下す資格があるのだろうか。
 しかし、誰が見ても自己愛とわがまま丸出しの男が、ともかく任期末まであの職にあったというだけでも、周囲に合わせて言動を慎みがちな日本人には驚きだ。海外には実に多様な人々がいることを思わせられる。
 ここで考えたいのは、民主主義が独裁と隣合わせの危険にあること。先輩と思ってきたアメリカですら今の事態である。一人ひとりの声を生かした政治というものがいかに困難なものか。民主主義体制もどんなにもろく、崩れやすいものであるか。
 実際、世界に民主主義を標榜している国は多いが、それがうまく機能しているように見えるのは、ほんのわずかであろう。あのナチス政権も民主的手続きで、のし上がっていったもの。我が日本の戦前も、元来は不十分ながら立憲制度のもとにあったことを思う。
 大事なことは、国民一人ひとりが自分の考えをしっかり持つこと。そして発言し議論すること。口先だけうまい人に扇動されないために、たえずよく考え、自己批判力を高めることであろう。メディアからあらゆる情報が流れてくる時代。本当のものを見分けることがいかに困難かを思いつつ。
 今、太平洋の向こうから、深い悲しみと嘆きの声が聞こえてくる。その苦悩を理解しながら、新政権の下でのアメリカ国民に激励の言葉を贈りたい。人類が様々な人々と平和的に共存できるかどうかの一大実験場なのだから。

2021年2月1日号 「生きづらさの背景にあるもの」
 鶴岡市上畑町 南波 純さん

 今、日本では「いじめ」や「不登校」の件数が過去最多となり、その数値は毎年更新している。そして日本の若者は他の国々に比べて自己肯定感が低く、死因の第3位は自殺である。
 日本の社会において近年指摘されている「生きづらさ」の原因はどこにあるのか。日本の教育社会学の第一人者である本田由紀氏の最近の著書「教育は何を評価してきたのか」(岩波新書、2020年)には、その背景について最新の教育社会学の知見から総合的・学術的に述べられている。
 日本における人間の「望ましさ」に関する考え方は、「教育」という領域において典型的に現れてきた。その一つが「垂直的序列化」。相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格付けを意味している。従来から存在する基準が「学力」であり、テストの点数や順位、偏差値などによって示される。その考え方に基づくと、テストで高い点数を取ることが優れていることとなる。学力が高ければ人間としてもすべて優秀であると刷り込まれ、今もそう思っている人が少なくないのではないだろうか。
 しかし、こうした垂直的序列化は、下位として位置付けられる層を必ず生み出す。「学力」のみの評価が自分の全人格まで映し出していると錯覚し、自己嫌悪に陥ってしまった経験が誰にでもあるのではないか。
 人間の「望ましさ」に関する考え方のもう一つが「水平的画一化」。特定の振る舞い方や道徳観を全体に強制することを意味している。特に学校という場においては「優等生」「立派な人間」としての振る舞いや態度を集団として要求されがちである。
 近年、教育現場では「〜しぐさ」とか「〜スタンダード」といった態度を学校全体として取り組む事例も見られる。いずれも人間としての「勤勉さ」や「礼儀正しさ」などを集団として要求される。こうした態度には誰もが異論を唱えにくい。しかし人間にはそれぞれ個性があり、その人なりの事情がある場合もある。要求される態度が望ましいとわかっていても身体の方が付いていかないこともある。
 にもかかわらず指導する側においては、集団としての達成度を高めるために、時にはペナルティーを科し、「ゼロトレランス(不寛容な指導)」によって集団全体への圧力を強めていく。こうして水平的画一化もまた一定層を排除することにつながっていく。
 垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様性の過小という、人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な適応を難しくする。この2つの構造は、いずれも「他の可能性」を排除するように機能する傾向があると本田氏は指摘する。それこそが日本の社会にある「生きづらさ」の底流をなしているのではないだろうか。
 いわゆる「落ちこぼれ」出身である私には、数学のテストの点数が1桁だった記憶がいつまでも残り続けている。さらに長年、身を置いてきた教育現場での自らの言動を振り返るにつけ、自責の念に堪えない。
 バブル崩壊からおよそ30年。日本は「失われた20年」から脱却できず、さらに世界的なコロナ禍の中、政治や社会において機能不全と思われる事象を目の当たりにしている。今、コロナ禍において、感染者やその家族、医療従事者などに向けられる社会の視線も、時には狂気的となる。
 日本人の多くは、今までの日本の教育や学校の制度や文化について、課題はあるものの肯定的に評価されている方が多いように思う。学校は「勉強して良い成績を取る場」であり、「立派な人間になる」ことは自明のことであり、こうした分析に対して違和感を抱く方もおられると思う。私もずっとそう信じてきた者の一人である。
 しかし、グローバル化や情報化が進む国際社会の中で、さらに持続可能な社会の実現に向けて、日本の教育の在り方、学校の位置付けや役割を根本から問い直す時期に来ているのではないだろうか。  今、教育の現場は、学習指導要領の改訂に伴う移行期間の最中にある。学校は、単に教員から知識を学ぶ場ではなく、物事の見方や考え方を身に付ける場と位置付けられ、個人差に対応した学び、対話を通じた学びを重視するようになっている。
 協働して課題を解決していく中で、多様な価値観や考え方に気付き、他者を通して学びを深める授業デザイン。「みんなちがって、みんないい」。民主的な学びの実現が今、学校に求められている。

【南波 純さん】
1960年鶴岡市生まれ。84年〜2020年まで田川管内の公立中学校教諭。18年筑波大学大学院教育研究科修了。16年度「東書教育賞」中学校部門入賞。17年度「金融教育に関する実践 報告コンクール」入賞。日本社会科教育学会会員、デジタル教科書学会会員。

