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人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

掲載インデックス 2021年

第129回 禅中橋と禅中(中) 2021年4月1日号

第128回 禅中橋と禅中(上) 2021年2月1日号

第127回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(五) 2020年12月1日号

第126回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(四) 2020年10月1日号

第125回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(三) 2020年8月1日号

第124回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(二) 2020年6月1日号

第123回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(一) 2020年4月1日号

第122回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(下) 2020年2月1日号

第121回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(中) 2019年12月1日号

第120回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(上) 2019年10月1日号

第119回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(下の二) 2019年8月15日号

第118回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(下の一) 2019年6月1日号

第117回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(中) 2019年4月1日号

第116回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(上) 2019年1月1日号

第115回 平士から家老となった石原倉右衛門(四) 2018年12月1日号

第114回 平士から家老となった石原倉右衛門(三) 2018年10月1日号

第113回 平士から家老となった石原倉右衛門(二) 2018年8月15日号
■鶴岡の歴史 バックナンバー
・2021年 掲載
・2020年 掲載
・2019年 掲載
・2018年 掲載

2021年4月1日号

【第129回 禅中橋と禅中(中)】

  内川に禅中橋を架けた禅中の実家は荒町(山王町)の町人五十嵐茂兵衛家であった。  五十嵐家はもともと最上家に仕えていて、寛永年間(一六二四〜四四)に鶴ヶ岡に来て荒町に住まいしたという(清野鐵臣「無源禅仲和尚に就きて研究」)。
 禅中は出家以前は仲治といい、五十嵐家の七代目であった。同人は、文政四年(一八二一)九月に八十二歳で没したので、逆算すると元文五年(一七四〇)の生まれかと推定される。
 禅中(仲治)は二十代頃のことであろうか、妻帯して二男三女をもうけた。四男一女と記すものもある。いずれが正しいものか。
 五十嵐家の商売を屋号が八木屋と称した点からも『鶴岡市史』(上巻)などでは、米商であったとしている。八木は米のことである。
 元禄九年(一六九六)の「鶴岡城下大絵図」には、五十嵐家の名前は表通りには見出せないようである。ただ、虫喰いのためか名前の不明な家もあるので断定はできないが、江戸時代中頃以降に出た家であったとみるべきであろうか。  ところで、前出のように江戸時代の八木屋というと米商と思いがちであるが、斎藤治兵衛「禅中橋の由来」(鶴岡市郷土資料館)では瀬戸物屋とする。清野鐵臣も前出の小稿で「伝来の陶器商の外、銭屋を営み」と記していて、本業を陶器商(瀬戸物屋)とし、合わせて銭屋として米の商いも行ったとしている。  江戸時代の鶴ヶ岡では、何か一種類の品物を商うのではなく、複数の商品などを取り扱うのが一般的だったようである。  『鶴岡市史』(上巻)では、両替屋(銭屋)と記していて、銭屋は両替屋のことのように思えるが、おそらく両替屋を営む銭屋は少なかったのではなかろうか。なぜ銭屋と称したのかは不明であるが、銭屋は両替屋ではなかったとみるべきではなかろうか。
 鶴岡では、いつ頃からか目早(仲買)二十五人を許して、歩座(米相場所)で米(米札)の売買を行わせたが、延享二年(一七四五)になって、右の二十五人の仲買の外、銭屋二十五人にも米の仲買を許した。米取引の一層の発展をめざしたのである。
 米取引に関わった銭屋は本業が別にあるが、一層の利益の獲得を期待して米(米札)の売買にも従事したのであろう。  五十嵐家がいつの時代から米の売買に関わるようになったかは不明であるが、天明五年(一七八五)十二月の時点で歩座仲間は、仲買と銭売の別があったが、五十嵐仲治(禅中)は銭売の方に書き上げられていた(明和八年霜月『永代米商掟』株式会社鶴岡米穀取引所)。
 この場合の銭売とは銭屋のこととみられる。
 ともかく、十八世紀末の五十嵐家は七代目の仲治(禅中)の代であり、本業の瀬戸物屋の外に米の商いにも従事していたことが確認できる。
 寛政二年(一七九〇)には、五十嵐仲治は歩座年番を務めていた。年番と称するように、一年交代で二名ずつ務めるものであり、御米宿との連絡とか、メンバーの世話役のようなものであったとみられる。ある程度長期にわたって歩座に関わる家が務めたものではなかろうか。
 『鶴岡市史』(上巻)では、仲治が寛政四、五年頃に大きな損失を出してしまい、家業を長男茂兵衛に譲り、自身は八日町(陽光町)総穏寺の弟子となったが、すでに五十三歳の初老であったとする。
 右の損失については、禅中について一番詳しく論じている阿部幸二氏の「禅中橋と破鏡庵」(庄内歴史懇談会『歴懇論集』創刊号)では、天明の大飢饉に際し、「家業の存続を揺るがすほどの米を提供したこと」によると推定し、寛政四、五年頃までに出した大きな損失を飢民などを救済するための慈善行為により生じたものとみている。
 後年の事績をみれば、慈善活動に多額の米金を提供するということも大いにあり得たことであろう。
 しかし、五十嵐家が米(米札)の売買をしていたことにも留意したい。仲治は単に店で米の商いをしていたのではなく、歩座の取引を行ったが、歩座は投機的な要素が多分にあった。
 仲治は自ら進んでは米の投機を行わなかったかもしれないが、やむを得ず投機の場に巻き込まれたことも考えられる。  場合によっては、僧全栄など破鏡庵を中心とした慈善活動を資金援助すべく、自ら進んで米(米札)の投機に手を出し大損したということも考えられないわけではない。
 なお、齢五十三歳で出家となったとすると、元文五年(一七四〇)生まれとみれば、その年は寛政四年(一七九二)ということになろう。

2021年2月1日号

【第128回 禅中橋と禅中(上)】

 城下鶴ヶ岡を貫流する内川に、江戸時代初期までに最上・山形、庄内の両藩の手で五つの橋が架けられた。上流から七日町橋(神楽橋)、十日町橋(鶴園橋)、三日町橋(三雪橋)、五日町橋(千歳橋)、荒町橋(大泉橋)の五つである。
 ところが、寛文十二年(一六七二)に住民から、更に二つの橋を求める要望が出された。
 一つは筬(おさ)橋である。桧物町(三光町)で七日町橋の上手に橋を架けたいというのである。南郊小真木村(日枝など)の下方に、粗末なものでも構わないので、人が通行できる橋を架けてほしいとし、材木が下付されれば、自分たちで人足を出して架けたいと嘆願した。
 藩の重要な政務を処理する会所で、四月初めに鶴岡町奉行がその件を披露したが、家老たちは内川は城の要害としての役割があり、新しい橋を架すのは不可と許可しなかった。
 桧物町では、それでも諦めず、二度三度と嘆願したところ、七月になって許可となった(『鶴ヶ岡大庄屋川上記』上巻)。そのようにして筬橋ができたのであった。
 筬橋は江戸時代を通じて何度も架け直されたが、桧物町ではその費用を得るため、しばしば見世物を催した。
 同じ年の二月、内川下流に位置する鳥井河原(鳥居町)に七十軒ほどの御徒たちの屋敷割が行われた。通行の便のため鳥井河原の方から三日町末(昭和町)の方に橋を架けたいと嘆願したが、三月の会所で「御要害ノ障りニ相成候」と、筬橋の場合と同様の理由で許可されなかった。ただ、桧物町とは異なって、それきり架橋を断念したのであった。
 そのため、通行不便の状態がしばらく続いたが、元禄十六年(一七〇三)十月に至って、くり舟による渡しが許された。銭一文を払って舟で対岸に渡してもらうのである。
 その後、いつの頃からか「半橋繋船」というように、南岸から川の半ばまで板の橋を架け、北側には舟を繋いでいて、川の中程で橋から舟に移る形であった。舟の往き来の妨害にならないためであった。  しかし、冬などには老幼などの者はもちろん、壮年の者でも踏み外して水中に転落するなど、事故が多かった。
 そして、十九世紀の文政年間に至って、本格的な橋の架設が許された。ただ、その竣工年については文政三年(一八二〇)説と同十一年説の二つがある。
 まず『鶴岡市史(上巻)』では文政三年のこととする。禅中という奇特な僧が一文渡しの不便を救わんとの一念から托鉢を行い、資金を貯え、文政三年七月に藩に架橋を願い出て許可され、同年十月十日に竣工、渡り初めが行われた。そして、禅中の功労を讃え禅中橋と名付けられた。この『鶴岡市史(上巻)』の記述が現在通説となっている。
 それに対し、鳥居町住まいであった日向家が持っていた「禅中橋由来記」(鶴岡市郷土資料館日向家文書)では、一文渡しの危険性を問題視した、下級藩士とみられる彦坂勝蔵という者が橋を架すことを禅中に提案し、そこで禅中は破鏡庵に毎月参会する人々と諮って、橋を架すための方法を考え、藩に願って許され、文政十一年(一八二八)に竣工したとする。ここでは橋のことを提案したのは彦坂という人物ということになる。
 斎藤治兵衛「禅中橋」(「玄々堂叢書」壱、郷土資料館)では、おそらく「禅中橋由来記」などを読んでいたことでのことと思われるが「文政十一子年橋成りて禅中橋といふ」というように、やはり文政十一年竣工と記している。
 文政十一年竣工とすれば、禅中は文政四年九月十六日に死去しているので(『新編庄内人名辞典』)、同人は禅中橋の竣工を見ていないことになる。当然「禅中より奉願ること」はもちろん、藩の許可もされておらず、工事も始められていないことになろう。禅中の寄与は限定的となる。
 文政十一年の竣工とした場合、少々説明できない史料が二、三ある。
 一つだけ挙げれば、次のような預かり証文である。
  預申金子之事
一金拾五両  小判
  但、利足年中五分利、期月十月より九月まで
 右ハ禅中橋掛直之節入用備 金、先納方江預申処実正ニ  御座候、元金ハ永預り置、利足之 儀ハ年々利を加へ 置、追て橋懸直之節、右合 利金相渡申候…
  文政三年辰十月
        先納役人(四人)
  破鏡庵主 添判
  宇治勘助殿 (郡代四人)
  河上四郎右衛門殿
(「大秘行司録」郷土資料館)
 橋を架け直すための備金を藩の先納方に預けたものである。
 文政十一年の竣工とすれば、同三年は架橋のための資金を募っている時であろう。それなのに「掛直し」の時の「入用備金」を早々と準備し、藩の役人に預けるものであろうか。

