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人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年鶴岡南高校卒業
昭和41年慶応義塾大学卒業
昭和49年東京教育大学大学院退学
昭和61年明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

8月15日号 第119回  大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(下の二)

 庄内・由利にあった天領村々は明和六年(一七六九)から庄内藩の預地となっていたが、文化十二年(一八一五)十二月に庄内藩に預地に対する私領同様取り扱いが許された。それまで、庄内藩は預地支配につき多くの点で幕府勘定所の指示や承認を受けていたが、以後はかなり独自な支配ができることになった。
 また、それまで庄内・由利天領には惣代名主が一人ないし二人しかいなかったが、以後惣代名主の人数が増加し待遇も改められた。
 大山村だけでも惣代名主が三人となった。従来からの佐藤善右衛門のほかに、大屋と称され世襲年寄の役にあった田中家の当主八郎兵衛と忰徳右衛門の父子も惣代名主に任じられた。また千河原村(庄内町)の金子宗弥、由利郡大砂川村(秋田県にかほ市)の横山文左衛門も惣代名主となった。
 惣代名主は正式に本領の大庄屋同様の役職となり、新たに庄内藩より五人扶持(玄米で約九石)が与えられて、家臣同様の待遇となった。
 佐藤善右衛門らは大山村などの名主を兼務しており、本来農民身分であったが、今度は庄内藩の下級家臣の身分となったわけである。
 ところで、佐藤善右衛門家では文化五年(一八〇八)に至って、当主善右衛門が老齢であったので、孫の右馬治が惣代名主主見習いとなったし(拙著『庄内天領大山村の村役人』)、間もなく右馬治が当主となって惣代名主となったようで、善右衛門と改名した。そして、右のように文化十三年から五人扶持が与えられたのである。
 ところが、二年ほどした文政元年(一八一八)三月に善右衛門は重病となり、回復の見込みがないとして、娘に婿を迎えて佐藤家及び惣代名主の役を継がせたい旨の願書を預地役所に提出した(鶴岡市郷土資料館羽根田家文書)。
 願いが許されて、庄内藩の下級家臣である組外の池田八右衛門の忰が婿養子となり、佐藤善右衛門家を継ぎ惣代名主となった。善右衛門も襲名した。
 婿養子になったばかりの善右衛門は、翌年大変な災難に見舞われることになった。いわゆる「佐藤善右衛門一件」と称される事件である。
 大山村で文政二年八月に相撲興行が行われて、その事後の処理などで、善右衛門は同月九日に鶴岡の預地役所に出向き、用事が済み実家の池田家に立ち寄った。暮れ前に帰途についたが、友江村(鶴岡市)地内の中野橋の辺りで、大山村の方から蓑を着て何か背負った者に突き当たった。酒に酔った農民と考えてそのまま通り過ぎようとしたら、相手が胸倉のところをつかんで離さなかったうえ、連れの者も細竿のような物で善右衛門の頭を強く打ってきたので、数カ所疵ができた。仕方なく善右衛門は脇差しを鞘ごと抜いて打ち合った。
 ところが、灯火で見ると相手が帯刀をしており、家中の者のようなので、自分の不調法を詫びたが聞き入れてくれない。名前を尋ねられて名乗り、相手の士も田中連太と山崎勝之進と判明した。
 街道では通行する者もいるので適当ではないことから、大山村の善右衛門宅に行くことにした。そして、同家の旦那寺道林寺の住職に来てもらい詫びてもらったところ、ようやく納得してくれて一旦は引き取ったのであった。ところが、友江橋の辺りで一族の家中田中兎毛と逢って、兎毛が連太が疵を受けているので内済にはできないといい、再び連太たちは善右衛門宅に戻った。改めて道林寺の住職たちに詫びてもらったが承知してくれないので、善右衛門の方でも事件を内済にせず役所に届けると返事し、ようやく連太らは鶴岡に帰ることになった。その際、善右衛門の身柄を分家の善平・勝右衛門の両人に預けると申し渡した。
 翌十日、午前十時過ぎに家中たち多数が善右衛門宅にやってきて、善右衛門に対決したいとして同人を出すように命じた。
 しかし、善右衛門は喧嘩の際の疵などによるものか、不快のため近所の医師に行って針治療を受けたが、その後行方知れずとなった。
 連太らは、善平・勝右衛門に身柄を預けておいたのに取り逃がしたのは不埓として、逃げようとした両人を討ち留めたのであった。
 身を隠していた善右衛門は、分家の二人が殺害されたと聞いて十三日に帰宅し、十五日朝、親類の者も同道して鶴岡に行き役所に届け出た。代家での吟味があって禁錮入りとなった。
 翌三年五月二十六日に善右衛門は自滅を命じられたので、実家池田家の所持する新形村(新形町)の畑に小屋掛けし、そこで切腹した。『大山町史』では、百姓身分ではあるが、天領の名主のため士分同様の取り扱いで切腹となったとするが、前述のように惣代名主として家臣同様となっていたためと考えられる。
 田中連太・山崎勝之進は郷入りとなった。
 事件後しばらくして、忰善六が一時大山村の名主を務めたが、その後善右衛門家は村役人を務めなかった。(終わり)

令和元年6月1日号 第118回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(下の一)

