サンプルホーム

寄稿 2020年

掲載インデックス

「長泉寺」

2020年12月15日号 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

「コロナに勝つ精神力を元気快復のための処方箋発刊」

2020年12月15日号 荘内教会 牧師 矢澤俊彦

「秋場所」

2020年10月15日号 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

「鶴岡公園」

2020年9月1日号 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

「Sonhos de Amazonia〜ともに生きる森 アマゾン先生から学んだこと」

2020年6月1日号 致道博物館 学芸員 菅原 義勝さん

「建て替え」

2020年1月1日号 作家 佐藤賢一さん


寄稿バックナンバー
・2023年寄稿 ・2022年寄稿 ・2021年寄稿 ・2019年寄稿 ・2018年寄稿

2020年12月15日号 「長泉寺」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

  江戸時代の鶴岡地図を見ると、泉町内川端の小公園あたりに「元長泉寺前」と書かれている。現在の長泉寺は錦町にあり「カラス明神」の通称で親しまれる寺である。この寺は庄内の領主武藤家の祈願所として建てられた…と『山形県寺院大総覧』にある。その以前は藤島の蛸井興屋にあったが戦乱続きで荒廃し、それを最上義光が現泉町に再興し、自分の弟を住職に据えた…との話が残るほど領主から手厚い扱いを受けたようだ。ところが江戸初期の1673年に寺は全焼した。当時火元は厳罰とされ、たとえ名刹といえども例外とはされず、町の北はずれへ移転となった。今は駅近くの便利な地だが、当時は北の果て…であった。その代償なのかこれまで2500坪しかなかった境内が、4000坪(63間 ×63間=約115㍍×115㍍)になった。
 それがどれほどの広さなのかと、国道から鉄道へ向かって歩測してみると、用水路を越えて次の十字路までの一画のようだ。現在は境内の南側に水路が走るが、以前は国道の場所が水路であったようだ。国道と現水路の間に住宅が並んでいるが、ここも以前は境内であった。国道沿いにある山門に立って市街地を振り返ると、鶴文堂へ向かう直線道路が走っている。まるでこの寺への参詣道…としか見えない。
 「移転は命じたものの、やや厳しすぎたかも…と不憫に思った殿様が『せめて道路を通してやれ…』と命じたのでは…」などと憶測したくなる。そんな逸話が残っていないだろうか…と付近を聞き回っていたら、ここはそれ以前から浜中街道と称する道路…とのこと。  
 その西隣にある蓮乗寺もかつては大工町(陽光町)にあったのだが、やはり出火から移転を命じられた…と聞く。長泉寺が何時までも野中の一宇では可哀想…と、蓮乗寺の移転を手配したのだろうか…。
 長泉寺の火災から39年後に三日町川端(現小林歯科のあたり)にあった町奉行所から発火し焼失した。奉行所は現在の警察署であるから市民生活には不可欠の役所である。その近くにまとまった公の用地は長泉寺跡しかなかったので、明治までここを奉行所とした。境内跡の用地は内川に面し31間(約56㍍)=現紅屋〜神社跡=、奥行きは現小野寺クリーニング裏までの55間(約100㍍)と記録されている。歩測してみると間口があまりにも違うのでよく調べてみると、旧境内と馬場町との間には幅7間の外堀と幅5間の土居があったようだ。現「浜っ娘」はその堀と土居の跡に建っていることになる。
 この辺を「馬市場」と呼ぶ人が現存するが、馬市が立ったのだろうか。鶴岡に馬の飼育が広まったのは明治以降で、「乾田馬耕」という馬に鋤を引かせて土を掘り返す農法が普及してからである。藩政期も藩の馬が飼育されていたが、乗るのは限られた人だけであったから、それほど多くを必要とはしなかった。ところが馬耕が広まると、馬を買い求める人が増えたため馬市が立つようになった。当初その場所は大宝寺と赤川の間や、檜物町(現三光町)などでの不定期開催がしばし続いたが、やがて泉町の奉行所跡地へ落ち着いた。これまでの「町奉行所」が「警察署」に変わり新築されたために、ここが空地になったのだろう。馬市が定着すると馬場町の馬小屋近くに鎮座していた「馬頭観音」をここへ移転して祀ると、馬の中心地として認知されるようになった。馬市が開かれていた期間は終戦後の耕運機が普及するまでなのか、トラクター時代までなのかはっきりしないが、昭和晩期までこの何度か曲がりながらコンマ製作所の前に出る細道を通ると、仄かに馬の香りを感じたのは、農家生まれの私だけだろうか。

