サンプルホーム

私が暮らす街

鶴岡に関する皆様からの投稿をお待ちしております。Eメール、FAX(0235-28-2449)でご応募下さい。

7月15日号 佐久間 朋美さん(庄内オーガニックマルシェ実行委員会代表)

第220回  『Simple Life』

 ここ庄内はとても自然が豊かなところです。出羽三山や朝日連峰の山々と日本海から吹き抜ける風、冷たい美味しい山の湧き水など。庄内オーガニックマルシェではこの素晴らしい環境の中で人にも地球にも優しい本質を持ち合わせたモノづくりをされている出店者さん達を全力で応援しています。  
 オーガニックについてですが。皆様はオーガニックをどんな風に捉えていますか?初めに開催した時に有機認証のことだと思っている方々が大半でした。確かにマルシェの出店者の中には有機栽培をされている農家さんもいらっしゃいます。ただ世の中で決められている消費者が一目見て分かるマークがついているわけではありません。マルシェで有機を実践されている農家さんの栽培方法ですが、土壌に足りないミネラル分を自然界のもので補い循環出来る環境を作り出しています。その循環の中には慣行栽培では敵とされている虫や雑草も大切な存在になっています。人の都合ではなく大自然の営みと環境をきちんと把握し、自然の力を最大限に生かし植物の成長の手助けをし、何百年も持続できるような栽培方法です。有機栽培だけではなく、無肥料無農薬で自然農法を実践されている農家さんもたくさんいらっしゃいます。マルシェではそんな環境や食べる人のことを考えたモノづくりを大切にされている出店者さんとそれを求める消費者のコミュニティの場でもあります。安心という目印がなくても、安心が当たり前であり、美味しい楽しいマーケットがオーガニックマルシェです。
 さてオーガニックの話に戻ります。このマルシェでのオーガニックには「心も体も穏やかに日々を暮らす」という意味がこめられています。健康的に健全に暮らそうとすると自然とオーガニックライフになり、本能が研ぎ澄まされ、たくさんの違和感を感じ取れるようになってきます。何より全てがシンプルでいいのだと気付かされます。
 便利になりすぎた現代のその裏は矛盾により複雑化されています。そしてこの便利の代償がとても大きいと感じます。便利と生産生を追い求めた結果、本来地球に存在しない化学物質などが海に垂れ流しにされたりと巡り巡って自分に返ってきます。そして知らない間に体を有害にさらされていると気付くのは大病になってからでしょうか。便利から面倒臭いにそして自分で考え生み出すことすらできない。一番大切な生きること、命をつないでいくことが蔑ろにされているように思います。
 皆さんは毎日何を食べていますか。
 生きるもの全ての命をつないでいくもの、生きていると実感できる身体は食べ物により作られます。毎日食べている、そのお皿にのっているものは工業製品ではないでしょうか。遺伝子組換えの食材でも添加物満載でも薬漬けにされていたとしても、それが美味しいと脳や細胞にインプットされてしまいます。実はそれが現代の一般食であり、成長が著しいこども達も残念なことにその食事に慣れてしまうのです。
 いつからか郷土食から現代食へ。その移り変わりと共にそれまでになかった病気が現代病となっているように思います。
 このマルシェでは全てをシンプルにかつポジティブに考えています。生きることは食べること、そして自然と共に循環し命をつないでいく。更にはカテゴライズされず、今の自分が求めているもの、身体の反応や要求していることを読み取ることが大切だと考えます。
 最近では形式がないと理解ができないようです。カテゴリー化されたオーガニックには利益優先のファッション化された本質のないものが多いのが現状です。
 8月5日に三瀬海水浴場で開催のマルシェでは環境活動家、無肥料栽培家の岡本よりたかさんによる命の源である大切な種のセミナーを開催します。人も植物も同様に生きるためには水と空気、そして種が必要です。種を守ることは全てを継承すること。今、あなたが口にしている食べ物も全て種から生まれます。 
 私たちの命のもととなる大切な種のこと。
この機会に一緒に考えてみませんか。

