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人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年鶴岡南高校卒業
昭和41年慶応義塾大学卒業
昭和49年東京教育大学大学院退学
昭和61年明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

6月1日号 第112回  平士から家老となった石原倉右衛門(一)

江戸時代の後半に、庄内藩の平士から重臣に進み、家老や中老を務めた石原倉右衛門という家があった。  殊に、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争に際し、中老だった倉右衛門(成知)が、六月の新潟での奥羽越諸藩の重臣会議に出席し、帰国の途中官軍に襲撃されて死亡していたにもかかわらず、降伏後に開戦責任者とされて、石原家が一旦家名断絶となったことは、庄内では忘れてならない歴史である。
 今回、石原家について、文化八年(一八一一)からの中老を経て、同十年八月に家老となった倉右衛門(成美)までについて述べることにしたい。  記述は、石原改め酒井家に残されている「先祖勤書」を中心に記すことにする。
 初代石原勘左衛門は会津藩蒲生家に仕えていたが、寛永四年(一六二七)に浪人になったと推測される。
 寛永十四・十五両年に及んだ九州・島原の乱に際し、柳川藩立花家の人数に加わって参陣して高名を上げた。それによって庄内藩に召し抱えられたのである。
 庄内藩の『大泉紀年』(上巻)にも、寛永十五年に新たに召し抱えた者の中に、
  高弐百五拾石
       石原勘左衛門
とある。正確に言えば、藩主酒井忠勝の世子忠当に召し抱えられたのである。知行二百五十石であった。
 勘左衛門は、忠当の代の承応元年(一六五二)に物頭の役に就き足軽組を預かった。万治三年(一六六〇)に普請奉行に転じた。翌寛文元年正月に江戸の上屋敷が類焼したので、勘左衛門は藩邸再建の作事奉行を命じられた。
 勘左衛門は寛文六年(一六六六)に六十四歳で病死した。子の喜大夫が知行二百五十石を相続した。
 同十一年に喜大夫は使番の役に就いて、勤番のため江戸に登ったが、同年同地で病死した。まだ二十一歳であった。
 弟の勘右衛門(成定)が跡を継ぐが、知行は二百五十石のうち百五十石が与えられた。
 勘右衛門は天和二年(一六八二)に代官の役に就いた。狩川代官だったようである。
元禄元年(一六八八)に郡奉行となり狩川通を担当した。二年後の同三年に三十四歳で病死した。
 勘右衛門には男子がいなかったので、弟勘左衛門を末期養子にして相続させることにしたが、知行がまた三十石減じられ、百二十石となった。最初の知行が半減以下になったことになる。勘左衛門は勘右衛門(成章)と改めた。
 同人は元禄七年に川北・荒瀬代官に就いたが、同九年に罷免された。その後残物改の役を経て同十四年十月に江戸に登り供頭の役に就いた。藩主忠真の外出時の行列を警衛する供廻りの責任者であったろうか。
 宝永元年(一七〇四)に加増百石があったので、知行は二百二十石となった。
 勘右衛門は正徳五年(一七一五)十一月に五十五歳で病死した。実子とみられるが、嫡子が知行二百二十石を相続し、勘右衛門(成信)を名乗った。同人は定府となっており、享保元年(一七一六)八月に江戸で書院目付の役に就いた。その後、御金方などの役を経て、同七年六月に使番を命じられた。
 同十年、藩主忠真が幕府の使者として上京するに際し侍従に任じられたことに関連して、勘右衛門が京都に派遣された。
 享保十四年閏九月に三十石の加増があって、知行二百五十石となった。石原家の最初の知行にようやく戻ったのである。同年十月物頭の役となり、江戸の兵具支配を命じられた。引き続き江戸詰だったのである。
 元文四年(一七三九)八月に、庄内藩は日光普請の御手伝いを命じられたので、勘右衛門は普請奉行並びに目付の兼務となった。普請御手伝い中は日光に常駐したのではなかろうか。
 翌年七月に御普請が成就したので、藩主忠寄の前で金二十両と帷子(かたびら)が与えられたし、老中松平伊豆守(信祝)からも白銀二十枚を頂いた。
 寛保元年(一七四一)八月、幕府の使者として藩主忠寄が上京した。その留守中に勘右衛門は大目付兼帯を命じられた。
 延享二年(一七四五)七月に、嫡子乙吉が藩主忠寄に初めて御目見した。乙吉を石原家の後継者として認めてもらったことになろう。乙吉は同四年四月に中奥小姓に召し出されて御切米金十両と三人扶持(一年に玄米五石四斗ほど)を与えられた。中奥は藩主が日常過ごす場所であり、小姓は藩主に近侍して雑用を務めたのである。この頃はまだ中級の家臣であった。

4月1日号 第111回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(四)