2020年12月15日号 「コロナに勝つ精神力を元気快復のための処方箋発刊」
 荘内教会 牧師 矢澤俊彦

 予想もできなかった新型コロナウイルスの発生と感染拡大。その勢いは収まらず、元気をくじかれ、閉じこもり、何とか耐えている私たち。
 クリスマスが近づく中、私自身が周囲の皆さんを慰め、力づける道はないものかと日々考えた結果、小冊子を作ることとし、このたび発刊しました。題名は『汝を宇宙の主につなげ‐虚無から充実へ』といいます。B6判160ページのハンディーなもので、ちょうど100のメッセージが入っています。
 キリスト教の牧師である私が書いたものですが、内容はキリスト教の宣伝ではなく、「皆さんが、今直面しているさまざまな課題に取り組むヒントを記すことで、立ち上がる元気を取り戻してもらえれば」との思いを込め、分かりやすくまとめてみました。
 メッセージのタイトルを少し紹介しましょう。
 ・アメージング・グレイスの歌詞について
 ・憎しみも悪も愛の請求書です
 ・自己肯定感を失った近代人
 ・大人一人ひとりにも保護者あり
 ・自己から外に出よ
 ・「こっち見て」の卒業を
 ・心の地下室にネズミが
 この小冊子を市民のどなたにも無料で差し上げます。発行元の荘内教会までご連絡くだされば郵送します。申し込み、問い合わせはTEL・FAX0235‐22‐8196へ。