6月15日号 岡部 浩美さん(鶴岡市小真木原)

第219回  『帰りたい街、鶴岡』
高校生のとき、私は早く鶴岡を出たくてうずうずしていました。広い世の中を見てみたいという好奇心や一人暮らしへの憧れから、県外の大学へ進学し、関東で就職。その後アメリカに4年滞在しました。一時帰郷しましたが、英語を活かして働ける環境を求めて再び上京。外資系の会社に13年勤務しました。
 キャリアアップのための転職も成功し、仕事も充実、買い物や食事、交通などすべての面で便利な東京暮らしはとても楽しく、もう鶴岡に帰ることはないと一時期は思っていましたが、2016年の春に家族と共に戻ってきました。
 よくなぜ戻ってきたのか理由を聞かれたり、これから戻ろうか悩んでいる人から相談を受けたりするので、私が鶴岡に帰ってきた理由や、今どのような暮らしをしているかを話すことで、少しでもそのような方々の決断の助けとなればと思います。
 こちらに帰ってきたのは、豊かな自然や子育てに良い環境があるなどの理由もありますが、一番の決め手となったのは、鶴岡は人のつながりがあり、それを活かしながらこれから自分たちの手で街を作り上げていくことができると感じたからです。
 それを最初に感じたのは、東京から「鶴岡マイプロ部」に参加した時でした。出産を機に鶴岡に帰ろうと決め、鶴岡での仕事などの情報収集をしていた時に知った、県外在住のまま鶴岡と関わるプログラムです。これに参加したことで「鶴岡ナリワイプロジェクト」(※1)の仲間たちと知り合い、「こしゃってマルシェ」(※2)に出店者として参加したり、同じくUターンされたご夫婦のカフェにお邪魔して話を聞かせてもらったりして、鶴岡には自分たちで「面白いこと」を作り出している人たちがいると肌で感じたのです。東京の生活が「便利で楽しいけど何か足りない」と感じ始めていた自分にとって、探していたものを見つけたような感覚でした。この経験から「鶴岡でもやっていける」と実感し、自分も面白いことを作り出す一員になりたいと思いました。
 この思いは今現在も私の生活の根底にあり、夫と経営する千一珈琲での仕事と、ナリワイプロジェクトの起業講座修了生で構成する「ナリワイアライアンス」での活動をつなぎ合わせて、鶴岡が元気になるお手伝いをしています。
 千一珈琲は、自家焙煎した世界中のコーヒー豆を販売する店です。加えて、だだちゃ豆クッキーやしょうゆの実スコーンなど、ナリワイを通じて出会った人たちが作るお菓子も販売しています。どれもおいしくて、子供に食べさせても安心な原材料のみを使っていることから、少しでも多くの人に知ってもらうことで作り手を応援すると同時に、作る人から食べる人まで、すべての人たちに笑顔になってほしいと思っています。
 また、店舗作りには様々な経歴を持ったナリワイ仲間の技術が存分に活かされています。コーヒー豆の麻袋を使ったカーテン、看板、庭の花木など、すべてナリワイ仲間に発注して作ってもらいました。こういった作品をお店に来た人たちに紹介していくことで、小さいながらも素晴らしいビジネスをしている人たちが地域で活躍する場を増やしたいと考えています。さらに、ものを売るだけでなく、コーヒーに関する講座や趣味の集まりを開催してコーヒーを楽しむ「場」と「時間」作りも積極的に行っています。
 今の中高生たちの中にも、以前の私と同じように鶴岡を出たいと思っている人も多くいることでしょう。鶴岡は「何もないところだ」とよく言われますが、一度外に出てみると鶴岡にはたくさんの良いところがあるのがよく分かります。人とのつながりもその一つです。それを活かして自分の活躍の場を広げられる可能性があり、自分たちの手で作り上げていく街だということを若い世代にぜひ知ってほしいです。そうすることで彼らが鶴岡を離れたとしても、また戻ってくるきっかけになるかもしれません。
 今はまだ幼い私の息子も、将来鶴岡から離れたとしても、「帰りたい街」であってほしい、そんな思いから、鶴岡が皆笑顔でイキイキした街であり続けるように、これからも面白いことや楽しいことを作り出す一人として、できることを少しずつ積み重ねていきたいと思います。
※1 鶴岡ナリワイプロジェクト「好きなこと×地域にいいこと」で小さなソーシャルビジネス=ナリワイを生み出し、自分と地域の未来をつくるプロジェクト
※2 こしゃってマルシェ 食・農・手しごとをキーワードに、丹精込めて作ったものが集まる市場。地域に暮らす魅力を共有する場として年4回開催中


