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寄稿 2022年

掲載インデックス

「庄内藩酒井家400年と海坂藩物語について」

2022年9月1日号 鶴岡市 水谷 史男さん

「明治2年庄内藩転封反対の農民訴訟 ―藤島組楪(ゆずりは)村 作蔵―」

2022年7月1日号 鶴岡市 小野寺 雅昭さん

「5月場所雑感」

2022年6月15日号 鶴岡市上畑町 花筏健さん

「漱石になりたかった都市計画家 〜石川栄耀と黒谷了太郎の縁」

2022年5月15日号 鶴岡市砂田町 伊藤 美喜雄さん

寄稿バックナンバー
・2023年寄稿 ・2021年寄稿 ・2020年寄稿 ・2019年寄稿 ・2018年寄稿

2022年9月1日号 「庄内藩酒井家400年と海坂藩物語について」
 鶴岡市 水谷 史男さん

 今年の庄内鶴岡は、酒井家入部400年を記念して春からいろいろなイベントが行われ、コロナのまん延をふり払うような盛り上がりを見せています。山王町の映画館「まちなかキネマ」復活に向けてご縁を得た私にも、何か鶴岡に関係した文章を書かないかということで、さて、と考え表題のようなお話を書かせていただきます。
 私がここで触れたいのは、史実としての庄内藩の歴史ではなく、それを時代小説にした藤沢周平の作品、特に庄内藩をモデルにしたとされる海坂藩を舞台とする武家物小説と、それを映画やテレビドラマにした作品で、鶴岡の風土と昭和の高度成長期という時代を考えてみます。
 いうまでもなく作家・藤沢周平は、昭和ひとケタの庄内生まれ、戦後の貧しい時代を生き、高度成長と共に花開いた作家です。その絶頂を極めた時期が、日本が経済大国としてバブルの繁栄を謳歌した時代に重なります。
 その作品の映画化やテレビドラマ化が一種のブームになるのは、作者が亡くなった後の平成10年代でした。まず真田広之主演「たそがれ清兵衛」(2002年)、続いて永瀬正敏主演「隠し剣 鬼の爪」(04年)、市川染五郎主演「蟬しぐれ」(05年)、木村拓哉主演「武士の一分」(06年)。続々と藤沢周平作品の映画はヒットし、テレビドラマも次々制作されていきました。藤沢周平が描く海坂藩の下級武士を主人公とする作品は、高度成長期のサラリーマン男性のリアリティーをしみじみ味わい、共感させてくれる世界で、この点で柴田錬三郎とも池波正太郎とも、司馬遼太郎とも違います。
 今年3月に91歳で亡くなった映画評論家・佐藤忠男さんの著書に『映画の真実』(中公新書)があります。そこで佐藤さんは、映画はあくまでフィクションで現実をそのまま描いているのではないが、見る者はそこに真実があると思う。つまり映画には「美化」がはたらく。美女美男が主人公を演じることで、そこに人を感動させる作為があると。
 小説にも美化はありますが、文章でいろいろ説明するのと違って、実写映画は俳優がちょんまげを結い、刀を差す武士になり、現代とは違った言葉遣い、立ち居振る舞いで活躍します。
 私が注目する藤沢作品をひとつ挙げるとすれば、やはり「風の果て」です。これは込み入った長編なので、劇場用映画にはなっていませんが、佐藤浩市主演でNHKのドラマになりました。主人公の上村隼太は家禄130石の次男坊に生まれ、どこかの養子に潜り込まない限り一生飼い殺しの存在。それが郡奉行で新田開発を悲願とする桑山孫助に出会い、その理想と技術に心酔し180石の桑山家の婿になる成功物語です。
 江戸時代の武士というのは、身分の証として刀は差していますが戦はなく、実際は藩という組織の官僚で、領民と藩領の治安維持に責任を負うのが仕事です。もし失敗をすれば、お役御免で冷や飯を食い、やる気のある藩士は抜擢され、チャンレンジの機会を得ます。
 藤沢時代劇の主人公の多くは、藩内の抗争に巻き込まれて理不尽な運命に翻弄されるのですが、「風の果て」では、主人公は村巡りの郡奉行から郡代、藩の中枢の執政、中老、ついに最高位の主席家老に登りつめるという奇跡的な成功を収めます。これは高度成長期に、企業に身を捧げ出世した成功者や高級官僚に重なります。
 この作品で描かれる人物は、権力の座にある自分に若き日の理想とは遠い俗物を見ながらなお「足るを知らず」。今の自分に満足しない男の自省、政治的倫理を貫きます。司馬的国家の英雄でもなく、ニヒルな剣豪浪人でもありません。
 鶴岡という町に降り積もる雪のような、庄内酒井氏の400年の歴史は、藤沢時代劇の海坂藩の史実とは別のものです。でも、このような「美化」を達成した土地は、三百諸侯の城下町の中でも格別、独自です。鶴岡という風土を小説にした藤沢周平という作家の想いは、現実を超えた「美化」ですが、庄内藩酒井家は私たちの記憶に刻まれており、今、現実の中で息づいているのです。