2020年12月1日号

【第127回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(五)】

 文久二年(一八六二)十一月、平田太次右衛門は御町用金などの安定のために仕法金百両の提供を命じられたうえ、御町用金元立掛かりを命じられた。平田家のような裕福な町人の支援で安定的に運用できるようにということとみられる。
 それに伴い翌三年九月に「大庄屋席家・御用達」とされ、町奉行の直支配となった。家格が大庄屋並みとされたのである。
 それより先、同年二月十七日に藩より御用金を命じられた。本来は金六十八両のはずであったが、平田家が右のように御町御用金元立取調掛かりになったとして金五十三両に減額された。
 ところが、二日後の二月十九日には別に、才覚金五百両の提供を命じられたし、三月と九月の二度で納入することを命じられた。  同じ年十月、大殿忠発夫人らが庄内に来て住まいすることになって、その住居を建設するため、進んで寸志として金五百両を差し上げた。十二月に五人扶持が加えられて、合わせて五十五人扶持となった。
 平田家では、十年前から荒井和水(伝右衛門)の開設した心学道場の鶴鳴舎に対し、年々米八俵ずつ支援してきたが、元治元年(一八六四)三月、そのことで称誉された。
 平田家では以前提供していた二口の才覚金、合わせて千五百両について、慶応元年(一八六五)六月に、寸志として差し上げることにした。それに対し、八月になって十五人扶持を加えられて、合わせて七十人扶持となった。
 慶応二年四月、金三千両の才覚金が命じられた。これは、藩が大坂で借りた金の返済期限が迫ったためであり、返済が済めば、以後庄内から大坂へ送る廻米も減り、庄内で売り払う年貢米が多くなると説明していた。地元商人の利益になるというのであろうか。
 同年十月、三日町の難渋者への救米二十俵を提供したし、米十俵の分として金三十一両三歩を曲師町・銀町の難渋者に提供した。翌三年には鶴岡町民全体を対象に救米三十俵を提供した。
 同年春には米価高騰したので、町方の難渋者が困っているとして一町切に救座を設けて救米金を提供したとして称誉された。
 慶応四年二月、容易ならない時体となり、国恩のためとして金千両を寸志差し上げた。三月に五人扶持を加えられた。
 同年六月、町奉行所より町々での小銃調練が命じられた。同八月、所々に出兵しているとして、茄子漬け一万粒、大根漬け五樽を寸志に差し上げ、八月二十一日に人足により吹浦に輸送したが、さらに秋田戦線に送られることになった。平田家の二男安太郎は「銃兵御組立中」に二人扶持が与えられた。町兵の訓練の先導役を務めるものであろうか。
 敗戦後の明治元年(慶応四年)十一月頃、また寸志金五百両を提供した。これまでの関係を維持しようとしたのである。また二人扶持を加えられた。
 翌二年正月、会津への転封を命じられたので、寸志金千五百両を提供することにした。ところが、六月に若松に代えて磐城平への転封となったが、平田家は七月にも寸志金五百両を差し上げた。
 平田家では、同年春に転封への御供願いをしていたが、七月に当主太次右衛門は老年のうえ、近年多病であるとして、自分に代えて伜太七郎を御供させたいと願い出た。
 そして、八月に改めて、引き移りの用途へということで金七千両を寸志金として差し出すことにした。ただ、当時手持ちは三千両、残り四千両は翌三年から五カ年での分割上納となった。転封の中止にもかかわらず納入された。
 その場合、明治四年の廃藩置県で大泉藩(庄内藩)も消滅し、その後は酒田県(第二次)となったわけであるが、寸志金の残額は酒田県に納入されたものであろうか。
 前述のように、平田家は文久二年十一月に御町御用金元立掛かりであったが、戊辰戦争と敗戦もあり、御用金元立は消滅直前であったが、明治四年六月になって立て直すことになった。平田家では元立金に年に金十五両ずつ五カ年寸志に提供することにした。
 先の年賦上納分とは別に、明治四年八月に寸志金千両を差し上げることにして三カ年ほどで上納し、称誉として「御流頂戴格家」となり、郡代支配とされた。藩政時代が続いていたかのようである。
 ところが、平田家はそれまで七十七人扶持となっていたが、明治五年二月に三分の一の二十五人六分六厘に減らされた。
 平田家では扶持米の支給を当てにしてはいなかったであろうが、不満だったのではなかろうか。御使者宿の役目も消滅していたはずである。それらを契機に同家では、新しい行き方をとろうとしていたのではないかと思われ、その第一歩が明治七年三月の質屋免許鑑札の取得ではなかろうかと思われる。 (終)

2020年10月1日号

【第126回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(四)】

 庄内藩酒井家の長岡移封が中止になったので、平田家では天保十四年(一八四三)三月になって金二百両を寸志として差し上げた。それに対し、三幅対の掛け物が与えられた。
 移封中止の報復として庄内藩は同年下総国(千葉県)印旛沼普請を命じられたが、その際、平田家には御用金六十両を命じられたので、三カ年に分割して納入した。
 現在、昭和通りで営業する「蔵屋敷ルナ」は、もとは造酒屋であった平田家の酒蔵であり、弘化四年(一八四七)に建てられたものである。
 江戸時代後半になると、天領大山村の酒造業が発展し、鶴岡の造酒家は圧倒され、全く振るわなくなっていたと考えていたが、初めてルナに行き、柱の太さをはじめ建物の堅牢さを見て驚いたものであった。幕末頃の鶴岡の酒造屋も大きな経済力を有していたことに改めて気付かされたのである。  さて、嘉永二年(一八四九)春に、藩主忠発(ただあき)が京へ使いに出向いたが、前年に平田家は御用金四十九両二朱を命じられたが、別に寸志金五百両を差し出した。それに対し、同三年に三人扶持が加えられ、合わせて二十人扶持となり、かつ帯刀御免となった。
 嘉永七年三月、海防などで藩の出費が多いと聞いているとして、平田家では寸志金を差し出したいと願い出た。ただし、これまで何回かで差し出した才覚金千二百両と別に寸志金三百両を加えるということであったが許可された。そのため十五人扶持が加えられ三十五人扶持となった。
 同年閏七月に大洪水となり、浸水家屋は町家だけで千九百九十四軒に及んだ(『荘内史年表』、「編年私記」)。その際、平田家は極難渋の者へ救米を提供したので、奇特として称誉された。
 安政二年(一八五五)四月、伜太七郎(二十四歳)の見習いのため父子勤めを願い出て許可された。
 江戸品川の御台場警衛及び十月の江戸大地震で破損した藩邸修理のためとして、同年十二月才覚金五百両と御用金九十五両を命じられた。それに対し、平田家は才覚金五百両を寸志金として差し出したいと願い出た。才覚金であれば返済することになるが、寸志金であればその必要がないことになる。もちろん許可されたし、春秋の二度で納入することになっていたのに、翌三年三月に二百五十両、残りを六月に上納した。それに対し五人扶持が加えられた。同年の分限者番付「鶴亀松宝来見立」(鶴岡市郷土資料館)では、平田家は小結となっている。
 伜太七郎との父子勤めとなったので、安政四年正月に父子で御目見することを願って聞き届けられた。
 同年八月に町方非常の時の救済の件で藩より話があったので、四人の商人が寸志として金三百両を差し出したが、万一の際の備金とするものであった。四人とは、五日町・田林半九郎(五十両)、同・三井弥惣右衛門(五十両)、同・風間幸右衛門(百両)、平田太次右衛門(百両)であった。それに対し、十二月になり伜太七郎も帯刀御免とされた。
 安政五年の作柄は悪くないのに、夏中より米価が高止まりしたままであり、住民に難渋の者が多いというので、九月に米三十俵を寸志で提供したいと願い出て許可された。
 万延元年(一八六〇)四月十三日、藩校で郡代中より才覚金七百両を申し渡されたし、その翌日に御用金九十両も命じられた。それに対し、平田家では七百両に三百両を加えて、都合千両にして寸志金として差し上げたいと願い出て許可された。ただし、以前才覚金として提供した五百両に、正金五百両を加え合わせて千両ということであった。それに対して十人扶持が加えられたので、合わせて五十人扶持となった。年に玄米で約九十石与えられるのであり、知行二百石の家中の物成に相当しよう。
 同年十二月に米価が高いとして平田家は、三日町に限って極難の者の救済のため米十俵を提供したし、暮れの二十八日は洪水となったので、翌年文久元年(一八六一)正月になって、町方全体の難渋者の救済として米五十俵を提供した。
 同年夏、米価が高いので御備籾を摺って住民に安く米を売るための安売座を平田家が務めたし、秋に入った七月に御救座宿も務めたので、町用金からそれぞれ金三歩と金一歩二朱の手当が与えられた。
 同年には、庄内藩が拝領した蝦夷地で場所請負人になっている松前の栖原半六と伊達精十郎が御礼のため鶴岡に来た折に、藩はそれぞれ料理を与えたが、平田家がその際の宿を務めたとして、翌文久二年三月に金一両が与えられた。栖原半六の時は酒田の廻船問屋柿崎孫兵衛と加茂の廻船問屋秋野与四郎が相伴した。両家は栖原屋と取引があったのであろう