【岡部 浩美(おかべ・ひろみ)さん プロフィール】
1972年鶴岡市生まれ。進学のため鶴岡を離れ、大学卒業後は神奈川で就職。海外へ憧れて26歳でアメリカに渡る。1年間日本語教師として現地の公立高校で教壇に立つ。その後3年間セントルイスコミュニティカレッジでITを学び、2002年に帰国。以降東京の外資系金融機関に勤める。
 出産を機に退職し、16年に東京出身の夫と息子とともに鶴岡へUターン。現在は夫と経営する千一珈琲でお菓子やギフト商品の仕入れやイベント企画を担当している。
 鶴岡ナリワイプロジェクト起業講座の修了生でもあり、英語力とITスキルを活かした自分自身の「ナリワイ」を始めたいと水面下で準備中。

5月15日号 多機能型発達支援事業所㈱メグシィ 代表取締役 水原 元さん

第218回  『このまちに笑顔を広げる』
広報『つるおか』5月号の特集は「このまちに笑顔を広げる」でした。地域に寄り添う民生委員、児童委員の皆様のご活躍を興味深く拝読させていただきました。
 特集内で民生委員の方は「お互いに笑顔で話せる関係にならなければ、この仕事は務まりません。そういう関係になって初めて心が通じ合うんです」と提唱していらっしゃいました。
 「このまちに笑顔を広げる」という活動は、民生委員の方々だけの仕事ではありません。地域で働くすべての人々が考えていかなくてはならない課題です。
 わたしたちの施設には、発達に凸凹のある100名以上のお子さんが通ってくださっています。ダウン症のお子さんたちも笑顔あふれる日々を送っています。酒田市から来てくれるSくんは、車から降りると真っ先に駆け寄って抱きしめてくれます。同じく酒田市のOさんは少しぎこちない歩き方ですが、わたしの手を握って楽しそうに教室へ入っていきます。Aくんは毎日お別れの時、投げキッスをしてくれます。
 わたしは彼らから「待たないこと」を教えられました。保育園年中のHくんの例をご紹介いたします。Hくんは極めて多動な特性を持った子です。ご心配されているおばあ様には「今のHくんの多動はやり残した宿題のようなものです。落ち着きなく床の上を暴れ回る時が過ぎると、次第にブランコに乗れる時期が来ます。そうしたらぐっと落ち着いてきます。それとともに言葉も増えますよ」とお伝えすると、安心してくださいました。Hくんのお兄さんも保育園の頃、Hくんの上をいく多動なお子さんでしたが、わたしたちの所に元気に通ってくれて、今では立派に小学校に通っています。
 わたしたちの仕事は、ほかの子と同じように作業ができなかったり、話す言葉の出ない子に付き添うなど、幼稚園や保育園で行っている加配の先生の役割に例えられます。
