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人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年鶴岡南高校卒業
昭和41年慶応義塾大学卒業
昭和49年東京教育大学大学院退学
昭和61年明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

12月1日号 第115回 平士から家老となった石原倉右衛門(四)

 文化八年(一八一一)七月、中老となった倉右衛門は「御系譜」書上の御用掛となった。これは幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂をするので、酒井家の系譜を提出するためであった。
 二百石の加増があったとはいえ、中老としては少知であるので手当米百俵が年々与えられることになる。
 同年十二月、藩主忠器より直々に御地盤立直(たてなおし)御倹約掛を命じられた。
 同九年九月に前藩主忠徳が死去したので、倉右衛門が法事の惣奉行を務めることを命じられた。
 同十年七月、世子忠発の縁組御用掛を命じられた。
 同八月、家老の役を命じられ加増三百石があり、知行千石となった。倉右衛門を隼人と改名した。
 同月、養子蔵太(成裕)は御広間の番頭の見習いのことを願い出て許された。同月、隼人は前藩主忠徳の一周忌法事の奉行を命じられた。
 同十一年三月、蔵太は番頭代を務めるので、二十人扶持が与えられた。翌十二年七月、蔵太は正式に番頭を命じられ、十人扶持が加えられ三十人扶持となった。
 同年九月、隼人は願って乗輿御免となった。老齢となって歩行が容易でなくなったものか。江戸城登城の際にお供をするなどの際のこととみられる。
 同月、改めて御地盤仕法替倹約掛を命じられた。
 当時、庄内・由利天領は庄内藩の預地になっていたが、同年十二月に預地に対して私領同様の取り扱いが許された。
 それ以前から身体が不調であったが、文政元年(一八一八)五月に隼人は中風となった。藩主忠器・世子忠発などから見舞いの使者や薬などが遣わされた。
 同十月、御医師山岸道一が遣わされたが、同月二十三日に隼人は病死した。享年六十であった(『新編庄内人名辞典』)。隼人が病死したとして、鳴り物が江戸で一日、庄内で三日停止となった。歌舞音曲のことである。
 同年十一月、養子蔵太が家督(知行千石)を相続し、上座番頭となった。家老などの嫡子としての待遇がされたわけである。なお、庄内勝手となり庄内住まいとされた。ただ、蔵太はしばらく江戸にとどまっていたようである。忌中のためとみられる。
 長子道之助が嫡子となった。
 同三年二月に忌明けとなった。前年、老母が病気となっていたので、庄内に帰って、二、三年ゆっくり養生させたいと願ったこともあり、同四年秋に庄内に下ることが命じられた。それより先、鶴岡では石川主膳の揚屋敷が与えられた。
 同九月、藩主忠器に拝謁したうえで休息の御暇を賜った。そして、家内を引き連れ江戸を出立し、庄内に移った。
 しかし、同年十二月には、来る五年春に忠器上京の御供を命じられたので、五年二月に江戸に行き、四月に忠器の御供をして京都に登ったが、五月には江戸に戻った。同年九月に庄内に帰るが、この時も庄内に赴く忠器の御供としてであった。
 文政十年(一八二七)正月、蔵太は組頭の役を命じられた。組頭は家中組の隊長であり、名誉ある役職であった(『鶴岡市史』上巻)。同十二年十二月に、家中の武器取調掛を命じられた。
 天保四年(一八三三)正月に御家中勝手支配を命じられ、それまでの武器取調掛は解かれた。
 同五年十月末、支城亀ヶ崎城に交代で在番することを命じられて酒田に赴いた。あまり長期ではなかった。
 同年秋は、前年とは代わって非常な豊作となったので、城内で黒川能が催されたが、蔵太も見物を命じられた。
 同六年二月に嫡子道之助が病死したので、次男順之助(成知)を嫡子にしたいと願い許された。
 同八年九月、長沼流兵学の免状を許された。兵学の師匠は年代的にみて水野丹解であろうか。
 同九年三月、家中「打立」を忠器が閲したが、その際蔵太の組も出向いたことから、蔵太の組一同に肴が与えられた。
 同十一年十二月、嫡子順之助が初めて御目見し、嫡子並みの奉公することとなった。
 同月、酒井家の長岡転封令を受けて、蔵太は鶴ヶ岡城引き渡しの役目を務めるように命じられた。しかし、転封が中止となったので、その役目は果たさないで済んだ。
 同十四年正月、新藩主忠発が初めて国入りしたので、その御祝いとして城内で黒川能を観覧したが、蔵太も見物を命じられた。嫡子順之助と三男鎗三郎も見物した。
 すべてが順調にいっていたようであったが、弘化二年(一八四五)三月、蔵太は何か失策でもあったのか「御役不相応」として突如組頭を罷免された。
 蔵太の後を継いだ順之助改め石原倉右衛門は、組頭を経て中老となったが、戊辰戦争時に新潟で討死した。それなのに開戦責任者とされた。一旦石原家は断絶となった。
(終わり)

10月1日号 第114回 平士から家老となった石原倉右衛門(三)

