私が暮らす街
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【掲載インデックス】
第277回 鶴岡の由来は? お宝は? 2025年6月15日号
県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
第276回 相続登記の申請義務化から庄内の不動産を考える〜 2025年5月15日号
市川司法書士事務所 所長 市川 裕之さん
第275回 教養考3〜庄内教養人列伝2〜 2025年3月15日号
県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
第274回 教養考2〜庄内教養人列伝1〜 2025年2月15日号
県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
第273回 教養考1〜言語は教養の源〜 2025年1月15日号 県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
私が暮らす街バックナンバー
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・2020年 私が暮らす街
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2025年6月15日号 県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
鶴や亀は中国の思想書「淮南子(えなんじ)」の「鶴寿千歳」由来の長寿で縁起の良い生き物です。姿が美しい鶴は健康長寿の鳥で、昔話、音楽、絵画など様々な場面に登場します。
鶴岡は歴史ロマンとお宝の街です。私が通学していた鶴岡市立朝暘第五小学校と鶴岡市立第二中学校は隣同士で木造校舎。町名に「宝」の字がつく大宝寺町・宝町地区にありました(現在はそれぞれ切添町と宝田二丁目に移転)。
さて、鶴岡の由来をご存じでしょうか? 源義経とその主従を記述した軍記物語『義経記(ぎけいき)』(南北朝時代から室町時代初期、作者不詳、全8巻)によると、義経一行は庄内に入り「かくて田川を立給ひ大泉荘大梵寺を通せ給ひ〜」とあり、大泉荘大梵寺(大宝寺)は鶴岡の旧名といえます。
鎌倉時代に大泉荘(荘園)の地頭であった大泉(武藤)氏平(うじひら)の子孫は盛氏―氏景―秋氏―長盛と続き、武藤長盛が室町時代初期に大宝寺に大宝寺城を築城。大宝寺城は室町時代1532年に焼き落とされ、城主・大宝寺左京大夫晴氏(はるうじ)は尾浦城(大山)に居城を移し、大宝寺城は支城として再興させました。
紆余曲折の後、最上義光は1603年酒田浜に大亀があがったことを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城に、それに相対して大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改称し整備しています。鶴ヶ岡城はその後、義光の隠居城として修復され、最上氏改易後、信州から入部した酒井忠勝は、庄内14万石(幕末17万石)の藩主の居城として鶴ヶ岡城を拡充しました。1871年の廃藩置県で廃城となり、鶴ヶ岡城の跡は鶴岡公園として整備されました。これが鶴岡の由来です。
江戸時代、下大宝寺区域の大宝寺村の東新屋敷には京田組大庄屋の役宅が置かれ、幕末に庄内藩に預けられた浪士組・新徴組(しんちょうぐみ)を住まわせたので俗に新徴屋敷といわれましたが、1870年に町割りされ、次第に人家がなくなり1876年に地名も消滅。1889年に町村制が施行され、道形村・文下(ほうだし)村・茅原村・新斎部村と合併して大宝寺村になりました。1920年に鶴岡町に編入され「大字大宝寺字大宝地」の地名は残りました。もともとの大字大宝寺は市内で一番広く、のちに道形町、末広町、錦町、日吉町、宝町、鳥居町、日和田町、切添町、朝暘町、宝田一丁目、余慶町に分かれます。現在の大宝寺町は、北は羽越本線、東は藤島に通じる西三川橋、南は内川、西は酒田街道に囲まれた地区です。