 今、鶴岡市の保育園の先生方は、感覚統合理論を2年間研修し、自閉症スペクトラムを持つ子どもたちの衝動性や感覚の過敏、鈍麻を軽減するための訓練をしてくれるようになりました。相談支援事業所の呼びかけでHくんの保育園の加配の先生とも和やかに話し合いができ、支援計画が固まりました。
 しかし、Hくんのおばあ様は「看護師さんが怖い」とおっしゃるのです。おばあ様の母親、つまりHくんのひいおばあ様のお見舞いにHくんを連れて行った時にその事件は起こりました。多動のHくんはおばあ様の手を振りほどき、病院の床をゴロゴロ這い出したのです。すると看護師さんから「廊下を這わせないでください!菌がうようよしていますから!!」と怒鳴られ、それ以来、一度もHくんを病院に連れて行ったことはないそうです。  一方で発見もあったといいます。それは「看護師さんはマスクをしていることが多いけれど、目が笑っている人は安心できる」ということだそうです。
 この話を聞いた時、わたしも全く同感でした。ここ数年、何度か飛行機を利用する機会があったのですが、キャビンアテンダントの方の目を見た時、笑顔が素敵だなと感じました。キャビンアテンダントの方から、口元をかくした目だけでも笑顔を感じさせる訓練を行っていると伺いました。わたしたちもこうした何気ない所作で、人を幸せにする気遣いをぜひ見習いたいと感銘を受けました。
 わたくし事ですが、父と母が相次いで入院し、たくさんの看護師さんに巡り合いました。Hくんのおばあ様のおっしゃる通り、マスクで目しか見えないのですが、出会った看護師さんの目は優しく、言葉も大変丁寧でした。
 これから、わたしたちがHくんのために取り組んでいきたいことは「皮膚の感覚を目覚めさせること」と「友達意識が芽生えるまで、ほかの子と遊べる運動技能を身につける」ことです。それを小学校入学までにできれば、入学後に遊びの中で社会性を伸ばしていけます。
 発達に凸凹を持った子たちの思春期は遅れてやってきます。それまでお母さんとの愛着を形成し、生きるエネルギーを充電できれば社会に出ていけます。そのために、わたしたちは笑顔を創造する支援を行ってまいります。
 皆川治市長は広報コラム『一筆入魂』で「『サービスを提供してあげている』という上から目線の行政に陥っては市民の信頼、協力は得られない。(中略)要領よく仕事ができることよりももっと大事なことがある。公平・公正に、誠実に対応すること」と記されています。
 子どもの笑顔は、お母さん・お父さんの笑顔にもつながります。誠実さの中から、生き生きとした笑顔が生まれると信じ、わたしたちも児童発達支援を通し鶴岡市が笑顔の光るまちになるよう貢献したいと思います。
 俳句の季語「山笑う」がぴったりの季節となりました。皆様の良き出会いをお祈り申し上げます。

