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私が暮らす街

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6月15日号 郷守 一幸さん(寿司・天婦羅 芝楽)

第230回  『伝える〝味力(みりょく)〟』

 鶴岡が持っている多くの魅力に気付くには時間がかかる。
 中学・高校の頃、地元とほかの地域を比較して「あれがない、これもない、だから地元を出たい」ということをよく思ったし、聞いたものです。実際に僕も高校卒業と同時に上京しました。地元を離れてみると、刺激はたくさんあり、大好きな音楽イベントは毎週のように開催され、欲しい物も比較的簡単に見つかるように。そして何より多くの人との出会いがありました。
 でも何かが足りない? 最初にそう感じたのは上京して約一カ月のこと。無性に寿司を食べたくなったので、仕送りを待って近所の回転寿司に直行。久しぶりの生魚と寿司に歓喜…のはずが、いくら食べても満足できず。後にして思えば、魚とお米どちらにも何かもの足りなさを感じていたのでしょう。
 学生生活にも慣れ、買い物と自炊が板についてからも。
野菜を色々入れて煮込み料理を作ろうとした時、野菜から出てくるはずのうま味に物足りなさを感じたり、おでんが食べたいと大根を茹でても味が決まらない。なるほど○○の素が必要な訳だ、と18の僕は思いました。そう、根本的な素材自体の味わいが違っていたのです。
 進学や就職でお子さんが他の地域にいる方から、よくこんな話を聞きます。「この間行ったばっかりだあんさ、あど帰ってくんなやの」「せっかくだから、んめものかせでやろうど思ったら、いつものご飯がいいって言うなや」。そう! 今の僕には両方の気持ちがよくわかります。家族は地の食材をさまざまな形で食べさせてくれていたんだろうなぁ。季節や旬を感じる食事、こんなに贅沢なものはありません。
 僕はとても恵まれていました。それは飲食店の家の子だからではなく、周りの人たちが鶴岡の魅力を何気ない生活の中で感じさせてくれていたからだと思うのです。
 「特にこだわりなねぇの」が口癖の母や祖母は「地のもの」や「旬」にこだわっていました。伯母の家では「こげだものしかねぇけど」と昔ながらの地の料理を食卓一杯に振る舞ってくれました。
 東京に16年住んだ僕が鶴岡に帰ろうと思った一番の理由は、妻や子供たちにも食べさせたいと思ったからでした。お店を出さないかという誘いもありましたが、年を重ねた自分が東京で仕事に明け暮れている姿は想像できません。迷いはありませんでした。
 鶴岡に帰ることを後押ししてくれた妻には、今でも感謝しています。周りからは「今時、公務員を辞めてまで 山形に一緒についていくほどの旦那ってどんな人?」と聞かれていたそうです(笑)。
 鶴岡に戻った僕は、妻からさまざまな質問を受けました。
 ・近所にある碑「敬天愛人」って何?
 ・「荘内」と「庄内」って何が違うの?
 ・学校名についてる「朝暘」って何? などなど。
 考えたことのないものもあれば、ぼんやりとしか理解していないものも。説明できないことの何と多いことか!さらに平成の大合併で、お隣だった地域まで鶴岡市になったのですから、余計わからないことだらけ。
 妻の疑問に答えられないことが恥ずかしいと思った僕は、一つ一つ調べながら答えを探していきました。そんな時出会ったのが「鶴岡ふうど(食×風土)ガイド」第一期の募集でした。鶴岡を知り直すには絶好のチャンスと思い参加を決めました。
 ガイドは生涯学習ではなく、現場に立って活動することを前提としているので、常に最新情報を仕入れ、一つ一つの活動に生かしています。  ユネスコ創造都市ネットワークの食文化部門で日本唯一の認定都市になることができ、羽黒山や松ヶ岡が日本遺産に認定されたことも大きな要因となり、海外からのお客様も増えてきました。皆さん、庄内を満喫しようという気持ちで訪れてくださいます。僕たち地元の人は、「何もなくて」などと言わず、もっと自信を持って鶴岡を紹介したいものです。
 変わっていく鶴岡と、在来作物や郷土料理など子供たちに残していきたい守るべき鶴岡。その両方としっかり向き合いながら、今後とも活動していこうと思っています。
【郷守 一幸(ごうもり・かずゆき)さん プロフィール】 1974年鶴岡生まれ。進学を機に上京。都内の荘内館で学生時代を過ごす。家業を継ぎたいと一念発起し、赤坂と丸の内の飲食店にて修行。
 両親が経営する「寿司・天婦羅 芝楽」が50周年を迎えるにあたり、両親と一緒に祝えるようにと2008年に鶴岡へUターン。若旦那として店に立つ。
 11年 全国きき酒選手権大会 鶴岡地区予選会にて優勝。12年度 山形大学農学部が主催するおしゃべりな畑四期生として研修し「やまがた在来作物案内人」として認定。14年 鶴岡ふうど(食×風土)ガイドとして認定。鶴岡の魅力を案内する有償ガイドとして多方面で活躍中。以降2年に一度の更新試験を繰り返し、研さんを積んでいる。