大宝寺町の隣の宝町は、酒井氏時代に御持筒(おもづつ)町と呼ばれ、藩の御持筒組(鉄砲組)の人達が住む由緒ある町。鉄砲は藩の宝物として大切にされたことから宝町となったようです。1880年の区画変更により御持筒町・大内蔵小路・中道(なかみち)・桝形(狐町)などを合併し宝町となりました。
1934年10月の市制施行で鶴岡町は全国で100番目の市として鶴岡市となり、昨年、市制施行100周年でした。2005年10月、平成の大合併で鶴岡市、東田川郡藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村、西田川郡温海町が統合し鶴岡市になりました。面積は東北地方で最も広く全国第7位です。令和7年は合併市制施行20周年記念の年。2011年には「平和都市」宣言をしており、今年の戦後80年の節目にあたり、非戦と平和を希求したいと思います。
鶴岡市有形文化財で「宝」がつく洋風建築「大寶館(大宝館)が鶴岡公園内に建っています。大正天皇の即位を祝し1915年10月に完成。物産陳列場から市立図書館を経て、現在は郷土ゆかりの人物資料館です。荘内神社「宝物殿」では酒井家から奉納された歴代藩主ゆかりの宝物を展示しています。
私の県立博物館勤務経験から国宝にも触れましょう。国宝は県内に6点あります。土偶「縄文の女神」(県立博物館所蔵)、「上杉本洛中洛外図屏風」と「上杉家文書」(米沢市上杉博物館所蔵)、「羽黒山五重塔」(出羽三山神社所有)、「太刀 銘 真光 附糸巻太刀拵」と「太刀 銘 信房作 附糸巻太刀拵」の二振り(致道博物館所蔵)で、このうち3点が鶴岡にあります。
東北で五重塔が2基あるのは鶴岡市だけ。羽黒山最古の建造物で日本最北端にある五重塔・羽黒山五重塔と、国内唯一の魚鱗一切供養塔「善寳寺五重塔」(国登録文化財、鶴岡市下川)です。
全国最多3件の日本遺産を有する城下町鶴岡。山(出羽三山)、里(サムライシルク)、海(北前船寄港地)を通して豊かな歴史・文化に触れることができます。国内初の「ユネスコ食文化創造都市」に認定され、だだちゃ豆や「宝」にちなむ宝谷のカブ・そばなど生きた文化財「在来作物」の宝庫でもあります。
鶴岡は自然の恵みと食文化の魅力にあふれ、日本遺産や歴史ロマンを「宝」と誇れる都市なのです。地域観光資源を国内外にもっと発信し地方創生を目指したいものです。
2025年5月15日号 市川司法書士事務所 所長 市川 裕之さん
令和6年(2024年)4月1日より相続登記の申請が義務化された。所有者不明土地問題研究会が公表した推計によると、およそ所有者不明土地の面積は全国で約410万㌶に及ぶ(参考として九州本島の面積は約367万㌶)。
東日本大震災の際に被災した住民を津波から守るために、安全な高台の土地を市区町村が買収しようとしたが、相続登記が進んでいない土地が存在していたため、思うように用地買収が進まなかったことも相続登記申請の義務化制定の原因の一つとされている。
大都市部の不動産と比較し、庄内の土地は低廉であり、その中でも、流動性が乏しい過疎化が進む地域では、相続の手続きを遅滞させる原因となっていると感じる。
旧市内や、過疎化が進む地域でも空家は目立ち、相続人の立場からしてみれば、実家が危険家屋とはならないまでもそのままにしておくことは見栄えも悪く感じるだろうし、近隣の市民にとっても不都合であることは容易に想像できる。
建物を解体するにも多くの費用がかかり、離島や、山の上など、容易に解体することができない建物についてはさらに処分することが難しく、建物が解体されたまま、残置物として廃材が敷地に残っている場合もある。
山形県は夫婦と親の同居率が高いことでも知られるが、若い夫婦が、比較的小さな敷地を求め、その夫婦のみが住むことも多く、実家の不動産の処分についても問題となる。近年の少子化問題もこの問題に拍車をかけ、夫の実家、妻の実家をどのようにするべきか悩みは尽きず、実家の相続となると、相続人の中には自分が管理できるうちは残しておきたいという需要もある。
相続の法的な効果として、被相続人が亡くなった場合、相続人全員が法定相続分に従い共同で所有することとなっており、固定資産税や、不動産の管理など各人が負担することになる。
しかし、課税する市町村としては、固定資産税などは相続人の代表者宛てに納付書が発送されるため、納税する代表者以外の相続人にとってはあまり負担にならないが、代表者より負担分を請求されれば支払う義務がある。いずれにしても相続人同士が協力し、終局的な所有者を決める協議を早めに行うことがトラブル回避につながる。