 寛延三年(一七五〇)から十九年ほど幕府代官の支配が続いてきたが、明和六年(一七六九)四月に庄内・由利天領は再び庄内藩(酒井家)の預地となった。
 その際、それまで庄内天領村々のトップに相当する役職は郡中代(郡中惣代)であり、柳原新田村(明治九年大山村に合併)名主の河上丑太郎が在任していたが、同人が辞任し、代わって大山村の世襲名主である佐藤善右衛門が就任した。もっとも、それまでは郡中代と称したが、以後は惣代名主と呼ばれることになった。
 庄内藩の大庄屋に相当する役職であるが、大庄屋の方は武士身分であったのに対し、総代名主は村の名主の兼務であり、農民身分であった。  庄内藩は預地となった庄内・由利天領を支配するために、鶴ヶ岡の元長泉寺(泉町)の内川端のところに預地役所を再置した。通称川端役所である。主役、元〆、代官以下の預地役人が同役所で勤務したのである。
 また天領村々の村役人や百姓たちが預地役所などに用事があって、鶴岡に出向いてきた際に泊まる定宿である郷宿(ごうやど)を七日町(本町二丁目)の柏倉久右衛門家が務めた。そこで天領の年番名主たちの寄会なども開かれた。
 農民の定宿を庄内藩の場合、代家と称し、三日町の東端(昭和町)に置かれた。
 預地役所や郷宿での用事のため、総代名主である佐藤善右衛門はしばしば鶴岡に赴くことになった。また紛争の取り扱いなどで各地に出向いた。
 後年の文化十五年(一八一八)の佐藤善右衛門家の「覚書」(「郷政録」郷土資料館)には
 御郡中・由利郡公事出入等 取扱仰付られ、相勤申候え とも年号等相知不申候
と記していて、詳しい年月日は不明ながら、庄内・由利天領村々で起こった種々の紛争などの取り扱いを命じられて、解決させたことが幾多もあったことが知られる。総代名主は天領村々のトップとして紛争等を取り扱って、内済にするようにし、本格的な裁判にはならないように努めたわけである。
 寛政三年(一七九一)に由利天領の長岡村と大飯郷村(どちらもにかほ市)の間で入会地をめぐる争いが起こったので、預地役所より取り扱いを命じられて、角田二口村(三川町)名主佐藤東蔵と佐藤善右衛門の両人が由利郡に出向いた(『佐藤東蔵家系譜』)。
 寛政八年には、酒田・本間家と同家の支配人で由利郡大砂川村(にかほ市)名主文左衛門(横山姓)の間で「田地出入一件」が起こり、佐藤善右衛門と郷宿を務める七日町柏倉久右衛門が取り扱いを命じられて、由利郡に赴いた(「類例記」郷土資料館伊藤家文書)。
 また角田二口村と播磨京田村(鶴岡市播磨)の間に、享和三年(一八〇三)に新田堰野手(土手)の嵩上げをめぐって争いとなり、佐藤善右衛門が取り扱いをして一旦内済となるが、間もなく争いが再発し、最終的に解決するのは八年後のことであった(「為取替一札之事」郷土資料館二口文書)。
 右に示したのは、佐藤善右衛門が取り扱った紛争のほんの一部にすぎない。それでも、総代名主は結構大変な役目であったことが知られよう。
 しかも、佐藤善右衛門は寛政五年(一七九三)に庄内天領の御城米(年貢米)の江戸廻米について浅草御蔵納の納名主の役目を命じられて江戸に出張した。何とか年内に仕事が完了して帰村することができた(前出「覚書」)。
 寛政七年より、大山村の本町組ばかりでなく、安良町(荒町)組名主も兼務することになった。右の大山村名主の一人勤めを八カ年務めたとしているが、実際には十カ年以上務めたようである。
 それらの精勤が賞されてのことであろうが、寛政八年に天領村々に出向く際には公用・私用を問わず帯刀御免となった。一旦帯刀の特権が取り上げられていたが、五十年近く経て再び許されたのであった。
 佐藤善右衛門家はもともと酒造業などを営む富裕な家であったのに、次第に困窮したのである。ただ、酒造業を始めたのは、上田利兵衛という者から酒造株を譲り受けた寛延二年(一七四九)のことといわれる(『大山町史』)。
 同家は造酒屋としては「善六」の名前で営んでいたようである。確かに享保十年(一七二五)の大山村の造酒屋の中に善六の名前は見受けられないが、宝暦三年(一七五三)の時には佐藤善六の名前が確認できる。
 ちなみに、文化六年(一八〇九)に同家では二男皆次郎を隣村友江村に別家させて、酒造業を始めさせた(『三川町史資料集』第十集)。

2019年4月1日号 第117回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(中)