2020年8月1日号

【第125回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(三)】

文政四年(一八二一)十一月、藩主酒井忠器(ただかた)が幕府より京都への使者を命じられたので、平田家は寸志として米札五百俵を差し上げた。五日町地主亥蔵(長右衛門家)に次ぐ額である。しかも、別に金四十六両三歩の御用金も課された(「御上洛ニ付御用金町割帳」鶴岡市郷土資料館宇治家文書)。寸志を差し上げた者に翌年、平田家で酒・御吸物が与えられた。翌五年に平田家は一代大庄屋格とされた。
 同七年、蚕桑方へ金三百両を寸志として差し上げたところ、長期にわたり多額の寸志米金を提供したと、称誉として代々大庄屋格・一代帯刀御免のうえ、三人扶持が加えられ十三人扶持となった。平田家では養蚕業に注目していたのであろう。
 同八年八月、惣領九十郎が病死した。代わって三男安吉が嫡子となったようであり、翌九年に安吉との父子勤めが許された。明治に活躍した安吉とは別人で、何代か前の先祖に当たる。
 文政十二年の分限者番付「鶴亀宝来見立」(『鶴岡市史』上巻)では、平田太郎右衛門は西海三郎兵衛と共に行司のところに名前がある。その頃の平田家は鶴岡では上位三家のうちに数えられる富家とみられていたのである。
 天保元年(一八三〇)が凶作で米価が高騰したので、平田家などは町方や郷中の難渋者に救米を提供したが、、翌二年に救米を提供した者に平田家で料理が与えられた。
 同じ年六月に平田家では当主太郎右衛門が病死した。父子勤めだった伜安吉が相続し、八代目太郎右衛門になったと思われる。大庄屋格・御使者宿で十三人扶持を相続した。
 同三年に寸志金二百両を差し上げた。それに対し二人扶持を加えられ十五人扶持となった。十五人扶持は一応玄米で二十七石を与えられるのであり、知行とすればまずは五十石取り程度の家中に相当しよう。
 天保四年は「巳年の飢饉」などと称されて大凶作の年であった。秋から翌年にかけて平田家では飢民に救米などの提供を行うなどの慈善を行ったことであろうが、その頃の三、四カ年、平田家の「先祖勤書」には何も記載がない。
 天保七年当時、平田家は大山領善阿弥村(三川町)に高十四石二斗余の田地を所持していた。すべて田圃とすれば一町一、二反歩ほどの反別であろう。当時の善阿弥村は困窮が著しく亡村にも至るかといわれるような状態にあった。そこで平田家では所持田地を村方に提供し、村方の立て直しをさせようとした。あまり見聞きしないような決断であったといえよう。その頃、大山領など庄内・由利天領は庄内藩が私領同様預地として支配していたので、その善行を賞し、一人扶持を加えたので、合わせて十六人扶持となった。
 同八年九月、藩主忠器が再び幕府の使者として京都に上った。平田家では金二百両を寸志として差し上げることにした。そのため、二人扶持を加えられ十八人扶持となったし、上下地二反も与えられた。因みに、この時の上京の費用は六万七千七百四両という巨額にのぼった(『荘内史年表』)。  新形村井上家「万世見聞相場記」(郷土資料館コピー)では、それに関連して、
 此時御上にて金不足にて国 中へ御才覚金仰付けられ、 平田・金屋・鷲田三家五百 両ツツ
と記していた。平田家のほか、五日町の金屋(風間)幸右衛門、上肴町鷲田長兵衛が才覚金五百両だったとする。平田家「先祖勤書」には記載はないが、寸志金二百両のほか才覚金五百両を命じられていたのである。なお、寸志金は差し上げ切で返済は求めないのであるが、才覚金は藩への貸金である。  同九年、当主太郎右衛門は許可を得て太次右衛門と改名した。同年四月、幕府巡見使黒田五左衛門らが来るので、平田家が宿舎を命じられた。巡見使の派遣はその時が最後となった。十二月に藩の納戸金から金五百疋が与えられた。
 天保十一年十一月、突如命じられた酒井家の長岡転封の件は領民の反対運動などにより、翌年七月に中止となった。平田家では恐悦として寸志金二百両を差し上げた。
 主として庄内領民の反対運動によって酒井家の長岡転封など、いわゆる三方領知替えが中止になったことに対する報復措置の一つとして、長らく庄内藩に許されていた天領の預地支配が同十三年五月に中止を命じられた。代わって、大山領などの天領は幕府代官の支配になった。  以前、困窮が著しい大山領善阿弥村の村立て直しのため、平田家が折角寸志として提供した田地が返却されることになった。そこで、加えられていた一人扶持が取り消されることになって、一人扶持減じて十七人扶持となった。

2020年6月1日号

【第124回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(二)】

 元文二年(一七三七)正月に、遊佐郷中に出入りがあったとして、平田太郎右衛門などが藩に呼ばれて、去年中借り受けた米金について、利息は支払うが、元米・元金はそのまま借り置くと命じられた。遊佐郷村々を救済する名目で借り上げた御用金であったものか。遊佐郷村々は十八世紀中頃から疲弊が顕著になっていったようである。しかし、平田家には直接関わりのないことであった。
 平田家はその後も小口の御用金を年々のように求められて応じていたのである。
 寛延三年(一七五〇)一月に死去した当主太郎右衛門は俳号白之という俳人でもあった。羽黒の図司呂丸宅に所持されていた芭蕉の「三日月日記」が江戸の商人に渡って他国に持ち出されようとしたのを、大金をもって買い戻したのが白之であり、そのため「三日月日記」は現在も平田家に伝えられている(『鶴岡市史』上巻)。
 宝暦三年(一七五三)十一月の「三日町軒数御水帳」(鶴岡市郷土資料館宇治家文書)によれば、三日町にある平田家の家屋敷として次のように記されている。
 一、壱軒弐歩五厘
    表口拾三間
    裏行二十五間
   内半軒役
      御使者宿御免
 一、半軒役
    表口七間
    裏行二十五間
 二カ所で合わせて一軒七分五厘であり、かなり広い家屋敷であった。その半軒役が御使者宿として町役が免除されていた。町人にとって租税に相当する町役の負担が三割ほど軽減されていたのである。
 同じ年六月に借上米二千俵を御米宿立会役の七日町疋田多右衛門の名前で差し上げたし、同五年にも六百五十俵の借上米があった。
 同八年には借上米を百五十俵余、二百五十七俵余、二千百五十俵と三回差し上げたし、また借上金三百五十七両も命じられた。
 ところが、宝暦十年九月には、江戸の藩主忠寄の御意として、商人などの貸し手たちが家老水野内蔵助より近年出費が嵩んでいるのに、低米価で年貢米の売渡値段が低く、そのため借財が過分の金高になっているとして、以後借財の利息を五分に引き下げてもらうと共に、元金の方は年々の米値段次第で返済していきたいと申し渡された。平田家など貸し手の方は一方的な申し渡しに対して不満でも受け入れるしかなかった。
 同十二年、以前から藩の与内方役所の御用を務めてきたうえ、今回寸志米千百俵を差し上げたいと願い出たところ、称誉として十人扶持が与えられることになった。平田家にとって扶持米の支給は初めてであった。十人扶持は年々玄米十八石ほどが支給されるものであった。
 同じ三日町の林太郎兵衛家が明和六年(一七六九)二月中に類焼したので、七月の駒市宿は平田家が命じられて務めた(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。
 安永元年(一七七二)藩主忠徳が初めて国入りしたので、一日市町御茶屋で御祝いとして主な町人に料理が与えられたが、平田太郎右衛門も出席した。
 天明三年(一七八三)は大凶作(「天明の飢饉」)のため、酒造りの停止が命じられたが、平田家では代わりに三社御神酒、御馬薬、酒粕、そして御医師たちの要望を受けて製薬酒を造ったのであり、少々ながら酒造りが継続されたのであった。なお、三社とは鶴岡の氏神である上下の山王社と四所の宮(春日神社)のことであろう。
 天明八年六月に幕府の巡見使が鶴岡にも来訪したのであり、その際平田家には巡見使に付き添ってきた医師が止宿した。因みに、巡見使に随行してきた著名な地理学者古川古松軒は林太郎兵衛家に宿泊した(拙著『庄内藩城下町鶴ヶ岡の御用商人』)。
 寛政四年(一七九二)当主太郎右衛門は願い出て吉郎右衛門と改めたが、同九年にまた太次右衛門と改めた。
 享和二年(一八〇二)、近年町方が静謐であるし、孝心奇特の者もいるとして当時三日町長人役の一人であった太次右衛門にも称誉の銀子が与えられた。
 文化三年(一八〇六)に太次右衛門は老年ということで隠居して、七代目当主に太郎右衛門が就いた。太次右衛門の伜であろう。
 文化十年に、四代藩主酒井忠真の御霊屋普請が行われたが、その際平田家は柱用として檜二十三本を提供した。
 同十一年六月、願って伜吉郎と父子勤めとなった。同十二年二月、町方の難渋者に対し施行をしたので、藩から扇子三本を与えられた。翌十三年二月にも施行した。町内の難渋者に対する慈善は富裕な者の義務と当時でも考えられていたのであろう。

