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寄稿

2018年9月1日号 「ロケット」 鶴岡市本町一丁目 花筏 健

昨年初夏も、酷暑が続きうんざりしていた頃「日本初の民間宇宙ロケットを発射」というニュースに体がシャキッとなった。胸をときめかせながら待っていたら、濃霧のためとか、機器の不調などで発射が2度も延期されて、7月30日に発射と発表された。日本の宇宙ロケットはこれまで「種子島の宇宙センター」がお定まりであっただけに、民間会社が北海道から発射させるのには少なからず興奮させられた。
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 宇宙へのロケットは、できるだけ赤道近くから発射するのが燃料費の節約になる…と何かで読んだことがあるが、何故北海道なのだろう…それは日本のロケットが東北から始まったからではないか。
 昭和30年8月6日は、秋田県由利郡岩城町(現由利本荘市)でロケットの研究を重ねていた東大の糸川英夫教授を中心とするグループが、日本で初のロケット打ち上げに成功した日である。当地からお送りいただいた資料によれば「ロケットは全長が23㌢、直径1・8㌢のマジックペンのような形に尾翼を付けたもので、水平に3分間飛んだ…」とある。
 この実験地が何故秋田なのか、当時『国際地球観測年』で、日本での観測範囲が秋田周辺に指定されていたからであった。このロケットは「ペンシルロケット」と呼ばれ、中学生だった私にも親しみが持てるものであったが、この実験成功が、今後の生活にどのような影響を及ぼすのだろう…などと興味半分で話し合った覚えがある。新聞やラジオを懸命に探ったり、先生に質問したりしたのだが、納得できる答えに出会うことはなかった。
 糸川教授は明治45年に東京で生まれ、昭和10年東大を卒業して中島飛行機へ入社。16年東大へ移りロケットの研究に入るが、戦後は「ポツダム宣言」により、日本は航空機の製造、研究が禁止される。糸川は足をもぎ取られたカニ状態となり、仕方なくチェロ演奏やヴァイオリン製造に情熱を注いだとか。28年シカゴ大の客員教授に招かれ、そこでロケット開発との運命的な出会いがあった。帰国後も研究を進めていたところへ地球観測年の仕事が入る。早速その拠点を探すが、戦後の日本は食料不足からの脱出に向けて、耕地拡大を国策に掲げて、開発整備が進められていた。そんな中で研究所の用地を探すのは一苦労であった。火薬を使うことから人家や工場から離れているのが条件だし、田を埋め立てるなどはもってのほか、峠を越えた山奥ではトンネルが必要となるし、橋を架けねばならないので論外である。当時コンクリートの防波堤はまだ少なく、白砂青松の地が多かったが、港の近くは避けねばならないし、鉄道が通っていてはだめだ。これらの条件をクリアしてやっと由利本荘市の海岸に定まったのである。最初の打ち上げ日には近隣から1000人余の人が詰めかけ、アイスキャンデー屋も数人来た…と記事にある。「シュッ」の音を残し海へ向かって飛んだロケットは23秒後に海水へ入った。一瞬の出来事ではあったが関係者も観衆も大満足した。その後何度も打ち上げ実験が行われたが、その度ロケットが大型化した。研究員にすればこれは成長であろうが、周辺住民にとっては不安の膨張であった。そんな最中の37年5月、88機目の打ち上げ直後、ロケットが爆発炎上し、破片が飛び散り実験場が火の海と化した。近隣の住民に害がなかったのは不幸中の幸いであったが、周辺住民を不安に陥れてしまった。これを機に実験場移転の声が高くなり、取りあえず能代市(秋田)へ移り、翌年完成した鹿児島県内之浦へ移転した。
 当時はロケットに人が乗れるなどとは想像すらできなかった時代ではあったが、自分がロケットの運転席に座る姿を想像しながら成長したのである。
 老人になっても、そんな夢が心の底にくすぶっているのか、『せめて実物のロケットが飛び立つ雄姿だけでも一目見たいものだ…』と、かつてのロケット少年たちが、孫の車に乗って発射場近くに駆けつけた。発射予定が午前から午後4時に延期されたが、不平も漏らさずジーッと待つことができるのだろう。エンジンの振動がかすかに伝わると、もう息が止まりそうになるほど興奮し、自分も機内の人になりきっていた。噴射した機体がやがて視界から消えるが、それでも誰ひとりとして腰を上げず見守り続けていた。
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 大気圏と宇宙空間の境となる高度100㌔を目指したのだが、機器が損傷したらしくロケットからの送信が途絶え、これ以上飛ばすのは危険と決断してエンジンを停止させた。「狙った軌道にほぼロケットをコントロールできていた。今回は失敗でも長い目で見ればすごく大きな一歩だった…。近く再挑戦したい」と会社創業者の堀江貴文氏は語った。
 今年の6月30日、再び打ち上げに挑戦し残念な結果となったが、糸川教授も秋田で88機を発射し、5回の失敗があったようだ。堀江氏の3度目の正直に期待したい。