 大山村では、延享三年(一七四六)とみられるが、
一、吉川喜右衛門名主役御免 願
  (「自家御用留目録」、鶴岡市郷土資料館「郷政録」所収)
と、二人の名主のうち、吉川喜右衛門がまず名主役の辞任願いをした。どうやら、そのまま大山役所より認められたとみられる。
 もう一人の佐藤善右衛門は「不届之儀これ有り」として、
一、名主善右衛門閉戸仰付られ候事、並に退役願之事
  (同前)
と、閉戸を命じられたので、善右衛門も名主辞任願いをしたのであった。閉戸は武士の閉門に相当し、居宅での謹慎のことである。
 しかし、善右衛門の方は辞任願いが許されず、名主の役に復帰したようである。世襲名主の善右衛門のことを、大山役所駐在の手代の一存では辞めさせることができなかったものかと思われる。
 右のような大山村の名主に対する措置は、前回に記したように、当時大山役所に駐在した、尾花沢代官蔭山外記の手代富永幸左衛門が、自分の思うままの支配を行おうとし、それに受け入れようとしない村役人を罷免などにし、改めて自分に忠実な者を取り立てて、思う通りにしようとしたものとみられる。
 それについて、「郷政録」では、
 富永殿勤中諸法度正しからず、村中混乱に及ぶ
として、ついには幕府の勘定所に直訴に及んだとする。
 村中の混乱とは、栗本家「永代寿福帳」(郷土資料館)によれば、大体次のようなことであった。
 前出のように、両名主を閉戸や罷免にしたうえで、本来は宿駅業務に携わるところの両問屋を所検断に任命したという。その場合の所検断というのは、名主に代わる大山村の村役人の筆頭ということであったとみられる。
 また村内の町々の有力者を新しい町肝煎に任命したし、その他にも数十名の者を年寄、町代、立添役などの名称の役人に任命した。そして、毎日毎夜に寄合を催し、公用と称して村民たちを呼び出し、種々の難題を申かけて、飲食などを提供させたとする。毎晩のようにどんちゃん騒ぎの酒宴が催されたものであろう。多くの村民はよく事情も理解できないままに、迷惑に思って内心反発していたはずである。
 郷土資料館の「大山地区文書」の中に、延享三年九月付で蔭山代官の大山役所あての「差上申一札之事」という表題のある同一の誓約書が四十五通ほど保管されており、以前それを見た際には、何故このような一札証文が多数作成されたのか甚だ疑問に思ったのであった。
 富永幸左衛門は自分のやり方に対し、多くの村民が納得せず、中には反発する者もいたことから、全村民に大山役所の指示であると従わせようとして、各町の五人組ごとに誓約の証文を提出させたのであったと思われる。
 しかし、そのようなことで村民が服従したわけではない。延享四年に入ってからと推測されるが、村内の本町在住の本間与兵衛・渡部藤左衛門の両人が江戸に登り、「永代寿福帳」では、在府中の蔭山代官に訴えたとする。先の「郷政録」では幕府勘定所に訴え出たとしていた。手代の任免は代官が行うのであり、その点から蔭山代官に訴えたものとみておきたい。
 その結果、富永手代は休役を命じられた。村民の訴えを聞いて蔭山代官は驚いたことであろう。富永手代はその後出身地とみられる越後に追い払われたという。代わって、五月になって尾花沢代官所より吉田弁太夫という手代が派遣されてきて大山役所でしばらく勤務した。
 一時罷免されていた吉川喜右衛門は名主に復帰した。
 数年後の宝暦三年(一七五三)に、佐藤善右衛門家では忰善六が名主代となって、年貢米の大坂廻米の納入責任者である納名主として大坂へ出張中に病死するという不幸があった。
 その頃は幕府・大山村は大山代官の天野市十郎の支配であったが、その際佐藤善右衛門は長らく許されてきた帯刀の特権が否定された。再び同家に帯刀が許されるのは四十年ほど後のことであった(拙著『享保期の出羽代官と幕領村々』)。
 宝暦五年(一七五五)は奥羽地方は「宝五の飢饉」と呼ばれるような大凶作であった。大山村の名主両人は村内の者たちの年貢皆済のためばかりでなく、庄内幕領の他の村々の年貢未納などでいろいろ尽力したことであろう。
 明和年間に入ると、佐藤善右衛門家では明和三年(一七六六)と明和五年と、二度代替わりがあった。
 三代の善右衛門は寛保三年(一七四三)より明和三年まで二十三カ年に及んで大山村本町組名主を務めてきたが、同年七十四歳で病死した。そこで養子善六が相続して、善右衛門と改名し、本町組名主となったが、二年後の明和五年に病身のため退役し、養子八治郎に家督を譲った。

2019年1月1日号 第116回 大山村の世襲名主佐藤善右衛門家(上)

 江戸時代の大山村は戸数六、七百戸もあり、格段に大きな村であったので、代官所や代官役所が置かれたりしたこともあって、庄内の天領の中心として存在した。
 大山村も初め庄内藩領であったが、その後支藩の大山藩(一万石)の一村として分地された。ところが藩主酒井備中守忠解が寛文八年(一六六八)十一月に国元で急逝したが、後嗣がいなかったなどから、大山藩酒井家は断絶となり、大山領は翌九年六月に天領に編入され、以後幕府代官の支配の下に長く置かれたのであった。
 それまで大山村では滝波太郎右衛門が大肝煎(大庄屋)と名主を兼務していたとみられるが、天領になった際に退任したことから、一時大山村には大肝煎も名主もいないことになったようである。
 なお、庄内藩領では村の長を肝煎と呼んだが、天領では名主と呼んだ。役割は大体同じであった。
 大山村ではその後、大肝煎が任命されなかったが、名主には善右衛門(佐藤姓)が就任した。ただ、同家の史料でも名主に就任した年を寛文十年としたり同十二年としたりしている。十二年のこととすれば、天領になって三、四年の間、別の者が名主を務めるなどを考えなければならない。十年のことであれば、滝波太郎右衛門の在任が少し長引いたとみれば済むのではなかろうか。一応、寛文十年の名主就任とみておきたい。
 それより、文政三年(一八二〇)まで百五十年に及んで佐藤善右衛門家が大山村の名主を世襲で務めたのであった。以下、江戸時代、同家で書き上げた史料に主として拠りながら、同家について略述したい。
 善右衛門が名主になってしばらくの間、大山村の名主は一人体制であった。大きな村を一人の名主で取り扱っていくのは大変なことであった。なお、大山村には本町などいくつかの町があり、各町には肝煎が置かれていた。
 さて、大山村には当時、大肝煎がいなかったので、大山役所(陣屋)が置かれた大山村の名主は陣屋元名主として大肝煎に準ずる役割も果たすことになった。
 初代善右衛門は元禄三年(一六九〇)に数え五十一歳で病死したという。そうすると名主となったとみられる寛文十年(一六七〇)に三十一歳であったことになる。そして二十年間名主を務めたのであった。
 代わって忰右馬治が名主の役に就いたが、善右衛門と改名した。十八歳であったようである。同人も初め三年ほど一人名主であったはずである。
 元禄六年になって、権十郎(羽田姓)という者が村内の安良町組の名主になったので、以後二人の名主体制となった。そのため善右衛門は本町組の名主となった。
 しかし、どうやら権十郎はすでに貞享三年(一六八六)までには名主となっていたとみられる(「郷政録」鶴岡市郷土資料館)。そうすると、すでに初代善右衛門の在任途中から二人の名主だったことになる。
 権十郎は十数年名主を務めたが、十八世紀初めの宝永・正徳頃には辞任し、市郎右衛門(鈴木姓)に代わった。安良町組の名主はせいぜい一代だけの在任であり、そのため次々に交代するが、本町組名主善右衛門は交代せず、世襲したのであった。
 大山村の名主としての役割についても少し触れておこう。
 享保五年(一七二〇)秋、庄内は虫害により大凶作となった。そのため年貢はそれなりの減免もあったのに、天領村々でも年貢を皆済できない村もいくつかあった。そこで、陣屋元の名主であることから、依頼を受けて善右衛門は越後などに出向いて、合わせて金九百両を才覚して、未納の村々の年貢を皆済させることに努めたのである。
 また享保十九年には増川山入会地をめぐって、羽黒山領手向村(羽黒町)と庄内藩領や天領の村々の間で争いが再発したが、大山村名主善右衛門が取扱人の一人として内済に努めさせた。
 さて、二代善右衛門は寛保三年(一七四三)に七十一歳で病死した。十八歳で名主となり、それより五十四年にわたって本町組の名主に在任し、通常の仕事ばかりでなく、大山村の内外に起こった種々の問題に取り組んだのであった。
 代わって忰の善六が後任の名主となり、やはり善右衛門(第三代)と改名した。
 ところで、延享三年(一七四六)頃のことであるが、当時大山村の名主は善右衛門と喜右衛門(吉川姓)の両人であった。ところが、両人がそろって名主を辞任願いするという事態を迎えたことがあった。