 寛政六年(一七九四)五月に勘右衛門が隠居したので、代わって聟養子主馬改め倉右衛門(成美)が知行三百石を相続した。同人はそれまでと同じ近習頭取のまま側用人席を命じられた。与えられていた知行百石は返還された。
 翌七年、参勤で帰国する藩主忠徳に付き従って鶴岡に帰った。同年十二月に役料二十石を与えられた。もっとも「名山蔵」(鶴岡市郷土資料館閑散文庫)では、前年六年のこととする。
 鶴岡での倉右衛門のことは、中老竹内八郎右衛門「日記」抄(『山形県史近世史料』2)に何度か出てくる。例えば、八月二十五日には、 一石原倉右衛門により封印ニ て御意之旨申来ル
とあり、藩主忠徳の書状が倉右衛門を介して老臣に届けられていたことが知られる。
 寛政八年五月に農村復興に関しての取り次ぎを命じられた。前年に庄内藩の寛政改革が始まったからである。七月には小姓頭席及び老職が詰める御用部屋への立ち会いも命じられた。十二月には精勤したとして小姓頭次席を命じられた。
 同年十月、藩主忠徳が明年九月に京都への使者を務めることになったので、倉右衛門は上京の御用掛に就いた。
 翌九年四月、忠徳上京の御供を命じられたが、その際格別の思し召しによって金十両を与えられた。五月、京都では忠徳が参内する度に御供するように命じられた。
 同八月、倉右衛門は小姓頭兼帯とされ、九月に加藤宅馬次席となった(「名山蔵」)。
 十月、倉右衛門の知行が少ないからと、米三十俵を年々手当に与えられることになり、また増役料三十石を加えられ、役料五十石となった。小姓頭は通常知行六百石前後の高禄者が務めるものであった(『鶴岡市史』上巻)。
 寛政十年正月、養父勘右衛門には妾腹の男子がいたが、倉右衛門はその男子(蔵太)を自分の嫡子にしたいと願い出て許された。
 六月、本役同様に倹約掛を命じられた。寛政改革に本格的に関わることになったのである。
 八月、忠徳の帰国に御供し、十二月に小姓頭本役に任じられ、それまでの役料五十石は加増となって知行三百五十石となったうえ、改めて役料五十石を与えられ、都合四百石高となった。翌十一年五月の参府でも御供を命じられて江戸に登った。
 同年十二月、藩は家臣に課していた上米(あげまい)を半分に減じたが、それにより倉右衛門に与えられていた三十俵の手当米は中止とされた。
 同年、幕府は大名・旗本らの系譜を全面的に改撰することになり、そこで酒井家では系譜を改めて提出することになったので、享和元年(一八〇一)春に家老松平内膳などを御用掛に任じたが、倉右衛門もその一人であった(「二天間記」、郷土資料館庄内古記録)。
 享和二年十二月、倉右衛門は加増百石があり、五百石高となった。
 翌三年六月、庄内藩は東海道及び甲州の川々の普請手伝いを命じられたが、倉右衛門は副奉行に任じられた。その件で、十二月に江戸城において老中戸田采女正より白銀・時服などを与えられた。
 文化二年(一八〇五)七月、忠徳が隠居するので、倉右衛門は江戸・下谷藩邸の奥普請掛を命じられたし、世子忠器が新藩主に就任するので、八月にその御用掛とされた。
 なお、その隠居した忠徳より郡代白井矢太夫に紋付きなどが内々で与えられることになったが、そのことは「御小姓頭石原倉右衛門」より通知があったのである(白井矢太夫「勤書」、郷土資料館白井家文書)。
 普請したばかりの下谷の新邸が翌三年三月に類焼したので、四月に倉右衛門は再び普請御用掛を命じられた。もちろん立派に再建したことであろう。
 同年五月、嫡子蔵太が家老たちに会って、嫡子並み奉公することを言上した。
 同年十一月、翌四年の藩主忠器の婚礼御用掛を命じられた。文化四年十二月に忠器が従四位下に昇進するので、やはり御用掛を命じられて、役料五十石が加増された。知行五百石となったのである。
 文化六年六月、倉右衛門は御地盤御倹約掛を改めて命じられた。御地盤というので、主として藩自体の財政の倹約掛であろう。
 翌七年十二月、支藩松山藩より酒田・本間家に財政のことで依頼する際に、倉右衛門が世話をしたのであり、藩主大学頭より御礼の直書で御肴などが贈られた。
 そして、文化八年に庄内藩に政権交代があり、倉右衛門は中老に任じられ、加増二百石があって、知行七百石となった。

8月15日号 第113回 平士から家老となった石原倉右衛門(二)