2021年1月1日号 特別エッセイ 「村」がなくなる
 作家 佐藤 賢 一さん

 銀行の支店がなくなっている。いや、鶴岡支店とか、鶴岡中央支店というような、大きな支店はなくならない。それどころか、鶴岡に本店を置く銀行に負けじと、新しく建て替えて、かえって立派になったくらいだ。なくなっているというのは、もっと小さな支店のことである。旧町村にあった支店が、旧市の支店に吸収される形で閉鎖されるというのは、もういくらか前からの話だ。その合理化が最近になって、旧市内でも始まったようなのだ。住宅街にあるような小さな支店が、あちら、こちらと次々閉じられ出しているのだ。
 いうまでもなく、住民にとっては不便である。いや、ATMならスーパーにもコンビニにもある。手続きだけならネットでもできる。今の時代、わざわざ支店が構えられていなくても、それほど困るわけではない。もとより利用者が少ないから閉じたのであり、合理化は当然——といわれれば、それまでの話なのだが、仮に何の不都合がないとしても、やはり私は残念に思わないではいられない。あるいは不安に感じてしまうというべきか。
 以前に私は、暮らしやすい都市というのは、無数の「村」の集合体なのだと書いたことがある。自分の家から歩いて回れる範囲に、日常生活に必要な施設が全て揃っている。銀行があり、郵便局があり、スーパー、レストラン、食堂、居酒屋、喫茶店と並び、医者がいて、歯医者がいて、薬局があり、ドラッグストアがあり、また中学校、少なくとも小学校がある。その小さな空間で日々を完結させられる、つまりは「村」になっている生活単位が、いくつも併存しているというのが、暮らしやすい都市の形ではないかといったのだ。
 まちづくりというと、どうしても市街地活性化とか、中心商店街の問題になりがちで、それは鶴岡も多分に漏れなかった。もちろん、それとして重要であるし、銀行にせよ市の中心部に立派な本店支店が立つというのは本当に心強い。商店街として、飲食店街として、多くの店が集まっていれば、それまた嬉しい。が、そこは特別な日、たまの機会に出かけるところ、いわば非日常の空間である。それを専ら論じていればよかったのは、鶴岡の場合は日常の空間のほうが、比較的しっかりしていたからだ。私がいう「村」として機能する生活単位は、同じ規模の他の自治体と比べても、かなり充実していたと思うのだ。
 それが今にして、銀行の支店が閉じられ出した。「村」の機能が、ひとつ欠けた。このまま他もなくなっていくのでないか、「村」が成り立たなくなるのでないかと、それが私の不安なのだ。何も派手なものはなくとも、日々を普通に暮らしていて、さほど不満を覚えることもない鶴岡の暮らしやすさが、ここで失われてしまうのでないかと恐れるのだ。
 いや、だから銀行は特殊な事情がある話だ。他業種には閉じるべき理由がない。続けて、なくなるわけがない。そう思いたいのは山々なのだが、易々とは安心できない。他でもない、昨年来のコロナ禍があるからだ。これまた業種によるが、打撃を受けるところは受ける。元から弱いところは一気に息の根を止められる。それは日本中どこも同じだが、これが例えば東京なら、誰か店を閉めたとしても、そのせいで人出が絶えるわけではない。だから、店が閉じたあとにも別な誰かが新しい店を出す。
 鶴岡は、そうは行かない。わけても「村」の場合は、ひとつ店がなくなる痛手が大きい。概ね一業種一店舗だからで、その用を足せなくなれば、人は余所に流れざるをえない。鶴岡の中心部なのか、郊外の大型店に行くのか、あるいは他の都市まで足を延ばすのか、いずれにせよ流れた先では、ついでに他の用事も済ませてしまうかもしれない。また「村」の客は減り、そうすれば、また別な店も閉じる。そうした悪循環を食い止める一年。地域の暮らしやすさを損なわない一年。いったん失われたが最後で、もう再生しないだろう生活空間を守る一年。それを迎えて、鶴岡も今年は正念場だと思う。

2020年12月15日号 「長泉寺」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

  江戸時代の鶴岡地図を見ると、泉町内川端の小公園あたりに「元長泉寺前」と書かれている。現在の長泉寺は錦町にあり「カラス明神」の通称で親しまれる寺である。この寺は庄内の領主武藤家の祈願所として建てられた…と『山形県寺院大総覧』にある。その以前は藤島の蛸井興屋にあったが戦乱続きで荒廃し、それを最上義光が現泉町に再興し、自分の弟を住職に据えた…との話が残るほど領主から手厚い扱いを受けたようだ。ところが江戸初期の1673年に寺は全焼した。当時火元は厳罰とされ、たとえ名刹といえども例外とはされず、町の北はずれへ移転となった。今は駅近くの便利な地だが、当時は北の果て…であった。その代償なのかこれまで2500坪しかなかった境内が、4000坪(63間 ×63間=約115㍍×115㍍)になった。
 それがどれほどの広さなのかと、国道から鉄道へ向かって歩測してみると、用水路を越えて次の十字路までの一画のようだ。現在は境内の南側に水路が走るが、以前は国道の場所が水路であったようだ。国道と現水路の間に住宅が並んでいるが、ここも以前は境内であった。国道沿いにある山門に立って市街地を振り返ると、鶴文堂へ向かう直線道路が走っている。まるでこの寺への参詣道…としか見えない。
 「移転は命じたものの、やや厳しすぎたかも…と不憫に思った殿様が『せめて道路を通してやれ…』と命じたのでは…」などと憶測したくなる。そんな逸話が残っていないだろうか…と付近を聞き回っていたら、ここはそれ以前から浜中街道と称する道路…とのこと。  
 その西隣にある蓮乗寺もかつては大工町(陽光町)にあったのだが、やはり出火から移転を命じられた…と聞く。長泉寺が何時までも野中の一宇では可哀想…と、蓮乗寺の移転を手配したのだろうか…。
 長泉寺の火災から39年後に三日町川端(現小林歯科のあたり)にあった町奉行所から発火し焼失した。奉行所は現在の警察署であるから市民生活には不可欠の役所である。その近くにまとまった公の用地は長泉寺跡しかなかったので、明治までここを奉行所とした。境内跡の用地は内川に面し31間(約56㍍)=現紅屋〜神社跡=、奥行きは現小野寺クリーニング裏までの55間(約100㍍)と記録されている。歩測してみると間口があまりにも違うのでよく調べてみると、旧境内と馬場町との間には幅7間の外堀と幅5間の土居があったようだ。現「浜っ娘」はその堀と土居の跡に建っていることになる。
 この辺を「馬市場」と呼ぶ人が現存するが、馬市が立ったのだろうか。鶴岡に馬の飼育が広まったのは明治以降で、「乾田馬耕」という馬に鋤を引かせて土を掘り返す農法が普及してからである。藩政期も藩の馬が飼育されていたが、乗るのは限られた人だけであったから、それほど多くを必要とはしなかった。ところが馬耕が広まると、馬を買い求める人が増えたため馬市が立つようになった。当初その場所は大宝寺と赤川の間や、檜物町(現三光町)などでの不定期開催がしばし続いたが、やがて泉町の奉行所跡地へ落ち着いた。これまでの「町奉行所」が「警察署」に変わり新築されたために、ここが空地になったのだろう。馬市が定着すると馬場町の馬小屋近くに鎮座していた「馬頭観音」をここへ移転して祀ると、馬の中心地として認知されるようになった。馬市が開かれていた期間は終戦後の耕運機が普及するまでなのか、トラクター時代までなのかはっきりしないが、昭和晩期までこの何度か曲がりながらコンマ製作所の前に出る細道を通ると、仄かに馬の香りを感じたのは、農家生まれの私だけだろうか。