12月1日号 第115回 平士から家老となった石原倉右衛門(四)

 文化八年(一八一一)七月、中老となった倉右衛門は「御系譜」書上の御用掛となった。これは幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂をするので、酒井家の系譜を提出するためであった。
 二百石の加増があったとはいえ、中老としては少知であるので手当米百俵が年々与えられることになる。
 同年十二月、藩主忠器より直々に御地盤立直(たてなおし)御倹約掛を命じられた。
 同九年九月に前藩主忠徳が死去したので、倉右衛門が法事の惣奉行を務めることを命じられた。
 同十年七月、世子忠発の縁組御用掛を命じられた。
 同八月、家老の役を命じられ加増三百石があり、知行千石となった。倉右衛門を隼人と改名した。
 同月、養子蔵太(成裕)は御広間の番頭の見習いのことを願い出て許された。同月、隼人は前藩主忠徳の一周忌法事の奉行を命じられた。
 同十一年三月、蔵太は番頭代を務めるので、二十人扶持が与えられた。翌十二年七月、蔵太は正式に番頭を命じられ、十人扶持が加えられ三十人扶持となった。
 同年九月、隼人は願って乗輿御免となった。老齢となって歩行が容易でなくなったものか。江戸城登城の際にお供をするなどの際のこととみられる。
 同月、改めて御地盤仕法替倹約掛を命じられた。
 当時、庄内・由利天領は庄内藩の預地になっていたが、同年十二月に預地に対して私領同様の取り扱いが許された。
 それ以前から身体が不調であったが、文政元年(一八一八)五月に隼人は中風となった。藩主忠器・世子忠発などから見舞いの使者や薬などが遣わされた。
 同十月、御医師山岸道一が遣わされたが、同月二十三日に隼人は病死した。享年六十であった(『新編庄内人名辞典』)。隼人が病死したとして、鳴り物が江戸で一日、庄内で三日停止となった。歌舞音曲のことである。
 同年十一月、養子蔵太が家督(知行千石)を相続し、上座番頭となった。家老などの嫡子としての待遇がされたわけである。なお、庄内勝手となり庄内住まいとされた。ただ、蔵太はしばらく江戸にとどまっていたようである。忌中のためとみられる。
 長子道之助が嫡子となった。
 同三年二月に忌明けとなった。前年、老母が病気となっていたので、庄内に帰って、二、三年ゆっくり養生させたいと願ったこともあり、同四年秋に庄内に下ることが命じられた。それより先、鶴岡では石川主膳の揚屋敷が与えられた。
 同九月、藩主忠器に拝謁したうえで休息の御暇を賜った。そして、家内を引き連れ江戸を出立し、庄内に移った。
 しかし、同年十二月には、来る五年春に忠器上京の御供を命じられたので、五年二月に江戸に行き、四月に忠器の御供をして京都に登ったが、五月には江戸に戻った。同年九月に庄内に帰るが、この時も庄内に赴く忠器の御供としてであった。
 文政十年(一八二七)正月、蔵太は組頭の役を命じられた。組頭は家中組の隊長であり、名誉ある役職であった(『鶴岡市史』上巻)。同十二年十二月に、家中の武器取調掛を命じられた。
 天保四年(一八三三)正月に御家中勝手支配を命じられ、それまでの武器取調掛は解かれた。
 同五年十月末、支城亀ヶ崎城に交代で在番することを命じられて酒田に赴いた。あまり長期ではなかった。
 同年秋は、前年とは代わって非常な豊作となったので、城内で黒川能が催されたが、蔵太も見物を命じられた。
 同六年二月に嫡子道之助が病死したので、次男順之助(成知)を嫡子にしたいと願い許された。
 同八年九月、長沼流兵学の免状を許された。兵学の師匠は年代的にみて水野丹解であろうか。
 同九年三月、家中「打立」を忠器が閲したが、その際蔵太の組も出向いたことから、蔵太の組一同に肴が与えられた。
 同十一年十二月、嫡子順之助が初めて御目見し、嫡子並みの奉公することとなった。
 同月、酒井家の長岡転封令を受けて、蔵太は鶴ヶ岡城引き渡しの役目を務めるように命じられた。しかし、転封が中止となったので、その役目は果たさないで済んだ。
 同十四年正月、新藩主忠発が初めて国入りしたので、その御祝いとして城内で黒川能を観覧したが、蔵太も見物を命じられた。嫡子順之助と三男鎗三郎も見物した。
 すべてが順調にいっていたようであったが、弘化二年(一八四五)三月、蔵太は何か失策でもあったのか「御役不相応」として突如組頭を罷免された。
 蔵太の後を継いだ順之助改め石原倉右衛門は、組頭を経て中老となったが、戊辰戦争時に新潟で討死した。それなのに開戦責任者とされた。一旦石原家は断絶となった。
(終わり)