2020年4月1日号

【第123回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(一)】

 江戸時代、鶴岡では商人の浮沈が結構激しかったのであるが、その中にあってほぼ全期にわたって有力町人として活動した商人に、三日町(現昭和町)平田太郎右衛門家があった。
 家伝によれば、もともと会津藩蒲生家に仕えていたが、その後鶴岡に来住したという。蒲生氏郷が亡くなると、蒲生家は宇都宮に転封となるが、おそらくその際に同藩を離れたのではなかろうか。
 最上家の時代には鶴岡に居住していたのであり、元和八年(一六二二)に酒井家が入部してきたが、家臣たちの住宅が足りないため、建設されるまでの間、平田家の邸宅が借り上げられた。その御礼もあって、同年十一月に料理が与えられたという(「覚(先祖勤書)」、平田家文書)。
 その後、詳しい年代は不明ながら御使者宿を命じられて、江戸時代を通じて務めた。庄内藩に派遣されてきた使者を泊めたり、藩内の祝宴などに使用された。
 三日町では毎年六月に馬市が開催されたが、平田家ではその際に駒市宿を務めた。駒方役人や駒見分に来た家老に宿舎を提供するものであった。ただ、駒市宿は享保十九年(一七三四)に同じ三日町林太郎兵衛家と交代した(「古扣抄書」、『◆肋編』下巻)。
 御使者宿や駒市宿を務めることは名誉なことであったろうが、大した収入にはならなかったとみられ、かえって接待などで出費の方が嵩んだ可能性があろう。
 そのように考えると、平田家はほかに何か本業というべき商売があったはずである。数年前に亡くなられた平田家の当主正氏にその点を尋ねたことがあったが、分からないということであった。
 最近、平田家の江戸期の古文書を見る機会があり、その中に享保四年(一七一九)正月の「永代帳」という帳簿があって、そこに、
 一、八月二十日頃、新酒元  仕入可申候、節句前出し  可申候
とか、また十二月のこととして、
 一、五日頃ニ白酒仕入可申  候事
と、酒造りの記載があることから、平田家は当時造酒屋だったとみられる。因みに、翌五年十一月の「鶴岡御町酒判御改帳」(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)に、三日町のところに太郎右衛門の名前があるが、平田家のこととみられる。酒判を所持して正式に酒造りを行っていたのである。なお、平田家は酒造りで得た利益を江戸時代中頃から田地買い入れに向けていたようである。
 平田家は早くから藩主在城の年には、年始の御目見が許され御流れを頂戴したし、年々門松が与えられた。早くから有力町人として扱われていたのである。
 庄内藩は財政難となり、貞享四年(一六八七)・翌元禄元年に初めて鶴岡町人に御用金を提供させたが、その時は平田家の名前がない(『鶴ヶ岡大庄屋川上記』上巻)。しかし、元禄六年(一六九三)に平田家は御用金二両二歩を命じられたし、同九年には借上米として四千九百二十俵と九百四十五俵を提供した(「覚(先祖勤書)」)。御使者宿・駒市宿を務めていたので、その点に配慮して、藩ではあまり多額の御用金などを命じなかったようである。  ところで、平田家では元禄九年(一六九六)頃に類焼し、居宅・土蔵など残らず焼失する災難に遭った。その際、藩から材木が与えられたので、割合早く居宅などを再建したことであろう。
 しかし、その後の復興がなかなか順調でなかったというのであり、三十年以上も経った享保十六年(一七三一)に至っても、
 先年類焼以来勝手不如意罷 成、無拠奉願居宅相譲申候
    (「覚(先祖勤書)」)
というように経済的な理由で居宅を譲ったとする。しかし、平田家に長らく経済的な困難が続いたとは考えづらい。ただ、駒市宿の役を林家と交代したのは居宅の譲渡などの事情も関わっていたのであろう。
 藩の享保改革で全般に歳出が抑えられて、世子酒井忠寄すら生活費が不足するからと、何人かの町人が「仕送御用」を命じられたが、享保十五年に平田家も命じられて御用を務めたという。本当に経済的苦境が続いていたのであれば、そのような御用を務めることはできなかったはずである。  翌十六年冬に右の忠寄が五代藩主に就任すると、平田家は御膳前御用酒を提供することを命じられた。おそらく、藩主が在国中に嗜む御膳酒の提供ということであろうが、そのような特別な酒を提供することを命じられたのは、御仕送御用を務めたことに対する見返りであろうか。平田家は鶴岡の造酒屋の中で特別の扱いを受けることになったわけである。因みに、その頃鶴岡にはなお、百軒ほどの造酒屋があったが、その後急減する。

2020年2月1日号

【第122回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(下)】

 橋本彦市が牢抜けしたと大騒ぎとなった。領内の口々に直ちに足軽をやって取り締まったし、領外各地にも捕り方の役人七十余名を派遣したが(「大秘行司録」)、行方は知れなかった。
 代わって彦市の家族が捕らえられた。
 彦市は知り合いなどの手助けで、新庄に向かったことが分かり、捕り方を新庄にやったが見つからなかった。そして秋田を経て箱館(函館)に行ったという噂もあった。
 牢抜けは、牢番が盆踊りを見に行った折に実行されたが、彦市が牢を破ったわけではなかった。合鍵が使われたかは不明であった。
 彦市の方は秋田領横手に行き、その地で酒株を譲り受けて酒造を始めていた。当時秋田は酒造りが上手ではないため、結構繁昌して、僅かの間に藩の御用酒屋になるほどであった。
 偶々秋田領の同心体の者と庄内の方に知り合いもいて、その者が彦市と似た者が秋田領にいると知らせてきた。そこで同心二人を秋田へ派遣した。
 しかし、その者は人相書きとは似ていないということであったが、折角出向いたことから、その者の顔を一応確認したいと、二人の同心は横手に行き当人を見たところ、人相書きにそっくりであり彦市に相違ないと判断された。彦市が早朝酒蔵から出てきたところを捕らえたのであった。
 彦市は「運の尽也」と言って、大人しく捕らえられたという。十一月十一日のことで同十九日に鶴岡に戻された。召し捕った同心二人には称誉として生涯一人扶持の加扶持が与えられた(同前)。
 取り調べにより、牢抜けは外から開けられたのではなく、彦市が竹ひごで鍵を突き開けたものと判明した。
 その後は責め道具などを使わずとも、彦市は尋問に素直に応じたという。しかも藩に敵対する気はなく、どのような刑罰に処されても仕方ないが、ただ親は高齢なので容赦してほしいと願い、出牢となったようである。
 取り調べの際も、彦市は「言舌奇麗成る事之由」(「自娯抄」)と、話し方が流暢で明確だったようである。池田玄斎「病間雑抄」でも、取り調べに当たった役人の談として、「大男にて応待(応対)など静に至ておちつき、びくともせざるけしき、いつれ大丈夫と見ゆるもの也、幾度御尋にても初め一言をかえず、一身を捨て万人の為に代る趣也」と記している(『大山町史』)。物に動ぜず、常に冷静沈着で、尋問にも落ち着いた受け答えをしたのであろう。
 「自娯抄」と「病間雑抄」とで、彦市の尋問への対応でやや異なった記述がされている。彦市はやはり「一身を捨て万人の為にめ代る」人物であったと思われ、牢の中でも自分のことよりも村のことなどに気を配っていたようである。いかに同じ大山村の人とはいえ、普通であれば自分が御尋ね者になってまで、他人である佐藤善右衛門のことで幕府に訴えようとは思わないのではなかろうか。
 今回、彦市は改めて永牢を命じられた。
 三方領知替えが主として庄内領民の反対運動から中止になったことへの報復から、庄内藩は長らく許されてきた庄内天領に対する預地支配が天保十三年(一八四二)五月に中止を命じられた。大山村の治右衛門・清右衛門という者が理由も不明のまま捕らえられていたが、預地の返還に先立って殺害されたという(『山形県史・近世史料』2)。彦市については、
一、彦市儀大山人別入ニ而御 座候処、一昨年御引渡之節、 如何之訳か鶴ヶ岡役所より 相外し候様仰付られ候て相 除申候(同前)
と、庄内藩の命令で大山村の人別帳から除かれたという。そのまま殺害される可能性もあったのである。
 池田玄斎も彦市が天保十三年に死亡したと思っていた(『大山町史』)。藩によって殺害されたと思っていたのであろう。万一生きていて、大山騒動時に在村していたとすれば、藩にとって「むつかしきものと存候」(「病間雑抄」)と考え、すでに亡くなっていたのは藩にとって幸いであったとみていた。
 しかし、彦市は殺害されることなく、そのまま牢に入れられていた。橋本家の史料では彦市は安政六年(一八五九)九月三日に死去した。七十八歳であった。どうやら引き続いて牢に入れられたままだったようである。
 その間、少なくとも二度親族より出牢願いがされた(橋本家史料)。一度目は嘉永二年(一八四九)のことで、大病を理由とするものであった。二度目は安政元年(一八五四)のことで、七十一歳になっていて老衰と多病を理由とするものであった。両度とも許されなかったのであろう。結局牢死したのである。
 彦市のような人物の半生を牢で虚しく送らせたのであり、藩権力の非情さが思われる。