国立社会保障・人口問題研究所の令和5年推計によれば、令和2年(2020年)の総人口をベースに、鶴岡市では2050年でおよそ62.9%となり、酒田市ではおよそ60.6%しかいないという結果になっている。人口が減れば、不動産の管理や処分が難しくなることは容易に想像ができ、全ての問題を一度に解決できる手段はない。
現段階では、地道に相続の手続きを行うということくらいだが、是非、遺言書を書くことをお勧めしたい。遺言書があれば、比較的、容易に相続の手続きを行うことができる。遺言を行う人にとっては残された親族のためにできる心遣いである。遺言書の作成方法には種類があるが、特にお勧めしたいのが公証役場で作成する公正証書遺言である。
相続の手続きを行っていても、亡くなった方に遺言書があることは稀で、自筆証書遺言を持ち込まれる方もいるが、様式の不備などにより使用できないことも少なくない。その点、公正証書遺言については公証人が作成してくれるので、様式の不備はなく、口頭にて遺言内容を伝えることにより作成してくれる。公証役場で遺言書を保管してくれるので、紛失、焼失のリスクも避けることができる。遺言により、相続すべき財産や承継する人を決めることにより、スムーズに手続きが完了することになる。
将来を憂う遺言者により遺言書が作成されても、相続人の全員が、内容が思っていたものと違う場合、相続人全員が遺言を破棄し、遺産の分割を行うこともできるので、決して相続人に対する押し付けにはならないため、気軽に作成してほしい。
相続する人も、父や母に対し、遺言書を書いてほしいと伝えることは容易ではないと思うが、自分や、自分の子供たちのためにも是非とも勧めてほしいところである。一人一人の意識が、将来を生きる子供たちのため、地域のためになると考えている。
【市川 裕之(いちかわ・ひろゆき)さんプロフィール】
東村山郡山辺町生まれ。平成22年鶴岡市に移住し、鶴岡市で司法書士事務所を開業。現在、市川司法書士事務所所長と山形県司法書士会副会長を務めている
2025年3月15日号 県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
致道館中学校・高等学校(旧荘内中学校〜旧鶴岡中学校〜旧鶴岡第一高等学校〜旧鶴岡南高等学校・北高等学校)にまつわる教養人を前回に続き記していく。
5 丸谷才一(まるや・さいいち、1925〜2012年)
丸谷才一(本名・根村才一)は鶴岡生まれ。旧鶴岡中学校卒、東京大学文学部英文科卒。小説家、文芸評論家、英文学者、翻訳家、随筆家。桐朋学園、東京都立高等学校、国学院大学などで講師、国学院大学助教授後、東京大学英文科非常勤講師。
英文学者として翻訳・研究を続けながら執筆活動にも取り組み、1967年『笹まくら』で河出文化賞、1968年『年の残り』で芥川賞受賞。『たった一人の反乱』(谷崎潤一郎賞)、『裏声で歌へ君が代』『後鳥羽院』(読売文学賞)、『忠臣蔵とは何か』(野間文芸賞)、『輝く日の宮』(泉鏡花文学賞)など著書多数。訳書にジョイス『若い藝術家の肖像』(読売文学賞)他。2011年文化勲章受章。
深い教養に裏付けられた知的探求心あふれる小説を発表し、『闊歩する漱石』(講談社文庫)で画期的な漱石論を展開。質と量、共に優れた文章論『文章読本』を著し「書物の達人」といわれている。
6 渡部昇一(わたなべ・しょういち、1930〜2017年)
渡部昇一は鶴岡生まれ。旧鶴岡第一高校卒、上智大文学部卒、同大学院西洋文化研究科修士課程修了。1960年に上智大学英文科講師。その後、助教授、教授、名誉教授を歴任。ミュンスター大学名誉哲学博士。英語学者、哲学者、歴史論・政治・教育・社会評論家として、専門書の他、『知的生活の方法』『教養の伝統について』など著作多数。2015年に瑞宝中綬章受章。
参議院議員・平泉渉が1974年の自民党政務調査会でまとめた「英語教育改革試案」に対し、公聴会で意見を求められた渡部は雑誌「諸君!」に批判文を掲載し『英語教育大論争』(文藝春秋、平泉渉・渡部昇一共著)を生んだ。