【水谷 史男(みずたに・ ひさお)さん】
  1949年横浜市生まれ。明治学院大学で36年間、社会学・社会調査の研究・教育に携わり、2018年に定年退職。明治学院大学名誉教授。沖縄から北海道までの日本各地、ドイツ、アルゼンチン、インドで出稼ぎ移民などの調査を行い、論文・著書多数。定年を期に、鶴岡市山王町にアトリエを借り「アートギャラリー寿庵」と称して趣味の絵画制作に通う。「白甕社展」(令和元年)に出品した油絵作品で、鶴岡市教育委員会賞を受賞。山王商店会員として「まちキネ」支援中。

2022年7月1日号 「明治2年庄内藩転封反対の農民訴訟 ―藤島組楪(ゆずりは)村 作蔵―」
 鶴岡市 小野寺 雅昭さん

今年は庄内藩酒井家の庄内入部400年の節目。庄内藩にちなんだ歴史を紹介したいと思います。藩主の転封に領民が反対した運動といえば、天保期の「三方領知替え一件」が知られていますが、明治初期にあったもう一つの反対運動をご存じでしょうか。
 酒井家14代・忠宝(ただみち)は、戊辰戦争の罪で謹慎となった兄・忠篤(ただずみ)から家督を継ぎ、藩主を継承しました。しかし明治元年12月、政府より岩代国若松への転封を命じられます。その際、庄内2郡の百姓らが翌年2月に上京して三條実美をはじめ、公家や薩長土肥の新政府要人計41名に反対を訴え出ました。
 百姓たちは三方領知替え一件の成果を十分理解していたようです。日本史上初の幕命撤回を実現させ、庄内藩主を鶴岡に「居成(いなり)」することができた前例を踏まえ、今度は明治政府の暴政を止めようとします。その中に作蔵という百姓がいました。作蔵が暮らしていた楪村は現鶴岡市藤島地域にあり、村高440石余、26軒(天保5年)の村でした。
 さて、写真のような掛け軸があります(個人蔵、初公開)。その中に描かれているのは、この反対運動の顛末です。作蔵は東京で勝右衛門と名乗り、百姓又八、清七と共に、明治2年3月22日より4月17日まで8回、若年寄であった戸田大和守忠至(ただゆき、下野高徳藩主)邸宅(本所蛎殻町)に行き、庄内藩主復帰を歎願するのですが、みな断られます。この史料では「事をたくみにし歎願ひの認書を捧上しか、ついにまた御取受の道なきものとてねもころ(懇ろ)に諭し玉へハ」とあります。
 そこで止むに止まれず4月18日辰刻(午前8時頃)戸田大和守が江戸登城の時、駕籠訴を行い、訴状を出したところ、守護する藩士に無礼だと何度も突き倒されたといいます。しかし、駕籠側の侍二人が作蔵の訴状を受け取り、元大坂通り小網町通親父橋まで作蔵らを連れ、うち侍一人は戸田屋敷に訴状を持参。同日羊刻(午後2時頃)東京府当局に作蔵らを引き渡し、白洲で逐一吟味が始まりました。
 そこで作蔵らは願いのままを話します。縄をかけられ牢屋(小伝馬牢か)で他の罪人同様の枕につき、翌19日午刻(正午頃)にやっと、以前宿泊した小伝馬町宿屋善兵衛と同町五人組頭の捺印(身元保証)で出獄し、諭され帰ってきます。
 この誠心の褒美は「七月二十二日藩主忠宝の庄内復帰の詔」と記してあります。作蔵は最後に、「是迄の辛苦、東京の長き旅寝、又往返の困難さへ中々述も尽くしかたく」絵にして子孫のため残した、と結んでいます。
 この絵はリアルに当時の現場を再現しています。下から時間の経過順に4段に組まれ、下より1段目は駕籠訴して突き倒された場面、2段目は、それでも3人が土下座して歎願する姿があり、3段目は、江戸街角で行き会う武士や町人に尋ねる場面、最上段は、白洲で訴状を読む目付とおぼしき左右2人の前で作蔵が供述している場面です。3人の表情までくみ取ることができます。
 なお、この戸田大和守宛ての訴状提出や、その他の百姓の動きについては、角田貫次「荘内藩転封事件の顛末」(昭和8年)に詳しいです。また五十嵐文蔵「境興屋五十嵐長次郎『道中日記』(酒田古文書同好会『方寸』第四号、1972年)も参照できます。また、このような百姓の力を再発見している著書に、渡辺尚志『言いなりにならない江戸の百姓たち』(文学通信、2021年5月)があります。