2018年8月15日号 「消夏にどうぞ」 鶴岡市大塚町 佐藤喜一郎

旧温海町山五十川老人クラブの語りと採録による『山戸昔語り集』の第二集に、「ひとりではえたものは食べるな」が収録されている。「蒔かぬ種は生えぬ」のたとえを知らなくもないが、人が植えたものを食え、働いて自分で植えよ、との話であった。当誌のエッセイに「種」の話があり、リレーめくが、驥尾(きび)に付こうと思い立った次第である。
 昔語りの骨子は、裏山にわるさをした白猫を埋めたところ、誰も植えていないのに、毒カボチャがなったというものなのだが、聖トマス・カンティループなる聖人がイタリアで客死したという中世の話をも連想させてくれた。
 大釜で煮て骨を取り出し、内臓はその地の寺に納めて、骨だけ故国イギリスへ送ったのだが、湯を捨てた場所で奇跡が頻発したという。猫のたたりとは趣が異なるものの、気になる。
 ルイ九世の王女イザベルは、臨終の際は遺言に従い、着衣のまま切断・煮沸された上、急いで骨が取り出され安置された旨の話も残る。
 話が逸れて〝命の危険がある暑さ〟 の折も折、食欲が失せては何もならない。特別チャーター列車「きらきらうえつ」のツアー客に、だだちゃ豆などが振る舞われた旨の新聞記事を目にした。猛暑・酷暑のさなかに、縁起でもないが不慮の熱中症による〝客死〟 もなく、〝食の都庄内 〟〝食の宝庫〟 で元気をもらい、旅の醍醐味を満喫したことだろう。
 おもてなしを味わうといえば、北国の春が酣の頃、湯野浜温泉旅館での一夕、名物わっぱ煮(地魚の石焼味噌汁実演)の饗応に与った。時季として今頃だったら至福感は違ったものになっただろうかなどと贅沢ともとれる感慨すら浮かぶ昨今である。美味しかった。
 傍らに控えた板長が徐に熱した小石を大きな器に放り込むと、ジュッという音がし、芳香や野趣が醸し出される趣向は魅力的だった。
 魚汁を食する時、空の器にトギ(魚の骨)を吐き出せるのはいい。一度口の中にしたものの処置は、サクランボのタネとばしならともかく、人前ではためらってしまうのが人情だろう。
 寒ダラまつりには参加したことがない老生だが、眼ン玉や他の呑み込めないものは、その都度ウダラナイ(捨てない)で、器の底に沈めながらでも賞味できるものだろうか?という素朴な疑問を抱き続けて久しい。バケツにだって抵抗がありそうである。舌がヤゲパダ(火傷)するようなツヨ(汁)と骨の髄をスワズル(吸う)醍醐味は洒落でなしに捨てがたい。
 鶴岡で講演した際、図書館の方に栃餅を所望した五木寛之さんの食物エッセイに、サクランボにまつわるものもある。風呂の中で食べるのがうまいらしく、〈サクランボの種子をプッと飛ばすのは、学生の頃読んだプーシキンの小説に出てくる主人公の真似〉で、いつも〝種子は洗面器の中へプッと吹いて飛ばす〟 のだとか。スイカの好き嫌いはどうなのだろう。未見のエッセイがあるなら読んでみたい。
 新聞のコラム欄で「サクランボの種受け」と題する一文を読んだ。初耳のことばかりで興味深かった。和紙で作られた円錐状の筒がサクランボの種受けで、白い和紙をくるくる巻いたものを「プー」と呼ぶことも知った。サクランボの軸は中ほどで切ること、或いは切って出されては食べにくいこと等々の反響をも併せて読んだ。「色艶も茎ありてこそさくらんぼ」の句を引いた方もあった。
 若年の頃山形市七日町のグリル・レストランの厨房で、シェフが泥つきのホウレンソウの束を湯鍋に放り込んでから水洗いしていた。サドケ(潔癖)ならずとも寒気立った。
 国道112号月山道路に架かっている牡丹餅沢橋という名を評して暑苦しいと言った方があった。〝夏をツマミに〟といった卓抜なビールの広告は真逆で、一理ありそうである。
 最後に震撼させられる事柄を二つほど。NHKBSで、兎を毛付きで丸ごと鍋で煮るシーンを観た。はたまた元新聞記者(門田勲)の著作『古い手帖』には、悪食(猿の脳味噌を食べる)や熊のてのひらが原形のままではがした黒い皮ともども皿にのって出てくる話があった。拙稿を読んで消夏になっただろうか。鱈を丸ごとぶつ切りにして、ドンガラやアブラワダを大鍋で煮て食べる食習慣のある庄内人には何ということもない話柄だったろうか……。