「読書の達人」「知の巨人」渡部は『漱石と漢詩』(英潮社出版)も著し、「教養とは単なるノウハウではない。教養を身につけるためには真摯に学問をし、そして自分の頭で考えなければならない。そこから自らの行動規範が生まれ、おのずと品格も出てくる」(『学問こそが教養である』)と述べている。
渡部の恩師・佐藤順太は東京高等師範学校卒。戦後、英語教師の需要増加により鶴岡第一高に隠居の身から急遽復職。渡部によると、英語の授業は脱線が面白く「佐藤先生は知識を愛する人という表現がぴったりな方で、私は知らず知らずのうちに知識欲を掻き立てられ、身を乗り出して佐藤先生の授業を聴いていた」という。渡部は読書家の先生を人生の師と仰ぎ、知的な生き方で影響を受けた。 7 藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい、1927~97年)
藤沢周平(本名・小菅留治)は鶴岡生まれ。黄金村役場などで働きながら旧鶴岡中学校夜間部に通い、山形師範学校卒業後、教師となり湯田川中学校に赴任した。2年後に結核がみつかり休職。6年余の闘病後、東京の業界新聞社に勤務し、会社勤めの傍ら小説を執筆した。1971年に「溟(くら)い海」でオール讀物新人賞、1973年に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞。微禄の藩士や江戸下町に生きる人々を描いた時代小説、歴史上の事実や人物を題材とした歴史・伝記小説など数々の作品を発表した。『橋ものがたり』『海鳴り』『三屋清左ヱ門残日録』『 しぐれ』『たそがれ清兵衛』など映画化、ドラマ化された作品も多い。吉川英治文学賞、芸術選奨文部大臣賞、菊池寛賞、朝日賞など。1995年紫綬褒章受章。
藤沢作品の文章には詩情があり、風景描写の美しさと心理描写の丁寧さは際立ち、人間の心の機微が巧妙に表現されている。丸谷才一は藤沢を「文章の名手」と高く評価した。作家としての日々の暮らしや故郷・庄内、鶴岡についてのエッセイも残し、「沈潜の風」を作品で表現し、生き方でも体現している。
列伝は割愛するが、庄内の教養人を綴っておきたい。高山樗牛(1871〜1902年)鶴岡生まれ。東京帝国大学哲学科卒。美学者・文芸評論家。歴史小説『滝口入道』などの作品がある。
齋藤信策(1878〜1909年)鶴岡生まれ。高山樗牛の弟で「野の人」と号した批評家。『芸術と人生』などの著書。
阿部次郎(1883〜1959年)酒田生まれ。荘内中学に入学後山形中学に転校。東京帝大哲学科卒。哲学者・作家で大正期を代表する教養主義者。『三太郎の日記』の著者。
庄内の教養人を誇りに思い、鶴岡を再発見し、伝承するとともに教養を高めるきっかけになれば幸いである。
参考文献……『文の達人・「知の巨人」の里―庄内文学探訪―』伊藤美喜雄著、アメージング出版(2019年)
2025年2月15日号 県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
致道館中学校・高等学校(旧荘内中学校〜旧鶴岡中学校〜旧鶴岡南高等学校・旧鶴岡北高等学校)にまつわる教養人について綴る。
1 「英学会」伊藤克施(いとう・よしはる、1858〜11933年)
伊藤克施は庄内藩士の長男として安政5(1858)年鶴岡生まれ。藩校致道館で学び、明治10(1877)年、当時庄内地方の最高学府であった鶴岡変則中学に進学。しかし、眼病を患い退学。その後独学で日本文法、西洋数理を習得し、明治15(1882)年から西田川郡中学校(鶴岡変則中学が校名改称)、荘内中学校教師を歴任した。
明治19(1886)年、公費で支弁する中学は一県一校になり、荘内中学校が廃校。教育への関心が高かった庄内の人々は、県会に県立中学校の鶴岡移転・誘致を建議したが叶えられなかった。伊藤は西田川郡中学校校長・弘田正郎が校務の余暇に英語を教えていた私塾「英学会」に勤務。その後、当時英学会会長の俣野景次が伊藤らに諮り、英学会の規模を拡大し、旧中学校の校舎を借りて英語、漢文、数学を教えた。中等学校を必要とする地域の強い要望から明治21(1888)年7月1日、荘内私立中学校創立。これが致道館中学・高校(旧鶴岡南高校)の始まりとなる。伊藤は「英学会」から同校教諭となり、大正2(1913)年まで寄宿舎の舎監も兼ねて勤務。昭和8(1933)年76歳で死去。
2 羽生慶三郎(はにゅう・けいざぶろう、1867〜1919年?)