4月15日号 佐藤 伸浩さん(鶴岡通訳案内士の会)

第217回 『鶴岡通訳案内士の会CHATCHAT』ご案内
 いま、旅行の情報はたくさん入ってきます。テレビで、インターネットで。そして、どの場所にもちょっと飛行機に乗って数時間あまりを過ごせば、あっという間にそこへ到達してしまいます。おいしいものを食べて、お買い物に行って、あの博物館に入って、と夢はどんどんと広がります。ところが、いざ空港に到着すると、そこから目的の場所へどうやって向かうのか、切符はどうやって買うのか、なんとか予約したホテルにはどうやって行くのか。いろいろな問題がめじろ押しです。
 へたにそのまま行動してしまうと…、 予想しなかった場面を見てしまうことが起こるかもしれません。もしかするといつまでたっても空港を離れられないままになってしまうかもしれませんし、それではわざわざ日本へやって来た意味はありません。そんなところから、助けてくれるのが旅行ガイドでしょう。ガイドは旅行者の希望に応じて現れ、行く先を案内してくれます。
 日本を訪れる外国人の案内する旅行ガイド資格が「全国通訳案内士」という国家資格です。世界中の旅行者に英語を中心とした言語で旅行者の需要に応じたガイドをするもので、いわゆる有償ガイドと考えていいと思います。海外に出かけた時、添乗員さんではない人が旅行グループの案内をやっている場面を想像される方も多いと思います。全国通訳案内士はそういった案内をする仕事を請け負います。
 私たちは、CHATCHAT(チャットチャット)というグループで活動を始めましたが、全員が全国通訳案内士です。数年前に資格を取った者、まだ合格したばかりの者までさまざまです。試験は外国語、日本地理、日本歴史、一般常識(産業、経済、政治、文化)で構成され、具体的な内容で勝負されます。これを一次試験として、合格した者が外国語の口頭試問の二次試験に臨みます。そして最終的に合格した者が全国通訳案内士として活動が開始できます。ちなみにCHATCHATでは全員が英語に対応でき、ほかにスペイン語で仕事のできる者もおります。
 現状、全国通訳案内士には圧倒的に都会の仕事が多くなっているのが実情です。なかなか庄内地方で活躍の機会があるとは言えません。しかし、鶴岡市がUNESCOの食文化創造都市として選ばれて以来、食文化を研究する団体が継続的に来訪し、私たちもお助けするなど、これからも地元の通訳案内士が活躍できる機会が増えていきそうです。継続してイタリアから庄内の食文化について知識を深めに通ってくださる学校のみなさんのご案内をCHATCHATメンバーで行ったり、先日も食文化をさまざま体験するアメリカからのお客様を善宝寺などでガイドの機会を有した仲間がございました。  CHATCHATとしても通訳案内士の活動につなげるための研修を行っております。鶴岡市内には観光対象として誇れる歴史的にも意義深い施設が多数ありますし、ほかにも自然も多く学ぶべきものが存在しております。いつどんな時にも外国の方の訪問に備え、絶えずそういった誇るべき庄内、鶴岡の観光対象を熟知すべくアンテナを張り巡らすと同時に、突発的な質問にも対応できるよう研さんを積まねばなりません。われわれ全員が全国通訳案内士として活動が可能なのですが、居住するエリアに関する知識が豊富であることは、海外の方へ日本訪問の際の深い印象を残してくれるものになろうと信じております。
 鶴岡にたくさんの外国人の方がお越しになることが決定しているわけではありません。それでも、小さな旅行であってもかなりコアな関心をトピックにしているようなものが存在しており、我々がお手伝いをさせていただいたことにより、満足の度合いを高めることができれば、とてもうれしいこととなるのではないかと思うのです。庄内に来たら庄内のガイドにお任せあれ、という気持でお客様に対応してまいりたいと思うのです。
 CHATCHATでは、鶴岡を訪問される外国の方に精一杯の満足をご提供し、それがポジティブな形で連鎖をしていくのを見守っていきたいと思います。