2020年10月15日号 「秋場所」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

  コロナ禍で秋場所開催が危ぶまれたが、無事開幕され相撲ファンを安堵させた。しかし看板である両横綱の休場が伝えられ、内容の薄い場所になるのでは…と案ずる人も少なくなかった。横綱不在の場合その穴埋めをするのが大関の役目である。今場所その大役を担ったのが、新大関の朝乃山である。横綱の穴埋めとはすなわち、優勝することに等しいしい。そんな重圧のせいか初日にまさかの黒星を喫すると2日目、3日目も連敗し、大関の地位の重さに抑え付けられ、新大関も休場か…?と心配させたが、3連敗後は立ち直り看板力士としての責任を果たしたのはさすがであった。そんな不安の中で気をはいたのが元大関の照ノ富士であった、一時は優勝候補のトップに立ったが14日目に突然休場した。これが十両以上で13人目の休場者となり、史上2番目に休場者の多い場所となってしまった。
 優勝したのは関脇の正代(しょうだい)で、現在のような優勝制度が制定されて以来、熊本県出身では初の優勝力士となった。正代は熊本農高から東京農大へ進み、2年生の時に学生横綱となった実力者であるが、その後怪我でもしたのか相撲界でのデビューは前相撲からであった。当然段違いの強さで昇進し、17場所(約3年)で関脇となった。
 正代は本人の苗字であるが、祖母は正代(まさよ)さんという名前で、先年NHKの「お名前」の番組でも紹介された。新大関のニュースに両親も何度か登場していたが、まさよさんが映らなかったのは口惜しい。
 序二段優勝者の北青鵬は白鵬、炎鵬と同部屋で、北海道出身と報じられているが、生まれはモンゴルで5歳の時に北海道へ移住した。先場所も序の口で優勝し、インタビュー中で「一年以内に十両へ入りたい…」と述べていたのが記憶に深く残っていた。身長2メートルと恵まれた長身ではあるが、この発言は相撲界の現実をよく理解していないためで、勧誘された時の甘言をそのまま鵜呑みにしているのでは…とも取れた。しかし今場所も優勝し連続でインタビューに出たのを見て「これはただ者ではないぞ…」と直感した。
朝青竜の頃なら、『モンゴルイコール末来の幕内』という見方も成立したが、今日ではそれが成立しづらくなっている。しかし身長2m、体重164kで鳥取城北高校出身となれば、この発言も単なる大言ではないかもしれない。
 今場所は十両の北はり磨(はりの字は石偏に番の字)の成績にも注目した。昭和61年生まれ、兵庫県竜野市出身の山響部屋で十両と幕下を8回も往復している古参力士である。今回34歳で3年ぶりの十両復帰を知らされた時は、傍目もはばからず号泣してしまった…と伝え聞く。年齢が34歳となったこともあり、もう無理かも…と半ば諦めかけていたが「もう一度だけ…」と残された力のすべてを注ぐ決意を固めて精進した結果であった。
 彼にこんな根性を植え付けたのは、あの強すぎて嫌われた横綱北の湖の指導であろう。平成14年に入門し、この師匠の指導を受けている間に培われた根性である。発奮させるためには硬軟のバランスが大切で、甘い餌をばら撒き時には鉄拳の制裁も見舞う。これは本人が「その気」になるまで繰り返され、言い換れば弟子と師匠の根くらべでもあるから誠に根気の要る仕事である。しかし見方によっては師匠から一方的に与えられた稽古とも取れるが、やがてライバルと意識する相手が身近に出現するまでの時間待ちでもある。その変化を師匠は目ざとく発見し油を注ぐ。
彼には絶好のライバルがいた、同期入門の鳰の湖(におのうみ)である。現在は幕下だが幕内の経験がある。自分の十両昇進7回と比べても『幕内』には勝てない。「俺も一度でいいから入幕を…」の望みが頭から離れることはなかった。そんな最中に育ててくれた恩師が平成27年11月に急逝した。夢を追いかけ続けたが歳月は流れ、体力が弱りかけて来ると「もう十両復帰は無理か…」と自認しかける時が多くなってきた。
 先場所後の番付会議後、十両復帰を知らされると、人目もはばからず声を出して嗚咽してしまった。すぐに涙を拭き北の湖親方の遺影に8回目の十両昇進を報告した。
 サッカーやバスケのチームでは、成績次第で選手、監督が入れ替えとなり、まるで別のチームとなってしまることは珍しくないからこのような人間関係は育たないのでは…と思うことがある。