 延享四年(一七四七)十二月、石原勘右衛門(五代成信)は物頭として兵具支配加役を命じられた。
 寛延二年(一七四九)九月、藩主酒井忠寄が老中に就任したが、その際に拝領した屋敷を受け取る役目を命じられて、勘右衛門は足軽たちを率いて受け取りに出向いた。同月、当分大目付の役も命じられた。
 宝暦元年(一七五一)閏六月に勘右衛門は番頭代を命じられたし、その後も番頭代や奏者加役を何度か務めた。
 同四年正月、嫡子蔵太が世子忠温(ただあつ)の近習当分となった。なお、乙吉を蔵太と改名したものである。同七年七月に蔵太は正式に忠温の近習となると共に腰物方加役となった。九月にまた蔵太を才治と改名した。
 翌八年十月、才治は忠温の御供支配兼帯となった。同十年四月に御供支配のまま、忠温の三男忠徳(ただあり)の御抱守加を命じられた。忠徳は宝暦五年十月の生まれで、その時数え六歳であった。同十二年十一月に才治は抱守本役となった。
 同じ十一月に勘右衛門は病気のため、役目を務めがたいとして辞職を願い出て、隠居することが許された。七十歳であった。
 代わって才治(成苗)が六代当主となり、高二百五十石を相続した。石原家は引き続き江戸詰であり、御広間御取次見習を命じられた。
 明和元年(一七六四)五月に才治は物頭となり、御兵具支配加役を命じられた。同年六月、勘右衛門と改名した。
 翌二年五月、勘右衛門は物頭・兵具支配のまま、忠寄の四男万之助(本多康伴)付きを命じられた。しかし、万之助が本多下総守(膳所藩六万石)の養子となったので、御付きは御免となった。
 明和三年に足軽倹約方を命じられた。足軽たちの暮らしが困窮していたことから、上司である物頭として生活改革を監督したのだろう。同十二月から番頭代・奏者代を度々務めた。
 翌四年十一月、前藩主忠温の一周忌の法要に際し、大目付代を命じられた。同五年七月、貸物方加役を命じられた。同七年五月、留守居の役を命じられ、役料五十石が与えられたので、三百石高となった。
 安永六年(一七七七)八月、藩主忠徳夫人脩(なお、仙寿院)付きの頭役を命じられた。その際、それまでの役料五十石が加増された。用人次席(用人格)となった。家格が上昇したのである。
 勘右衛門には男子がなかったので、家中長沢牛兵衛の弟主馬を聟養子とした。牛兵衛は高六百石で用人を努めており、上士であった。
 天明元年六月の御勝手御用掛となった本間光丘が立案した「天明御地盤立」(『鶴岡市史』上巻)に基づく財政改革の一環として、夫人付きの頭役も減員とされて「一人勤め」となったが、勘右衛門が引き続き一人で務めた。
 奥の勝手向には当時借財があって、それまでは藩財政の方から返済されていたが、勘右衛門の尽力によるものであろうか、御奥地盤金が設けられ、藩財政から自立し、自己責任で返済したのであり、そのため夫人より言葉があった。尽力に対して感謝を表したのであろう。同年六月、用人席を命じられた。
 天明三年(一七八三)四月、役料三十石が与えられ、三百三十石高となった。同八年三月に奏者を命じられたが、席順はそれまで通りの用人席であった。番頭の方も務めるように命じられた。
 寛政二年(一七九〇)六月、一代番頭を命じられたが、席はそれまで通りであった。
 以前から足痛があったので、参勤交代で帰国する藩主忠徳に随って鶴岡に帰り、温海へ湯治に行きたい旨を内願したところ、七月に許されたが、奏者の振合でとされた。奏者の格での帰鶴・温海湯治が許されたのである。勘右衛門にとって、あるいは初めての帰郷だったかとも思われる。
 湯治が終わると直ぐに江戸に戻ったものか、八月には御広間倹約を命じられた。
 翌三年六月、京都の御所改築完成の祝いのため、勘右衛門は同地への使者を命じられて京都に登って役目を務めた。
 江戸に戻ると、参勤で出府していた忠徳が不快のため将軍に拝謁ができないので、その件につき使者を命じられて、江戸城に登った。
 同年十月、夫人が実家の田安家に帰る際、組頭代を命じられて御供した。同五年八月にも田安家へ御供し、やはり組頭代を命じられた。
 勘右衛門は寛政六年五月、老年につき隠居を命じられた。願い出ていて許可されたのであろう。聟養子主馬(蔵太)改め倉右衛門が相続した。同人は家老まで出世することになる。

6月1日号 第112回  平士から家老となった石原倉右衛門(一)

江戸時代の後半に、庄内藩の平士から重臣に進み、家老や中老を務めた石原倉右衛門という家があった。  殊に、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争に際し、中老だった倉右衛門(成知)が、六月の新潟での奥羽越諸藩の重臣会議に出席し、帰国の途中官軍に襲撃されて死亡していたにもかかわらず、降伏後に開戦責任者とされて、石原家が一旦家名断絶となったことは、庄内では忘れてならない歴史である。
 今回、石原家について、文化八年(一八一一)からの中老を経て、同十年八月に家老となった倉右衛門(成美)までについて述べることにしたい。  記述は、石原改め酒井家に残されている「先祖勤書」を中心に記すことにする。
 初代石原勘左衛門は会津藩蒲生家に仕えていたが、寛永四年(一六二七)に浪人になったと推測される。
 寛永十四・十五両年に及んだ九州・島原の乱に際し、柳川藩立花家の人数に加わって参陣して高名を上げた。それによって庄内藩に召し抱えられたのである。
 庄内藩の『大泉紀年』(上巻)にも、寛永十五年に新たに召し抱えた者の中に、
  高弐百五拾石
       石原勘左衛門
とある。正確に言えば、藩主酒井忠勝の世子忠当に召し抱えられたのである。知行二百五十石であった。
 勘左衛門は、忠当の代の承応元年(一六五二)に物頭の役に就き足軽組を預かった。万治三年(一六六〇)に普請奉行に転じた。翌寛文元年正月に江戸の上屋敷が類焼したので、勘左衛門は藩邸再建の作事奉行を命じられた。
 勘左衛門は寛文六年(一六六六)に六十四歳で病死した。子の喜大夫が知行二百五十石を相続した。
 同十一年に喜大夫は使番の役に就いて、勤番のため江戸に登ったが、同年同地で病死した。まだ二十一歳であった。
 弟の勘右衛門(成定)が跡を継ぐが、知行は二百五十石のうち百五十石が与えられた。
 勘右衛門は天和二年(一六八二)に代官の役に就いた。狩川代官だったようである。
元禄元年(一六八八)に郡奉行となり狩川通を担当した。二年後の同三年に三十四歳で病死した。
 勘右衛門には男子がいなかったので、弟勘左衛門を末期養子にして相続させることにしたが、知行がまた三十石減じられ、百二十石となった。最初の知行が半減以下になったことになる。勘左衛門は勘右衛門(成章)と改めた。
 同人は元禄七年に川北・荒瀬代官に就いたが、同九年に罷免された。その後残物改の役を経て同十四年十月に江戸に登り供頭の役に就いた。藩主忠真の外出時の行列を警衛する供廻りの責任者であったろうか。
 宝永元年(一七〇四)に加増百石があったので、知行は二百二十石となった。
 勘右衛門は正徳五年(一七一五)十一月に五十五歳で病死した。実子とみられるが、嫡子が知行二百二十石を相続し、勘右衛門(成信)を名乗った。同人は定府となっており、享保元年(一七一六)八月に江戸で書院目付の役に就いた。その後、御金方などの役を経て、同七年六月に使番を命じられた。
 同十年、藩主忠真が幕府の使者として上京するに際し侍従に任じられたことに関連して、勘右衛門が京都に派遣された。
 享保十四年閏九月に三十石の加増があって、知行二百五十石となった。石原家の最初の知行にようやく戻ったのである。同年十月物頭の役となり、江戸の兵具支配を命じられた。引き続き江戸詰だったのである。
 元文四年(一七三九)八月に、庄内藩は日光普請の御手伝いを命じられたので、勘右衛門は普請奉行並びに目付の兼務となった。普請御手伝い中は日光に常駐したのではなかろうか。
 翌年七月に御普請が成就したので、藩主忠寄の前で金二十両と帷子(かたびら)が与えられたし、老中松平伊豆守(信祝)からも白銀二十枚を頂いた。
 寛保元年(一七四一)八月、幕府の使者として藩主忠寄が上京した。その留守中に勘右衛門は大目付兼帯を命じられた。
 延享二年(一七四五)七月に、嫡子乙吉が藩主忠寄に初めて御目見した。乙吉を石原家の後継者として認めてもらったことになろう。乙吉は同四年四月に中奥小姓に召し出されて御切米金十両と三人扶持(一年に玄米五石四斗ほど)を与えられた。中奥は藩主が日常過ごす場所であり、小姓は藩主に近侍して雑用を務めたのである。この頃はまだ中級の家臣であった。