10月1日号 第114回 平士から家老となった石原倉右衛門(三)

 寛政六年(一七九四)五月に勘右衛門が隠居したので、代わって聟養子主馬改め倉右衛門(成美)が知行三百石を相続した。同人はそれまでと同じ近習頭取のまま側用人席を命じられた。与えられていた知行百石は返還された。
 翌七年、参勤で帰国する藩主忠徳に付き従って鶴岡に帰った。同年十二月に役料二十石を与えられた。もっとも「名山蔵」(鶴岡市郷土資料館閑散文庫)では、前年六年のこととする。
 鶴岡での倉右衛門のことは、中老竹内八郎右衛門「日記」抄(『山形県史近世史料』2)に何度か出てくる。例えば、八月二十五日には、 一石原倉右衛門により封印ニ て御意之旨申来ル
とあり、藩主忠徳の書状が倉右衛門を介して老臣に届けられていたことが知られる。
 寛政八年五月に農村復興に関しての取り次ぎを命じられた。前年に庄内藩の寛政改革が始まったからである。七月には小姓頭席及び老職が詰める御用部屋への立ち会いも命じられた。十二月には精勤したとして小姓頭次席を命じられた。
 同年十月、藩主忠徳が明年九月に京都への使者を務めることになったので、倉右衛門は上京の御用掛に就いた。
 翌九年四月、忠徳上京の御供を命じられたが、その際格別の思し召しによって金十両を与えられた。五月、京都では忠徳が参内する度に御供するように命じられた。
 同八月、倉右衛門は小姓頭兼帯とされ、九月に加藤宅馬次席となった(「名山蔵」)。
 十月、倉右衛門の知行が少ないからと、米三十俵を年々手当に与えられることになり、また増役料三十石を加えられ、役料五十石となった。小姓頭は通常知行六百石前後の高禄者が務めるものであった(『鶴岡市史』上巻)。
 寛政十年正月、養父勘右衛門には妾腹の男子がいたが、倉右衛門はその男子(蔵太)を自分の嫡子にしたいと願い出て許された。
 六月、本役同様に倹約掛を命じられた。寛政改革に本格的に関わることになったのである。
 八月、忠徳の帰国に御供し、十二月に小姓頭本役に任じられ、それまでの役料五十石は加増となって知行三百五十石となったうえ、改めて役料五十石を与えられ、都合四百石高となった。翌十一年五月の参府でも御供を命じられて江戸に登った。
 同年十二月、藩は家臣に課していた上米(あげまい)を半分に減じたが、それにより倉右衛門に与えられていた三十俵の手当米は中止とされた。
 同年、幕府は大名・旗本らの系譜を全面的に改撰することになり、そこで酒井家では系譜を改めて提出することになったので、享和元年(一八〇一)春に家老松平内膳などを御用掛に任じたが、倉右衛門もその一人であった(「二天間記」、郷土資料館庄内古記録)。
 享和二年十二月、倉右衛門は加増百石があり、五百石高となった。
 翌三年六月、庄内藩は東海道及び甲州の川々の普請手伝いを命じられたが、倉右衛門は副奉行に任じられた。その件で、十二月に江戸城において老中戸田采女正より白銀・時服などを与えられた。
 文化二年(一八〇五)七月、忠徳が隠居するので、倉右衛門は江戸・下谷藩邸の奥普請掛を命じられたし、世子忠器が新藩主に就任するので、八月にその御用掛とされた。
 なお、その隠居した忠徳より郡代白井矢太夫に紋付きなどが内々で与えられることになったが、そのことは「御小姓頭石原倉右衛門」より通知があったのである(白井矢太夫「勤書」、郷土資料館白井家文書)。
 普請したばかりの下谷の新邸が翌三年三月に類焼したので、四月に倉右衛門は再び普請御用掛を命じられた。もちろん立派に再建したことであろう。
 同年五月、嫡子蔵太が家老たちに会って、嫡子並み奉公することを言上した。
 同年十一月、翌四年の藩主忠器の婚礼御用掛を命じられた。文化四年十二月に忠器が従四位下に昇進するので、やはり御用掛を命じられて、役料五十石が加増された。知行五百石となったのである。
 文化六年六月、倉右衛門は御地盤御倹約掛を改めて命じられた。御地盤というので、主として藩自体の財政の倹約掛であろう。
 翌七年十二月、支藩松山藩より酒田・本間家に財政のことで依頼する際に、倉右衛門が世話をしたのであり、藩主大学頭より御礼の直書で御肴などが贈られた。
 そして、文化八年に庄内藩に政権交代があり、倉右衛門は中老に任じられ、加増二百石があって、知行七百石となった。

8月15日号 第113回 平士から家老となった石原倉右衛門(二)