2月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第216回  「スキー余話」
スキーは北欧の猟師が雪上での移動をより速くするために考案したものらしいが、日本で生まれたカンジキは滑り止めである。この発想の違いが面白い…とあれこれ探ると、岐阜県飛騨に「橇田」と書きカンジキダと読む名字があった。「橇」はソリと読むのが一般的だから、あるいはカンジキも当初は滑る道具であったのかも…。
 中世の欧州ではスキーを軍隊の行軍に用いた。それが山岳地へと伝わり滑降用に改良されて今日のスタイルにたどり着いたのであるが、昨今はスノーボードに主役の座が奪われてしまい、スキーの原点が「走り」と「射撃」から発したことを忘れそうになる。
 日本のスキーは明治44年オーストリアのレルヒ少佐が軍人に指導したのが嚆矢(こうし)とされている。その以前にも欧州からスキーを持ち帰り紹介したとか、札幌農学校の外人教師が紹介した…等々がある。レルヒの講習会は陸軍が招聘した公的なもの、と言うだけではなく翌年同地でスキー大会が開かれたり、家具屋や車大工がスキー板を作り始めたなど、その影響の大きさが初伝来説を肯定している。しかしレルヒのスキーは軍人用の歩くことを主力とするもので、急斜面を滑り下りるものではなかったようだ。
 「明治3年、ノルウェーで凶悪な囚人たちを改心させるために、スキーを履かせて崖から飛ばせたのがジャンプの始まり…」との逸話がある。真偽は別として、立っている地面が突然無くなるのは、想像を絶する恐怖である。これには彼らもドギモを抜かれたことだろう。これに懲りて「改心する囚人が続出した…」との記録はないが、それなりの効果があったものと推測する。それなのに昨今では女子選手がこれをサラッとやってのけ、恐怖感などは微塵も見せない。それは10歳前後からこの道で鍛えているから…とか、ほとほと敬服する。
 世界初のジャンプ大会は明治12年にオスロで開かれた。これは「囚人飛行説」の30年前である。日本でのジャンプは大正11年秋、札幌の三角山に日本初のジャンプ台完成から始まる。その完成を祝し「第1回全日本スキー選手権大会」が小樽市で開催された。これが冬季国体の前身である。高田、大鰐(青森)、樺太、野沢温泉(長野)、小千谷(新潟)、大舘(秋田)、札幌、日光などと毎年会場を替えて普及を図ったのである。その成果であろうか昭和3年、日本は冬季五輪に初参加し、安達五郎がジャンプで8位に入賞した。これで日本のスキー熱は燃え上がったのであるが、如何せん雪国に限られてしまうのは致し方ない現象であった。
 それを打破するようなことが起こったのは、昭和13年甲子園での「第1回全日本選抜ジャンプ大会」であった。雪とは縁のない関西の野球場で実物のジャンプを見て貰おうと、外野席の上に丸太で櫓を組んで滑降路を造り、そこへ新潟県から貨車30両分の雪を敷き、36人の選手が妙技を披露した。この時の最長不倒は27㍍であった。今日の記録に比べればママゴトのようなものだが、関西人を驚嘆させるに余りあるものであった。さらに1カ月後に東京でも開かれた。これは前年秋に完成した後楽園球場を宣伝する目的もあったのかも…、甲子園よりジャンプ台を高くしたのは「関西以上…」の意気が感じられる。その会場設営を請け負ったのが「日本工房」で、社員の土門拳(酒田出身)が一連の写真を残している(阿部博行著『土門拳』)。雪は新潟県から貨車で水道橋駅へ、さらにトラックで球場へ運び、そこから籠に入れて人夫が担ぎスタンドへ積み上げ、厚さ30センチのコースを造った。この雪が大会の2日間だけでは勿体ないと思ったのか、「指導者講習会や大会後の一般開放などを催し、のべ5千人に雪滑りを体験させた」と記事は伝えている。
 この「全日本選抜スキー・ジャンプ大会」を「全日本選手権大会」と錯覚しやすく、また甲子園と後楽園の大会名が同じなので紛らわしいが、雪には縁の浅い地域に急設したジャンプ台としては立派なもので、スキージャンプの概念を未知の人々に知らしめる役割を果たした。昭和14年の後楽園大会はラジオで全国へ中継放送されたし、甲子園大会は観客4万人を集める盛況であったが、雪の輸送費との兼ね合いから2回で終わり、第3回は後楽園大会のみであった。しかしそれも太平洋戦争開戦の前年であるだけに関連記事も極めて少なく、見落としがちである。そしてこれが最後となった。  そのスキー熱は当地へも及び、小さな「湯田川スキー場」が誕生した。と言ってもブルドーザーで山肌を整地し、リフトを備えたものではなく、萱刈り場に雪が積もっただけのものであったが、それでもそれなりの賑わいを見せたのは、温泉との組み合わせで誘客したからであろうか。今日の湯殿山スキー場は勿論、バブル期の羽黒や熊出、三瀬などよりもはるかに質素であったが、十分満たされたようだ。

1月15日号 水原 元さん(鶴岡市高坂)