 白井矢太夫は文化四年(一八〇七)六月、江戸で小姓頭に任じられ、百石加増となり知行四百石となった(「白井矢太夫勤書」)。小姓頭は近習、小姓等の小姓組を統轄する役で六百石前後の高禄者より任命され、いわゆる旗本の隊長であり、藩より藩士に伝える御触は組頭と小姓頭の名前で出された(『鶴岡市史』上巻)。藩校の祭酒の役はこれまで通りとされた。
 同年四月八日に鶴ヶ岡に大火があって、白井邸も類焼していたので、御用屋敷の内北の方の屋敷を与えられた。
 翌五年正月に中老に昇進し財政担当を命じられて、加増三百石が与えられ、知行七百石となった。
 その後郷方御用懸かりと藩校惣奉行を命じられた。また六年五月には江戸藩邸の惣検約についての取り扱いも藩主忠器の直書で命じられた。
 文化七年正月に加増百石があり、知行八百石となった。
 ところが、同年冬に疫を煩って一時は危険な病状であった。その後も十分に回復していないのに、仕事が溜まっていると言って、暮れに無理に出仕したという。
 そのためか、翌八年正月に中風となった。危篤の状態にもなったが、何とか大事は脱したものの、半身不随となったのであり、手足が利かず、言語も不明瞭となったという(「野中の清水」)。
 大殿忠徳の直書があって、四月には江戸に登る予定であったが、病気となって不可能となった。忠徳と再会するのを楽しみにしていたことであろうが、結局、忠徳に会うことは叶わなかった。
 ところで、矢太夫とは直接関わらないところで、ある事件が起こって、それがキッカケとなって、矢太夫の身にも重大事が及ぶことになった。  文化六年(一八〇九)六月、江戸詰だった元締(もとじめ)坂尾儀太夫という藩士が交代により鶴岡に戻る途中、仙台領関宿(宮城県七ヶ宿町)に宿泊したが、初めて泊まった宿である最上屋の主人五郎右衛門が不埒であるとして手討ちにする事件が起こった。
 藩では初め事件をあまり重大事にとみていなかったが、仙台藩との間の交渉が難航した。結局、坂尾儀太夫が当時精神錯乱していたとして、知行を取り上げ蟄居としたことで、何とか片付いたのであった(『鶴岡市史』上巻)。
 この事件はそれだけでは済まなかった。
 文化七年九月、藩主忠器が参勤交代により江戸から庄内に帰る途中、関宿で何か不快なことがあり、翌八年五月の参勤で出府する際には関宿を通らず、コースの一部を変更し、米沢を通り板谷峠を越えていく通路をとった。ただ、その通路変更についての幕府の許可状が届かず、発駕の日を延期したものの、所定の参勤の期日が迫ったことから、家老竹内八郎右衛門が決断し、幕府の許可状を受け取ることなしに出発した。板谷越えではかなり苦労したが、無事江戸に到着した。
 しかし、その件で幕府の不興を買ったようだという。
 藩主忠器はそのことを問題視し、江戸家老加藤衛夫を庄内に下し処分を申し渡させた。
 七月に、家老竹内八郎右衛門・中老白井矢太夫は御役御免のうえ隠居を命じられた。この両人にとどまらず、両家の一族数十人も御役御免となった(同前)。郡代を務めていた白井惣六(矢太夫の弟)も罷免となった。
 白井矢太夫の隠居により、嫡子重明が家督相続をしたが、知行は半減し四百石となった。
 右の処分について、白井家では理由がわからなかったようである。白井惣六の著「野中の清水」では、「いかなる事によりけん」と記していた。理由が明示されなかったわけである。
 処分について、病床にあった矢太夫には初め内緒にしていたが、いつまでも隠しておくこともできないので、ある日その件を話したところ、それほど驚いた様子でもなかったが、長く歎息したうえ、忠徳から頂戴した直書を取り出させて拝見し、涙をはらはらと流したという。実際には衝撃を受けたのである。
 そのこともあってか、次第に病が篤くなって、文化九年(一八一二)六月二十四日に没した。六十歳であった。因みに文化二年九月に隠居し、大殿と称されていた前藩主の忠徳も中風となって、同じ九年九月に五十八歳で死去した。
 寛政改革を中心となって推進した主従が揃って亡くなったのであった。改革の終焉となったのである。  竹内、白井派に代わって政権を担当したのは水野東十郎(内蔵丞)であった。竹内・白井派によって藩政から遠ざけられていた酒田・本間家も藩政の関わりを復活する(『鶴岡市史』上巻)。
終わり

2月1日号 第110回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(三)

