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人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

2024年4月1日号

【第147回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(三)】

 文政四年(一八二一)三月の時点で荒井伝右衛門家は御用達並であった。特権商人として御用達と同様に扱われた。(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。
 同じ七月、伝右衛門は伜伝吉との長人役の父子勤め願いをした。長人は各町とも数人おり、有力者から選ばれるのである。七日町でも肝煎一人のもとに数人の長人がおり、相談役とでも言うべき役目であった。
 当時、第五代伝右衛門は年令が四十一才であり、長人役を勤めていたが、疝気の持病があったため、父子勤めの願いをして許可された。腰や胃など内臓のあたりに痛みがあったのであろう。なお、伜伝吉が後に心学を広めた和水であったと推測される。
 同じ年九月に酒井家の姫君が死去したので、鳴物の七日間停止などを命じる通知が町大庄屋両人より町年寄や御用達たちになされたが、その中に荒井伝吉の名前があった。当主伝右衛門ではなく伜伝吉であるのは何か事情があったのであろうか。それでも代替りがあったのではなかったようである。
 同じ年の十一月のこと、翌年藩主酒井忠器(ただかた)が上京することを命じられ侍従に任じられた(『酒井家世紀』)。伝右衛門は恐悦のためとして寸志米五百俵を提供した。称誉として紋付上下一揃、紬一反、酒が与えられた。
 文政五年二月に伝右衛門は七日町の大通りに面しているとみられる家一軒などと裏通りにある家二軒、ほかに長屋一軒、土蔵一棟を合せて金一八八両で一日市町(本町二丁目)金助に永代に売り渡した。これによって荒井家は七日町の家屋敷を引き払って五日町に移ったとみられるが、その後もなお七日町と関わりがあったようである。
 同年四月、松の木一本を庭木として差し上げた。庭木を提供するというのは珍しいことであった。忠器の御居間の近くに植えられて忠器の日常を慰めようというのであろう。
 文政七年五月、才覚金百両を寸志で差し上げたし、当時庄内藩の預り地となっていた天領蛸井興屋村(藤島地域)に所持している田地であり、作徳米(小作米)四十五俵四斗(一俵四斗八升入)で地敷金二二九両三歩の地を櫛引通の農民を救済するために櫛引役所に寸志差し上げたいと願って許された。称誉として永々二人扶持を加えられて、都合永々十二人扶持となったようである。同時に代々御米宿次席御用達となった。御用達並から正式の御用達に進んだのである。
 ちなみに、上中目(藤島地域)富樫家には先の田地寄進の際の証文が残されている(上中目富樫家文書)。
 文政八年四月、伝右衛門は才覚金二百五〇両の提供を命じられて上納したが、九月に返済された。同時に藩主忠器の上京のため、才覚金二百両を命じられて上納したが、それも文政十二年十二月に返済されたとする。しかし、文政八年の忠器の上京は幕府に命じられたはずであるのに、そんな大事なことが『酒井家世紀』などには記載がない。荒井家の方の記憶違いなどではなかろうか。
 文政十三年五月に四所宮(春日神社、神明町)で五両掛無尽が町内連中によって開催されたが、金屋(風間)幸右衛門、田林半九郎、地主宗次郎などのメンバーから判断すると、町内というのは五日町(本町一丁目など)のことであったようである(「御用達長人の御用留」鶴岡市郷土資料館荒井家心学史料)。荒井家も連中の一人であった。
 同年の秋の頃であろうが、五代目の伝右衛門は隠居が許された。
 同年十二月、藩は御用達たちに金三千両の拝借を許した。伝右衛門も借用した一人であった。この頃の藩は財政的にゆとりがあったのであろうか。
 天保元年(一八三〇)が凶作だったので、翌春、伝右衛門は困窮者に施行のため米十四俵を提供したので、藩より称誉の料理が与えられた。
 天保四年秋はまれにみる大凶作だったのであり、米の値段が高騰したので困窮者に米十三俵を施行のため提供した。同年十月、才覚金百両を命じられて上納したところ、同六年に返済された。
 同じ四年のこととみられるが、伝右衛門は自家のことを次のように記していた(同前)。
   代々御米宿次席御用達
 一、七分二厘五毛六払役
     質並に木綿家業
  当三十三歳 荒井伝右衛門(以下略)
 これによれば、当時家族は九人で男四人、女五人であった。ほかに召仕六人(男四人、女二人)がいた。屋敷が七分二厘余役で以前と変わらないので、本拠というべき家屋敷は引き続いて七日町にあって、五日町の店はなお出店であったとみられる。家業は質屋兼木綿商であった。