2020年9月1日号 「鶴岡公園」
 鶴岡市上畑町  花筏 健さん

 『荘内病院が現在地へ移転したのは何年だったかなぁ…』。このような疑問が時を選ばず出没するのだが、ほとんどはその場限りとなる。だが今回は妙に気になり、病院の入り口に「定礎」があったのを思い出し見に行った。「平成15年3月竣工」を確認すると、隣のマンションとどちらが先だっけ…と足を延ばしたが定礎は見当たらず「サンデュエル鶴岡公園」の名称だけしかない。サンデュエルとはどのような意味なのだろう…そこに居た親切そうな人にお尋ねすると「造語らしい…」と教えてくれた。サッカーの「モンテディオ」のようなものか…。それにしても上畑町にあって『鶴岡公園』とは「日々公園を見下ろす生活…」の意味なのだろうか。古い人間には、公園との間には泉町、馬場町と位置する地なのに、まるで「わが庭」のような表現をしている…。  ある日、図書館で古い『荘内日報』を調べていたら「昭和26年2月、泉町から般若寺脇を通りぬけて駅へ行く道路が完成…。その名称を公募した結果『公園新道』と決まった…」とある。
 これまで泉町から駅へ行くには、冨樫接骨院前の十字路を直進して高町(山王町の西裏)―般若寺前―日和町(日吉町)―駅と迂回していたのだが、般若寺までの道は幅が狭く、リヤカーの擦れ違いがやっと…程度であった。そのころ現荘内病院の所にあったコンマ製作所が、急成長して生産量が増え、駅との往復回数が急増した。そのため泉町十字路から駅前の「副道路」へ通じる道路が不可欠となっていた。「副道路」はすでに鶴文堂前を過ぎ現在の渡部酒店まで延びて、現郵便本局から龍覚寺へ行く細道とT字路になり、これを通称「新山東小路」と呼んでいた…が、この呼称を知る人はごく少数となった。  この年新設されたのは、この渡部酒店から泉町交差点までの400㍍余である。このように戦後まもなくの市民が、泉町の道路に『公園新道』と名付けている。それなのに令和の人間が『上畑町で鶴岡公園とは…?』などと申すのは狭量と笑われそうだ。
 この道路ができたことで、交差点から山王プラザの脇を通り、旧高町の真島医院脇から般若寺山門前に至る交通量は激減した。しかし直線ではない細道、それに沿った生垣、建物と建物の空間、茅葺屋根等々に趣があり、細い路地からマゲ姿の人が出てきそうな雰囲気が漂う。
 さて、もう一度泉町の5差路へ話を戻そう。接骨院の向かいに「家庭教」があり、その西側(病院からの車輛出口)の石垣の上に、「庚申塔」が建っているのに気が付く人は少ないだろう。庚申塔は村落の出入り口でよく見かける石塔である。集落に悪病が入らぬよう…とのお願いで、江戸から明治にかけて広まった民間信仰であるとか。鶴岡市でも多く見られ、形や文字の彫り方など興味深いものが多い。また庚申塔と並んで神仏の塔があったり、その地出身の力士碑などが建てられていることもある。これは「この村には◯◯と言う強い力士がいるから、入って来ても無駄だぞ…」と言う意味が込められていたそうだ。そんなことから県内各地の力士碑を求めて廻った時期がある。
 ここの庚申塔は安政4年(明治になる10年前)の建立で、小倉善吉、菅原久治、菅原五右ヱ門、平田重吉、佐藤伊右衛門、工藤兵次郎、加賀山五良兵ヱと七人の名が刻まれている。この周辺に住んでいた人々なのか、それとも同じ考えの同士なのか。いずれにしても生活費に困る人たちではないだろうと推測する。
 弘化3年(1846・明治になる22年前)佐賀で疱瘡が発病し、あっという間に全国へ広がった。国民は予防法も手当の術も分からないまま右往左往するばかりだった。こんな時に幅を利かせるのが宗教である。「これはホウソウ神のなせる術だから、この神が嫌いな赤い物を家の中に飾れ…」との流言に、なけなしの金をはたいて天狗やダルマ、赤ベコなどの張り子人形を買ったり、赤飯を供えたりとか赤い物づくしで身辺を守ろうとした。それでも発病者が増えるので、村人が神社に集まっての厄払いや祈祷、神楽舞などを行い、その上石地蔵の建立などが行われた。安丹神楽もこの時に始まったとか。この時の信仰の根深さを知る一つに、終戦後もしばらくまで、疱瘡が完治すると米俵のふた(サンダワラ)に赤飯を載せ、笹やカヤで作った赤い梵天を立てて川端に供えていた風景を思い出す。それほど赤色が疱瘡に効果があると民衆は信じ切っていた。
 幕府の医療体制は漢方医術を中心とした組織であったが、西洋医学でワクチンが開発され、画期的な治療が始まった。日本も『漢方一辺倒』ではなく、蘭医の意見も取り入れてとうとう安政4年、神田岩本町に「種痘所」が設立された。だが、それまでの間に全国で100万人余の死者を数えてしまった。  庚申塔の7名はどのような意図でこの碑を建立したのかは分からぬままだが、漢方重視の医療界に一矢報いようと動いた『ホウソウ仮面』たちではないか…。この人々のご子孫や縁者など、ご存じの方からお話を伺いたいものだ。さらに彼らの建立した石塔の効果かどうか、明治36年この地に伝染病の病院である「避病院」が建立されたのも何らかの関わりがあるのでは…などと推測を重ねたくなる。