第215回  「『頂を目指す』 過渡期の出来事」
明けましておめでとうございます。
 小さな出来事は大きな出来事によって上書きされてしまい、ともすれば思い出されることもなく消えてしまうことがほとんどです。それでも苦しい時、人から受けた優しさや思いやりはふとしたきっかけで心の中に浮かんできて、日々流されていくわたしたちの歩みを止めてしまう時があります。  ある日、突然「泳げるようになりたい」とか「自転車に乗れるようになりたい」とか決心する日があります。大人の目には小さなことにしか感じられなくなっていますが、その時の子どもにとっては大きな成長の過渡期の出来事です。
 近所でアニキ分的存在のS君とわたしと弟の3人が遊んでいる時、「山登りしよう」と話が出ました。
 早速、晴れた日曜日、家族には「ベントもちしてくる」(弁当を持ってハイキングに行く)と言って朝早くから出かけました。行く先も知らずS君の後に黙々と付いていきました。家に着いたのはもう薄暗くなってからでした。家に帰ってから振り返り「あの山さ行ってきたんだぜ」と言って指さす尾根を見てビックリ。それが母狩から金峰山への登山だったということを知りました。S君が中2、わたしが小学6年、弟が3年の春のことだったような…。
 こんな記憶から、6番目に赴任した小学校で5年生を担任した時、隣のクラスのY子先生と相談して金峰登山を計画しました。保護者の協力を得て金峰の登山口まで車で送ってもらい出発しました。お父さん、お母さんの年齢を考えて母狩登山は止めて湯田川に下り正面湯に入るコースにしました。総勢90名。
 数日前に大雨が降ったので、登山の前日下見に行きました。仕事を終えた夕方6時頃から出発し、ゆっくり登って10時くらいには湯田川に着きました。2日間、連続で登ってもそれほど疲れてはいなかったように思います。
 この時、わたしは50歳を超えていました。42の時に膵臓を3分の1と脾臓を全摘していて、5年生きられればいいかなと思っていました。血糖値をコントロールする機能も低下していたので、糖尿病の不安を抱えての生活でした。外見はまったく他の人と変わらないので、人並みに働かなくてはなりません。術後の5年間が一番苦しい時期で、潰瘍にもなってしまいました。この登山は手術から10年目、癌の心配が消えた記念碑的行事でした。
 島木赤彦という歌人が作った「高山の頂きにして親と子の心相寄るはあわれなるかな」という歌があります。
 人生の中には、家族みんなで高山の頂を目指す努力をしなければならないような過渡期の出来事があるように思います。後で振り返った時、あんな高山に登ってきたのかと自分の力に感心したり、家族に感謝したりするのは下山してからです。
 父親が単身赴任しなければならなくなった時、子どもが入試や就職や結婚する時など、人生行路の中の定期航路のように、目に見えることだけではありません。子どもの思春期、女性の更年期など、目には見えなくても一人の人間にとって頂を極めるような、ときに家族の協力が必要な時があります。
 また、こうした出来事は往々にして「不幸」な衣装をまとってわたしたちの目の前に突然降りかかってくるようにも思います。
 「子どもが学校に行かなくなった」とか「父親が事故に遭った」とか「母親が病気になった」「子どもに障害があった」等。その時家族全員が頂を目指す決意と行動を示すことで、新しい道が拓けてくるように感じます。
 昨年11月、父が脳梗塞で倒れ、一緒に住んでいた母のところに毎朝様子を見に行きます。神棚に灯明を上げ水を替え拝み、母とほんの少し話をして職場に向かいます。
 母の生活を支えてくれるヘルパーさんとWさん。雪が降った日は、隣のHさんと裏に引っ越してきたMさんが家の周りの雪除けをしてくれます。家族だけでなく、地域の人にも職場の同僚にも支えられての毎日です。
 頂を目指す過渡期の出来事は、苦しいことや哀しいことだけではありません。冬の日、幼い子の冷たくなった手のひらを、お母さんが温かい手のひらで包み、息を吹きかけるように…、手のひらだけでなく心も和ませ、心の傷を癒してくれる、そんな出来事が今年もあなたの心に静かに積もっていくようにお祈り申し上げます。良きご縁が結ばれますように。