 寛政五年(一七九三)五月に、白井矢太夫は郡代の役に任じられた。庄内藩では郡代は農政を総括する役職であり、また藩の経済を司る役でもあった。三百石以上の家中から任じられた(『鶴岡市史』上巻)。矢太夫はそれまで高二百五十石であったので、役料五十石が与えられ、合わせて三百石高とされた。
 また、以前郡代を務めた加藤三太夫の揚がり屋敷が与えられた。
 同六年四月に御用のため江戸に登って、七月に庄内に戻った。おそらく藩主酒井忠徳から郷村の改革の方策などについて相談を受けたのであろう。  そして、同七年五月、忠徳は疲弊の著しい郷方の改革を行うことを申し渡し、矢太夫はその担当を命じられた(白井家「先祖勤書」鶴岡市郷土資料館)。庄内藩の寛政改革の始まりである。
 前年、忠徳の諮問に答えて、それまでの藩政の得失と改革について上書していた(『新編庄内史年表』)。おそらく、その年四月に出府した時に提出していたものであろう。
 寛政改革は右の上書に基づいて実施されたものである。
 因みに、七年五月、郷方改革の御用掛として中老の竹内八郎右衛門・酒井吉之助、郡代の服部八兵衛・白井矢太夫が命じられたが(同前)、中心を担ったのは白井矢太夫であった。
 寛政改革以前においても、酒田の豪商本間光丘を登用して財政整理や農民救済に取り組んだが、その際の基本的な施策は、本間家が低利の金子を融通して、高利の借財・借金を整理しようというものであったといえる。
 それに対し、白井矢太夫は「只眼の前の事のみにて、諺に云飯の上の蝿を追ふとやらんにて、年を経ずして又崩るるのみかは、いよいよ困窮まさり」(「野中の清水」)として、眼の前のことに対処するだけで、根本的な解決にはなりえず、かえって困窮が増すことになると考えていた。  なお、徂徠学を心から信奉していた矢太夫は、基本的に重農主義的な考えに立ち、商業や商人は利をのみ追うものと考えていたのである。  寛政八年十一月、命じられて矢太夫は急ぎ江戸に登った。これは、将軍徳川家斉の世子家慶が大納言に任じられたに際し、忠徳が使者として京都に上ることになったので、それに関連した御用を務めるように呼ばれたもので、翌年まで在府した。
 そのうえ、七月には御用で大坂まで行くことになり、御用が終えて八月に庄内に戻った。
 財政整理に関わって、上方の商人などに交渉したものであろうか。
 寛政十年二月にも藩の財政御用のため、江戸に登った。そして六月には忠徳などの江戸での暮らし方について、改めることを命じられた。藩主などの江戸での出費が嵩んでいたので、その整理・削減ということであろう。直ぐに何か方策を立てたのであろうか、八月には庄内に戻った。  参勤交代の制度があって、藩主は一年おきに江戸と庄内を行き来したので、寛政改革の担当者として多忙だったであろう矢太夫も、しばしば呼ばれて江戸に行くことになったわけである。
 寛政十一年三月、矢太夫の二男道之助が嫡子となり、初めて忠徳に御目見をした。そして嫡子並の奉公をすることになった。矢太夫の後を継いだ重明のこととみられる。
 それより先、同十年八月に大宝寺に学問所を建設することになって、矢太夫は普請奉行となって、その建設のことも担当した。もともと学問所設置を進言したのは矢太夫であった。間もなく学問所は学校と称されることになる。
 学校が竣工すると、矢太夫は祭酒を命じられた。今でいえば理事長か学校長ということであろう。
 享和元年(一八〇一)七月にも御用のため江戸に登り、十二月に庄内に帰った。
 同二年五月、数年の精勤を理由に用人席とされた。身分が上昇したのである。
 同三年正月には、役料の五十石が加増とされ、高三百石となった。
 文化二年(一八〇五)二月、藩校致道館の落成式が行われたのであり、その際矢太夫が祭主として孔子を祀る典礼である釈典を挙行した(『鶴岡市史』上巻)。
 同年九月に、藩主忠徳が隠居し、二男忠器(ただかた)が八代藩主となった。
 藩主が代わっても、矢太夫に対する信頼はしばらく続くことになった。
 文化三年三月に、江戸に急登りを命じられて出府した。その際、矢太夫が著した易経の注釈書を忠器に献じた。忠器はそれを致道館で出版することを命じたという(『荘内史年表』)。

12月15日号 第109回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(二)