2019年12月1日号

【第121回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(中)】

橋本彦市は江戸出訴のことを計画していることを、なぜか越後・西条村より大山村の親族とみられる惣次郎という者に書状で知らせてやったのであった。すぐに惣次郎はそのことを村役人の方に届け出たので、村役人も藩の預地役所に報告したのであり、藩の重役たちも知ることとなった。大山村の人々に出訴の真意を知らせたかったのか。
 彦市が大山村を出る時に惣次郎に語ったところでは、惣代名主の佐藤善右衛門の事件では同人の末家の両人が切り殺されたというのに、庄内藩の取り扱いは甚だ不十分であり、そのままでは善右衛門の家名も存続できるのか甚だ心配であるので、そこで江戸に行き、「天狗遣ひ」とか呼ばれている大場伊織という者に会って頼めば、早速にも直訴してくれると聞いているので、会って頼んでみるつもりということであったようである。
 彦市はそのような者の助けも借りて、江戸で幕府に直訴する考えで、江戸に行こうとしていたのであり、自分のためではなかったのである。
 村役人からの報告で彦市の直訴の企てのことを聞いた藩では、まず彦市の親族二人を越後・西条村に遣わし、彦市を説得して大山村に連れ戻そうとした。ただ、成功せず親族二人だけで大山村に戻るようであれば、当然彦市の方でも何らかの動きをするであろうからと、預地役所の下級役人船山養蔵を越後・村上の辺まで出向かせて、親族二人が戻ってくるのを待ち受けさせ、もし彦市が一緒に戻らないような場合は、代わって船山の方で何とか帰村させるように手を打たせようとしたのであった。
 案の定、親類は彦市を説得できず、連れ帰ることができなかった。そこで、船山は直ちに出雲崎に行き、同地に置かれていた幕府・出雲崎代官所の手代長岡与三郎という下級役人に会って相談した。船山としては、庄内藩の支配の及ばない地域であり、長岡手代の手で彦市を捕らえてもらうつもりであった。
 彦市は自分を捕らえようとする動きを知ったものか、すでに西条村を離れ、行方がわからなくなっていた。
 庄内藩では、彦市が出奔して行方不明となったとして、親類たちに期限なしに彦市を捜索させるところの永尋ねを命じた。いつまでも彦市の捜索を続けなければならないことになり、親類たちの負担は重いものとなった。
 ところで、彦市は初志通りに、江戸に行き何とか幕府に訴え出ようとしていたのであり、そのためまず大場伊織という者に連絡を取ろうとしていたものか。
 藩の方では、彦市は無断で出奔した御尋ね者であるとして幕府に届け出ていたのであり、そのため文政四年(一八三一)三月中のことであろうか、彦市は江戸町奉行所の手で捕らえられ、間もなく庄内藩に身柄を引き渡された。幕府への訴願はまだ行われていなかったのであろう。
 庄内藩の手によって江戸より庄内に下された彦市は四月七日に鶴岡に到着し、そのまま揚屋(あがりや)入りとなった。
 中老の竹内八郎右衛門の「日記」(鶴岡市郷土資料館竹内家文書)には、同日のこととして、「大山彦市昨夜藤島一宿、今日昼時前着、吟味中揚屋入、長坂猪之助申渡候」と記されている。鶴岡到着は昼前だったわけである。  彦市は吟味中は揚屋入りとされたのである。なお、長坂猪之助は鶴岡町奉行である。揚屋は未決囚の入るところであり、彦市は未決囚として取り調べを受けることになったのであった。
 彦市は天領である大山村の出身であり、本来であれば支配役所である預地役所の役人が取り調べるはずであろうが、鶴岡の牢に入れられ、鶴岡町奉行所の取り調べとなったのであろう。
 ところが、入牢して二年余りも過ぎたのに、文政六年七月に至るも揚屋入りのままであった。引き続き取り調べがされていたものか、まだ未決のままだったのである(「御用帳」巻十一、『酒田市史史料篇』一)。
 ところが、七月十九日夜、彦市は牢抜けして行方知れずとなった。揚屋ということで警備などが少々緩かったものであろうか。
 その時に手配された彦市の外見などは、人相書では次のようであった。
一、年三十八九位
一、中背より高キ方、中肉、骨組丈夫成生立
一、鼻筋通眉毛目耳髪常体
一、弁舌能分り早く荒キ方
一、角顔ニ而少し長キ方
  (同前)
 年齢は四十歳近くであり、背も高く、立派な男振りであった。

2019年10月1日号

【第120回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(上)】

十九世紀初め、大山村に橋本彦市という者がいた。前回述べた惣代名主佐藤善右衛門に庄内藩家中の士たちとの間で事件が起こった頃である。
 大山村のうち荒町の肝煎を務める橋本彦兵衛の忰であった。彦市という名前から彦兵衛の長男であったとみられる。荒町は本町と並んで大山村の中心となる町である。その町の肝煎を務めていたということは、橋本家が相当有力な家であったといえよう。
 橋本家は十七世紀にはすでに造酒屋であったし、その後も引き続き酒造業を行っていて、彦市がいた頃も造酒屋であった。なお、天保八年(一八三七)に廃業したと推測される(『大山町史』)。同家が酒造業を辞めたのは以下述べるような彦市の事件が関わったものかとも思われる。
 彦市は天明四年(一七八四)頃の生まれとみられる。
 文政元年(一八一八)といえば彦市が三十五歳ぐらいであり、すでに壮年といえ、まだ当主になっていないものの、町肝煎を務める父親に代わり、事実上家業を差配していたのであろう。
 ところが、その年にやはり大山村在住とみられる文明という絵師と口論となったのである。一人前の者が口論したのであり、それなりの事情があってのことであろう。
 翌二年にかけてと思われるが、村内の与平治という者が文明に味方をしたうえ、荒町の若者たち大勢が彦市に対し暴行を働いたのであった。  大山村の惣代名主田中徳右衛門家にはその事件を詳しく書き留めた書物があったようであるが、現存しておらず、暴行事件についての詳しい事情は不明である。
 彦市は暴行されて怪我をしたが、自宅に留まらず鶴岡に行き、以前から親しく出入りしていた庄内藩の重臣松平内記(甚三郎)邸を訪ねた。同家の子息と思われるが、屋敷内の別棟にいる市郎という者に会い、一両日匿ってくれるように頼んだところ、藩の規則があるのでと、日中は市郎の処にいて、夜は市郎が紹介した七日町の方に泊まったのであった。
 二、三日してであろうか、親彦兵衛に迎えの駕籠を寄越してくれるように言ってやったところ、七、八人で迎えに来たので、彦市は大山村に戻ったのである。若者たちの攻撃を恐れたのであろう。
 彦市が帰村すると「御役家」とあるので松平家を指すものか、そこで刀一腰を借用し、同人が喧嘩の相手を討ち取るつもりだと言い触らしているという噂が立った。
 そのような事実はなく、ただ再び暴行を受けることを恐れて、大山村の名主で惣代名主同様である水口紋兵衛に手紙を出し、自分の方から手出しをすることはないので、相手の者たちも暴力を振るったりしないように申し入れたのである。そして、しばらく謹慎していたという。
 事件はそれにて一件落着したはずと思われたが、彦市は同じ文政二年(一八一九)十月頃用事があるので新潟に赴きたいと願い出て、出判を申し受けて出国した。
 新潟に行ったかどうかは明らかでないが、彦市は足をのばして西条村の松井八右衛門という者の処に行ったのであった。『新潟県の地名』などを調べても、越後国に西条村という村は確認できない。ただ「西条村」は出雲崎に近い処であったと推測される。
 松井八右衛門について詳しいことは不明であるが、大山村とも縁があったようである。
 彦市の父親彦兵衛が町肝煎だったことから、すぐに用意して彦市には仮人別送状を持参させた。どうやら彦市が松井八右衛門の養子となるためであった。橋本家とも懇意だったのであろう。
 当時、大山村など庄内の天領村々は庄内藩の私領同様預地となっていて、同藩の支配を受けていた。同藩の支配に不満だったので、松井八右衛門の養子となって、大山村、延いては庄内藩の支配から一時的にも抜けようとしたものであろうか。正式に養子となったかは明らかでない。
 そして、八右衛門と申し合わせのうえ、十一月に江戸に行き、町内の者に暴行されたこと、及び惣代名主佐藤善右衛門の事件での庄内藩の不公平な裁定の件を幕府に越訴するつもりであった。
 後年、天保十五年(一八四四)に起こった大山騒動の際に庄内・由利天領村々から、支配役所に提出された八月付の歎願書でも、佐藤善右衛門の事件を述べた後に、続けて、
 大山村御町役人彦市と申もの右之段歎ヶ敷存じられ候哉、江戸表江罷登、懇意之もの江問合セ候積リ之処(『山形県史・近世史料』2)
と、彦市の越訴の企てにも言及している。
 文明との間の口論とは別に、佐藤善右衛門事件に関わって、彦市は町内の若者たちに暴行をされることになったものであろうか。

2019年8月15日号

【第119回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(下の二)】

 庄内・由利にあった天領村々は明和六年(一七六九)から庄内藩の預地となっていたが、文化十二年(一八一五)十二月に庄内藩に預地に対する私領同様取り扱いが許された。それまで、庄内藩は預地支配につき多くの点で幕府勘定所の指示や承認を受けていたが、以後はかなり独自な支配ができることになった。
 また、それまで庄内・由利天領には惣代名主が一人ないし二人しかいなかったが、以後惣代名主の人数が増加し待遇も改められた。
 大山村だけでも惣代名主が三人となった。従来からの佐藤善右衛門のほかに、大屋と称され世襲年寄の役にあった田中家の当主八郎兵衛と忰徳右衛門の父子も惣代名主に任じられた。また千河原村(庄内町)の金子宗弥、由利郡大砂川村(秋田県にかほ市)の横山文左衛門も惣代名主となった。
 惣代名主は正式に本領の大庄屋同様の役職となり、新たに庄内藩より五人扶持(玄米で約九石)が与えられて、家臣同様の待遇となった。
 佐藤善右衛門らは大山村などの名主を兼務しており、本来農民身分であったが、今度は庄内藩の下級家臣の身分となったわけである。
 ところで、佐藤善右衛門家では文化五年(一八〇八)に至って、当主善右衛門が老齢であったので、孫の右馬治が惣代名主主見習いとなったし(拙著『庄内天領大山村の村役人』)、間もなく右馬治が当主となって惣代名主となったようで、善右衛門と改名した。そして、右のように文化十三年から五人扶持が与えられたのである。
 ところが、二年ほどした文政元年(一八一八)三月に善右衛門は重病となり、回復の見込みがないとして、娘に婿を迎えて佐藤家及び惣代名主の役を継がせたい旨の願書を預地役所に提出した(鶴岡市郷土資料館羽根田家文書)。
 願いが許されて、庄内藩の下級家臣である組外の池田八右衛門の忰が婿養子となり、佐藤善右衛門家を継ぎ惣代名主となった。善右衛門も襲名した。
 婿養子になったばかりの善右衛門は、翌年大変な災難に見舞われることになった。いわゆる「佐藤善右衛門一件」と称される事件である。
 大山村で文政二年八月に相撲興行が行われて、その事後の処理などで、善右衛門は同月九日に鶴岡の預地役所に出向き、用事が済み実家の池田家に立ち寄った。暮れ前に帰途についたが、友江村(鶴岡市)地内の中野橋の辺りで、大山村の方から蓑を着て何か背負った者に突き当たった。酒に酔った農民と考えてそのまま通り過ぎようとしたら、相手が胸倉のところをつかんで離さなかったうえ、連れの者も細竿のような物で善右衛門の頭を強く打ってきたので、数カ所疵ができた。仕方なく善右衛門は脇差しを鞘ごと抜いて打ち合った。
 ところが、灯火で見ると相手が帯刀をしており、家中の者のようなので、自分の不調法を詫びたが聞き入れてくれない。名前を尋ねられて名乗り、相手の士も田中連太と山崎勝之進と判明した。
 街道では通行する者もいるので適当ではないことから、大山村の善右衛門宅に行くことにした。そして、同家の旦那寺道林寺の住職に来てもらい詫びてもらったところ、ようやく納得してくれて一旦は引き取ったのであった。ところが、友江橋の辺りで一族の家中田中兎毛と逢って、兎毛が連太が疵を受けているので内済にはできないといい、再び連太たちは善右衛門宅に戻った。改めて道林寺の住職たちに詫びてもらったが承知してくれないので、善右衛門の方でも事件を内済にせず役所に届けると返事し、ようやく連太らは鶴岡に帰ることになった。その際、善右衛門の身柄を分家の善平・勝右衛門の両人に預けると申し渡した。
 翌十日、午前十時過ぎに家中たち多数が善右衛門宅にやってきて、善右衛門に対決したいとして同人を出すように命じた。
 しかし、善右衛門は喧嘩の際の疵などによるものか、不快のため近所の医師に行って針治療を受けたが、その後行方知れずとなった。
 連太らは、善平・勝右衛門に身柄を預けておいたのに取り逃がしたのは不埓として、逃げようとした両人を討ち留めたのであった。
 身を隠していた善右衛門は、分家の二人が殺害されたと聞いて十三日に帰宅し、十五日朝、親類の者も同道して鶴岡に行き役所に届け出た。代家での吟味があって禁錮入りとなった。
 翌三年五月二十六日に善右衛門は自滅を命じられたので、実家池田家の所持する新形村(新形町)の畑に小屋掛けし、そこで切腹した。『大山町史』では、百姓身分ではあるが、天領の名主のため士分同様の取り扱いで切腹となったとするが、前述のように惣代名主として家臣同様となっていたためと考えられる。
 田中連太・山崎勝之進は郷入りとなった。
 事件後しばらくして、忰善六が一時大山村の名主を務めたが、その後善右衛門家は村役人を務めなかった。(終わり)