1月1日号 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第214回 『旱蓮木』
 漫ろ歩いていると思わぬ不思議と出会うことがある。木々の葉が色づき始めた頃、庄交モール近くの長泉寺(通称烏明神)境内で藤の実に似た大きな豆状のものが下がっているのを見つけた。珍しいのでコップに入れて眺めていたら、数日後にパックリ割れて中から鮮やかなダイダイ色の種子がのぞいた。これを図鑑で調べると「シデコブシ」だと分かった。この種を蒔けば春には芽が出て、やがては花をめでることができるのでは…と再び寺へ行き見回すと、昨年の種が黒く変色したまま散らばっていた。鳥が見向きもしないほど美味しくないのだろう。植物が天から与えられた、子孫を残すという特性を生かすこともなく、無残に散らばっているのが妙に気の毒に思え、4、5個を拾って鉢に埋めて来春を待つことにした。
 木を増やすには株分け、挿し木、種を蒔いて育てる「実生」の方法があるが、種を埋めたことを忘れかけた頃に新芽が顔を出しているのを発見した時の感動は格別なものである。来春そんな感動に出会えるかも…。
 たまに通る小道で、梢に緑色のプラタナスのようでもあり、栗のイガのようにも見える果実を見つけた。しかし葉や木肌からしてそのどちらでもない。以来「気になる木」になり、通るたびに見上げていた。やがて紅葉し、ちらほら葉が散り始めて、果実がよく見えるようになると益々不思議は募るばかりだ。
 そんなある日強風が吹いたので翌日、あの不思議な果実が落下していないか…と期待をふくらませながら木の下に視線を走らせると、すぐに果実は発見できた。手にとって見るとイガの針は意外と太いもので鉛筆を平らにしたぐらいあり、素手でつかんでも痛くないものであった。さらに栗のようにイガの中に果実があるのではなく、イガの一本一本が果実であり、そこに種子が入っているのであった。「へ―」と感心し、もう少しこの木の生態を知りたくなった。早速植物図鑑を開いたのだが、名前が判らないのであるから、1枚ずつめくってもこの植物に到達するのには遠い道のりになる。そこで「歩く植物辞典」こと水野重昭氏へこの果実を持参して名前のご教示を賜った。
 「8月頃に白い花をネギ坊主のような形で咲かせる。その花の一つ一つが結実して、次第に太り「柿の種」形になる。完熟とともに緑色から黄色に変わり来春の準備を完了する。この樹は旱蓮木(カンレンボク)といい、その名称からして中国原産であることを匂わせる。そんなことから横浜市は「中華街」のイメージアップにと街路樹にこの木を植えた通りがあるそうだ。近年は果実や根に、抗ガン作用の成分が含まれている…と注目されている…」と最新の情報まで付け加えて教えてくれた。
 拾ってきた果実をバラバラにし、鉢に入れて土をかぶせて軒下へ置いた。春になり、大分暖かくなっても発芽の兆候がないので半ば諦めていた頃に新芽が確認できた。1房分約20個を埋めたのに芽を出したのはわずか2本だけ、丈夫そうに見えるがとてもデリケートな木のようだ。
 荘内病院近くにピンポン玉ぐらいの果実を沢山つけた庭木があった。折よく知人宅なので樹木の名前を伺うと「ハンカチノキ」とのこと、「春に白い花が咲きます。だがこれは花ではなく、ハナミズキなどと同様に苞なのです…と教えてくれた。植物辞典を開くと「ハンカチノキ科に属す…」とあるが、ハンカチノキ科はほかに兄弟や仲間もない極めて珍しい樹のようだ。春の満開時は枝々にハンカチが揺れている様…そんなさまからこの名前になったことは容易に推測できる。
 植物には通称の呼び名の外に学名とか、戸籍上の名前が存在するはずだ…と調べてみると中国西部の原産で「ダウィ ディア インウォルクラタ」と舌をかむような長い名前であるらしいが、今は「ハンカチノキ」がそのまま本名となっているようだ。これまた来春の開花が待ち遠しい。

応募・申し込み

鶴岡タイムス社

山形県鶴岡市新形町16-40
TEL 0235-28-1101
Fax 0235-28-2449
受付:午前9時〜午後6時