 白井矢太夫の祖父白井久兵衛(茂種)は徂徠学の徒であり、また郷土史研究の先駆者の一人であった。著作に「耳口録」があって『鶴岡市史』(上巻)では「耳口録は荘内判物、諸掟、諸仰出され書、多くの事件関係文書、聞書等を集録したもので、郷土史研究に多くの資料を提供してくれる」と評価している。
 右のような茂種なのに『新編庄内人名辞典』はなぜか独立の項目を立てず、孫の矢太夫のところで少し言及しているだけである。茂種は明和八年(一七七一)に死去したようである。
 矢太夫の父久兵衛(久右衛門)茂貞は祖父茂種によれば、生来病弱であり、学問に専心できなかったという(白井重固「野中の清水」)。  その後健康になったものか、茂貞は藩士として精勤した。「白井矢太夫勤書(仮題)」(鶴岡市郷土資料館白井家文書)によれば、茂貞は明和七年三月に御使番を命じられ、同九年三月に物頭となった。安永八年(一七七九)正月に惣鉄砲支配加役を兼ねた。そして翌九年八月に大目付になった。
 父茂貞は天明四年(一七八四)十一月、近年病身であるとして辞任願いをして、十二月に許可されて隠居した。
 代わって嫡子矢太夫(重行)に家督相続(高二百五十石)が許された。宝暦三年(一七五三)の生まれなので(『新編庄内人名辞典』)、数え三十三歳の時であった。
 以下、矢太夫の経歴については前出の「勤書」に則りつつ「野中の清水」により弟白井重固の回想も併記して述べることにしたい。
 明和三年(一七六六)十二月に家老中と逢って「嫡子並」が許可されていた。白井久兵衛家の後継者とみなされたのであろう。
 ところで、矢太夫がまだ幼少の頃から、祖父茂種は「年長せハ必らす国家の御用にも立べきものぞ」と日頃から、将来を期待して口にしていたという(「野中の清水」)。なお、この場合の国家とは庄内藩のことであろう。
 十二、三歳の頃か、茂種が経書の素読を指導したが、その頃はあまり熱意をみせなかったようで、その頃はむしろ「国初の記録の書をのみ好みて読」(同前)んだという。庄内藩初期に関心があって、その関係の史料を読んだものか。
 それでも茂種は病弱の茂貞ではなく、孫の矢太夫に期待をかけて、自分が筆写していた徂徠の著作類や収集していた古書を矢太夫に皆与えたという(同前)。
 子供の頃の祖父との関係があって、次第に徂徠学に近付いていったのである。
 矢太夫は二十歳を過ぎてから学問に専心するようになり、夜昼となく古書を読み詩文の習練にも努めたという。
 水野元朗の後、藩内に徂徠学を広めるのに功績のあった加賀山寛猛(桃李)の経書の会読会にも出席したが、矢太夫の学識は秀でていたのであり、寛猛も自分の後を継ぐのは矢太夫であると期待していたという。
 二十八歳の年の秋に、江戸でより博く学びたいと願い出たところ、直ぐに許可されて江戸に上った。「勤書」にも、安永九年(一七八〇)といえば、まだ部屋住みの身であったが、
一、同九年子九月江戸え罷登、 詰中学問稽古仕候よう仰付 られ、江戸え罷登、御広間 等相勤、御用の暇学問稽古 仕候
と、勤めと同時に学問をすることを命じられ、実際勤務の合間に学問に取り組んだとする。
 ところが、天明二年(一七八二)四月のこと、「在勤中勤方之儀ニ付」として「道中慎之体」で庄内に戻ることを命じられ、鶴岡到着後の五月二日に逼塞を命じられ、七月十二日に宥免された。何か役目上で失策があったものであろうか。
 そして、前述のように天明四年十二月に、父茂貞の隠居により、矢太夫が家督を相続した。
 天明七年正月に鎗奉行を命じられた。
 翌八年十月、藩主酒井忠徳より城内の白木書院で論語の講釈を行うことが命じられたのであり、一カ月に三度ずつ実施した。忠徳在府中は場所を移して家臣向けに講釈をし、数年続けられた。
 天明九年正月に物頭を命じられた。寛政二年(一七九〇)十二月に惣兵具支配加役となった。物頭在任のままに兼務したのであろう。  同三年四月に大目付当分となり、同八月に大目付本役を命じられた。
 翌四年五月に江戸に呼ばれたので出府したが、間もない七月末に帰国する藩主忠徳の御供をし庄内に戻ることになった。
 論語の講釈などを通じて、忠徳は矢太夫の学識や人物を高く評価するようになり、藩政に関する諸問題についての相談相手として頼りにするようになったとみられる。
10月1日号 第108回 寛政改革時の郡代白井矢太夫(一)  白井矢太夫(重行)といえば、寛政改革の時の郡代として、また藩校致道館設立を説いた賢人として、庄内史ではよく知られた人物である。  従来、ほとんどふれられていないが、今回はまず矢太夫の先祖について少し述べてみよう。
 『新編庄内人名辞典』では、白井矢太夫の祖である白井与三兵衛(与惣兵衛)のことが載っている。そこでは与三兵衛を白井惣右衛門(重敬)の二男とする。
 白井惣右衛門の家はもともと徳川家の直臣であったが、家康の命で酒井忠次に仕えたのであった(『大泉紀年』下巻)。
 さて『大泉紀年』(上巻)では、寛永十年(一六三三)に召し出されて新知を与えられた者として、
    白井吉兵衛二男
 高百五拾石 白井与惣兵衛
とあり、与三兵衛を白井惣右衛門ではなく、白井吉兵衛の二男とする。父親である吉兵衛こそが惣右衛門の二男であった(『新編庄内人名辞典』)。  酒井家が元和八年(一六二二)に庄内に入部した当時、白井惣右衛門は組頭であり、家老に次ぐ地位にあった。白井吉兵衛は大山代官であった(『大泉紀年』上巻)。
 白井与三兵衛が知行百五十石を与えられた事情について、寛永十年(一六三三)に、
 公(忠勝)五条野へ御放鷹遊ばされ、御戻之節御馬を駈させられ、御供続き随ふものなかりしに、ひとり白井吉兵衛重敬か二男白井与惣兵衛、奔馬に引続き、御城中迄御供仕候付、即刻新知百五拾石を賜り…
         (同前)
とあり、最上川北岸の五丁野で放鷹が催され、終わると藩主忠勝は奔馬を駈って独り戻ろうとしたが、白井与惣兵衛が続いて城中に戻ったことから、即刻新知百五十石が与えられたとする。
 白井与三兵衛は右のように馬術に秀でていたのであろうが、実は別の面でも注目される人物である。
 例えば、寛文九年(一六六九)四月の「林崎村水帳」(鶴岡市郷土資料館)では、田三筆、苗代一筆、畑七筆、屋敷一筆、合わせて三十九筆、反別では四町一反二畝三歩の土地を所持していたし、他の村にも所持していた可能性があったことである。
 林崎村(鶴岡市)の場合、九畝十歩の屋敷を所持していたので、与三兵衛はおそらく同地に代家を営み、農民などを雇って、住まわせて、手広く田地を手作(自作)していたとみられる。
 庄内藩では、家臣が田地を所持して手作することは結構みられた。藩では禁止しなかった。そこで家臣たちは挙って田地取得に努めた。  白井与三兵衛はそれらの中でも代表的な家臣であったといえそうである。
 さて、忠勝の代に出頭人として小姓頭まで務めた家臣に荻原内匠という人物がいた。同人も新田を含めて広い田地を所持していたようである。  寛永十六年(一六三九)頃の「達三公御代諸士分限帳」(『□肋編』上巻)に「無役衆」の中に、知行五百石の萩原内匠の名前がある。荻原が正しいとみられる。
 その内匠には男子がなく、内匠が没すると荻原家は断絶するが、一人娘は同家が以前から営んでいた林崎村の代家に住み、その後白井与三兵衛に嫁したという(「大泉雑録」郷土資料館)。両家が同じ村に代家を営んでいたことが縁になったものであろう。
 延宝六年(一六七八)九月の「諸士分限帳」(『□肋編』上巻)では、白井与三兵衛の知行二百五十石で屋敷は新町にあった。いつの頃か百石の加増があったわけである。
 白井久兵衛は矢太夫の祖父であり、おそらく十七世紀末から十八世紀初め頃に当主であったと思われるが、久兵衛からみて与三兵衛は五代前にあたるという(「大泉雑録」)。
 前述のように、庄内藩では、多くの家臣が田地を所持し代家を営んだりして手作(自作)をしていた。ところが、江戸中頃になると、貨幣経済の進展に伴い、家臣の多くが窮乏するのである。
 おそらく白井家でも、与三兵衛が所持していた林崎村などの田地が段々少なくなっていったことと推測される。
 因みに、享保十三年(一七二八)頃、天領大山領の角田二口村(三川町)に白井作右衛門という者が田地を所持していた(「享保十三申より子年御成箇迄五ヶ年定免名寄(帳)」二口文書、郷土資料館)。おそらく庄内藩の家臣であろう。
 この頃になると、手作(自作)ではなく、小作させていたようである。同じ白井姓でも、作右衛門という侍はどうやら白井矢太夫家の人ではなかったとみられる。