2022年6月15日号 「5月場所雑感」
 鶴岡市上畑町 花筏健さん

 初日から三人の大関を連破した琴の若は、先場所の優勝者『若隆景』のような「今場所の星」になるのでは…と思わせた。その内容からしてたまたまの結果ではなく、俗に言う『一皮むけた…』と感じさせるものだった。
 私は衛星放送で幕下の相撲をよく見るが、その中で北播磨(ハリは石偏に番の字)という力士に注目している。平成14年に入門し、幕内も経験したベテラン力士なのだが、そんな態度はおくびも見せず、細身の体で激しく動き回って相手を翻弄し、まるで新十両を目指す新鋭力士のような態度で土俵を務めている。身長は180㌢以上あるが、体重は110㌔余の軽量だ。さらに同部屋には鳰の湖(におのうみ)という同期入門の力士がいる。こちらは140㌔あるが174㌢のライバルである。この凸凹コンビは入門以来、番付面での上下を競ってきた。その積み重ねが二人を幕内へ至らせる原動力となったことは疑う余地もない。それを興させて、さらに長続きさせたのは師匠の指導に他ならない。その人は『強すぎた大横綱』と称された「北の湖」である。
 この二人の土俵態度を見ていると、師匠の養成方針が見えてくるような気がする。
 『鳰』はカイツブリと読むカモの仲間の水鳥である。彼の故郷である琵琶湖には、たくさんやって来ることからの名前であろう。晩秋に鶴岡公園の堀でもよく見かける、カモより一回り小さく、茶色の頭がこの鳥である。また北播磨の「北」は師匠北の湖からで、播は出身地「播磨」であろう。しかし番付には何故か「石へんに番」の字を用いている。この字は中国にある川の名で、あの〝太公望〟 が釣り糸を垂れた所とのこと。
 この二人に興味を覚えたのは、読みづらい漢字だったからである。
 幕下に「金峰山」という力士がいる。鶴岡市民にとってはやや気になる四股名であるが、鶴岡とは全く関係がない。「金峰山」は全国に4、5あった…ように記憶している。師匠が熊本出身の元肥後ノ海であることから、そちらの山か…。この力士は中央アジアのカザフスタンの出身であり、そちらからとったものか…。令和3年11月に日本大学を経て付け出しで初土俵、今場所は幕下4枚に昇進した。今場所当地出身の十両『白鷹山』を破り5勝1敗で千秋楽を迎えた。いつもなら十両昇進が確実の成績だが今場所は星のつぶし合いで、幕下優勝者を除けば横一線といったところである。十両昇進を懸けての相手は途中休場から再出場の北の若(酒田)である。勝った方が来場所の十両…という大一番である。勢いからすれば金峰であろうが、北の若が意地を見せ、金峰は関取に届かなかった。
 ご存じの通り土俵上の力士は、館内放送で「東○○、□□県出身、△△部屋」と紹介される。大阪場所なら「東、大阪府出身○○部屋…」で大拍手となる。また外国出身者には有名無名に関係なく、多くの拍手が送られるのが常であったが、最近ではモンゴル出身…と放送されてもそれほど多くの拍手はない。相撲界においては、もはやモンゴルは外国ではなくなっている。引退した元白鵬や鶴竜などのテレビ解説はとても流暢だし、外国出身者…とは感じない。
 ご存じの通り館内では力士が土俵へ上がると、二人の出身地・所属部屋が紹介される。そんな中で今場所、特に拍手がわくのは「ウクライナ出身…」である。5月場所の10日目「西 獅司、ウクライナ出身 入間川部屋」「東 狼雅、ロシア出身」の案内には異様な空気が流れた。
 「しし」は「獅子」と書くのが普通だが、入間川親方は元『栃司』であることから、弟子の多くはこの『司』を四股名に用いている。一方の狼雅は元大関雅山の二子山部屋で、親方の一字を名乗ったものである。  二人の対戦によって、館内は異様な空気が予想された。しかし事なく終了したのは何よりであった。
 場所を終えると興味は新十両に移る。昇進したのは幕下1枚目の豪ノ山(元豪栄道の武隈部屋・大阪)4勝3敗。3枚目の千代栄(元千代大海の九重部屋)5勝2敗。8枚目の欧勝馬(琴欧州の鳴戸部屋)の3人と発表された。4枚目で5勝2敗の金峰山は昇進が見送りとなった。来場所注視したい力士である。