4月1日号 第111回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(四)

 白井矢太夫は文化四年(一八〇七)六月、江戸で小姓頭に任じられ、百石加増となり知行四百石となった(「白井矢太夫勤書」)。小姓頭は近習、小姓等の小姓組を統轄する役で六百石前後の高禄者より任命され、いわゆる旗本の隊長であり、藩より藩士に伝える御触は組頭と小姓頭の名前で出された(『鶴岡市史』上巻)。藩校の祭酒の役はこれまで通りとされた。
 同年四月八日に鶴ヶ岡に大火があって、白井邸も類焼していたので、御用屋敷の内北の方の屋敷を与えられた。
 翌五年正月に中老に昇進し財政担当を命じられて、加増三百石が与えられ、知行七百石となった。
 その後郷方御用懸かりと藩校惣奉行を命じられた。また六年五月には江戸藩邸の惣検約についての取り扱いも藩主忠器の直書で命じられた。
 文化七年正月に加増百石があり、知行八百石となった。
 ところが、同年冬に疫を煩って一時は危険な病状であった。その後も十分に回復していないのに、仕事が溜まっていると言って、暮れに無理に出仕したという。
 そのためか、翌八年正月に中風となった。危篤の状態にもなったが、何とか大事は脱したものの、半身不随となったのであり、手足が利かず、言語も不明瞭となったという(「野中の清水」)。
 大殿忠徳の直書があって、四月には江戸に登る予定であったが、病気となって不可能となった。忠徳と再会するのを楽しみにしていたことであろうが、結局、忠徳に会うことは叶わなかった。
 ところで、矢太夫とは直接関わらないところで、ある事件が起こって、それがキッカケとなって、矢太夫の身にも重大事が及ぶことになった。  文化六年(一八〇九)六月、江戸詰だった元締(もとじめ)坂尾儀太夫という藩士が交代により鶴岡に戻る途中、仙台領関宿(宮城県七ヶ宿町)に宿泊したが、初めて泊まった宿である最上屋の主人五郎右衛門が不埒であるとして手討ちにする事件が起こった。
 藩では初め事件をあまり重大事にとみていなかったが、仙台藩との間の交渉が難航した。結局、坂尾儀太夫が当時精神錯乱していたとして、知行を取り上げ蟄居としたことで、何とか片付いたのであった(『鶴岡市史』上巻)。
 この事件はそれだけでは済まなかった。
 文化七年九月、藩主忠器が参勤交代により江戸から庄内に帰る途中、関宿で何か不快なことがあり、翌八年五月の参勤で出府する際には関宿を通らず、コースの一部を変更し、米沢を通り板谷峠を越えていく通路をとった。ただ、その通路変更についての幕府の許可状が届かず、発駕の日を延期したものの、所定の参勤の期日が迫ったことから、家老竹内八郎右衛門が決断し、幕府の許可状を受け取ることなしに出発した。板谷越えではかなり苦労したが、無事江戸に到着した。
 しかし、その件で幕府の不興を買ったようだという。
 藩主忠器はそのことを問題視し、江戸家老加藤衛夫を庄内に下し処分を申し渡させた。
 七月に、家老竹内八郎右衛門・中老白井矢太夫は御役御免のうえ隠居を命じられた。この両人にとどまらず、両家の一族数十人も御役御免となった(同前)。郡代を務めていた白井惣六(矢太夫の弟)も罷免となった。
 白井矢太夫の隠居により、嫡子重明が家督相続をしたが、知行は半減し四百石となった。
 右の処分について、白井家では理由がわからなかったようである。白井惣六の著「野中の清水」では、「いかなる事によりけん」と記していた。理由が明示されなかったわけである。
 処分について、病床にあった矢太夫には初め内緒にしていたが、いつまでも隠しておくこともできないので、ある日その件を話したところ、それほど驚いた様子でもなかったが、長く歎息したうえ、忠徳から頂戴した直書を取り出させて拝見し、涙をはらはらと流したという。実際には衝撃を受けたのである。
 そのこともあってか、次第に病が篤くなって、文化九年(一八一二)六月二十四日に没した。六十歳であった。因みに文化二年九月に隠居し、大殿と称されていた前藩主の忠徳も中風となって、同じ九年九月に五十八歳で死去した。
 寛政改革を中心となって推進した主従が揃って亡くなったのであった。改革の終焉となったのである。  竹内、白井派に代わって政権を担当したのは水野東十郎(内蔵丞)であった。竹内・白井派によって藩政から遠ざけられていた酒田・本間家も藩政の関わりを復活する(『鶴岡市史』上巻)。
終わり