2020年12月15日号 「コロナに勝つ精神力を元気快復のための処方箋発刊」
 荘内教会 牧師 矢澤俊彦

   予想もできなかった新型コロナウイルスの発生と感染拡大。その勢いは収まらず、元気をくじかれ、閉じこもり、何とか耐えている私たち。
 クリスマスが近づく中、私自身が周囲の皆さんを慰め、力づける道はないものかと日々考えた結果、小冊子を作ることとし、このたび発刊しました。題名は『汝を宇宙の主につなげ‐虚無から充実へ』といいます。B6判160ページのハンディーなもので、ちょうど100のメッセージが入っています。
 キリスト教の牧師である私が書いたものですが、内容はキリスト教の宣伝ではなく、「皆さんが、今直面しているさまざまな課題に取り組むヒントを記すことで、立ち上がる元気を取り戻してもらえれば」との思いを込め、分かりやすくまとめてみました。
 メッセージのタイトルを少し紹介しましょう。
 ・アメージング・グレイスの歌詞について
 ・憎しみも悪も愛の請求書です
 ・自己肯定感を失った近代人
 ・大人一人ひとりにも保護者あり
 ・自己から外に出よ
 ・「こっち見て」の卒業を
 ・心の地下室にネズミが
 この小冊子を市民のどなたにも無料で差し上げます。発行元の荘内教会までご連絡くだされば郵送します。申し込み、問い合わせはTEL・FAX0235‐22‐8196へ。

2020年10月15日号 「秋場所」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

  コロナ禍で秋場所開催が危ぶまれたが、無事開幕され相撲ファンを安堵させた。しかし看板である両横綱の休場が伝えられ、内容の薄い場所になるのでは…と案ずる人も少なくなかった。横綱不在の場合その穴埋めをするのが大関の役目である。今場所その大役を担ったのが、新大関の朝乃山である。横綱の穴埋めとはすなわち、優勝することに等しいしい。そんな重圧のせいか初日にまさかの黒星を喫すると2日目、3日目も連敗し、大関の地位の重さに抑え付けられ、新大関も休場か…?と心配させたが、3連敗後は立ち直り看板力士としての責任を果たしたのはさすがであった。そんな不安の中で気をはいたのが元大関の照ノ富士であった、一時は優勝候補のトップに立ったが14日目に突然休場した。これが十両以上で13人目の休場者となり、史上2番目に休場者の多い場所となってしまった。
 優勝したのは関脇の正代(しょうだい)で、現在のような優勝制度が制定されて以来、熊本県出身では初の優勝力士となった。正代は熊本農高から東京農大へ進み、2年生の時に学生横綱となった実力者であるが、その後怪我でもしたのか相撲界でのデビューは前相撲からであった。当然段違いの強さで昇進し、17場所(約3年)で関脇となった。
 正代は本人の苗字であるが、祖母は正代(まさよ)さんという名前で、先年NHKの「お名前」の番組でも紹介された。新大関のニュースに両親も何度か登場していたが、まさよさんが映らなかったのは口惜しい。
 序二段優勝者の北青鵬は白鵬、炎鵬と同部屋で、北海道出身と報じられているが、生まれはモンゴルで5歳の時に北海道へ移住した。先場所も序の口で優勝し、インタビュー中で「一年以内に十両へ入りたい…」と述べていたのが記憶に深く残っていた。身長2メートルと恵まれた長身ではあるが、この発言は相撲界の現実をよく理解していないためで、勧誘された時の甘言をそのまま鵜呑みにしているのでは…とも取れた。しかし今場所も優勝し連続でインタビューに出たのを見て「これはただ者ではないぞ…」と直感した。
朝青竜の頃なら、『モンゴルイコール末来の幕内』という見方も成立したが、今日ではそれが成立しづらくなっている。しかし身長2m、体重164kで鳥取城北高校出身となれば、この発言も単なる大言ではないかもしれない。
 今場所は十両の北はり磨(はりの字は石偏に番の字)の成績にも注目した。昭和61年生まれ、兵庫県竜野市出身の山響部屋で十両と幕下を8回も往復している古参力士である。今回34歳で3年ぶりの十両復帰を知らされた時は、傍目もはばからず号泣してしまった…と伝え聞く。年齢が34歳となったこともあり、もう無理かも…と半ば諦めかけていたが「もう一度だけ…」と残された力のすべてを注ぐ決意を固めて精進した結果であった。
 彼にこんな根性を植え付けたのは、あの強すぎて嫌われた横綱北の湖の指導であろう。平成14年に入門し、この師匠の指導を受けている間に培われた根性である。発奮させるためには硬軟のバランスが大切で、甘い餌をばら撒き時には鉄拳の制裁も見舞う。これは本人が「その気」になるまで繰り返され、言い換れば弟子と師匠の根くらべでもあるから誠に根気の要る仕事である。しかし見方によっては師匠から一方的に与えられた稽古とも取れるが、やがてライバルと意識する相手が身近に出現するまでの時間待ちでもある。その変化を師匠は目ざとく発見し油を注ぐ。
彼には絶好のライバルがいた、同期入門の鳰の湖(におのうみ)である。現在は幕下だが幕内の経験がある。自分の十両昇進7回と比べても『幕内』には勝てない。「俺も一度でいいから入幕を…」の望みが頭から離れることはなかった。そんな最中に育ててくれた恩師が平成27年11月に急逝した。夢を追いかけ続けたが歳月は流れ、体力が弱りかけて来ると「もう十両復帰は無理か…」と自認しかける時が多くなってきた。
 先場所後の番付会議後、十両復帰を知らされると、人目もはばからず声を出して嗚咽してしまった。すぐに涙を拭き北の湖親方の遺影に8回目の十両昇進を報告した。
 サッカーやバスケのチームでは、成績次第で選手、監督が入れ替えとなり、まるで別のチームとなってしまることは珍しくないからこのような人間関係は育たないのでは…と思うことがある。