2019年6月1日号

【第118回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(下の一)】

寛延三年(一七五〇)から十九年ほど幕府代官の支配が続いてきたが、明和六年(一七六九)四月に庄内・由利天領は再び庄内藩(酒井家)の預地となった。
 その際、それまで庄内天領村々のトップに相当する役職は郡中代(郡中惣代)であり、柳原新田村(明治九年大山村に合併)名主の河上丑太郎が在任していたが、同人が辞任し、代わって大山村の世襲名主である佐藤善右衛門が就任した。もっとも、それまでは郡中代と称したが、以後は惣代名主と呼ばれることになった。
 庄内藩の大庄屋に相当する役職であるが、大庄屋の方は武士身分であったのに対し、総代名主は村の名主の兼務であり、農民身分であった。  庄内藩は預地となった庄内・由利天領を支配するために、鶴ヶ岡の元長泉寺(泉町)の内川端のところに預地役所を再置した。通称川端役所である。主役、元〆、代官以下の預地役人が同役所で勤務したのである。
 また天領村々の村役人や百姓たちが預地役所などに用事があって、鶴岡に出向いてきた際に泊まる定宿である郷宿(ごうやど)を七日町(本町二丁目)の柏倉久右衛門家が務めた。そこで天領の年番名主たちの寄会なども開かれた。
 農民の定宿を庄内藩の場合、代家と称し、三日町の東端(昭和町)に置かれた。
 預地役所や郷宿での用事のため、総代名主である佐藤善右衛門はしばしば鶴岡に赴くことになった。また紛争の取り扱いなどで各地に出向いた。
 後年の文化十五年(一八一八)の佐藤善右衛門家の「覚書」(「郷政録」郷土資料館)には
 御郡中・由利郡公事出入等 取扱仰付られ、相勤申候え とも年号等相知不申候
と記していて、詳しい年月日は不明ながら、庄内・由利天領村々で起こった種々の紛争などの取り扱いを命じられて、解決させたことが幾多もあったことが知られる。総代名主は天領村々のトップとして紛争等を取り扱って、内済にするようにし、本格的な裁判にはならないように努めたわけである。
 寛政三年(一七九一)に由利天領の長岡村と大飯郷村(どちらもにかほ市)の間で入会地をめぐる争いが起こったので、預地役所より取り扱いを命じられて、角田二口村(三川町)名主佐藤東蔵と佐藤善右衛門の両人が由利郡に出向いた(『佐藤東蔵家系譜』)。
 寛政八年には、酒田・本間家と同家の支配人で由利郡大砂川村(にかほ市)名主文左衛門(横山姓)の間で「田地出入一件」が起こり、佐藤善右衛門と郷宿を務める七日町柏倉久右衛門が取り扱いを命じられて、由利郡に赴いた(「類例記」郷土資料館伊藤家文書)。
 また角田二口村と播磨京田村(鶴岡市播磨)の間に、享和三年(一八〇三)に新田堰野手(土手)の嵩上げをめぐって争いとなり、佐藤善右衛門が取り扱いをして一旦内済となるが、間もなく争いが再発し、最終的に解決するのは八年後のことであった(「為取替一札之事」郷土資料館二口文書)。
 右に示したのは、佐藤善右衛門が取り扱った紛争のほんの一部にすぎない。それでも、総代名主は結構大変な役目であったことが知られよう。
 しかも、佐藤善右衛門は寛政五年(一七九三)に庄内天領の御城米(年貢米)の江戸廻米について浅草御蔵納の納名主の役目を命じられて江戸に出張した。何とか年内に仕事が完了して帰村することができた(前出「覚書」)。
 寛政七年より、大山村の本町組ばかりでなく、安良町(荒町)組名主も兼務することになった。右の大山村名主の一人勤めを八カ年務めたとしているが、実際には十カ年以上務めたようである。
 それらの精勤が賞されてのことであろうが、寛政八年に天領村々に出向く際には公用・私用を問わず帯刀御免となった。一旦帯刀の特権が取り上げられていたが、五十年近く経て再び許されたのであった。
 佐藤善右衛門家はもともと酒造業などを営む富裕な家であったのに、次第に困窮したのである。ただ、酒造業を始めたのは、上田利兵衛という者から酒造株を譲り受けた寛延二年(一七四九)のことといわれる(『大山町史』)。
 同家は造酒屋としては「善六」の名前で営んでいたようである。確かに享保十年(一七二五)の大山村の造酒屋の中に善六の名前は見受けられないが、宝暦三年(一七五三)の時には佐藤善六の名前が確認できる。
 ちなみに、文化六年(一八〇九)に同家では二男皆次郎を隣村友江村に別家させて、酒造業を始めさせた(『三川町史資料集』第十集)。

2019年4月1日号

【第117回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(中)】

 大山村では、延享三年(一七四六)とみられるが、
一、吉川喜右衛門名主役御免 願
  (「自家御用留目録」、鶴岡市郷土資料館「郷政録」所収)
と、二人の名主のうち、吉川喜右衛門がまず名主役の辞任願いをした。どうやら、そのまま大山役所より認められたとみられる。
 もう一人の佐藤善右衛門は「不届之儀これ有り」として、
一、名主善右衛門閉戸仰付られ候事、並に退役願之事
  (同前)
と、閉戸を命じられたので、善右衛門も名主辞任願いをしたのであった。閉戸は武士の閉門に相当し、居宅での謹慎のことである。
 しかし、善右衛門の方は辞任願いが許されず、名主の役に復帰したようである。世襲名主の善右衛門のことを、大山役所駐在の手代の一存では辞めさせることができなかったものかと思われる。
 右のような大山村の名主に対する措置は、前回に記したように、当時大山役所に駐在した、尾花沢代官蔭山外記の手代富永幸左衛門が、自分の思うままの支配を行おうとし、それに受け入れようとしない村役人を罷免などにし、改めて自分に忠実な者を取り立てて、思う通りにしようとしたものとみられる。
 それについて、「郷政録」では、
 富永殿勤中諸法度正しからず、村中混乱に及ぶ
として、ついには幕府の勘定所に直訴に及んだとする。
 村中の混乱とは、栗本家「永代寿福帳」(郷土資料館)によれば、大体次のようなことであった。
 前出のように、両名主を閉戸や罷免にしたうえで、本来は宿駅業務に携わるところの両問屋を所検断に任命したという。その場合の所検断というのは、名主に代わる大山村の村役人の筆頭ということであったとみられる。
 また村内の町々の有力者を新しい町肝煎に任命したし、その他にも数十名の者を年寄、町代、立添役などの名称の役人に任命した。そして、毎日毎夜に寄合を催し、公用と称して村民たちを呼び出し、種々の難題を申かけて、飲食などを提供させたとする。毎晩のようにどんちゃん騒ぎの酒宴が催されたものであろう。多くの村民はよく事情も理解できないままに、迷惑に思って内心反発していたはずである。
 郷土資料館の「大山地区文書」の中に、延享三年九月付で蔭山代官の大山役所あての「差上申一札之事」という表題のある同一の誓約書が四十五通ほど保管されており、以前それを見た際には、何故このような一札証文が多数作成されたのか甚だ疑問に思ったのであった。
 富永幸左衛門は自分のやり方に対し、多くの村民が納得せず、中には反発する者もいたことから、全村民に大山役所の指示であると従わせようとして、各町の五人組ごとに誓約の証文を提出させたのであったと思われる。
 しかし、そのようなことで村民が服従したわけではない。延享四年に入ってからと推測されるが、村内の本町在住の本間与兵衛・渡部藤左衛門の両人が江戸に登り、「永代寿福帳」では、在府中の蔭山代官に訴えたとする。先の「郷政録」では幕府勘定所に訴え出たとしていた。手代の任免は代官が行うのであり、その点から蔭山代官に訴えたものとみておきたい。
 その結果、富永手代は休役を命じられた。村民の訴えを聞いて蔭山代官は驚いたことであろう。富永手代はその後出身地とみられる越後に追い払われたという。代わって、五月になって尾花沢代官所より吉田弁太夫という手代が派遣されてきて大山役所でしばらく勤務した。
 一時罷免されていた吉川喜右衛門は名主に復帰した。
 数年後の宝暦三年(一七五三)に、佐藤善右衛門家では忰善六が名主代となって、年貢米の大坂廻米の納入責任者である納名主として大坂へ出張中に病死するという不幸があった。
 その頃は幕府・大山村は大山代官の天野市十郎の支配であったが、その際佐藤善右衛門は長らく許されてきた帯刀の特権が否定された。再び同家に帯刀が許されるのは四十年ほど後のことであった(拙著『享保期の出羽代官と幕領村々』)。
 宝暦五年(一七五五)は奥羽地方は「宝五の飢饉」と呼ばれるような大凶作であった。大山村の名主両人は村内の者たちの年貢皆済のためばかりでなく、庄内幕領の他の村々の年貢未納などでいろいろ尽力したことであろう。
 明和年間に入ると、佐藤善右衛門家では明和三年(一七六六)と明和五年と、二度代替わりがあった。
 三代の善右衛門は寛保三年(一七四三)より明和三年まで二十三カ年に及んで大山村本町組名主を務めてきたが、同年七十四歳で病死した。そこで養子善六が相続して、善右衛門と改名し、本町組名主となったが、二年後の明和五年に病身のため退役し、養子八治郎に家督を譲った。