2月1日号 第110回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(三)

 寛政五年(一七九三)五月に、白井矢太夫は郡代の役に任じられた。庄内藩では郡代は農政を総括する役職であり、また藩の経済を司る役でもあった。三百石以上の家中から任じられた(『鶴岡市史』上巻)。矢太夫はそれまで高二百五十石であったので、役料五十石が与えられ、合わせて三百石高とされた。
 また、以前郡代を務めた加藤三太夫の揚がり屋敷が与えられた。
 同六年四月に御用のため江戸に登って、七月に庄内に戻った。おそらく藩主酒井忠徳から郷村の改革の方策などについて相談を受けたのであろう。  そして、同七年五月、忠徳は疲弊の著しい郷方の改革を行うことを申し渡し、矢太夫はその担当を命じられた(白井家「先祖勤書」鶴岡市郷土資料館)。庄内藩の寛政改革の始まりである。
 前年、忠徳の諮問に答えて、それまでの藩政の得失と改革について上書していた(『新編庄内史年表』)。おそらく、その年四月に出府した時に提出していたものであろう。
 寛政改革は右の上書に基づいて実施されたものである。
 因みに、七年五月、郷方改革の御用掛として中老の竹内八郎右衛門・酒井吉之助、郡代の服部八兵衛・白井矢太夫が命じられたが(同前)、中心を担ったのは白井矢太夫であった。
 寛政改革以前においても、酒田の豪商本間光丘を登用して財政整理や農民救済に取り組んだが、その際の基本的な施策は、本間家が低利の金子を融通して、高利の借財・借金を整理しようというものであったといえる。
 それに対し、白井矢太夫は「只眼の前の事のみにて、諺に云飯の上の蝿を追ふとやらんにて、年を経ずして又崩るるのみかは、いよいよ困窮まさり」(「野中の清水」)として、眼の前のことに対処するだけで、根本的な解決にはなりえず、かえって困窮が増すことになると考えていた。  なお、徂徠学を心から信奉していた矢太夫は、基本的に重農主義的な考えに立ち、商業や商人は利をのみ追うものと考えていたのである。  寛政八年十一月、命じられて矢太夫は急ぎ江戸に登った。これは、将軍徳川家斉の世子家慶が大納言に任じられたに際し、忠徳が使者として京都に上ることになったので、それに関連した御用を務めるように呼ばれたもので、翌年まで在府した。
 そのうえ、七月には御用で大坂まで行くことになり、御用が終えて八月に庄内に戻った。
 財政整理に関わって、上方の商人などに交渉したものであろうか。
 寛政十年二月にも藩の財政御用のため、江戸に登った。そして六月には忠徳などの江戸での暮らし方について、改めることを命じられた。藩主などの江戸での出費が嵩んでいたので、その整理・削減ということであろう。直ぐに何か方策を立てたのであろうか、八月には庄内に戻った。  参勤交代の制度があって、藩主は一年おきに江戸と庄内を行き来したので、寛政改革の担当者として多忙だったであろう矢太夫も、しばしば呼ばれて江戸に行くことになったわけである。
 寛政十一年三月、矢太夫の二男道之助が嫡子となり、初めて忠徳に御目見をした。そして嫡子並の奉公をすることになった。矢太夫の後を継いだ重明のこととみられる。
 それより先、同十年八月に大宝寺に学問所を建設することになって、矢太夫は普請奉行となって、その建設のことも担当した。もともと学問所設置を進言したのは矢太夫であった。間もなく学問所は学校と称されることになる。
 学校が竣工すると、矢太夫は祭酒を命じられた。今でいえば理事長か学校長ということであろう。
 享和元年(一八〇一)七月にも御用のため江戸に登り、十二月に庄内に帰った。
 同二年五月、数年の精勤を理由に用人席とされた。身分が上昇したのである。
 同三年正月には、役料の五十石が加増とされ、高三百石となった。
 文化二年(一八〇五)二月、藩校致道館の落成式が行われたのであり、その際矢太夫が祭主として孔子を祀る典礼である釈典を挙行した(『鶴岡市史』上巻)。
 同年九月に、藩主忠徳が隠居し、二男忠器(ただかた)が八代藩主となった。
 藩主が代わっても、矢太夫に対する信頼はしばらく続くことになった。
 文化三年三月に、江戸に急登りを命じられて出府した。その際、矢太夫が著した易経の注釈書を忠器に献じた。忠器はそれを致道館で出版することを命じたという(『荘内史年表』)。

12月15日号 第109回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(二)