 延享四年(一七四七)十二月、石原勘右衛門(五代成信)は物頭として兵具支配加役を命じられた。
 寛延二年(一七四九)九月、藩主酒井忠寄が老中に就任したが、その際に拝領した屋敷を受け取る役目を命じられて、勘右衛門は足軽たちを率いて受け取りに出向いた。同月、当分大目付の役も命じられた。
 宝暦元年(一七五一)閏六月に勘右衛門は番頭代を命じられたし、その後も番頭代や奏者加役を何度か務めた。
 同四年正月、嫡子蔵太が世子忠温(ただあつ)の近習当分となった。なお、乙吉を蔵太と改名したものである。同七年七月に蔵太は正式に忠温の近習となると共に腰物方加役となった。九月にまた蔵太を才治と改名した。
 翌八年十月、才治は忠温の御供支配兼帯となった。同十年四月に御供支配のまま、忠温の三男忠徳(ただあり)の御抱守加を命じられた。忠徳は宝暦五年十月の生まれで、その時数え六歳であった。同十二年十一月に才治は抱守本役となった。
 同じ十一月に勘右衛門は病気のため、役目を務めがたいとして辞職を願い出て、隠居することが許された。七十歳であった。
 代わって才治(成苗)が六代当主となり、高二百五十石を相続した。石原家は引き続き江戸詰であり、御広間御取次見習を命じられた。
 明和元年(一七六四)五月に才治は物頭となり、御兵具支配加役を命じられた。同年六月、勘右衛門と改名した。
 翌二年五月、勘右衛門は物頭・兵具支配のまま、忠寄の四男万之助(本多康伴)付きを命じられた。しかし、万之助が本多下総守(膳所藩六万石)の養子となったので、御付きは御免となった。
 明和三年に足軽倹約方を命じられた。足軽たちの暮らしが困窮していたことから、上司である物頭として生活改革を監督したのだろう。同十二月から番頭代・奏者代を度々務めた。
 翌四年十一月、前藩主忠温の一周忌の法要に際し、大目付代を命じられた。同五年七月、貸物方加役を命じられた。同七年五月、留守居の役を命じられ、役料五十石が与えられたので、三百石高となった。
 安永六年(一七七七)八月、藩主忠徳夫人脩(なお、仙寿院)付きの頭役を命じられた。その際、それまでの役料五十石が加増された。用人次席(用人格)となった。家格が上昇したのである。
 勘右衛門には男子がなかったので、家中長沢牛兵衛の弟主馬を聟養子とした。牛兵衛は高六百石で用人を努めており、上士であった。
 天明元年六月の御勝手御用掛となった本間光丘が立案した「天明御地盤立」(『鶴岡市史』上巻)に基づく財政改革の一環として、夫人付きの頭役も減員とされて「一人勤め」となったが、勘右衛門が引き続き一人で務めた。
 奥の勝手向には当時借財があって、それまでは藩財政の方から返済されていたが、勘右衛門の尽力によるものであろうか、御奥地盤金が設けられ、藩財政から自立し、自己責任で返済したのであり、そのため夫人より言葉があった。尽力に対して感謝を表したのであろう。同年六月、用人席を命じられた。
 天明三年(一七八三)四月、役料三十石が与えられ、三百三十石高となった。同八年三月に奏者を命じられたが、席順はそれまで通りの用人席であった。番頭の方も務めるように命じられた。
 寛政二年(一七九〇)六月、一代番頭を命じられたが、席はそれまで通りであった。
 以前から足痛があったので、参勤交代で帰国する藩主忠徳に随って鶴岡に帰り、温海へ湯治に行きたい旨を内願したところ、七月に許されたが、奏者の振合でとされた。奏者の格での帰鶴・温海湯治が許されたのである。勘右衛門にとって、あるいは初めての帰郷だったかとも思われる。
 湯治が終わると直ぐに江戸に戻ったものか、八月には御広間倹約を命じられた。
 翌三年六月、京都の御所改築完成の祝いのため、勘右衛門は同地への使者を命じられて京都に登って役目を務めた。
 江戸に戻ると、参勤で出府していた忠徳が不快のため将軍に拝謁ができないので、その件につき使者を命じられて、江戸城に登った。
 同年十月、夫人が実家の田安家に帰る際、組頭代を命じられて御供した。同五年八月にも田安家へ御供し、やはり組頭代を命じられた。
 勘右衛門は寛政六年五月、老年につき隠居を命じられた。願い出ていて許可されたのであろう。聟養子主馬(蔵太)改め倉右衛門が相続した。同人は家老まで出世することになる。

6月1日号 第112回  平士から家老となった石原倉右衛門(一)