2022年5月15日号 「漱石になりたかった都市計画家 〜石川栄耀と黒谷了太郎の縁」
 鶴岡市砂田町 伊藤 美喜雄さん

 筆者は元高校英語教師であるが、英語教師でもあった夏目漱石の研究をライフワークとし、漱石と東北や庄内地方の文人たちとの関わりをまとめた書籍を数冊上梓している。参考文献に挙げた書籍で「漱石になりたかった学生」の章に出会い、漱石つながりで山形県、そして鶴岡の偉人の興味深い業績を知ったので以下に記す。
 石川栄耀(いしかわ・ひであき、1893〜1955年、明治26年〜昭和30年)は日本の都市計画家で、戦前から戦後にかけ都市計画発展に貢献した。都市における盛り場研究の第一人者で、新宿歌舞伎町の生みの親でもある。石川は山形県東村山郡尾花沢村(現尾花沢市)に根岸家の次男として出生。父は日本鉄道の職員、兄は根岸川柳名人の根岸栄隆。6歳の時、母親の実家(天童市干布地区)である石川家の養子になる。養父の勤務地の埼玉県大宮町(現さいたま市)にある小学校を卒業し、旧制埼玉県立浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に進学するが、親の転勤に伴い、二年次に旧制岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に転校し、その後第二高等学校 (旧制)に進学。大学入学まで東北の地で過ごした。この時期『趣味の地理 欧羅巴』(小田内道敏著)を愛読し都市計画活動に興味を持った。
 その後父親は会社を退職し、一家は東京目白に家を新築、引越。1915年東京帝国大学工科大学土木工学科に入学。大学時代は夏目漱石などを愛読し、漱石と同様に寄席に足繁く通った。1918年、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。夏目漱石も東京帝国大学で工科に進むことを考えたことがあったが、親友・米山保三郎の進言で文学・作家の道を志したことは有名である。学生時代「漱石」になりたかった石川であった。  そして、石川に多大な影響を与えた人物が、何と鶴岡市出身の都市計画家で鶴岡市第三代市長(1927〜30年)の黒谷了太郎(くろたに・りょうたろう、1874〜19415年、明治7年〜昭和20年)である。黒谷は庄内藩士・黒谷謙次郎の長男として鶴岡市家中新町に出生。1888年荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)中退。1895年東京専門学校専修英語科卒業。1899年台湾総督府淡水税関に嘱託として職を得た。その後、都市計画名古屋地方委員会幹事に就任。黒谷は内務省官僚として「官」の手による名古屋都市計画の東部丘陵地「八事丘陵地」で本格的な郊外住宅地造りに尽力した。
 石川は1918年に渡米して貿易会社技師。帰国後、内務省に勤め、名古屋市都市計画に小都市連合を提案した。黒谷と共々内務省の職員同士だったが、その赴任先が名古屋で、上司が黒谷で部下が石川だった。その際、都市計画が初めてだった石川が黒谷流の「田園都市」「山林都市」づくりに影響を受け、その後の石川の街づくりや都市計画に反映された。従って、名古屋の一部の街は同じ山形県人2人によって作られた、ともいえるのである。
 石川は1943年に東京都技師となり、東京帝大第二工学部講師を兼務。その後東京都計画課長、道路課長を歴任。1946年「新首都建設の構想」を発表し、戦後の首都圏計画を示唆。1948年建設局長、1949年「東京復興都市計画設計及解説」で工学博士。都庁では戦災復興に尽力、駅前広場や盛り場計画を推進した。東京・新宿の「歌舞伎町」は彼の命名である。1951年退職後、東京都参与、早稲田大学理工学部教授、日本都市計画学会会長を歴任。62歳で永眠。墓所は東京・小平市の「小平霊園」にある。著書に『都市の動態』『都市計画および国土計画』などがあり、建築界では現代建築の礎を築いた人として知られる。没後「石川賞」(日本都市計画学会)が設けられた。
 2人の功績について述べてきたが、山形県、庄内の人々に2人のことを知っていただくとともに伝承し、郷土に誇りを持っていただければ幸いである。
*参考文献 「評伝 石川栄耀」(高崎哲郎著、鹿島出版会)、第2章に「『漱石』になりたかった学生—人文地理・文学・工学」がある
 「石川栄耀 都市計画思想の変転と市民自治」(佐藤俊一著、鶴岡市出身、元東洋大学教授、地方自治総合研究所:自治総研 40(6)、1‐44、2014‐06)

【伊藤 美喜雄(いとう みきお)さん】
 元・山形県公立高校校長。現在、県立産業技術短期大学校庄内校非常勤講師。夏目漱石の研究をライフワークとし、「現代に生きる夏目漱石」「生きる糧の宝庫」(はるかぜ書房)、「文の達人・「知の巨人」の里—庄内文学探訪—」(アメージング出版)などの著書がある。2020年秋に瑞宝小綬章を受章。73歳