2020年9月1日号 「鶴岡公園」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

 『荘内病院が現在地へ移転したのは何年だったかなぁ…』。このような疑問が時を選ばず出没するのだが、ほとんどはその場限りとなる。だが今回は妙に気になり、病院の入り口に「定礎」があったのを思い出し見に行った。「平成15年3月竣工」を確認すると、隣のマンションとどちらが先だっけ…と足を延ばしたが定礎は見当たらず「サンデュエル鶴岡公園」の名称だけしかない。サンデュエルとはどのような意味なのだろう…そこに居た親切そうな人にお尋ねすると「造語らしい…」と教えてくれた。サッカーの「モンテディオ」のようなものか…。それにしても上畑町にあって『鶴岡公園』とは「日々公園を見下ろす生活…」の意味なのだろうか。古い人間には、公園との間には泉町、馬場町と位置する地なのに、まるで「わが庭」のような表現をしている…。  ある日、図書館で古い『荘内日報』を調べていたら「昭和26年2月、泉町から般若寺脇を通りぬけて駅へ行く道路が完成…。その名称を公募した結果『公園新道』と決まった…」とある。
 これまで泉町から駅へ行くには、冨樫接骨院前の十字路を直進して高町(山王町の西裏)―般若寺前―日和町(日吉町)―駅と迂回していたのだが、般若寺までの道は幅が狭く、リヤカーの擦れ違いがやっと…程度であった。そのころ現荘内病院の所にあったコンマ製作所が、急成長して生産量が増え、駅との往復回数が急増した。そのため泉町十字路から駅前の「副道路」へ通じる道路が不可欠となっていた。「副道路」はすでに鶴文堂前を過ぎ現在の渡部酒店まで延びて、現郵便本局から龍覚寺へ行く細道とT字路になり、これを通称「新山東小路」と呼んでいた…が、この呼称を知る人はごく少数となった。  この年新設されたのは、この渡部酒店から泉町交差点までの400㍍余である。このように戦後まもなくの市民が、泉町の道路に『公園新道』と名付けている。それなのに令和の人間が『上畑町で鶴岡公園とは…?』などと申すのは狭量と笑われそうだ。
 この道路ができたことで、交差点から山王プラザの脇を通り、旧高町の真島医院脇から般若寺山門前に至る交通量は激減した。しかし直線ではない細道、それに沿った生垣、建物と建物の空間、茅葺屋根等々に趣があり、細い路地からマゲ姿の人が出てきそうな雰囲気が漂う。
 さて、もう一度泉町の5差路へ話を戻そう。接骨院の向かいに「家庭教」があり、その西側(病院からの車輛出口)の石垣の上に、「庚申塔」が建っているのに気が付く人は少ないだろう。庚申塔は村落の出入り口でよく見かける石塔である。集落に悪病が入らぬよう…とのお願いで、江戸から明治にかけて広まった民間信仰であるとか。鶴岡市でも多く見られ、形や文字の彫り方など興味深いものが多い。また庚申塔と並んで神仏の塔があったり、その地出身の力士碑などが建てられていることもある。これは「この村には◯◯と言う強い力士がいるから、入って来ても無駄だぞ…」と言う意味が込められていたそうだ。そんなことから県内各地の力士碑を求めて廻った時期がある。
 ここの庚申塔は安政4年(明治になる10年前)の建立で、小倉善吉、菅原久治、菅原五右ヱ門、平田重吉、佐藤伊右衛門、工藤兵次郎、加賀山五良兵ヱと七人の名が刻まれている。この周辺に住んでいた人々なのか、それとも同じ考えの同士なのか。いずれにしても生活費に困る人たちではないだろうと推測する。
 弘化3年(1846・明治になる22年前)佐賀で疱瘡が発病し、あっという間に全国へ広がった。国民は予防法も手当の術も分からないまま右往左往するばかりだった。こんな時に幅を利かせるのが宗教である。「これはホウソウ神のなせる術だから、この神が嫌いな赤い物を家の中に飾れ…」との流言に、なけなしの金をはたいて天狗やダルマ、赤ベコなどの張り子人形を買ったり、赤飯を供えたりとか赤い物づくしで身辺を守ろうとした。それでも発病者が増えるので、村人が神社に集まっての厄払いや祈祷、神楽舞などを行い、その上石地蔵の建立などが行われた。安丹神楽もこの時に始まったとか。この時の信仰の根深さを知る一つに、終戦後もしばらくまで、疱瘡が完治すると米俵のふた(サンダワラ)に赤飯を載せ、笹やカヤで作った赤い梵天を立てて川端に供えていた風景を思い出す。それほど赤色が疱瘡に効果があると民衆は信じ切っていた。
 幕府の医療体制は漢方医術を中心とした組織であったが、西洋医学でワクチンが開発され、画期的な治療が始まった。日本も『漢方一辺倒』ではなく、蘭医の意見も取り入れてとうとう安政4年、神田岩本町に「種痘所」が設立された。だが、それまでの間に全国で100万人余の死者を数えてしまった。  庚申塔の7名はどのような意図でこの碑を建立したのかは分からぬままだが、漢方重視の医療界に一矢報いようと動いた『ホウソウ仮面』たちではないか…。この人々のご子孫や縁者など、ご存じの方からお話を伺いたいものだ。さらに彼らの建立した石塔の効果かどうか、明治36年この地に伝染病の病院である「避病院」が建立されたのも何らかの関わりがあるのでは…などと推測を重ねたくなる。

2020年6月1日号 「Sonhos de Amazonia〜ともに生きる森 アマゾン先生から学んだこと」
 致道博物館 学芸員 菅原 義勝さん

 ふつう、地球の裏側のジャングル地帯に思いを馳せることなどあるだろうか。ここ鶴岡には、南米大陸のアマゾンへと続く扉がある。どの市町村を見渡しても〝ふつう〟なことではない。その〝ふつう〟ではない鶴岡にある扉は、これもまた〝ふつう〟ではなかっただろう少年が夢を追い続けることで開かれた。
 現在、致道博物館で開催しているアマゾン展では、動物の剥製や昆虫の標本、アマゾン先住民が実際に使用していた民族資料を紹介している。これらは、文化人類学研究者の山口吉彦氏が現地の人々と交流して収集した貴重なコレクションである。
 今回の企画は、山口先生はもちろん、長男で一般社団法人アマゾン資料館代表理事の考彦(なすひこ)氏と何度も協議を重ねた。テーマは、アマゾンに根付く「共生」の理念を、民族資料と自然資料を組み合わせることで表現するというもの。そしてもう一つ、先生が話し合いの当初から一貫して求めていたことは、「子供たちが喜ぶ展示をしたい」ということだった。今回、子供が喜ぶ自然資料をたくさん展示したのも先生が望んだことである。
 実のところ、はじめは動物の剥製や昆虫の標本の展示数をもっと少なく見積もっていた。資料の保管場所で考彦氏とともに展示資料を選定していると、いつの間にかリストにない鳥や魚が混じっている。しかも結構な数である。不思議に思って見渡すと、そっと現場を立ち去る先生の後ろ姿があるわけだ。  残念ながら、このコロナ禍で、本展は開幕3日にして休止状態となった。しかし、地元企業の多大な支援もあり、当館ホームページ上で特設ウェブ展示を公開できたのは不幸中の幸いであった。現在は博物館も再開しており、展覧会は6月8日まで続くので是非ご覧いただきたい。
 義務教育を受けていた頃の私は「鶴岡に何故アマゾン?」と思っていた。おそらく今でもそのように感じている方は多いだろう。言ってしまえば、「鶴岡出身の山口吉彦先生がアマゾンで収集した資料を地元で保存公開しているから」、ということになる。だが、2万点に及ぶアマゾン資料がもつ重みは、そんな一言で片付けられるものではない。
 日本は近代国家として国力を高め、国際社会のなかで経済的にも発展を遂げた。戦後75年の間に私たちの生活レベルは飛躍的に上がっている。 しかし、今私たちは目に見えない脅威に直面している。それは生死に関わる医学的な脅威とは限らない。自営業者は数カ月分の損失に頭を抱え、子供は友達と遊ぶ楽しい時間を奪われている。目に見えないだけに不安が募り、誰かの責任にすべく悶々としている。中国の初動が悪かった、日本の対応が悪かった。県が、市がどうのこうの…。空しく木霊するだけだ。
 近年、アマゾン川流域では乱開発が進み、大規模な自然破壊が続いている。その影響は地球温暖化や気候変動問題など、全世界に及んでいる。今回のコロナ禍のようなことは、今後も地球規模で起こり得るだろう。だからこそ、人が人を尊重し、良好な関係を目指すように、生物と自然が「ともに生きる」という大きな視点は今後さらに大切なものとなるだろう。
 山口先生は今回撮影した動画のなかで、次のように語っている。「アマゾン先住民は森や川が未来からの借り物であることを知っており、必要な分だけを手に入れ、足が不自由で狩りが出来ないような人たちにも平等に分配する。彼らのような意識を先進国の人たちももてば、地球はずっと先まで素晴らしい」。
 〝ふつう〟が当たり前ではなくなった今、開かれた扉を閉じてはならない。