2019年1月1日号

【第116回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(上)】

江戸時代の大山村は戸数六、七百戸もあり、格段に大きな村であったので、代官所や代官役所が置かれたりしたこともあって、庄内の天領の中心として存在した。
 大山村も初め庄内藩領であったが、その後支藩の大山藩(一万石)の一村として分地された。ところが藩主酒井備中守忠解が寛文八年(一六六八)十一月に国元で急逝したが、後嗣がいなかったなどから、大山藩酒井家は断絶となり、大山領は翌九年六月に天領に編入され、以後幕府代官の支配の下に長く置かれたのであった。
 それまで大山村では滝波太郎右衛門が大肝煎(大庄屋)と名主を兼務していたとみられるが、天領になった際に退任したことから、一時大山村には大肝煎も名主もいないことになったようである。
 なお、庄内藩領では村の長を肝煎と呼んだが、天領では名主と呼んだ。役割は大体同じであった。
 大山村ではその後、大肝煎が任命されなかったが、名主には善右衛門(佐藤姓)が就任した。ただ、同家の史料でも名主に就任した年を寛文十年としたり同十二年としたりしている。十二年のこととすれば、天領になって三、四年の間、別の者が名主を務めるなどを考えなければならない。十年のことであれば、滝波太郎右衛門の在任が少し長引いたとみれば済むのではなかろうか。一応、寛文十年の名主就任とみておきたい。
 それより、文政三年(一八二〇)まで百五十年に及んで佐藤善右衛門家が大山村の名主を世襲で務めたのであった。以下、江戸時代、同家で書き上げた史料に主として拠りながら、同家について略述したい。
 善右衛門が名主になってしばらくの間、大山村の名主は一人体制であった。大きな村を一人の名主で取り扱っていくのは大変なことであった。なお、大山村には本町などいくつかの町があり、各町には肝煎が置かれていた。
 さて、大山村には当時、大肝煎がいなかったので、大山役所(陣屋)が置かれた大山村の名主は陣屋元名主として大肝煎に準ずる役割も果たすことになった。
 初代善右衛門は元禄三年(一六九〇)に数え五十一歳で病死したという。そうすると名主となったとみられる寛文十年(一六七〇)に三十一歳であったことになる。そして二十年間名主を務めたのであった。
 代わって忰右馬治が名主の役に就いたが、善右衛門と改名した。十八歳であったようである。同人も初め三年ほど一人名主であったはずである。
 元禄六年になって、権十郎(羽田姓)という者が村内の安良町組の名主になったので、以後二人の名主体制となった。そのため善右衛門は本町組の名主となった。
 しかし、どうやら権十郎はすでに貞享三年(一六八六)までには名主となっていたとみられる(「郷政録」鶴岡市郷土資料館)。そうすると、すでに初代善右衛門の在任途中から二人の名主だったことになる。
 権十郎は十数年名主を務めたが、十八世紀初めの宝永・正徳頃には辞任し、市郎右衛門(鈴木姓)に代わった。安良町組の名主はせいぜい一代だけの在任であり、そのため次々に交代するが、本町組名主善右衛門は交代せず、世襲したのであった。
 大山村の名主としての役割についても少し触れておこう。
 享保五年(一七二〇)秋、庄内は虫害により大凶作となった。そのため年貢はそれなりの減免もあったのに、天領村々でも年貢を皆済できない村もいくつかあった。そこで、陣屋元の名主であることから、依頼を受けて善右衛門は越後などに出向いて、合わせて金九百両を才覚して、未納の村々の年貢を皆済させることに努めたのである。
 また享保十九年には増川山入会地をめぐって、羽黒山領手向村(羽黒町)と庄内藩領や天領の村々の間で争いが再発したが、大山村名主善右衛門が取扱人の一人として内済に努めさせた。
 さて、二代善右衛門は寛保三年(一七四三)に七十一歳で病死した。十八歳で名主となり、それより五十四年にわたって本町組の名主に在任し、通常の仕事ばかりでなく、大山村の内外に起こった種々の問題に取り組んだのであった。
 代わって忰の善六が後任の名主となり、やはり善右衛門(第三代)と改名した。
 ところで、延享三年(一七四六)頃のことであるが、当時大山村の名主は善右衛門と喜右衛門(吉川姓)の両人であった。ところが、両人がそろって名主を辞任願いするという事態を迎えたことがあった。

2018年12月1日号

【第115回 平士から家老となった石原倉右衛門(四)】

 文化八年(一八一一)七月、中老となった倉右衛門は「御系譜」書上の御用掛となった。これは幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂をするので、酒井家の系譜を提出するためであった。
 二百石の加増があったとはいえ、中老としては少知であるので手当米百俵が年々与えられることになる。
 同年十二月、藩主忠器より直々に御地盤立直(たてなおし)御倹約掛を命じられた。
 同九年九月に前藩主忠徳が死去したので、倉右衛門が法事の惣奉行を務めることを命じられた。
 同十年七月、世子忠発の縁組御用掛を命じられた。
 同八月、家老の役を命じられ加増三百石があり、知行千石となった。倉右衛門を隼人と改名した。
 同月、養子蔵太(成裕)は御広間の番頭の見習いのことを願い出て許された。同月、隼人は前藩主忠徳の一周忌法事の奉行を命じられた。
 同十一年三月、蔵太は番頭代を務めるので、二十人扶持が与えられた。翌十二年七月、蔵太は正式に番頭を命じられ、十人扶持が加えられ三十人扶持となった。
 同年九月、隼人は願って乗輿御免となった。老齢となって歩行が容易でなくなったものか。江戸城登城の際にお供をするなどの際のこととみられる。
 同月、改めて御地盤仕法替倹約掛を命じられた。
 当時、庄内・由利天領は庄内藩の預地になっていたが、同年十二月に預地に対して私領同様の取り扱いが許された。
 それ以前から身体が不調であったが、文政元年(一八一八)五月に隼人は中風となった。藩主忠器・世子忠発などから見舞いの使者や薬などが遣わされた。
 同十月、御医師山岸道一が遣わされたが、同月二十三日に隼人は病死した。享年六十であった(『新編庄内人名辞典』)。隼人が病死したとして、鳴り物が江戸で一日、庄内で三日停止となった。歌舞音曲のことである。
 同年十一月、養子蔵太が家督(知行千石)を相続し、上座番頭となった。家老などの嫡子としての待遇がされたわけである。なお、庄内勝手となり庄内住まいとされた。ただ、蔵太はしばらく江戸にとどまっていたようである。忌中のためとみられる。
 長子道之助が嫡子となった。
 同三年二月に忌明けとなった。前年、老母が病気となっていたので、庄内に帰って、二、三年ゆっくり養生させたいと願ったこともあり、同四年秋に庄内に下ることが命じられた。それより先、鶴岡では石川主膳の揚屋敷が与えられた。
 同九月、藩主忠器に拝謁したうえで休息の御暇を賜った。そして、家内を引き連れ江戸を出立し、庄内に移った。
 しかし、同年十二月には、来る五年春に忠器上京の御供を命じられたので、五年二月に江戸に行き、四月に忠器の御供をして京都に登ったが、五月には江戸に戻った。同年九月に庄内に帰るが、この時も庄内に赴く忠器の御供としてであった。
 文政十年(一八二七)正月、蔵太は組頭の役を命じられた。組頭は家中組の隊長であり、名誉ある役職であった(『鶴岡市史』上巻)。同十二年十二月に、家中の武器取調掛を命じられた。
 天保四年(一八三三)正月に御家中勝手支配を命じられ、それまでの武器取調掛は解かれた。
 同五年十月末、支城亀ヶ崎城に交代で在番することを命じられて酒田に赴いた。あまり長期ではなかった。
 同年秋は、前年とは代わって非常な豊作となったので、城内で黒川能が催されたが、蔵太も見物を命じられた。
 同六年二月に嫡子道之助が病死したので、次男順之助(成知)を嫡子にしたいと願い許された。
 同八年九月、長沼流兵学の免状を許された。兵学の師匠は年代的にみて水野丹解であろうか。
 同九年三月、家中「打立」を忠器が閲したが、その際蔵太の組も出向いたことから、蔵太の組一同に肴が与えられた。
 同十一年十二月、嫡子順之助が初めて御目見し、嫡子並みの奉公することとなった。
 同月、酒井家の長岡転封令を受けて、蔵太は鶴ヶ岡城引き渡しの役目を務めるように命じられた。しかし、転封が中止となったので、その役目は果たさないで済んだ。
 同十四年正月、新藩主忠発が初めて国入りしたので、その御祝いとして城内で黒川能を観覧したが、蔵太も見物を命じられた。嫡子順之助と三男鎗三郎も見物した。
 すべてが順調にいっていたようであったが、弘化二年(一八四五)三月、蔵太は何か失策でもあったのか「御役不相応」として突如組頭を罷免された。
 蔵太の後を継いだ順之助改め石原倉右衛門は、組頭を経て中老となったが、戊辰戦争時に新潟で討死した。それなのに開戦責任者とされた。一旦石原家は断絶となった。
(終わり)