8月1日号 第107回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(下)

 山田弥十郎は文政四年(一八二一)二月に三人扶持を増されて、合わせて八人扶持となったので、年に玄米で十四石四斗ほど与えられることになった。
 それにより三カ月ほど前、弥十郎は三年十一月に最上川北岸に位置する五丁野谷地(酒田市西平田地区)を畑として開発し、その収穫などをもって、翌年から七カ年で鶴ヶ岡城内の本丸の館をはじめ、土蔵・門・櫓などすべての建物の屋根を萱屋根や小羽屋根に代えて瓦葺にし、そして八カ年目よりは鶴ヶ岡・亀ヶ崎の各橋二十一カ所を新しく架け直したいと、藩の普請方役所に出願した。
 当時の五丁野谷地は大きく二分され、東方は三十万坪(百町歩)弱、西方は二十万坪余あって広大な原野となっていた。
 それまで五丁野谷地は酒田町で預かってきており、町方の屋根の葺替え用の萱を刈ったりするために使用していた。その場合、請負人も置かれていた。
 それについて、近年は火防の必要上、萱屋根よりも小羽屋根の方が多くなっており、最近、二十年以来は萱の需要が少なくなって、販売しても思うように売れず、谷地の請負人が迷惑している状態であると弥十郎は述べている。
 そこで、これまでの請負金百両ほどに対し、弥十郎は百二十両を差し出すので、永く自分に谷地を預けて畑に開発させてほしいとする。
 五丁野谷地の辺りは民家もなかったため、交通とか治安などに問題があった。対岸の新堀村(酒田市新堀地区)では五丁野の方に渡守小屋一棟を建てたいとしているので、弥十郎としても渡守小屋を置き、近くに民家六、七軒も建て、舟一艘を備えて、風雨の時でも夜中に川を渡ることができるようにしたいし、万一の際には、旅人らを民家に一宿させることもできるとする。
 それらの提案をして、五丁野谷地を是非とも畑に開発したいと嘆願していた。
 それに対し、酒田の各組の大庄屋・町年寄十名が連名で、酒田町奉行所に対し、五丁野谷地が新田畑に開発されては、酒田の町方で萱が不足になって難渋するとして、中止を求めたのである。弥十郎は小羽屋根が多くなっていると述べていたが、小羽屋根は一割ほどしかなく残りは引き続き萱屋根であるとする。
 これまで通り谷地のままに差し置いてもらうと共に、一カ年に金二百五十両ずつ十カ年で二千五百両を提供するので、弥十郎にはそれで城中の諸屋根の瓦葺替えをしてもらい、酒田・本間家にも相談のうえ、その後も応分の負担をしていきたいとしていた(『旧山形県史』巻三)。
 結局、酒田の方の要望を入れて、五丁野谷地は当面開発されず、谷地として差し置かれたと思われる。後に遊摺部村が移転してくる。  因みに、『荘内史年表』(昭和三十年発行)では、酒田の方の嘆願について、「これに対し酒田のもの、本間の仕入にて畑を拓かんことを請願」と記しているが、酒田の方では基本的に谷地として残すことを要望したものと考えられる。
 翌四年に三人扶持が与えられるのも、右のような弥十郎の藩や両町への「篤志」に対するものであったと思われる。
 実際弥十郎は同六年までに城中の諸屋根をすべて瓦葺にしたという(「鶴岡旧地温故便」鶴岡市郷土資料館)。もっとも、『鶴岡市史』(上巻)では文政十二年に瓦葺が終わったとする。
 それより先、同四年十二月に、弥十郎は老年になり近年多病で一人勤めは困難であると、二十九歳の伜円治との父子勤めを願い出て許可された(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。弥十郎は五十代後半ないし六十代初めぐらいであったろうか。
 山田家はその後また二人扶持が加えられたのであり、天保七年(一八三六)頃には、御用達並の一人として、
 拾人扶持 瓦御屋根方
        山田弥十郎
とあり、十人扶持となっていた。おそらく、山田家ではすでに代替わりがあって、伜円治が当主となっていて、弥十郎と改名していたとみられる。
 庄内藩の九代藩主に就任したばかりの酒井忠発が天保十三年七月に初入部したことから、同年十一月に町方の御用達らに対し、三日町(昭和町)平田太治右衛門家で料理が与えられた。弥十郎の名前もある(工藤珉右衛門「諸用控」郷土資料館写本)。
 文久元年(一八六一)と推定される「御用達人別帳」(同館)では、三日町(本町一丁目)浄土宗金浄寺の旦家であったことが知られる。当時、山田家は八人家族であったが、使用人は下女一人であった。すでに富裕な商人の姿ではなかったようである。
 明治以降の山田家については全く不明である。

6月1日号 第106回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(中)