2020年1月1日号 「建て替え」
 作家  佐藤賢一さん

 鶴岡の新文化会館、ほどなく「荘銀タクト」と名づけられた施設は物議を醸した。文化遺産とされる外観デザインだが、巨額の税金を投じてまで必要だったのかと、問題視されたのだ。とにもかくにも完成し、供用が始まって、私も行ってみたが、その内部も使いにくく感じられた。ステージに立つ演者は知らず、観客席に座る立場でいえば、特に二階席は配置が奇抜すぎて、世辞にも鑑賞しやすいとはいえなかったのだ。通路や階段も狭く、またわかりにくい。緊急時にうまく避難できるだろうかと、俄に心配になったほどだ。続けるほど、褒めるところもないような新文化会館だが、ひとつだけ評価したいことがある。良くも悪くも周囲の景観を一変させて、きっかけに建築ラッシュを招いた点だ。
 鶴岡商工会議所の移築は、新文化会館とセットの事業だった。市役所は駐車場の一部を整備したが、これも合わせて意図したものかもしれない。が、それだけではない。これは皆で打ち合わせたわけではなかろうが、付近に集まる銀行や信用金庫の本店ビル、中央支店ビルも、次から次と新しくなった。あてられたか、他の民間企業や店舗、個人の家屋も、けっこう後に続いている。そんなこんなで、もはや界隈まるごと清新に生まれ変わった印象なのだ。何十年と変わらず、どんより停滞している感が否めなかった鶴岡の中心市街地が、ほんの数年で別物だ。もっと発展していくぞと、今や期待感さえ抱かせる風だ。
 ここで特筆したいのは、中心市街地の話だけに、これら建設ラッシュが建て替えで進められた点である。郊外型の大型施設のように、何もなかったところに、どんと新設されるスタイルではない。そこにあった建物、もう老朽化して、みすぼらしくなった建物を取り壊し、その土地に再び建てるというスタイルだが、これだけの規模で行われた例となると、近隣の自治体を見回しても、あまり見当たらないのではないか。
 この建て替えこそポイントだ、と私は考えている。全て郊外に持っていかれるわけではないので、街がさびれないからだ。それは新陳代謝を進めて、地域が蘇ることなのだ。さらに嬉しく思うのは、鶴岡では同じような建て替えが、住宅地でも起きていることだ。新築といえば、これも宅地開発された郊外の新興住宅地と決まる感があったが、数年は昔ながらの住宅地で古い家屋を解体、そこに新築するケースが増えたような気がするのだ。
 消費税増税前の駆け込み需要があったのか、ことに去年は方々で目についた。あるいは近年問題視されている空き家が、積極的に売られたのかもしれない。なるほど、親から相続した大切な財産だろうと、誰も住まない家を持ち続けても仕方がない。不動産といえば一生物の感覚があるが、それも改め、どんどん売りに出すべきだとさえ私は思う。もはや少子高齢化社会だからだ。ほとんどの一軒家はファミリー向けで、子供たちが独立した後は広すぎることになる。残された夫婦二人は、それでも二十年、せいぜい三十年のことだからと、同じ家に住み続けた。が、それが今では四十年、五十年に延びかねないのだ。
 そんなに長くなるならば、さっさと住み替えるのが利口である。広すぎて不便な家は、あまり欲張らずに売り払い、その金で買える程度の小さな住まいを求め直す。空いた一軒家を中古で安く買うなり、更地にしてから建て直すなりができれば、これから子育てという若い夫婦のほうも助かる。この地域は暮らしやすいとなって、人口も増えていく。少なくとも減らなければ、旧町が空洞化する事態は避けられる。建て替えは住宅地でもポイントなのであり、そういう住宅循環のモデルを鶴岡で確立できれば、これまた他所に類をみないリーディングケースになると思うのだが、どうだろうか。

2019年10月1日号 「ペダルを踏んで」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

 平成から令和に変わった前後、全国で高齢ドライバーによる交通事故が多発した。原因は「ブレーキとアクセルを間違えた…」などの単純ミスである。その被害者が肉親の場合が多かった。このような事故が死亡事故全体の26%に及んだ…との発表に認識を新たにさせられた。山形県は高齢者ドライバーが全国5位とのことからこの種の事故も多くなる。その陰には公共交通機関の貧弱さから、老いてもマイカーが手放せない…という事情があろう。
 それに反応したわけではないが、私も運転免許証を返納した。「歩けばいい…」と決断したのだが、数年経過すると、想像以上の速さで体力が減退した。この現実には逆らう術もなく、しかたなく自転車を購入した。
 風を切って走るのは予想以上に気持ちがいい。これまで車窓のガラス越しで見ていた風景も、直視するととても新鮮に感じられる。また細い道へ進入してみたりと、新発見の日々が続いている。
 こんな体験は高校以来だ、当時は自転車で1時間余の道程を息せき切って走った。それは、朝寝坊のせいで時間に追われていたからである。それだけに疲れた日や向かい風の日の坂道はとても応えた。
 本町三の信号がある坂道は印象に深い。当時は「この坂があるから『カミ坂の町』なのだろう…」と思いこんでいた。後日「下坂の町」の存在を知り、坂もないのに『何故下坂町なのだろう』…との疑問が深まり、早速現地調査に出かけた。川端通りから大泉橋へ向かうとわずかの上り坂が感じられた。『ハハアーこれが町名の由来だな…』などと勝手な推測をし、一見落着とした記憶がある。「下肴」の字をあてることを知ったのは随分後のことである。
 鶴岡市街地の地盤は櫛引、金峯山方向から京田や栄方面に向かって緩やかな傾斜になっている。川が南から北へ流れるのはそのためである。すなわち南高北低なのだが、例外の個所が散在する。
 老体でペダルを踏んでいると、時々急に重くなる場所がある。これはパンクや故障ではなく、上り坂の証しだ。それが南高北低と逆方向であったりするから面白い。私にとってはそれが一大発見であり大きな喜びなのである。また反対に自転車が勝手に走り出す下り坂を見つけた時も感動を覚える。
 南高北低の鶴岡に幾つかの例外が存在する。例えば北の山王町よりも、南に位置する鳥居町のほうが低かったり、北の上畑町が南の泉町より高いなど、高低が逆転した地が残っている。
 荘内病院の敷地に「コンマ製作所」があった頃、にわか雨が降ると工場内に上畑町から谷川のような水が流れてきた。その対策に従業員が大慌てで防水対策を施した…」と今間信一郎氏が述懐してくれたのを思い出した。
 馬場町から家中新町へ向かうと鶴南高の校門前でペダルが急に重くなる。南高は江戸時代に藩の米蔵があった場所だから、水没しないように高い場所を選んだのだろう。このように鶴岡市街地には南高北低ではない場所がまだまだ隠れているようだ。
 赤川が現在地を流れるのは江戸時代初期からとか。それまでは現内川を流れていた…とのこと。それまでの間、洪水が年中行事の如く襲っていたのかもしれない。その爪痕がこのような南高北低ではない場所を造ったのであろう。
 旧高町(山王通りの西裏通り)から龍覚寺、NHKへ至る旧高畑町は、その頃の赤川が運んだ砂利や砂の沖積跡なのだろう。
 南高北低を覆す場所がまだまだあるのではないかと思われる。