2018年10月1日号

【第114回 平士から家老となった石原倉右衛門(三)】

 寛政六年(一七九四)五月に勘右衛門が隠居したので、代わって聟養子主馬改め倉右衛門(成美)が知行三百石を相続した。同人はそれまでと同じ近習頭取のまま側用人席を命じられた。与えられていた知行百石は返還された。
 翌七年、参勤で帰国する藩主忠徳に付き従って鶴岡に帰った。同年十二月に役料二十石を与えられた。もっとも「名山蔵」(鶴岡市郷土資料館閑散文庫)では、前年六年のこととする。
 鶴岡での倉右衛門のことは、中老竹内八郎右衛門「日記」抄(『山形県史近世史料』2)に何度か出てくる。例えば、八月二十五日には、 一石原倉右衛門により封印ニ て御意之旨申来ル
とあり、藩主忠徳の書状が倉右衛門を介して老臣に届けられていたことが知られる。
 寛政八年五月に農村復興に関しての取り次ぎを命じられた。前年に庄内藩の寛政改革が始まったからである。七月には小姓頭席及び老職が詰める御用部屋への立ち会いも命じられた。十二月には精勤したとして小姓頭次席を命じられた。
 同年十月、藩主忠徳が明年九月に京都への使者を務めることになったので、倉右衛門は上京の御用掛に就いた。
 翌九年四月、忠徳上京の御供を命じられたが、その際格別の思し召しによって金十両を与えられた。五月、京都では忠徳が参内する度に御供するように命じられた。
 同八月、倉右衛門は小姓頭兼帯とされ、九月に加藤宅馬次席となった(「名山蔵」)。
 十月、倉右衛門の知行が少ないからと、米三十俵を年々手当に与えられることになり、また増役料三十石を加えられ、役料五十石となった。小姓頭は通常知行六百石前後の高禄者が務めるものであった(『鶴岡市史』上巻)。
 寛政十年正月、養父勘右衛門には妾腹の男子がいたが、倉右衛門はその男子(蔵太)を自分の嫡子にしたいと願い出て許された。
 六月、本役同様に倹約掛を命じられた。寛政改革に本格的に関わることになったのである。
 八月、忠徳の帰国に御供し、十二月に小姓頭本役に任じられ、それまでの役料五十石は加増となって知行三百五十石となったうえ、改めて役料五十石を与えられ、都合四百石高となった。翌十一年五月の参府でも御供を命じられて江戸に登った。
 同年十二月、藩は家臣に課していた上米(あげまい)を半分に減じたが、それにより倉右衛門に与えられていた三十俵の手当米は中止とされた。
 同年、幕府は大名・旗本らの系譜を全面的に改撰することになり、そこで酒井家では系譜を改めて提出することになったので、享和元年(一八〇一)春に家老松平内膳などを御用掛に任じたが、倉右衛門もその一人であった(「二天間記」、郷土資料館庄内古記録)。
 享和二年十二月、倉右衛門は加増百石があり、五百石高となった。
 翌三年六月、庄内藩は東海道及び甲州の川々の普請手伝いを命じられたが、倉右衛門は副奉行に任じられた。その件で、十二月に江戸城において老中戸田采女正より白銀・時服などを与えられた。
 文化二年(一八〇五)七月、忠徳が隠居するので、倉右衛門は江戸・下谷藩邸の奥普請掛を命じられたし、世子忠器が新藩主に就任するので、八月にその御用掛とされた。
 なお、その隠居した忠徳より郡代白井矢太夫に紋付きなどが内々で与えられることになったが、そのことは「御小姓頭石原倉右衛門」より通知があったのである(白井矢太夫「勤書」、郷土資料館白井家文書)。
 普請したばかりの下谷の新邸が翌三年三月に類焼したので、四月に倉右衛門は再び普請御用掛を命じられた。もちろん立派に再建したことであろう。
 同年五月、嫡子蔵太が家老たちに会って、嫡子並み奉公することを言上した。
 同年十一月、翌四年の藩主忠器の婚礼御用掛を命じられた。文化四年十二月に忠器が従四位下に昇進するので、やはり御用掛を命じられて、役料五十石が加増された。知行五百石となったのである。
 文化六年六月、倉右衛門は御地盤御倹約掛を改めて命じられた。御地盤というので、主として藩自体の財政の倹約掛であろう。
 翌七年十二月、支藩松山藩より酒田・本間家に財政のことで依頼する際に、倉右衛門が世話をしたのであり、藩主大学頭より御礼の直書で御肴などが贈られた。
 そして、文化八年に庄内藩に政権交代があり、倉右衛門は中老に任じられ、加増二百石があって、知行七百石となった。

2018年8月15日号

【第113回 平士から家老となった石原倉右衛門(二)】

 延享四年(一七四七)十二月、石原勘右衛門(五代成信)は物頭として兵具支配加役を命じられた。
 寛延二年(一七四九)九月、藩主酒井忠寄が老中に就任したが、その際に拝領した屋敷を受け取る役目を命じられて、勘右衛門は足軽たちを率いて受け取りに出向いた。同月、当分大目付の役も命じられた。
 宝暦元年(一七五一)閏六月に勘右衛門は番頭代を命じられたし、その後も番頭代や奏者加役を何度か務めた。
 同四年正月、嫡子蔵太が世子忠温(ただあつ)の近習当分となった。なお、乙吉を蔵太と改名したものである。同七年七月に蔵太は正式に忠温の近習となると共に腰物方加役となった。九月にまた蔵太を才治と改名した。
 翌八年十月、才治は忠温の御供支配兼帯となった。同十年四月に御供支配のまま、忠温の三男忠徳(ただあり)の御抱守加を命じられた。忠徳は宝暦五年十月の生まれで、その時数え六歳であった。同十二年十一月に才治は抱守本役となった。
 同じ十一月に勘右衛門は病気のため、役目を務めがたいとして辞職を願い出て、隠居することが許された。七十歳であった。
 代わって才治(成苗)が六代当主となり、高二百五十石を相続した。石原家は引き続き江戸詰であり、御広間御取次見習を命じられた。
 明和元年(一七六四)五月に才治は物頭となり、御兵具支配加役を命じられた。同年六月、勘右衛門と改名した。
 翌二年五月、勘右衛門は物頭・兵具支配のまま、忠寄の四男万之助(本多康伴)付きを命じられた。しかし、万之助が本多下総守(膳所藩六万石)の養子となったので、御付きは御免となった。
 明和三年に足軽倹約方を命じられた。足軽たちの暮らしが困窮していたことから、上司である物頭として生活改革を監督したのだろう。同十二月から番頭代・奏者代を度々務めた。
 翌四年十一月、前藩主忠温の一周忌の法要に際し、大目付代を命じられた。同五年七月、貸物方加役を命じられた。同七年五月、留守居の役を命じられ、役料五十石が与えられたので、三百石高となった。
 安永六年(一七七七)八月、藩主忠徳夫人脩(なお、仙寿院)付きの頭役を命じられた。その際、それまでの役料五十石が加増された。用人次席(用人格)となった。家格が上昇したのである。
 勘右衛門には男子がなかったので、家中長沢牛兵衛の弟主馬を聟養子とした。牛兵衛は高六百石で用人を努めており、上士であった。
 天明元年六月の御勝手御用掛となった本間光丘が立案した「天明御地盤立」(『鶴岡市史』上巻)に基づく財政改革の一環として、夫人付きの頭役も減員とされて「一人勤め」となったが、勘右衛門が引き続き一人で務めた。
 奥の勝手向には当時借財があって、それまでは藩財政の方から返済されていたが、勘右衛門の尽力によるものであろうか、御奥地盤金が設けられ、藩財政から自立し、自己責任で返済したのであり、そのため夫人より言葉があった。尽力に対して感謝を表したのであろう。同年六月、用人席を命じられた。
 天明三年(一七八三)四月、役料三十石が与えられ、三百三十石高となった。同八年三月に奏者を命じられたが、席順はそれまで通りの用人席であった。番頭の方も務めるように命じられた。
 寛政二年(一七九〇)六月、一代番頭を命じられたが、席はそれまで通りであった。
 以前から足痛があったので、参勤交代で帰国する藩主忠徳に随って鶴岡に帰り、温海へ湯治に行きたい旨を内願したところ、七月に許されたが、奏者の振合でとされた。奏者の格での帰鶴・温海湯治が許されたのである。勘右衛門にとって、あるいは初めての帰郷だったかとも思われる。
 湯治が終わると直ぐに江戸に戻ったものか、八月には御広間倹約を命じられた。
 翌三年六月、京都の御所改築完成の祝いのため、勘右衛門は同地への使者を命じられて京都に登って役目を務めた。
 江戸に戻ると、参勤で出府していた忠徳が不快のため将軍に拝謁ができないので、その件につき使者を命じられて、江戸城に登った。
 同年十月、夫人が実家の田安家に帰る際、組頭代を命じられて御供した。同五年八月にも田安家へ御供し、やはり組頭代を命じられた。
 勘右衛門は寛政六年五月、老年につき隠居を命じられた。願い出ていて許可されたのであろう。聟養子主馬(蔵太)改め倉右衛門が相続した。同人は家老まで出世することになる。

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