江戸時代の後半に、庄内藩の平士から重臣に進み、家老や中老を務めた石原倉右衛門という家があった。  殊に、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争に際し、中老だった倉右衛門(成知)が、六月の新潟での奥羽越諸藩の重臣会議に出席し、帰国の途中官軍に襲撃されて死亡していたにもかかわらず、降伏後に開戦責任者とされて、石原家が一旦家名断絶となったことは、庄内では忘れてならない歴史である。
 今回、石原家について、文化八年(一八一一)からの中老を経て、同十年八月に家老となった倉右衛門(成美)までについて述べることにしたい。  記述は、石原改め酒井家に残されている「先祖勤書」を中心に記すことにする。
 初代石原勘左衛門は会津藩蒲生家に仕えていたが、寛永四年(一六二七)に浪人になったと推測される。
 寛永十四・十五両年に及んだ九州・島原の乱に際し、柳川藩立花家の人数に加わって参陣して高名を上げた。それによって庄内藩に召し抱えられたのである。
 庄内藩の『大泉紀年』(上巻)にも、寛永十五年に新たに召し抱えた者の中に、
  高弐百五拾石
       石原勘左衛門
とある。正確に言えば、藩主酒井忠勝の世子忠当に召し抱えられたのである。知行二百五十石であった。
 勘左衛門は、忠当の代の承応元年(一六五二)に物頭の役に就き足軽組を預かった。万治三年(一六六〇)に普請奉行に転じた。翌寛文元年正月に江戸の上屋敷が類焼したので、勘左衛門は藩邸再建の作事奉行を命じられた。
 勘左衛門は寛文六年(一六六六)に六十四歳で病死した。子の喜大夫が知行二百五十石を相続した。
 同十一年に喜大夫は使番の役に就いて、勤番のため江戸に登ったが、同年同地で病死した。まだ二十一歳であった。
 弟の勘右衛門(成定)が跡を継ぐが、知行は二百五十石のうち百五十石が与えられた。
 勘右衛門は天和二年(一六八二)に代官の役に就いた。狩川代官だったようである。
元禄元年(一六八八)に郡奉行となり狩川通を担当した。二年後の同三年に三十四歳で病死した。
 勘右衛門には男子がいなかったので、弟勘左衛門を末期養子にして相続させることにしたが、知行がまた三十石減じられ、百二十石となった。最初の知行が半減以下になったことになる。勘左衛門は勘右衛門(成章)と改めた。
 同人は元禄七年に川北・荒瀬代官に就いたが、同九年に罷免された。その後残物改の役を経て同十四年十月に江戸に登り供頭の役に就いた。藩主忠真の外出時の行列を警衛する供廻りの責任者であったろうか。
 宝永元年(一七〇四)に加増百石があったので、知行は二百二十石となった。
 勘右衛門は正徳五年(一七一五)十一月に五十五歳で病死した。実子とみられるが、嫡子が知行二百二十石を相続し、勘右衛門(成信)を名乗った。同人は定府となっており、享保元年(一七一六)八月に江戸で書院目付の役に就いた。その後、御金方などの役を経て、同七年六月に使番を命じられた。
 同十年、藩主忠真が幕府の使者として上京するに際し侍従に任じられたことに関連して、勘右衛門が京都に派遣された。
 享保十四年閏九月に三十石の加増があって、知行二百五十石となった。石原家の最初の知行にようやく戻ったのである。同年十月物頭の役となり、江戸の兵具支配を命じられた。引き続き江戸詰だったのである。
 元文四年(一七三九)八月に、庄内藩は日光普請の御手伝いを命じられたので、勘右衛門は普請奉行並びに目付の兼務となった。普請御手伝い中は日光に常駐したのではなかろうか。
 翌年七月に御普請が成就したので、藩主忠寄の前で金二十両と帷子(かたびら)が与えられたし、老中松平伊豆守(信祝)からも白銀二十枚を頂いた。
 寛保元年(一七四一)八月、幕府の使者として藩主忠寄が上京した。その留守中に勘右衛門は大目付兼帯を命じられた。
 延享二年(一七四五)七月に、嫡子乙吉が藩主忠寄に初めて御目見した。乙吉を石原家の後継者として認めてもらったことになろう。乙吉は同四年四月に中奥小姓に召し出されて御切米金十両と三人扶持(一年に玄米五石四斗ほど)を与えられた。中奥は藩主が日常過ごす場所であり、小姓は藩主に近侍して雑用を務めたのである。この頃はまだ中級の家臣であった。

4月1日号 第111回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(四)

 白井矢太夫は文化四年(一八〇七)六月、江戸で小姓頭に任じられ、百石加増となり知行四百石となった(「白井矢太夫勤書」)。小姓頭は近習、小姓等の小姓組を統轄する役で六百石前後の高禄者より任命され、いわゆる旗本の隊長であり、藩より藩士に伝える御触は組頭と小姓頭の名前で出された(『鶴岡市史』上巻)。藩校の祭酒の役はこれまで通りとされた。
 同年四月八日に鶴ヶ岡に大火があって、白井邸も類焼していたので、御用屋敷の内北の方の屋敷を与えられた。
 翌五年正月に中老に昇進し財政担当を命じられて、加増三百石が与えられ、知行七百石となった。
 その後郷方御用懸かりと藩校惣奉行を命じられた。また六年五月には江戸藩邸の惣検約についての取り扱いも藩主忠器の直書で命じられた。
 文化七年正月に加増百石があり、知行八百石となった。
 ところが、同年冬に疫を煩って一時は危険な病状であった。その後も十分に回復していないのに、仕事が溜まっていると言って、暮れに無理に出仕したという。
 そのためか、翌八年正月に中風となった。危篤の状態にもなったが、何とか大事は脱したものの、半身不随となったのであり、手足が利かず、言語も不明瞭となったという(「野中の清水」)。
 大殿忠徳の直書があって、四月には江戸に登る予定であったが、病気となって不可能となった。忠徳と再会するのを楽しみにしていたことであろうが、結局、忠徳に会うことは叶わなかった。
 ところで、矢太夫とは直接関わらないところで、ある事件が起こって、それがキッカケとなって、矢太夫の身にも重大事が及ぶことになった。  文化六年(一八〇九)六月、江戸詰だった元締(もとじめ)坂尾儀太夫という藩士が交代により鶴岡に戻る途中、仙台領関宿(宮城県七ヶ宿町)に宿泊したが、初めて泊まった宿である最上屋の主人五郎右衛門が不埒であるとして手討ちにする事件が起こった。
 藩では初め事件をあまり重大事にとみていなかったが、仙台藩との間の交渉が難航した。結局、坂尾儀太夫が当時精神錯乱していたとして、知行を取り上げ蟄居としたことで、何とか片付いたのであった(『鶴岡市史』上巻)。
 この事件はそれだけでは済まなかった。
 文化七年九月、藩主忠器が参勤交代により江戸から庄内に帰る途中、関宿で何か不快なことがあり、翌八年五月の参勤で出府する際には関宿を通らず、コースの一部を変更し、米沢を通り板谷峠を越えていく通路をとった。ただ、その通路変更についての幕府の許可状が届かず、発駕の日を延期したものの、所定の参勤の期日が迫ったことから、家老竹内八郎右衛門が決断し、幕府の許可状を受け取ることなしに出発した。板谷越えではかなり苦労したが、無事江戸に到着した。
 しかし、その件で幕府の不興を買ったようだという。
 藩主忠器はそのことを問題視し、江戸家老加藤衛夫を庄内に下し処分を申し渡させた。
 七月に、家老竹内八郎右衛門・中老白井矢太夫は御役御免のうえ隠居を命じられた。この両人にとどまらず、両家の一族数十人も御役御免となった(同前)。郡代を務めていた白井惣六(矢太夫の弟)も罷免となった。
 白井矢太夫の隠居により、嫡子重明が家督相続をしたが、知行は半減し四百石となった。
 右の処分について、白井家では理由がわからなかったようである。白井惣六の著「野中の清水」では、「いかなる事によりけん」と記していた。理由が明示されなかったわけである。
 処分について、病床にあった矢太夫には初め内緒にしていたが、いつまでも隠しておくこともできないので、ある日その件を話したところ、それほど驚いた様子でもなかったが、長く歎息したうえ、忠徳から頂戴した直書を取り出させて拝見し、涙をはらはらと流したという。実際には衝撃を受けたのである。
 そのこともあってか、次第に病が篤くなって、文化九年(一八一二)六月二十四日に没した。六十歳であった。因みに文化二年九月に隠居し、大殿と称されていた前藩主の忠徳も中風となって、同じ九年九月に五十八歳で死去した。
 寛政改革を中心となって推進した主従が揃って亡くなったのであった。改革の終焉となったのである。  竹内、白井派に代わって政権を担当したのは水野東十郎(内蔵丞)であった。竹内・白井派によって藩政から遠ざけられていた酒田・本間家も藩政の関わりを復活する(『鶴岡市史』上巻)。
終わり