2019年9月1日号 「戦国の庄内‐手紙が伝える人間関係‐」
 致道博物館学芸員 菅原 義勝さん

 古文書=こもんじょ。その紙面には「くずし字」といわれるミミズの這うような文字が書き綴られている。丁寧な筆運びで書いたものもあれば、汚い字で書き殴ったものもある。うだるような真夏の暑さの中で書いた手紙だろうか、夜陰に蝋燭を灯して書いたのだろうか。古びた一片の和紙の背景には、さまざまなドラマがあったはずである。
 現在、致道博物館で開催中の企画展「戦国の庄内‐大宝寺・上杉・最上 争乱の果て‐」では、戦国時代に作られた古文書を中心に展示している。戦国時代の庄内に関する古文書を一堂に集めた展覧会は初めての試みである。最上義光や伊達政宗、上杉景勝、直江兼続など全国的にも有名な武将、あるいは庄内ゆかりの領主らが作成した書状のほか、最上義光や本庄繁長所用の兜も展示。テレビやゲーム、書籍でよく登場する戦国時代の歴史をよりリアルに感じていただけるはずである。
 古文書というだけで「難しそう」な展覧会だと感じる方も多くいるだろう。そこで今回、解説文を作成する上での課題は、文章量をどれだけ少なくし、かつ戦国時代の庄内を分かりやすく紹介できるかであった。その課題を達成できたかというと、至らないと思うところはあるものの、実際に足を運んでくださった方からは予想を上回る反応があった。
 現代を生きる私たちは、スマホやパソコンさえあれば、メールをはじめ、LINEなどのSNSといった通信手段で世界中の誰とでもすぐにつながることができる。画像や動画を添付すれば、文字を打たずとも意思や近況を伝えることだってできる。何とも便利な世の中なわけだが、私は日向君という大学時代の親しい後輩と、いまだに手書きの文通を続けている(次の文通のネタは、ここに名前を記したことになるかも…)。
 仕事で、あるいは私的な形で文書や手紙を作成する際には一定のルールがある。「拝啓」で始めて「敬具」で終える、時候の挨拶~本文~結びの挨拶の順で書くなどである。日付や自分の名前、宛名の位置も気にしなければならない。
 さまざまな決まりごとは、奈良時代や平安時代ごろには作られていた。当然、時代が変われば様式も変わるが、人々は基本的にはその時代のルールを意識しながら書き記していた。
 さて、戦国時代には、多くの外交文書が作成された。「外交」というと国際的な意味合いを思い浮かべるかもしれないが、戦国時代の日本国内では、自らの領国を持った主権者が乱立していた。彼らが支配する地域国家間の交渉を指して「外交」と表現している。
 外交では、大名から大名へ、大名から大名の家臣へなど、多くの手紙(書状)がやり取りされた。差出人と受取人の間には、身分格差や地域国家間の実力差がある場合があったので、両者の間柄、上下関係によって手紙の書き方にもさまざまな形で差をつけていた。つまり、差出人が受取人に対し、敬いの心をもって丁重に接する(厚礼の態度をとる)か、自分を尊大にみせて接する(薄礼の態度をとる)かで、手紙の様式を書き分けたのである。
 このような関係性を意識して手紙に目を向けるとじつに面白い。相手の名前をどのくらい上に書くか、紙はどの種類を使うか、自分の名前の下に花押(サインのようなもの)を記すか、あるいは印章を捺して済ませるかなど。一見して分かるほどに、相手に対する態度の違いが如実に表れるのである。
 例えば、今回展示している庄内の領主・土佐林禅棟が秋田の大名・安東堯季に送った手紙では、高級な紙を使っており、宛名の上に「進上」と付けた、とても丁重な書式で書き送っている。禅棟より堯季が上の立場の者であることが、文面を読まずとも伝わるわけである。
 手紙の実物を見ると、戦国の世を渡り歩いた武将たちの心遣い、手紙を送り合った者同士の関係性までをもうかがい知ることができる。武将の息吹が感じられる一つ一つの古文書には、見る者の想像力をかき立てる、無限の可能性が広がっている。

2019年6月15日号 「断捨離」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 テレビから流れた「だんしゃり」の言葉を初めて耳にした時「何のこと…」であったがその後度々耳にするにつれ、「使用度の少ない古い品物はさっさと捨てて、安価で便利な新しい品に買い替えよう…」と言うことのようだ。
 「地球の資源は無限ではない。だから物を大切に…」とか「もったいない」が流行語になったのはついこの前のことであったのに、それが美徳ではなくなり、さらに「いつ用いるのか分からない品々を後生大事に保管しているのは無駄なこと…、そのスペースをもっと有効利用しよう…との考えに変わったことを示す言葉のようだ。
 ついこの間までどの家でも「ものは大切に…」と、包装紙やヒモなどは再利用に備えて保管するのが常識であったのが、手のひらを返すように突然「断捨離」とは…。
 昨年の暮、妻が突然入院した。退院後のアドバイスを受けた中で、ネックとなったのは階段の上り下りであった。我が家は改築と増築を重ねた家なので、変則的な階段から成る。この際寝室を1階に移す改造をせねばなるまい…。それならいっそ転居しようか。しかし住み慣れた地を離れるのは、生活も一変することだろう…と迷った。
 孟子の母は吾子の将来を考えて住居を三度も替えたことから「孟母三遷」の格言が生まれたとか。また江戸末期の絵師葛飾北斎は生涯に93回の転居をした記録を持つ。歴史に残る名作「神奈川沖浪裏」は、荒波の中の小舟とその向こうに白い峰の富士山を描いたものである…、これは切手にもなっているから広く知られる名画である。この作品は最後の引っ越しから間もなくの作品であると伝えられている。
 NHK大河ドラマ『いだてん』でビートたけしが演じている古今亭志ん生もまた転宅を繰り返した人で、回数では北斎に及ばないものの、その後に人気が出て「名人」と呼ばれ、後世に名を残している。
 両者の転宅理由を単純に言えば「借金に追われて…」が真相のようだが、その後歴史に残る大家と呼ばれたのはご存じの通りである。私が改造をあきらめて引っ越しを選んだのは、「私もこの二人にあやかろう…」などと考えたわけではない。
 寒中にポツンと一人で荷物の整理を始めると、見る間に馴染みのない品物の山に囲まれた。「18歳で東京へ旅立つ時はたしかボストンバッグ一つであったのに…」と独り言を吐いていた。その後名古屋で新所帯を持ってから3度目の転居を経て鶴岡へ来たのだが、その後もさらに3度引っ越し、昭和51年に「我が家」を得て落ち着いたのである。その頃日本は経済高度成長期であったことも手伝って、家具や道具類を買い集めたのである。子供へも「自分のような乏しい思いをさせたくない…」とばかり、次々に買い与えてきたように思える。その結果がこの山である。子供の品もさることながら、自分への褒美とか生活の潤いなどと理屈をつけては衝動買いした品々も少なくない。どれも楽しいひと時を演出してくれた品々である。
 『断捨離』という言葉を知ってからも『我が家にはそんな品はない、だから断捨離とは無縁だ…』と自信満々であったのだが、作業を開始するやあっと言う間に「廃棄物」の山ができていた。しかし翌日になるとその山に首を入れ、懸命に探す…そんなことが二度、三度と繰り返した。その頃『山新』掲載の川柳に「愛着と惜しさ残る 断舎離後」(鶴岡 今野興和)を見つけ大きく首肯してしまった。
 不用品に分別したのに一晩のうちに「手放し難い品」に変身するのは、購入時の価格とか骨董的な価値よりも、むしろその品と共に残っている思い出の濃さや、その品との出会いやその後のストーリーにある。これが人と人なら「愛」と表現するのだろうが、人対品物の場合にも似た感情がある。これを「愛着」とか「愛惜」というのだろうか。