 その後の山田弥十郎家のことを主として、同家の「先祖勤書」から述べてみる。
 藩校致道館の切石御用を数カ年に及んで精勤したが、それが良くできたし、そのうえ寸志として所々の普請のために切石を納めたが、それらもすべて良くできたことから、文化二年(一八〇五)五月に一人扶持(玄米で約一石八斗)が増されて三人扶持となった。
 なお、前年六月の「象潟大地震」で破壊した籾蔵や村々の郷蔵の建て直しも行った。
 右のように切石の御用をはじめ、諸工事に出精したことから、文化三年十二月に「切石御用達」という名称で、藩の御用達商人に連なることになった。そのため、藩主の参勤交代に際しては、赤川の手前松原まで出向くことを命じられたし、年始・五節句の祝儀を表するために役宅まで出向くことも命じられた。役宅とは内川端にあった鶴岡町奉行の役宅のことであろうか。
 引き続き精勤したうえ、切石の寸志提供の件もあって、文化五年十二月にも一人扶持を増されて四人扶持となった。
 文化六年には藩の米蔵七ツ蔵の火防にと、寸志の形ですべて瓦屋根に替えた。  また、おそらく城内の諸建物のことであろうか、木羽屋根の修覆の請負金として六十二両三歩余が年々藩から与えられたが、途中から三十両余を寸志として差し上げたいと願い出た。許されたことであろう。
 しかも、すべて瓦屋根にすることにして、そのためには莫大な金子が必要となるので、領内のうち川南(田川郡)五組村々から小物成(雑税)の一つとして納入される縄・藁の類を手当分に与えられたのであった。
 文化十年三月までに、御米蔵・籾蔵とも残らず瓦屋根になり、堅固にできたので、冬期でも米の痛みがなくなったという。
 そのほか、郷方の御普請所の請負では、藩の利益になるべく精勤したので、また一人扶持を増され五人扶持となった。
 それらとは別に、郷方の御普請をいずれも堅固に仕上げたので、結果として普請の個所も減少したようであり、そこで文化十一年までは年々金三歩が与えられたし、同十二年に金二歩が与えられたという。
 それより先、文化七年十二月に、藩主の参勤交代の時に、赤川渡河に際し使用する船橋のことと思われるが、それを保管する蔵を建て直したし、また中川通にある橋々を堅固に普請し、やはり結果として普請個所が減少したようであり、称誉として金一歩が与えられた。
 同八年六月から九月上旬まで、川北・飛鳥村(旧平田町)の川水除の大修理に際し、必要の諸品を納入する件で、入札で山田家が落札したが、実際にはその落札値段よりも二割引きにして納入したという。最上川の堤防工事であろう。
 文化十年には大督寺の庫裏の立て直しに際し、経費を減じたので、藩の利益になったとして、郡代所から称誉として山田家に金三両、輩下の大工に三歩が与えられた。かなりの経費減となったためであろう。
 文化十二年十一月に、八代藩主に就任した酒井忠器の「新政」により、藩校致道館が大宝寺の地から城内の三の丸に引き移されたが、屋根瓦代金の見積もりを低く抑えたことから、郡代所から称誉として金三歩を与えられた。
 ところが、同年十二月に山田家は困窮しているとして、郡代所に金子の拝借願いをした。幸いそれまでの務め方が評価されたばかりか、これからも御用に立つ者であるとして、別段の沙汰であると、七ツ御蔵修覆金に金十両ずつ四カ年分、合わせて四十両を増金として与えられたうえ、ほかに金三十両の拝借を許された。同時に、山田弥十郎が生涯を通じて年々上納するとしていた寸志の切石(高三尺・長十五間)の分は以後上納するに及ばずとされた。
 山田家はかなり無理をして御用に励んでいたものであろう。
 以上、主に山田家の「先祖勤書」によって、同家の「御用達」商人としての事績を述べてきたが、右の「先祖勤書」は山田弥十郎本人が文化十三年(一八一六)八月に書き上げ、鶴ヶ岡大庄屋の宇治勘助・河上四郎右衛門両人あてに提出したものであった。
 その時点での弥十郎の肩書きは、
 切石御用達・五人扶持
となっていた。
 文政四年(一八二一)二月に三人扶持を増されて、八人扶持となった。
 有力町人の一人として弥十郎は御目見が許されていたが、同年の城中席順の記載では、
 御用達並 山田弥十郎
となっていた(『鶴岡市史』上巻)。

4月1日号 第105回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(上)