2月1日号 第110回  寛政改革時の郡代白井矢太夫(三)

 寛政五年(一七九三)五月に、白井矢太夫は郡代の役に任じられた。庄内藩では郡代は農政を総括する役職であり、また藩の経済を司る役でもあった。三百石以上の家中から任じられた(『鶴岡市史』上巻)。矢太夫はそれまで高二百五十石であったので、役料五十石が与えられ、合わせて三百石高とされた。
 また、以前郡代を務めた加藤三太夫の揚がり屋敷が与えられた。
 同六年四月に御用のため江戸に登って、七月に庄内に戻った。おそらく藩主酒井忠徳から郷村の改革の方策などについて相談を受けたのであろう。  そして、同七年五月、忠徳は疲弊の著しい郷方の改革を行うことを申し渡し、矢太夫はその担当を命じられた(白井家「先祖勤書」鶴岡市郷土資料館)。庄内藩の寛政改革の始まりである。
 前年、忠徳の諮問に答えて、それまでの藩政の得失と改革について上書していた(『新編庄内史年表』)。おそらく、その年四月に出府した時に提出していたものであろう。
 寛政改革は右の上書に基づいて実施されたものである。
 因みに、七年五月、郷方改革の御用掛として中老の竹内八郎右衛門・酒井吉之助、郡代の服部八兵衛・白井矢太夫が命じられたが(同前)、中心を担ったのは白井矢太夫であった。
 寛政改革以前においても、酒田の豪商本間光丘を登用して財政整理や農民救済に取り組んだが、その際の基本的な施策は、本間家が低利の金子を融通して、高利の借財・借金を整理しようというものであったといえる。
 それに対し、白井矢太夫は「只眼の前の事のみにて、諺に云飯の上の蝿を追ふとやらんにて、年を経ずして又崩るるのみかは、いよいよ困窮まさり」(「野中の清水」)として、眼の前のことに対処するだけで、根本的な解決にはなりえず、かえって困窮が増すことになると考えていた。  なお、徂徠学を心から信奉していた矢太夫は、基本的に重農主義的な考えに立ち、商業や商人は利をのみ追うものと考えていたのである。  寛政八年十一月、命じられて矢太夫は急ぎ江戸に登った。これは、将軍徳川家斉の世子家慶が大納言に任じられたに際し、忠徳が使者として京都に上ることになったので、それに関連した御用を務めるように呼ばれたもので、翌年まで在府した。
 そのうえ、七月には御用で大坂まで行くことになり、御用が終えて八月に庄内に戻った。
 財政整理に関わって、上方の商人などに交渉したものであろうか。
 寛政十年二月にも藩の財政御用のため、江戸に登った。そして六月には忠徳などの江戸での暮らし方について、改めることを命じられた。藩主などの江戸での出費が嵩んでいたので、その整理・削減ということであろう。直ぐに何か方策を立てたのであろうか、八月には庄内に戻った。  参勤交代の制度があって、藩主は一年おきに江戸と庄内を行き来したので、寛政改革の担当者として多忙だったであろう矢太夫も、しばしば呼ばれて江戸に行くことになったわけである。
 寛政十一年三月、矢太夫の二男道之助が嫡子となり、初めて忠徳に御目見をした。そして嫡子並の奉公をすることになった。矢太夫の後を継いだ重明のこととみられる。
 それより先、同十年八月に大宝寺に学問所を建設することになって、矢太夫は普請奉行となって、その建設のことも担当した。もともと学問所設置を進言したのは矢太夫であった。間もなく学問所は学校と称されることになる。
 学校が竣工すると、矢太夫は祭酒を命じられた。今でいえば理事長か学校長ということであろう。
 享和元年(一八〇一)七月にも御用のため江戸に登り、十二月に庄内に帰った。
 同二年五月、数年の精勤を理由に用人席とされた。身分が上昇したのである。
 同三年正月には、役料の五十石が加増とされ、高三百石となった。
 文化二年(一八〇五)二月、藩校致道館の落成式が行われたのであり、その際矢太夫が祭主として孔子を祀る典礼である釈典を挙行した(『鶴岡市史』上巻)。
 同年九月に、藩主忠徳が隠居し、二男忠器(ただかた)が八代藩主となった。
 藩主が代わっても、矢太夫に対する信頼はしばらく続くことになった。
 文化三年三月に、江戸に急登りを命じられて出府した。その際、矢太夫が著した易経の注釈書を忠器に献じた。忠器はそれを致道館で出版することを命じたという(『荘内史年表』)。

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