 白井矢太夫の祖父白井久兵衛(茂種)は徂徠学の徒であり、また郷土史研究の先駆者の一人であった。著作に「耳口録」があって『鶴岡市史』(上巻)では「耳口録は荘内判物、諸掟、諸仰出され書、多くの事件関係文書、聞書等を集録したもので、郷土史研究に多くの資料を提供してくれる」と評価している。
 右のような茂種なのに『新編庄内人名辞典』はなぜか独立の項目を立てず、孫の矢太夫のところで少し言及しているだけである。茂種は明和八年(一七七一)に死去したようである。
 矢太夫の父久兵衛(久右衛門)茂貞は祖父茂種によれば、生来病弱であり、学問に専心できなかったという(白井重固「野中の清水」)。  その後健康になったものか、茂貞は藩士として精勤した。「白井矢太夫勤書(仮題)」(鶴岡市郷土資料館白井家文書)によれば、茂貞は明和七年三月に御使番を命じられ、同九年三月に物頭となった。安永八年(一七七九)正月に惣鉄砲支配加役を兼ねた。そして翌九年八月に大目付になった。
 父茂貞は天明四年(一七八四)十一月、近年病身であるとして辞任願いをして、十二月に許可されて隠居した。
 代わって嫡子矢太夫(重行)に家督相続(高二百五十石)が許された。宝暦三年(一七五三)の生まれなので(『新編庄内人名辞典』)、数え三十三歳の時であった。
 以下、矢太夫の経歴については前出の「勤書」に則りつつ「野中の清水」により弟白井重固の回想も併記して述べることにしたい。
 明和三年(一七六六)十二月に家老中と逢って「嫡子並」が許可されていた。白井久兵衛家の後継者とみなされたのであろう。
 ところで、矢太夫がまだ幼少の頃から、祖父茂種は「年長せハ必らす国家の御用にも立べきものぞ」と日頃から、将来を期待して口にしていたという(「野中の清水」)。なお、この場合の国家とは庄内藩のことであろう。
 十二、三歳の頃か、茂種が経書の素読を指導したが、その頃はあまり熱意をみせなかったようで、その頃はむしろ「国初の記録の書をのみ好みて読」(同前)んだという。庄内藩初期に関心があって、その関係の史料を読んだものか。
 それでも茂種は病弱の茂貞ではなく、孫の矢太夫に期待をかけて、自分が筆写していた徂徠の著作類や収集していた古書を矢太夫に皆与えたという(同前)。
 子供の頃の祖父との関係があって、次第に徂徠学に近付いていったのである。
 矢太夫は二十歳を過ぎてから学問に専心するようになり、夜昼となく古書を読み詩文の習練にも努めたという。
 水野元朗の後、藩内に徂徠学を広めるのに功績のあった加賀山寛猛(桃李)の経書の会読会にも出席したが、矢太夫の学識は秀でていたのであり、寛猛も自分の後を継ぐのは矢太夫であると期待していたという。
 二十八歳の年の秋に、江戸でより博く学びたいと願い出たところ、直ぐに許可されて江戸に上った。「勤書」にも、安永九年(一七八〇)といえば、まだ部屋住みの身であったが、
一、同九年子九月江戸え罷登、 詰中学問稽古仕候よう仰付 られ、江戸え罷登、御広間 等相勤、御用の暇学問稽古 仕候
と、勤めと同時に学問をすることを命じられ、実際勤務の合間に学問に取り組んだとする。
 ところが、天明二年(一七八二)四月のこと、「在勤中勤方之儀ニ付」として「道中慎之体」で庄内に戻ることを命じられ、鶴岡到着後の五月二日に逼塞を命じられ、七月十二日に宥免された。何か役目上で失策があったものであろうか。
 そして、前述のように天明四年十二月に、父茂貞の隠居により、矢太夫が家督を相続した。
 天明七年正月に鎗奉行を命じられた。
 翌八年十月、藩主酒井忠徳より城内の白木書院で論語の講釈を行うことが命じられたのであり、一カ月に三度ずつ実施した。忠徳在府中は場所を移して家臣向けに講釈をし、数年続けられた。
 天明九年正月に物頭を命じられた。寛政二年(一七九〇)十二月に惣兵具支配加役となった。物頭在任のままに兼務したのであろう。  同三年四月に大目付当分となり、同八月に大目付本役を命じられた。
 翌四年五月に江戸に呼ばれたので出府したが、間もない七月末に帰国する藩主忠徳の御供をし庄内に戻ることになった。
 論語の講釈などを通じて、忠徳は矢太夫の学識や人物を高く評価するようになり、藩政に関する諸問題についての相談相手として頼りにするようになったとみられる。

10月1日号 第108回 寛政改革時の郡代白井矢太夫(一)