羽生慶三郎は県立荘内中学校(旧鶴岡南高校)第6代校長で明治33(1900)年8月〜明治42(1909)年1月休職まで在任。著書に『法學通論』(信山社出版、2016年復刻版)。
羽生は長野県飯田出身で夏目漱石と同じ年の生まれ。明治27(1894)年東京帝国大学法科大学卒業。同7月熊本裁判所検事代理、同8月から熊本第五高の法学通論及び英語教授嘱託、同28年2月教授。明治33(1900)年8月29日に熊本から県立荘内中学校校長として着任した。
この時、学生の就職で面白い出来事があった。明治34(1901)年、羽生校長は漱石に荘内中学校英語の教師求人依頼をしている。なぜ漱石に依頼したのか? 漱石は東京帝国大学在籍時に学生の面倒見がよく、漱石が明治29年から第五高講師、明治30年(1897)年から教授となり、明治33(1900)年11月に現職のまま英国留学するまで羽生と同じ職場にいた縁からと考えられる。
紹介したのは浜武元次、金子健二、佐治秀寿に対してだった。結局この求人紹介は不調に終わり、漱石の息のかかった英語教師の荘内中学校赴任は実現しなかった。
3 山宮允(さんぐう・まこと、1890〜1967年)
山宮允は鶴岡生まれ。県立荘内中学校(旧鶴岡南高校)から第一高等学校(現東京大学)に進学。一高時代アララギの歌会に参加し1914年在学中第三次『新思潮』創刊。1915年東京帝国大学英文科卒。第六高等学校教授、東京府立高等学校教授、法政大学教授を歴任した。著書に『詩文研究』(績文堂1918年)、『書物と著者』(吾妻書房1949年)、翻訳書に『イエイツ詩抄』(岩波文庫1946年)などがある。
旧鶴岡南高等学校校歌作詞者。当時の校長・笹原儀三郎は第16回卒業生で英文学者・詩人であった山宮に作詞を依頼し、山田耕筰の作曲で校歌「山河の姿」昭和26(1951)年が誕生した。
4 笹原儀三郎 (ささはら・ぎさぶろう、1902〜1994年)
笹原儀三郎は鶴岡生まれ。県立荘内中学校、旧制第二高等学校を経て、京都帝国大学文学部文学科卒。同大大学院で英文学研究。その後、数校で教鞭を執り、旧鶴岡南高校校長、旧鶴岡北高校校長、山形北高校校長、鶴岡工業高等専門学校教授を歴任した。
郷土史家として、当時歴史に埋もれていた高山樗牛や田澤稲舟を掘り起こし紹介した。著書に『ある明治の青春:田澤稲舟女史について』(鶴岡市民文庫1964年)、『ふるさとへ:笹原儀三郎作品集』(笹原儀三郎作品集刊行会1979年)がある。女性の自立が困難な時代、自分らしさを追求し短い青春を駆け抜けた稲舟に温かいまなざしを注いだ評伝『青春哀詞 田澤稲舟』(1969年)を残した。
私が旧鶴岡南高の勤務時代、蔵書を学校に寄贈したいという話があり、自宅に伺い頂戴してきたことがある。その寄贈蔵書は「笹原儀三郎文庫」となり学校図書館で閲覧できる。 〈次回へ続く〉
参考文献……『山形県立鶴岡南高等学校百年史』大瀬欽哉・斎藤正一・佐藤誠朗・阿部博行著、山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会(1944年)
荘内日報「『郷土の先人・先覚139『荘内中学草創に活躍 伊藤克施』(1989年4月掲載)、筆者・田村寛三
『夏目漱石の実像と人脈―ゆらぎの時代を生きた漱石―』伊藤美喜雄著、花伝社(2013年)
2025年1月15日号 県立産業技術短期大学校庄内校・非常勤講師 伊藤 美喜雄さん
庄内藩の藩校「致道館」
教育は「知の巨人」として知られる儒学者・荻生徂徠の徂徠学を基礎にし、古代中国の古典を忠実に読み解く古文辞学に立脚していました。「沈潜の風」(深く考え、軽々しく発言せず行動する鶴岡人の気質を副島種臣が評したもの)を大切にし、自主的に学び長所を伸ばすことを第一とした教育風土があります。文豪・夏目漱石と庄内とのかかわりを追究する中、優れた作家や教養人が輩出する庄内を「知の巨人・文の達人」「教養人の里」と私は考えています。