2020年6月1日号 「Sonhos de Amazonia〜ともに生きる森 アマゾン先生から学んだこと」
 致道博物館 学芸員 菅原 義勝さん

 ふつう、地球の裏側のジャングル地帯に思いを馳せることなどあるだろうか。ここ鶴岡には、南米大陸のアマゾンへと続く扉がある。どの市町村を見渡しても〝ふつう〟なことではない。その〝ふつう〟ではない鶴岡にある扉は、これもまた〝ふつう〟ではなかっただろう少年が夢を追い続けることで開かれた。
 現在、致道博物館で開催しているアマゾン展では、動物の剥製や昆虫の標本、アマゾン先住民が実際に使用していた民族資料を紹介している。これらは、文化人類学研究者の山口吉彦氏が現地の人々と交流して収集した貴重なコレクションである。
 今回の企画は、山口先生はもちろん、長男で一般社団法人アマゾン資料館代表理事の考彦(なすひこ)氏と何度も協議を重ねた。テーマは、アマゾンに根付く「共生」の理念を、民族資料と自然資料を組み合わせることで表現するというもの。そしてもう一つ、先生が話し合いの当初から一貫して求めていたことは、「子供たちが喜ぶ展示をしたい」ということだった。今回、子供が喜ぶ自然資料をたくさん展示したのも先生が望んだことである。
 実のところ、はじめは動物の剥製や昆虫の標本の展示数をもっと少なく見積もっていた。資料の保管場所で考彦氏とともに展示資料を選定していると、いつの間にかリストにない鳥や魚が混じっている。しかも結構な数である。不思議に思って見渡すと、そっと現場を立ち去る先生の後ろ姿があるわけだ。  残念ながら、このコロナ禍で、本展は開幕3日にして休止状態となった。しかし、地元企業の多大な支援もあり、当館ホームページ上で特設ウェブ展示を公開できたのは不幸中の幸いであった。現在は博物館も再開しており、展覧会は6月8日まで続くので是非ご覧いただきたい。
 義務教育を受けていた頃の私は「鶴岡に何故アマゾン?」と思っていた。おそらく今でもそのように感じている方は多いだろう。言ってしまえば、「鶴岡出身の山口吉彦先生がアマゾンで収集した資料を地元で保存公開しているから」、ということになる。だが、2万点に及ぶアマゾン資料がもつ重みは、そんな一言で片付けられるものではない。
 日本は近代国家として国力を高め、国際社会のなかで経済的にも発展を遂げた。戦後75年の間に私たちの生活レベルは飛躍的に上がっている。 しかし、今私たちは目に見えない脅威に直面している。それは生死に関わる医学的な脅威とは限らない。自営業者は数カ月分の損失に頭を抱え、子供は友達と遊ぶ楽しい時間を奪われている。目に見えないだけに不安が募り、誰かの責任にすべく悶々としている。中国の初動が悪かった、日本の対応が悪かった。県が、市がどうのこうの…。空しく木霊するだけだ。
 近年、アマゾン川流域では乱開発が進み、大規模な自然破壊が続いている。その影響は地球温暖化や気候変動問題など、全世界に及んでいる。今回のコロナ禍のようなことは、今後も地球規模で起こり得るだろう。だからこそ、人が人を尊重し、良好な関係を目指すように、生物と自然が「ともに生きる」という大きな視点は今後さらに大切なものとなるだろう。
 山口先生は今回撮影した動画のなかで、次のように語っている。「アマゾン先住民は森や川が未来からの借り物であることを知っており、必要な分だけを手に入れ、足が不自由で狩りが出来ないような人たちにも平等に分配する。彼らのような意識を先進国の人たちももてば、地球はずっと先まで素晴らしい」。
 〝ふつう〟が当たり前ではなくなった今、開かれた扉を閉じてはならない。