 白井矢太夫(重行)といえば、寛政改革の時の郡代として、また藩校致道館設立を説いた賢人として、庄内史ではよく知られた人物である。  従来、ほとんどふれられていないが、今回はまず矢太夫の先祖について少し述べてみよう。
 『新編庄内人名辞典』では、白井矢太夫の祖である白井与三兵衛(与惣兵衛)のことが載っている。そこでは与三兵衛を白井惣右衛門(重敬)の二男とする。
 白井惣右衛門の家はもともと徳川家の直臣であったが、家康の命で酒井忠次に仕えたのであった(『大泉紀年』下巻)。
 さて『大泉紀年』(上巻)では、寛永十年(一六三三)に召し出されて新知を与えられた者として、
    白井吉兵衛二男
 高百五拾石 白井与惣兵衛
とあり、与三兵衛を白井惣右衛門ではなく、白井吉兵衛の二男とする。父親である吉兵衛こそが惣右衛門の二男であった(『新編庄内人名辞典』)。  酒井家が元和八年(一六二二)に庄内に入部した当時、白井惣右衛門は組頭であり、家老に次ぐ地位にあった。白井吉兵衛は大山代官であった(『大泉紀年』上巻)。
 白井与三兵衛が知行百五十石を与えられた事情について、寛永十年(一六三三)に、
 公(忠勝)五条野へ御放鷹遊ばされ、御戻之節御馬を駈させられ、御供続き随ふものなかりしに、ひとり白井吉兵衛重敬か二男白井与惣兵衛、奔馬に引続き、御城中迄御供仕候付、即刻新知百五拾石を賜り…
         (同前)
とあり、最上川北岸の五丁野で放鷹が催され、終わると藩主忠勝は奔馬を駈って独り戻ろうとしたが、白井与惣兵衛が続いて城中に戻ったことから、即刻新知百五十石が与えられたとする。
 白井与三兵衛は右のように馬術に秀でていたのであろうが、実は別の面でも注目される人物である。
 例えば、寛文九年(一六六九)四月の「林崎村水帳」(鶴岡市郷土資料館)では、田三筆、苗代一筆、畑七筆、屋敷一筆、合わせて三十九筆、反別では四町一反二畝三歩の土地を所持していたし、他の村にも所持していた可能性があったことである。
 林崎村(鶴岡市)の場合、九畝十歩の屋敷を所持していたので、与三兵衛はおそらく同地に代家を営み、農民などを雇って、住まわせて、手広く田地を手作(自作)していたとみられる。
 庄内藩では、家臣が田地を所持して手作することは結構みられた。藩では禁止しなかった。そこで家臣たちは挙って田地取得に努めた。  白井与三兵衛はそれらの中でも代表的な家臣であったといえそうである。
 さて、忠勝の代に出頭人として小姓頭まで務めた家臣に荻原内匠という人物がいた。同人も新田を含めて広い田地を所持していたようである。  寛永十六年(一六三九)頃の「達三公御代諸士分限帳」(『□肋編』上巻)に「無役衆」の中に、知行五百石の萩原内匠の名前がある。荻原が正しいとみられる。
 その内匠には男子がなく、内匠が没すると荻原家は断絶するが、一人娘は同家が以前から営んでいた林崎村の代家に住み、その後白井与三兵衛に嫁したという(「大泉雑録」郷土資料館)。両家が同じ村に代家を営んでいたことが縁になったものであろう。
 延宝六年(一六七八)九月の「諸士分限帳」(『□肋編』上巻)では、白井与三兵衛の知行二百五十石で屋敷は新町にあった。いつの頃か百石の加増があったわけである。
 白井久兵衛は矢太夫の祖父であり、おそらく十七世紀末から十八世紀初め頃に当主であったと思われるが、久兵衛からみて与三兵衛は五代前にあたるという(「大泉雑録」)。
 前述のように、庄内藩では、多くの家臣が田地を所持し代家を営んだりして手作(自作)をしていた。ところが、江戸中頃になると、貨幣経済の進展に伴い、家臣の多くが窮乏するのである。
 おそらく白井家でも、与三兵衛が所持していた林崎村などの田地が段々少なくなっていったことと推測される。
 因みに、享保十三年(一七二八)頃、天領大山領の角田二口村(三川町)に白井作右衛門という者が田地を所持していた(「享保十三申より子年御成箇迄五ヶ年定免名寄(帳)」二口文書、郷土資料館)。おそらく庄内藩の家臣であろう。
 この頃になると、手作(自作)ではなく、小作させていたようである。同じ白井姓でも、作右衛門という侍はどうやら白井矢太夫家の人ではなかったとみられる。

8月1日号 第107回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(下)

 山田弥十郎は文政四年(一八二一)二月に三人扶持を増されて、合わせて八人扶持となったので、年に玄米で十四石四斗ほど与えられることになった。
 それにより三カ月ほど前、弥十郎は三年十一月に最上川北岸に位置する五丁野谷地(酒田市西平田地区)を畑として開発し、その収穫などをもって、翌年から七カ年で鶴ヶ岡城内の本丸の館をはじめ、土蔵・門・櫓などすべての建物の屋根を萱屋根や小羽屋根に代えて瓦葺にし、そして八カ年目よりは鶴ヶ岡・亀ヶ崎の各橋二十一カ所を新しく架け直したいと、藩の普請方役所に出願した。
 当時の五丁野谷地は大きく二分され、東方は三十万坪(百町歩)弱、西方は二十万坪余あって広大な原野となっていた。
 それまで五丁野谷地は酒田町で預かってきており、町方の屋根の葺替え用の萱を刈ったりするために使用していた。その場合、請負人も置かれていた。
 それについて、近年は火防の必要上、萱屋根よりも小羽屋根の方が多くなっており、最近、二十年以来は萱の需要が少なくなって、販売しても思うように売れず、谷地の請負人が迷惑している状態であると弥十郎は述べている。
 そこで、これまでの請負金百両ほどに対し、弥十郎は百二十両を差し出すので、永く自分に谷地を預けて畑に開発させてほしいとする。
 五丁野谷地の辺りは民家もなかったため、交通とか治安などに問題があった。対岸の新堀村(酒田市新堀地区)では五丁野の方に渡守小屋一棟を建てたいとしているので、弥十郎としても渡守小屋を置き、近くに民家六、七軒も建て、舟一艘を備えて、風雨の時でも夜中に川を渡ることができるようにしたいし、万一の際には、旅人らを民家に一宿させることもできるとする。
 それらの提案をして、五丁野谷地を是非とも畑に開発したいと嘆願していた。
 それに対し、酒田の各組の大庄屋・町年寄十名が連名で、酒田町奉行所に対し、五丁野谷地が新田畑に開発されては、酒田の町方で萱が不足になって難渋するとして、中止を求めたのである。弥十郎は小羽屋根が多くなっていると述べていたが、小羽屋根は一割ほどしかなく残りは引き続き萱屋根であるとする。
 これまで通り谷地のままに差し置いてもらうと共に、一カ年に金二百五十両ずつ十カ年で二千五百両を提供するので、弥十郎にはそれで城中の諸屋根の瓦葺替えをしてもらい、酒田・本間家にも相談のうえ、その後も応分の負担をしていきたいとしていた(『旧山形県史』巻三)。
 結局、酒田の方の要望を入れて、五丁野谷地は当面開発されず、谷地として差し置かれたと思われる。後に遊摺部村が移転してくる。  因みに、『荘内史年表』(昭和三十年発行)では、酒田の方の嘆願について、「これに対し酒田のもの、本間の仕入にて畑を拓かんことを請願」と記しているが、酒田の方では基本的に谷地として残すことを要望したものと考えられる。
 翌四年に三人扶持が与えられるのも、右のような弥十郎の藩や両町への「篤志」に対するものであったと思われる。
 実際弥十郎は同六年までに城中の諸屋根をすべて瓦葺にしたという(「鶴岡旧地温故便」鶴岡市郷土資料館)。もっとも、『鶴岡市史』(上巻)では文政十二年に瓦葺が終わったとする。
 それより先、同四年十二月に、弥十郎は老年になり近年多病で一人勤めは困難であると、二十九歳の伜円治との父子勤めを願い出て許可された(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。弥十郎は五十代後半ないし六十代初めぐらいであったろうか。
 山田家はその後また二人扶持が加えられたのであり、天保七年(一八三六)頃には、御用達並の一人として、
 拾人扶持 瓦御屋根方
        山田弥十郎
とあり、十人扶持となっていた。おそらく、山田家ではすでに代替わりがあって、伜円治が当主となっていて、弥十郎と改名していたとみられる。
 庄内藩の九代藩主に就任したばかりの酒井忠発が天保十三年七月に初入部したことから、同年十一月に町方の御用達らに対し、三日町(昭和町)平田太治右衛門家で料理が与えられた。弥十郎の名前もある(工藤珉右衛門「諸用控」郷土資料館写本)。
 文久元年(一八六一)と推定される「御用達人別帳」(同館)では、三日町(本町一丁目)浄土宗金浄寺の旦家であったことが知られる。当時、山田家は八人家族であったが、使用人は下女一人であった。すでに富裕な商人の姿ではなかったようである。
 明治以降の山田家については全く不明である。