 庄内藩の藩校致道館の普請に関わった一人として一日市町(本町二丁目)に山田弥十郎という商人がいた。
 弥十郎の先代ないし先々代は弥次兵衛と称した。同家はやはり一日市町在住の山田曾兵衛家の分家であるという(『新編庄内人名辞典』)。
 元禄九年(一六九六)「鶴岡城下大絵図」(享保四年写)には弥次兵衛や弥十郎の名前は見当たらないようであり、おそらく十八世紀中頃に分家したところの、比較的新しい商人であったかと推測される。
 今のところ、山田家についての初出の史料は次のような明和六年(一七六九)十月のものである。
一、一日市町弥次兵衛、丑十 月質屋願被仰付候
 (『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)
 質屋開業を願い出て許可されたというのである。同家では質屋をその後も長く営業した。
 天明七年(一七八七)四月に盗品を質物に預かったうえ、質札を持参した女に質物を返したことから、六月になって過料として質物料の銭二貫六百文を納めさせられて、戸〆を命じられることがあった。戸〆は十日間で宥された。十日間営業停止させられたわけである。
 享和二年(一八〇二)八月のこととみられるが、鶴岡の質屋の改めがあり、一日市町に山田弥次兵衛の名前があって、山田家が引き続いて質屋を営んでいたことが知られる(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。因みに、大宝寺を含む鶴岡の質屋は当時五十軒もあり、しかも間もなく一軒増したのである。
 そんなに多くの質屋があって、商売が成り立ったものかと心配になるが、当時鶴岡に住む住民のかなりの部分がその日暮らし程度の生活をしている者たちであり、彼らにとっては質屋が不可欠な存在であったのであろう。
 享和三年四月の時点で、質屋年番が三名いたが、山田弥次兵衛もその一人であった(同前)。その頃になると、山田家は質屋としては古参の方になっていたのであろう。
 さて、藩校致道館の建設は享和三年一月に着手されたが(『鶴岡市史』上巻)、間もない同年三月に、山田屋弥次兵衛が藩校普請用の石材の寸志願いを学校役所あてに行った。
 すでに前年頃から弥次兵衛は普請用の切石の細工を命じられており、そのような御用を務めることは「末々拙者名も相残」るので、誠に冥加至極で有難いとして、やはり切石であろうが、冥加として一カ年に幅一尺、厚さ七、八寸ぐらいのものを三ツ重ねにして、高さ三尺・長さ十五間の分を宮沢山石で、生涯中年々寸志として差し上げたいと申し出たのである。なお、宮沢山・金沢山は石材の採石のため藩から山田家が預かっていたのである。  もちろん藩からは許可された。
 そして、同年四月に称誉として生涯二人扶持(年に玄米三石六斗ほど)が与えられることになった。合わせて切石御用世話役を命じられた(同前)。  ところが、文化十三年(一八一六)八月に伜弥十郎が書き上げた山田家の勤書が残されているが(「勤功録」鶴岡市郷土資料館)、それでは致道館の普請が享和元年(一八〇一)からのこととし、実際よりも二年早いことと記しており、しかもすでに弥十郎の代のこととする。しかし他の史料などから、やはり弥次兵衛の代のこととするのが正しいと思われる。
 それはともかく、右の勤書によれば、致道館の切石の件は初め櫛引通の石切りたちに命じられたが、山田家が半分の料金で石積みを行いたいと申し出たところ、藩にとっても大いに利益になるとして、山田家に命じられたという。
 切石の普請が完成すると、殊の外良くできたと称誉されたので、山田家は冥加として城内の堀の土留めのための切石として高さ三尺・長さ十五間の分を生涯、年々寸志として提供したいと願ったともいう。もちろん許可されたことであろう。
 因みに、享和二年秋に弥次兵衛が川北・遊佐郷に来て、今度鶴ヶ岡城の普請を命じられたので、同地の石切りたちに石垣の石の切り出しをするように言い、もし石切り出しができないのであれば、代銭四貫五百文ずつを差し上げるようにと指示したのである。それを聞いた一部の石切りが代銭を出すのは困窮の自分たちには大いに迷惑であるとして、石を切り出すことにしたとする(『遊佐町史資料』第十五号)。
 どのような事情があって、右のような指示がされたのか不明であるが、そのようにして石切りを確保することにより、かなり低い料金で石切りの普請を行うことができたものかと推測される。

2月1日号 第104回 富裕な納方手代の万年庄吉家(下)