2019年5月1日号 「憲法記念日」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 ゴールデンウイークは子供だけではなく老若男女もが心待ちにする一週間であるが、「飛び石連休」の別称通り、祝日と祝日の間に平日が邪魔をするかのように居座るのが通年であった。ところが今年は令和天皇の即位式や振替休日などが、その空間を見事に埋めたため10連休という超大型になった。
 それぞれの祝日には来歴があり、それに至る経過は新聞やテレビが解説してくれるので、それなりに理解しているつもりなのだが、「昭和の日」や「子供の日」にくらべ5月3日の「憲法記念日」は「現在の憲法が出来た日では…」との程度に捉えていた。マスコミはこの日も祝祭日に至った由来などを説明しているのだろうが、連休の谷間にあって「聞く耳持たぬ状態」なのだろう。
 この日は明治22年に発布された『大日本帝国憲法』を大きく改めて、昭和21年11月3日に戦争放棄を謳った新しい憲法が公布され、それが半年後の翌22年5月3日から施行された、それを記念する日であるとのこと。
 明治4年11月、岩倉具視ら一行が欧米を巡った時、欧米人は「通商条約の改正なんてとんでもない、憲法もない国が…」と陰で笑っていた…との話が残っている。しかし当時の日本には明治元年に天皇から公表された『五箇条の御誓文』が存在していたし、さらに遡れば日本が国家らしき体制となった飛鳥時代の西暦604年に、推古天皇は憲法17条を制定した。その1条が「和を以て尊(たっと)しとなす…」であることを記憶している人も少なくないことだろうが、これを欧米人が知る由もないだろうし、たとえ知っていたとしても、これを『憲法』とは認めていなのだろう。
 『法』が成立した時は重要な決まりであるのだが、時間の経過や環境の違いによって、それが適合しなくなることが発生する。為政者たちはその時々で改正せねばならなくなるのだが、そんな時自分の利益になることばかりに知恵を絞り、我田引水の法令を編みがちであった。これは洋の東西を問わず、中世から近世の独裁者たちはこのような策を繰り広げてきたことは歴史が伝えている。日本でも「犬を殺してはならない、棒でたたいたら罰金…」などという法を作った将軍がいた。そんなことを伝え聞いた半可通たちの口から「憲法の無い国」が出たのではないだろうか…。
 しかし明治元年、天皇が発した『五箇条の御誓文』は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」…以下4条が公にされた。しかしこれを多くの本は、憲法ではなく「国是」と書き表している。
 しからば憲法とは何ぞや…辞書には「国家の掟」とあり、日本では明治22年2月に発布されたのが初の憲法とされ、推古天皇の「和を以て…」や明治の『五箇条』は憲法とは認めていない。
 「憲法」と「国是」の違いを知るには、まず『憲』の字の意味を知る必要がある。手持ちの漢和辞典をめくると、「決まり」とか「手本」、「悟りが早い」と三つの意味が書かれていた。古くからこの文字は人名に用いられているが、その理由が分かった気がした。
 これらの意味からすれば「和を以て」や『五箇条』も憲法と呼べるものではないか…。
 さらにこの字を分解すれば「ウ+主+四+心」から成る…と思っていたら、四ではなく目の字を横にしたもので、「罪人の目の上に施した刺青を表したもの」…と辞典にある。日本の罪人が二の腕に太い二本線を刺青されたのは中国のこれを倣ったものであろうと推測した。1300ページ足らずの机上辞典にもこんな興味深いことが載っているのだから、分厚くて重い立派な辞典ならもっと面白いことが書いてあるのでは…と図書館へ向かった。しかし辞書の価値は必ずしも重量や大きさと比例しないようだ。
 刺青のことから「憲法とは刑罰から出発した…」のではとの推測を巡らし、新たな興味をそそられたが、それを裏付ける本とはまだ出会えていない。