2018年7月1日号 「卯の花」 鶴岡市本町一丁目 花筏 健

「卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて…夏は来ぬ」の歌が、何処からともなく流れ来るころである。この歌は明治29年に佐々木信綱の作詞とか。今聞いても違和感がなく、ついつい口ずさんでしまう良い歌である。しかし歌詞の中には奥深い言葉がちりばめられていて、果たして小学生にこの歌詞が理解されていたのだろうか…と思うことがある。
 『ふるさと』の「ウサギおいしかの山…」の歌詞を、私のように「ウサギの肉は美味し…」と理解したまま大人になったりはしなかったのだろうか。その反面「時鳥」が「ホトトギス」と読むことを覚えたのはこの歌のお陰であったと思われるから、時には冒険が必要なのであろう。これが学校唱歌に指定された頃の子供たちは、ちゃんと理解したのかとやや心配になるが、こんな高度な歌詞になったのは教育者たちの欲目ではないのだろうか。しかしこれをそらんじたとしても、その後の生活や会話にこの言葉が登場しなければ、いつしか記憶から消え去ってしまうものである。  卯の花は「ウツギの花のこと、この木は幹が空洞なことから空木と書いた…」と植物図鑑は説明している。ウツギは、普段振り返られることもない地味な小木だが、小学校の運動会頃になると小さい白い花を開き特長のある香りを放って人々を振り返らせる。その香りは春先のジンチョウゲや秋のキンモクセイなどのように『芳香』と表現される万人好みの香りではなく、自己主張が強過ぎて好む人と嫌う人に分かれそうだ。私は嫌いではなく、来年も開花を待ちたいから剪定をする。今年も枝を切っていてふと切断面を注目すると、この木には空洞がないのに気が付いた。長い間ウツギだと思い込んでいただけに驚き、一体この木は何と言う名前だろう。ウツギの中にはこんな空洞のない種類もあるのか…、と植物図鑑を開いた。どうやらウツギではないようだが、正体は不明のままである。頭の片隅にこのような疑問を残して歩いていると、普段は見過ごす物でも目の中に入って来ることがある。泉町で幹の直径が20㌢もある太いウツギに出会った。ウツギは垣根などにされる細い幹の木を多く見かけるが、こんな立派な木はとても珍しい。思わず足を止め、咲いている花に鼻をくっつけ「もしや香るウツギではないか…」。しかし空振りであった。
 この木は簡単に折れる軟らかい木…と思っていたら、実はつい最近まで家具屋はこの木を削り、木製釘にして用いていたとか、それほど硬いのである。硬すぎるが故に折れやすい、それを防ぐためにこの木は空洞を造るように進化したのだろう。
 幹に空洞がなく、香る花を咲かす我が家の木はいったい何物だろう。こうなったら「歩く植物図鑑」こと水野重昭さんに教わるしかない…と決心し、花のついた小枝を携えてお伺いした。一目見るなり「これはイボタノキ、モクセイの仲間です」と即答した。さらに歌詞の「匂う」には、香りが漂うことの外にも「色が際立つ」とか「他の色が染まる」、「光沢がある」、「花がつやつやと咲く」などの意味もあり、この場合はツヤツヤと咲く意味に用いたものかと思われる…と付け加えた。
 音楽教師はこの時、メロディーだけではなく、きっと歌詞の解説にも時間を割いたのであろう。
 その昔、宮中の女官たちは、豆腐のことを「おかべ」と言い「ウノハナ」は鮎のことであったとか。またテキヤの世界では雪が降ることを「卯の花」と言ったそうだが、卯の花とは豆腐のオカラと理解しているのが9割の人々であろう。それほど庶民生活に密着した食材であったのだが、最近は産業廃棄物に分類されているらしい。
 窓辺からイボタノキの匂いが入って来ると、決まって私は旧友の一人を連想してしまう。高校時代から気が合い親しく交際したのだが、13年前に急逝した。気のいいお人好しな面と、一徹な職人気質を併せ持った腕のいい「豆腐職人」であった。特に厚揚げには定評があり、遠方からでも買いに来る人が多くいた。そんなことからこの花を「卯の花」と思い込んでいた昨年までは、この花の香りが漂うと決まって豆腐のオカラを連想し、そして彼の命日を思い出した。その花が「卯の花」ではないと分かったのだが、これまでの思いに変わりはないだろう。
 その日は味を受け継いだ息子の作った「なんぜんじ」と厚揚げをかみしめながら、長い間の親交に感謝しよう。

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