2024年2月1日号

【第146回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(二)】

 四代目の荒井伝右衛門の病死により、五代目の伝右衛門は享和二年(一八〇二)十二月に家督相続が許された。幼名丑吉といったが伝右衛門を襲名したのである。
 その際申し渡されたのは、もし四代伝右衛門が存命であれば称誉するところ、すでに亡くなっているので、代わって今度一人扶持を増して三人扶持にするというのである。
 なお、寛政八年(一七九六)に荒町(山王町)の下山王社の当屋を勤めた(「下山王御当始覚」郷土資料館富樫家文書)、四代目の時である。七日町(本町二丁目)でも相当の商人とみなされていたのである。  享和三年正月には、伝右衛門が難渋の者に同情して色々施行を行っていると、増扶持とは別に米三俵が与えられた。
 当時、五日町(本町一丁目)の豪商地主長右衛門の名子であったとする。名子とは地主家が持つ店を借りているのである。荒井家は七日町に家屋敷を持つとともに、五日町に店を構えていたわけである。旅宿の多い七日町より五日町の方が商売に向いていたのであろう。
 なお、その頃の荒井家は当主伝右衛門が六十五才であり、女房と倅・伝吉の家族と、合せて六人家族であった(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。
 同年五月、庄内藩は甲州筋川々普請の手伝いを行って金二万一三二〇両を費したのでそのため荒井家は御用金二十両を命じられて上納した。
 文化二年(一八〇五)三月に、仙台藩の奥山大学という家臣の祖先が昔、大坂の陣の折に用いた唐銅鉄砲三十挺が払われたので、それに新たに仕立てられた唐銅鉄砲二十挺と、合せて五十挺を仙台で購入し、藩に寸志として差し上げたいと願って許された。
 ほかに小姓具足二十領のうち十領を同四月に上納した。藩の会所に持ち込んで家老たちに見分してもらった。それらは最上の武器武具であるので、専ら海辺の備えに向けると申し渡された。なお傷みの出た分は仙台に指し戻して、何度でも鋳直すとしていた。
 それまで、寛政九年(一七九七)にも寸志を差し上げたし、同十一年にも歩行立具足百領を差し上げたうえ、享和元年(一八〇一)には小姓具足三十領を差し上げたく願い出て、翌二年まですべて上納した。そのため購入すべくしばしば近国に出向いた。
 それらを賞されて文化二年五月に、二人扶持を増され五人扶持となった。
 翌三年三月、江戸の柳原・下谷両藩邸が類焼したので、御用金四十五両を命じられて上納した。ほかに才覚金七十両も命じられたので、翌年までに上納した。この分は文化十二年(一八一五)までに、年々分割して返済された。
 文化四年三月、前出の小姓具足二十領のうち残り十領と共に、甲冑並びに唐銅鉄砲を追々差し上げたので、また二人扶持を加えられ七人扶持となった。
 同五年七月、馬廻り具足三十五領を会津に注文し、新規に仕立てて取り寄せ、寸志に差し上げたいと願って許され、城内の白木書院三の間で飾り立てて御覧に入れたうえで、兵具方に納めた。藩主酒井忠器が在城中だったのであろう。その件での称誉として、二人扶持を加えられて永々九人扶持となった。
 同十二月に、小姓具足二十領差し上げたとして、称誉に一人扶持を加えられ、永々十人扶持となった。
 文化十一年(一八一四)十一月、近年藩の支出増が続いているので、米七百俵の寸志上納を願い出た。もっとも当年から三ヵ年で差し上げるものであり、ほかに町方備えの籾二百俵を五ヵ年で寸志差し上げの件も願い出た。
 同じ十一月中に願いの通り許されたし、称誉として御用達並を命じられた。荒井家は特権商人の一人となったわけである。それより城下の外に出る場合は帯刀して往来することも許された。
 同じ年十二月、翌正月に年始めの御目見が出願の通り許されたので、正月に御目見したのである。
 文化十二年(一八一五)他国を往来するのに御伝馬を与えられた。馬に乗って行き来したのである。
 文政三年(一八二〇)十二月、荒井家は谷口金兵衛という商人より金二百両を借用した(「借用申証文之事」、「御用達・長人の御用留」郷土資料館荒井家心学史料)。島村(千石町など)の地主永吉という者から田地を購入するためであった。
 同四年正月に、母方の祖母が病死したので、正月の御目見は欠席した(「鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書」下巻)。  同年三月に倅・伝吉が伊勢参宮の願いをして許されて出かけて行った(同前)。
 同年五月のこととみられるが、菩提寺蓮台院の庫裏の屋根直しに際し、寺社方役所への二十五両の拝借願いが許されたが、荒井家は檀家惣代の一人であった(「御用達・長人御用留」)。