2019年1月1日号 「二十年」
 作家  佐藤 賢一さん

 鶴岡に戻って、二十年になる。高校三年、十八歳まで暮らしたが、大学、大学院と進み、かたわら作家になった十二年ほどは余所で暮らした。作家一本と決めて、大学院に退学届を出したのが一九九八年の九月、それからUターンで鶴岡に居を定め、二十年なのである。
 鶴岡は鶴岡のまま、何も変わらないような気がする。が、これを機会と二十年前を思い出してみると、驚くほど変わったことに気づかされる。
 私が鶴岡に戻ってきた頃、話題になっていたのが庄内の四年制大学新設だった。どこに置くかで議論があったが、結論は「酒田に学部、鶴岡に大学院」だった。私はまんなかに置くべきだと思っていたので、これは駄目だなと内心がっかりしたが、あにはからんやで鶴岡には慶応大学先端生命科学研究所が置かれることになった。これが大成功で、研究所が世界に注目される成果を多く世に送り出すのみならず、近年は様々なベンチャー事業さえ創出している。今や鶴岡の希望の星である。
 亡くなられたばかりの藤沢周平さんも、当時は話題だった。私にとっては丸谷才一さんと並ぶ同郷の大先輩作家で、ずっと意識もしていたが、意外や地元で盛り上がりをみせたのは、追悼かたがたで取り上げられた、この頃からではなかったかと思う。それがブームというほど熱したのは、藤沢作品の『たそがれ清兵衛』を山田洋次監督が映画化する、それも鶴岡で撮影するという話になってからだ。これが始まりで藤沢作品の映画化が続き、さらに他の時代劇も、一般の映画まで撮影されるようになって、今や鶴岡は全国でも知られたロケ地のひとつなのである。これまた、ますます将来が楽しみだ。
 その『たそがれ清兵衛』の上映をみたのが、最後の鶴岡シネマ旭だった。もう鶴岡に映画館がなくなる、三川に行くしかなくなると淋しく感じたが、数年後に鶴岡まちなかキネマができた。嬉しいと思う反面、続くのだろうかと心配もしたが、先の地元ロケとも連動しながら、ますます盛況である。なるほど、私自身けっこう行く。地元贔屓を抜きにも、しごく心地よい映画館だと思う。
 映画館だけでなく、イオン三川(旧ジャスコ)自体の建設も大ニュースだった。二十年前は鶴岡にジャスコもダイエーもあったが、こりゃ拙いなと私でも思うほど、閑古鳥が鳴いていた。三川にイオンができて、大型商業施設まで併設されるとなると、これからの市街地はどうなるものかと塞いだが、全くの杞憂だった。いや、その実は危機感あって、皆で奮闘した賜物なのかもしれないが、いずれにせよさびれたりしていない。二十年前より勢いがあるくらいで、エスモールなど以前のダイエーと比べれば、もう嘘のような賑わいだ。
 三川がそのままなので、無頓着に鶴岡がどうこうと書いてしまうが、その鶴岡も二十年前は鶴岡市、櫛引町、羽黒町、藤島町、温海町、朝日村に分かれていた。平成の大合併で新鶴岡市になったわけだが、市民生活が目にみえて変化したわけではない。これは変化しなかったこと、行政サーヴィスが落ちなかったことが、かえって成功なのかと思う。
 二十年前といえは、庄内に高速道路が開通したばかりだった。どんどん便利になるかと思ったが、なかなか先につながっていかない。鉄道についていえば、二十年前どころか、それ以前から羽越線の高速化、新幹線化が議論されてきた。これは新潟駅で同一ホーム乗り換えができるところまで来た。今春、ようやくのことだ。いずれにせよ、高速交通の整備は思うように進んでいない。県だの、国だの、JRだのと協働する事業となると、どういうわけか振るわない。平成の大合併で山形県下で第二の大都市になったのだから、そのあたりアピールしながら、もっと強気に求めていってよい気もする。
 あれやこれや挙げてきたが、二十年で鶴岡も変わったものだと驚く——というより、いよいよ感心させられる。これだけ変わった地域、それも悪く変わったのでなく、良く変わった地域というのは、県内でも、いや、全国でも珍しいのではないか。鶴岡は稀有にも変わる力がある地域なのだ。先の高速交通、さらに教育、医療、福祉、観光、産業育成と、なお残る課題も多いが、多いだけ次の十年、二十年が楽しみな気がしてくる。

2018年9月1日号 「ロケット」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 昨年初夏も、酷暑が続きうんざりしていた頃「日本初の民間宇宙ロケットを発射」というニュースに体がシャキッとなった。胸をときめかせながら待っていたら、濃霧のためとか、機器の不調などで発射が2度も延期されて、7月30日に発射と発表された。日本の宇宙ロケットはこれまで「種子島の宇宙センター」がお定まりであっただけに、民間会社が北海道から発射させるのには少なからず興奮させられた。
 宇宙へのロケットは、できるだけ赤道近くから発射するのが燃料費の節約になる…と何かで読んだことがあるが、何故北海道なのだろう…それは日本のロケットが東北から始まったからではないか。
 昭和30年8月6日は、秋田県由利郡岩城町(現由利本荘市)でロケットの研究を重ねていた東大の糸川英夫教授を中心とするグループが、日本で初のロケット打ち上げに成功した日である。当地からお送りいただいた資料によれば「ロケットは全長が23㌢、直径1・8㌢のマジックペンのような形に尾翼を付けたもので、水平に3分間飛んだ…」とある。
 この実験地が何故秋田なのか、当時『国際地球観測年』で、日本での観測範囲が秋田周辺に指定されていたからであった。このロケットは「ペンシルロケット」と呼ばれ、中学生だった私にも親しみが持てるものであったが、この実験成功が、今後の生活にどのような影響を及ぼすのだろう…などと興味半分で話し合った覚えがある。新聞やラジオを懸命に探ったり、先生に質問したりしたのだが、納得できる答えに出会うことはなかった。
 糸川教授は明治45年に東京で生まれ、昭和10年東大を卒業して中島飛行機へ入社。16年東大へ移りロケットの研究に入るが、戦後は「ポツダム宣言」により、日本は航空機の製造、研究が禁止される。糸川は足をもぎ取られたカニ状態となり、仕方なくチェロ演奏やヴァイオリン製造に情熱を注いだとか。28年シカゴ大の客員教授に招かれ、そこでロケット開発との運命的な出会いがあった。帰国後も研究を進めていたところへ地球観測年の仕事が入る。早速その拠点を探すが、戦後の日本は食料不足からの脱出に向けて、耕地拡大を国策に掲げて、開発整備が進められていた。そんな中で研究所の用地を探すのは一苦労であった。火薬を使うことから人家や工場から離れているのが条件だし、田を埋め立てるなどはもってのほか、峠を越えた山奥ではトンネルが必要となるし、橋を架けねばならないので論外である。当時コンクリートの防波堤はまだ少なく、白砂青松の地が多かったが、港の近くは避けねばならないし、鉄道が通っていてはだめだ。これらの条件をクリアしてやっと由利本荘市の海岸に定まったのである。最初の打ち上げ日には近隣から1000人余の人が詰めかけ、アイスキャンデー屋も数人来た…と記事にある。「シュッ」の音を残し海へ向かって飛んだロケットは23秒後に海水へ入った。一瞬の出来事ではあったが関係者も観衆も大満足した。その後何度も打ち上げ実験が行われたが、その度ロケットが大型化した。研究員にすればこれは成長であろうが、周辺住民にとっては不安の膨張であった。そんな最中の37年5月、88機目の打ち上げ直後、ロケットが爆発炎上し、破片が飛び散り実験場が火の海と化した。近隣の住民に害がなかったのは不幸中の幸いであったが、周辺住民を不安に陥れてしまった。これを機に実験場移転の声が高くなり、取りあえず能代市(秋田)へ移り、翌年完成した鹿児島県内之浦へ移転した。
 当時はロケットに人が乗れるなどとは想像すらできなかった時代ではあったが、自分がロケットの運転席に座る姿を想像しながら成長したのである。
 老人になっても、そんな夢が心の底にくすぶっているのか、『せめて実物のロケットが飛び立つ雄姿だけでも一目見たいものだ…』と、かつてのロケット少年たちが、孫の車に乗って発射場近くに駆けつけた。発射予定が午前から午後4時に延期されたが、不平も漏らさずジーッと待つことができるのだろう。エンジンの振動がかすかに伝わると、もう息が止まりそうになるほど興奮し、自分も機内の人になりきっていた。噴射した機体がやがて視界から消えるが、それでも誰ひとりとして腰を上げず見守り続けていた。
 大気圏と宇宙空間の境となる高度100キロを目指したのだが、機器が損傷したらしくロケットからの送信が途絶え、これ以上飛ばすのは危険と決断してエンジンを停止させた。「狙った軌道にほぼロケットをコントロールできていた。今回は失敗でも長い目で見ればすごく大きな一歩だった…。近く再挑戦したい」と会社創業者の堀江貴文氏は語った。
 今年の6月30日、再び打ち上げに挑戦し残念な結果となったが、糸川教授も秋田で88機を発射し、5回の失敗があったようだ。堀江氏の3度目の正直に期待したい。

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