 文化元年(一八〇四)六月に象潟地震が起こったりして、川北(飽海郡)は不作となったが、万年庄吉らは年貢取り立てに精勤し、正米で皆済させたとする。
 同四年分の年貢米を翌五年に大坂に廻米したところ、米拵えなどが良く、加賀藩の加州米よりも高い値段となったので、家老たちに誉められた。納方手代一同のことであろうか。
 同五年、初めて藩主となって国入りをした酒井忠器が翌年四月に川北を廻ったが、その際にも精勤したという。人馬などの調達などを担当したものか。
 同十二年四月、難渋の著しかった櫛引通で村々の立て直しの仕法を行うことになって、万年庄吉も右の担当を命じられたので、しばらく櫛引代官所手附・組外並となって櫛引通の勤めとなった。それに伴い、櫛引役所から手当米五俵と金二歩ずつが与えられた。そして、右の仕法替えが十四年四月に終了したので、元の平田組に戻った。
 同年五月、庄吉に実子がなかったので、同じ平田郷の納方手代鈴木源太夫の従弟米次郎を養子にすることになった。米次郎は六月から見習い勤めとなった。
 文政二年(一八一九)六月に庄吉が病死したので、米次郎が跡を相続し内役となった。三年後の五年五月に納方代となって、十月に正式の納方手代となった。翌六年十二月に庄吉と改名した。
 文政六年十二月に平田役所の「差引掛リ」を命じられた。納方手代の取りまとめの役であったと思われる。二人勤めであった。役所米から年 々米二俵を与えられることになった。
 同七年十二月に会所に於いて農政のトップである郡代に面謁した。名誉なことであった。  同九年九月に藩主忠器が酒田に行き、本間家の饗応を受けたりしたが、庄吉らは人馬割を行い、また五丁野に詰めて諸事を取り計らった。  それより先、平田郷浜畑地について、文政五年に再検地取調掛を命じられたので、同七年まで再検地などを実施し、年貢米が三十九俵余増加したという。  役所の「差引掛」はそれまで二人で務めてきたが、文政十一年から相役の者が病気になって、その後しばらく一人勤め同様となった。天保二年(一八三一)十二月まで一人勤め同様だったので、格別骨折って勤務したとして、勤役中は米四俵が与えられることになった。
 天保四年六月の大洪水に際し、酒田の新井田蔵に詰めていたので、水防のためいろいろ苦心したとする。
 同年は大凶作で、いわゆる「巳年の飢饉」となったので、翌五年春に平田郷村々の難渋者に対し、庄吉自身が米十俵を施行したとして、家老たちの御誉めの言葉があり、また鶴岡三日町平田太郎右衛門宅で料理を与えられた。
 万年庄吉は天保九年正月に「留飲之症」を煩って、四月に病死した。「留飲之症」とは食道がんのような病気であろうか。
 庄吉の跡を継いだ庄太郎は、庄吉と改名するが、内役を経て、天保十二年八月に納方手代になった。
 ところで、天保年間には、納方手代たちが催す無尽に関する史料が三点残されている。天保飢饉のことが影響していたものか。
 まず、中断していた「仲間無尽」が天保五年十二月に再出発した。初め仲間十八名であり、その後二十名となった(「仲間無尽帳」郷土資料館万年家文書)。同九年十二月には「刀剱無尽」が始まった。人数二十四名で、年一回で掛金が一人前二歩であった(「刀剱無尽帳」)同文書)、同十四年十二月には「金壱両掛印旛無尽」が始まった。同年六月に庄内藩が下総国印幡沼の普請手伝いを命じられたので(九月に工事中止)、それに因んだ無尽だったのであろう。人数二十一名で年一回掛金一両であった。
 いずれの無尽も、納方手代八十数名の四分の一程度の人数であり、比較的裕福な者が加入したのであろう。万年家はいずれの場合も二人前の加入であった。
 天保十一年十一月に酒井家に突如命じられた越後・長岡転封令に際して、万年庄吉は農民たち説得のためか、度々出郷すると共に、諸調査のため昼夜精勤したという(万年家「勤書」)。移転に必要な帳簿類を整理したものか。
 慶応四年(一八六八)の戊辰戦争では「数度元方」を務めたとする。物資の調達の仕事であろうか。
 明治四年(一八七一)十一月に第二次酒田県が発足するが、翌五年七月の時点で万年庄吉は「租税御雇」として奉職していた(『荘内史要覧』)。同八年二月には第一大区七小区の計算掛となった。七小区は大宝寺村などが属した。
 その頃も万年家は、中野新田村(朝日地域)などにかなりの田地を所有し、小作米を取り立てていた。
12月1日号 第103回 富裕な納方手代の万年庄吉家(中)  小南(万年)庄吉は富裕な家の出身だったものか、あるいは納方手代の仕事には余禄のある場合が多く、それを少しずつ蓄えてのことか、かなり早くから屋敷や田畑を購入したのである。  同家に残されている土地の買い入れ証文の中では、明和三年(一七六六)十月に島村分天神町の屋敷十六歩余を、代金三両で永代に買い入れたものがもっとも早いのであるが、買い取り主が所左衛門とあるので、少々疑問も残る。庄吉と所左衛門の関係が不明なのである。
 いずれにせよ、庄吉が住んでいたと思われる天神町に所在する屋敷のことであり、小南(万年)家の家屋敷の一部となったのであろう。
 なお、天神町は農村である島村の一部が町場化したのである。足軽など下級家臣などが多く住んだようである。
 天神町にあった小南(万年)家の家屋敷は、藩から提供されたものではなく、同家が買い取ったりした所持地であったとみられる。
 次いで、安永五年(一七七六)十一月に、嘉左衛門という者から、島村分の田地二十八歩余を金十両で買い入れた分であるが、実際には田地としてではなく、家屋敷として使用していた土地であった。
 安永七年四月にいせや八右衛門という町人から金四両二歩で田地二畝歩を買い入れたが、これも「島村分屋敷売渡申証文事」とあるので、屋敷として使用されていたのである。
 やや後年になるが、寛政六年(一七九四)二月には、鶴岡三日町の米商人林駒之助から島村分屋敷一畝歩弱を地引金七両で買い入れていた。
 それらはいずれも、小南(万年)家の家屋敷となったものであろう。そこに立派な邸宅を建てて住居していたのである。
 因みに、納方手代という身分にもかかわらず、大変立派な家であったため、寛政四年在国中だった藩主酒井忠徳の不興を買い、上司から説諭されて、家屋敷の一部を取り壊したりしたわけであるが、その直後に屋敷を拡げていて、ほとんどこたえていなかったといえよう。
 家屋敷ばかりでなく、安永十年(天明元年、一七八一)四月には、中野新田村(朝日地域)で、田畑合わせて一町九反一畝五歩(高十五石六斗七升四合一勺)を、一度に地引金百三十両で三年季で買い取っていた。
 この分は九人ほどの農民に小作させたのであり、取り立てられる小作米は九十五俵七升に及んでいた。
 右の田地を小南(万年)家は長く保有したのである。つまり、質入れ主三カ年で受け戻すことができず、質流れとなって、長く同家の所持地となったのであった。
 さて、明和二年(一七六五)に遊佐郷納方手代に召し抱えられた小南(万年)庄吉であったが、同六年に庄内・由利天領が庄内藩の預地となったので、同年五月に預地の納方手代に移った。翌七年春に、天領村々の江戸・大坂廻米などの業務を監督するために、酒田湊にある御米置き場(瑞賢倉)に出役した。おそらく出役が三月頃から数カ月に及んだものと推測される。
 安永元年(一七七二)四月になって、預地担当から櫛引通の納方手代に移った。ところが同年七月に江戸藩邸が類焼したことから、小南(万年)家は寸志米百俵を献じたのであり、翌二年正月に藩の会所で郡代に会い、寸志米の件が藩主や家老の耳にも入り、喜んでくれている旨が伝えられた。名誉なことと思ったことであろう。
 次に、安永五年八月に平田郷の納方手代に移り、代官所付となった。納方手代の仕事をまとめるような役目となったのであろう。なお、その年前回記したように、苗字を小南から万年に改めたのであった。
 寛政元年(一七八九)十月、庄吉が二十数年にも及んで納方手代を勤めてきたことに対する報奨として、忰林七が平田郷の内役に召し出された。数年すれば一人前の納方手代になるはずである。林七はどうやら別家したようであり、納方手代の万年家は二軒になったのである。
 庄吉の二男庄五郎も同三年八月に納方手代の見習いとなった。そして、庄吉が病身になったとして、翌四年六月に休役となり、代わって庄五郎が相続して、やはり内役となった。
 寛政九年七月に、藩の寛政改革の一環として、納方手代の待遇が改められ、「給人並」となったし、高六石二人扶持と他に手当米二十五俵が与えられることになった。庄五郎はすでに同七年四月に納方手代になっていたので、同様の待遇となったのである。享和元年(一八〇一)、村々の水帳改の御用を努めた。

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