教養とは教育を受けて身に付けた知識、心の豊かさ・たしなみのこと。教養人とは学問や幅広い知識を身に着けている人。教養はドイツ語の Bildung(自己形成・人格)、 英語のEducation(教育)や Culture(文化・開化)にあたり、 教養人=文化人といえます。教養主義は明治・大正時代にエリートの間ではぐくまれた思潮でした。昭和時代の高度成長期(1955年頃〜1973年頃)以降は教養主義に代わり資本主義が支配的思潮になり、今や教養主義は廃れ、多くの人が無意識に拝金・実用・便宜主義になっています。若い時期に読書し、深く考える機会が少ないことは問題です。
21世紀の教養とは知的素養や洞察力を指します。単なる知識の蓄積ではなく、様々な分野の理解力と関連づけて考える力です。学び続ける意思を持ち、広く学問、芸術、宗教に接して調和のとれた人間になることが理想です。
国際的情報化社会では、倫理観に裏付けられた教養が複雑な問題に多角的にアプローチし、創造的解決策を生み出すとして重要性が増しています。人間は言語を通して世界を見て思考するので、私は外国語学習と「本・人・旅」の体験が論理的思考や問題解決能力を高め、教養を培うと考えています。読書が教養を高め言語能力を向上させます。
日本は幕末・明治維新で一気に欧化の波に洗われ、情報収集の重要な手段である言語の習熟が必然的に求められ、外国語修養(教育)に関して幕府や各地の藩の政策により蘭学はじめ英・仏・露の言語が学ばれていました。
英学に関しては、1808年のフェートン号事件を契機に幕府の指示で長崎のオランダ通詞(オランダ語通訳者)たちが英語を学習し始め、「英学の夜明け」といわれています。以後、明治維新まで約半世紀強の間、蘭学から英学へ修養熱は高まり、明治に英語名人たちが誕生しました。教育家・福沢諭吉(1835〜1901)、修養の語を用いた新渡戸稲造(1862〜1933)、珠玉の英語辞書や文法書を残した斎藤秀三郎(1866〜1929)、文豪・夏目漱石 (1867〜1916)らが特筆すべき名人の代表格です。福沢諭吉は「世の中で一番みじめなことは、教養のないことである」と述べました。明治の教養人である漱石の作品には社会と人の関係、人間の成熟とはどういうことなのかが詰まっています。
明治新政府の学制発布で設立された大学南校(現・東京大学)の英語教育には「正則」と「変則」の二種類ありました。正則英語は外国人教師が教え、発音、会話、読解力を総合的に習得する学習方法。変則英語は日本人教師から文法を学び、英文書を読み解く翻訳が中心の学習方法です。新渡戸稲造は9歳の頃から東京で英語を学び、東京英語学校(旧制一高、現東京大学教養学部)などで正則英語を学習。福沢諭吉、夏目漱石は変則英語といってよいでしょう。『英語達人列伝』(斎藤兆史著、中公新書)に、斎藤秀三郎が1896年に設立した正則英語学校に「正則」と名づけた経緯について書かれています。
正則を実用、変則を教養としても、実用英語と教養英語の二種類あるわけではありません。日常私たちは「実用日本語」と「教養日本語」と区別するでしょうか? 外国語学習でも「実用か教養か」を区別することなく、バランスのとれた学習方法で取り組んでほしいと思います。
外国語学習では、母語の活用と速読・多読で効果的に運用能力が向上します。言語学習は、その言語を創造し継承してきた歴史・文化や、その言語を母語とする人々のものの見方・考え方も学ぶことですから、言語は教養の源泉なのです。
鶴岡英学事始として、鶴岡市の大督寺境内にあった忠愛小学校以前も藩の子弟に英語を教えていたといいます(情報不足で不詳)。英学・教養人に関して、県立致道館中学校・高等学校(旧荘内中学校〜旧鶴岡中学校〜旧鶴岡南高等学校)関係では、私塾「英学会」を経て同中学校・高校の基となる私立荘内中学校の設立と運営に功績のあった伊藤克施(いとう・よしはる)をはじめ、山宮允(さんぐう・まこと)、丸谷才一、藤沢周平などがいます。次回以降、庄内教養人列伝として述べたいと思います。