2020年1月1日号 「建て替え」
 作家  佐藤賢一さん

 鶴岡の新文化会館、ほどなく「荘銀タクト」と名づけられた施設は物議を醸した。文化遺産とされる外観デザインだが、巨額の税金を投じてまで必要だったのかと、問題視されたのだ。とにもかくにも完成し、供用が始まって、私も行ってみたが、その内部も使いにくく感じられた。ステージに立つ演者は知らず、観客席に座る立場でいえば、特に二階席は配置が奇抜すぎて、世辞にも鑑賞しやすいとはいえなかったのだ。通路や階段も狭く、またわかりにくい。緊急時にうまく避難できるだろうかと、俄に心配になったほどだ。続けるほど、褒めるところもないような新文化会館だが、ひとつだけ評価したいことがある。良くも悪くも周囲の景観を一変させて、きっかけに建築ラッシュを招いた点だ。
 鶴岡商工会議所の移築は、新文化会館とセットの事業だった。市役所は駐車場の一部を整備したが、これも合わせて意図したものかもしれない。が、それだけではない。これは皆で打ち合わせたわけではなかろうが、付近に集まる銀行や信用金庫の本店ビル、中央支店ビルも、次から次と新しくなった。あてられたか、他の民間企業や店舗、個人の家屋も、けっこう後に続いている。そんなこんなで、もはや界隈まるごと清新に生まれ変わった印象なのだ。何十年と変わらず、どんより停滞している感が否めなかった鶴岡の中心市街地が、ほんの数年で別物だ。もっと発展していくぞと、今や期待感さえ抱かせる風だ。
 ここで特筆したいのは、中心市街地の話だけに、これら建設ラッシュが建て替えで進められた点である。郊外型の大型施設のように、何もなかったところに、どんと新設されるスタイルではない。そこにあった建物、もう老朽化して、みすぼらしくなった建物を取り壊し、その土地に再び建てるというスタイルだが、これだけの規模で行われた例となると、近隣の自治体を見回しても、あまり見当たらないのではないか。
 この建て替えこそポイントだ、と私は考えている。全て郊外に持っていかれるわけではないので、街がさびれないからだ。それは新陳代謝を進めて、地域が蘇ることなのだ。さらに嬉しく思うのは、鶴岡では同じような建て替えが、住宅地でも起きていることだ。新築といえば、これも宅地開発された郊外の新興住宅地と決まる感があったが、数年は昔ながらの住宅地で古い家屋を解体、そこに新築するケースが増えたような気がするのだ。
 消費税増税前の駆け込み需要があったのか、ことに去年は方々で目についた。あるいは近年問題視されている空き家が、積極的に売られたのかもしれない。なるほど、親から相続した大切な財産だろうと、誰も住まない家を持ち続けても仕方がない。不動産といえば一生物の感覚があるが、それも改め、どんどん売りに出すべきだとさえ私は思う。もはや少子高齢化社会だからだ。ほとんどの一軒家はファミリー向けで、子供たちが独立した後は広すぎることになる。残された夫婦二人は、それでも二十年、せいぜい三十年のことだからと、同じ家に住み続けた。が、それが今では四十年、五十年に延びかねないのだ。
 そんなに長くなるならば、さっさと住み替えるのが利口である。広すぎて不便な家は、あまり欲張らずに売り払い、その金で買える程度の小さな住まいを求め直す。空いた一軒家を中古で安く買うなり、更地にしてから建て直すなりができれば、これから子育てという若い夫婦のほうも助かる。この地域は暮らしやすいとなって、人口も増えていく。少なくとも減らなければ、旧町が空洞化する事態は避けられる。建て替えは住宅地でもポイントなのであり、そういう住宅循環のモデルを鶴岡で確立できれば、これまた他所に類をみないリーディングケースになると思うのだが、どうだろうか。