6月1日号 第106回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(中)

 その後の山田弥十郎家のことを主として、同家の「先祖勤書」から述べてみる。
 藩校致道館の切石御用を数カ年に及んで精勤したが、それが良くできたし、そのうえ寸志として所々の普請のために切石を納めたが、それらもすべて良くできたことから、文化二年(一八〇五)五月に一人扶持(玄米で約一石八斗)が増されて三人扶持となった。
 なお、前年六月の「象潟大地震」で破壊した籾蔵や村々の郷蔵の建て直しも行った。
 右のように切石の御用をはじめ、諸工事に出精したことから、文化三年十二月に「切石御用達」という名称で、藩の御用達商人に連なることになった。そのため、藩主の参勤交代に際しては、赤川の手前松原まで出向くことを命じられたし、年始・五節句の祝儀を表するために役宅まで出向くことも命じられた。役宅とは内川端にあった鶴岡町奉行の役宅のことであろうか。
 引き続き精勤したうえ、切石の寸志提供の件もあって、文化五年十二月にも一人扶持を増されて四人扶持となった。
 文化六年には藩の米蔵七ツ蔵の火防にと、寸志の形ですべて瓦屋根に替えた。  また、おそらく城内の諸建物のことであろうか、木羽屋根の修覆の請負金として六十二両三歩余が年々藩から与えられたが、途中から三十両余を寸志として差し上げたいと願い出た。許されたことであろう。
 しかも、すべて瓦屋根にすることにして、そのためには莫大な金子が必要となるので、領内のうち川南(田川郡)五組村々から小物成(雑税)の一つとして納入される縄・藁の類を手当分に与えられたのであった。
 文化十年三月までに、御米蔵・籾蔵とも残らず瓦屋根になり、堅固にできたので、冬期でも米の痛みがなくなったという。
 そのほか、郷方の御普請所の請負では、藩の利益になるべく精勤したので、また一人扶持を増され五人扶持となった。
 それらとは別に、郷方の御普請をいずれも堅固に仕上げたので、結果として普請の個所も減少したようであり、そこで文化十一年までは年々金三歩が与えられたし、同十二年に金二歩が与えられたという。
 それより先、文化七年十二月に、藩主の参勤交代の時に、赤川渡河に際し使用する船橋のことと思われるが、それを保管する蔵を建て直したし、また中川通にある橋々を堅固に普請し、やはり結果として普請個所が減少したようであり、称誉として金一歩が与えられた。
 同八年六月から九月上旬まで、川北・飛鳥村(旧平田町)の川水除の大修理に際し、必要の諸品を納入する件で、入札で山田家が落札したが、実際にはその落札値段よりも二割引きにして納入したという。最上川の堤防工事であろう。
 文化十年には大督寺の庫裏の立て直しに際し、経費を減じたので、藩の利益になったとして、郡代所から称誉として山田家に金三両、輩下の大工に三歩が与えられた。かなりの経費減となったためであろう。
 文化十二年十一月に、八代藩主に就任した酒井忠器の「新政」により、藩校致道館が大宝寺の地から城内の三の丸に引き移されたが、屋根瓦代金の見積もりを低く抑えたことから、郡代所から称誉として金三歩を与えられた。
 ところが、同年十二月に山田家は困窮しているとして、郡代所に金子の拝借願いをした。幸いそれまでの務め方が評価されたばかりか、これからも御用に立つ者であるとして、別段の沙汰であると、七ツ御蔵修覆金に金十両ずつ四カ年分、合わせて四十両を増金として与えられたうえ、ほかに金三十両の拝借を許された。同時に、山田弥十郎が生涯を通じて年々上納するとしていた寸志の切石(高三尺・長十五間)の分は以後上納するに及ばずとされた。
 山田家はかなり無理をして御用に励んでいたものであろう。
 以上、主に山田家の「先祖勤書」によって、同家の「御用達」商人としての事績を述べてきたが、右の「先祖勤書」は山田弥十郎本人が文化十三年(一八一六)八月に書き上げ、鶴ヶ岡大庄屋の宇治勘助・河上四郎右衛門両人あてに提出したものであった。
 その時点での弥十郎の肩書きは、
 切石御用達・五人扶持
となっていた。
 文政四年(一八二一)二月に三人扶持を増されて、八人扶持となった。
 有力町人の一人として弥十郎は御目見が許されていたが、同年の城中席順の記載では、
 御用達並 山田弥十郎
となっていた(『鶴岡市史』上巻)。

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