5月15日号 増子 若菜さん・矢倉 有莉さん(昭和女子大学)

第229回  『また戻ってきたい場所—鶴岡』
 鶴岡を頻繁に訪れて2年。私たちは、鶴岡市と連携して活動する昭和女子大学のプロジェクト型協働インターンシップ「鶴岡ガストロノミー・フィールド・ミュージアム~インバウンドツアーの創出~」に参加しました。これは、東京の女子大生の視点から鶴岡の食文化の魅力を再発見して、その食文化を生かしたインバウンドツアーを提案するもので、学年・学科を超えたメンバーで進めてきました。
 参加の理由は「ユネスコ食文化創造都市鶴岡の食文化に興味をもった」「鶴岡の歴史・文化に関心がある」「将来自分の地元の地域活性化に貢献したい」などさまざま。最初は鶴岡について全く知りませんでしたが、鶴岡への熱い思いは、地元の方との目に見えるつながりへと高められたと実感できます。
 鶴岡全体を食文化の博物館として、内容をインバウンドツアーに組み込むために、鶴岡ならではの文化と食の体験を重ねました。ここでは私たちが7月と9月に提案、実施した、留学生を対象としたモニターツアーで生かした3カ所を紹介します。
 まず、自然の風景に満ちた宝谷です。地元産そば粉を使ったそば打ち体験、7月には深緑に染まる力強い田園風景、9月になると黄金色の稲穂とそばの花の白い絨毯、四季の移り変わりを全身で受けとめることができました。
 モニターとして訪れた留学生の一人からは「現代の日本にもこんな風景が残っているなんて!」の声が聞こえました。「そばは打つ姿勢が大事よ」と教えてくださった地元のお母さんのご指導もあり、出来立て茹でたてのそばは、不格好でも今まで食べた中で一番美味しく、留学生は世界一と言ってくれました。手作りの優しい味とともに、遠くに日本海が見える雄大な庄内平野、暗闇でポッと光るあんなにもたくさんの蛍、どこか懐かしいホッとした瞬間を留学生と共有できました。
 2つ目は、現地研修で私たちが訪れた中で最も留学生に紹介したかった、歴史や伝統と向き合う羽黒山です。
 モニターツアーでは、宝冠をかぶった山伏の格好で、日差しも強く夏真っ盛り。2446段の階段を一段登るごとに体は悲鳴を上げ、まさに修行体験でした。爽やかな木々の緑や吹き抜ける風、そして山伏の方から教えていただいた「うけたもう」という言葉に鼓舞されながら登りきり、心地よい疲れと達成感に笑顔があふれました。精進料理や山伏など、聞きなれない言葉を留学生に説明するのは思っていたより難しく、あらためてこの出羽三山の歴史の深さに感じ入りました。
 最後は、海辺の由良です。由良は現地研修で何度も足を運んだところ。由良で取れた魚介類を使い、地元のお母さんと一緒にした料理体験は魅力的でした。初めて見るトビウオに興味津々。さばくところを動画で撮影する留学生もいれば、うろこをそぐ鋭い音や血の生臭さに、魚に触れることができない留学生も。私たちが初めて体験した時を思い出しました。
 一緒に料理をしながら、はずんだ笑顔と会話が早く食べたい気持ちを表していました。モニターツアーで完成できたメニューは、トビウオのフライ、貝の味噌汁、ハタハタの湯あげ、タコ飯…。留学生にとって馴染みのない味もあったと思います。最後に「もう一度由良を訪れたい」という留学生の声は、このツアーの目標そのものでした。
 私たちが鶴岡で得たことは「人とのつながり」です。斎館の精進料理をはじめ、由良の漁師飯、宝谷そば、櫛引の果物、だだちゃ豆などの食と文化に真摯に向き合う地元の方々の姿をみると、食の伝統や文化を現代まで大切に受け継がれてきた理由が納得できました。鶴岡への愛は、東京で開かれた鶴岡市関連のイベントに参加した時にも強く感じました。
 鶴岡のことが大好きになった私たちは、その魅力を多くの人に知ってもらいたい気持ちでいっぱいです。このインバウンドツアーのコンセプトにしたのは「大切な人と一緒にまた戻ってきたい」。また鶴岡に、大切な誰かと必ず一緒に訪れたいと思います。
【増子 若菜(ましこ・わかな)さん プロフィール】
1996年福島県生まれ、昭和女子大学日本語日本文学科卒業。「将来は自分の地元である福島に貢献できる仕事をしたいと考えています」
【矢倉 有莉(やくら・ゆり)さん プロフィール】
1998年東京都生まれ、昭和女子大学食安全マネジメント科3年。「食べること全般とパンが好きなので、将来はパンの商品の企画に携わりたいと思います」

4月15日号 エコール 辻 東京(辻調グループ)加納 美季さん

第228回  『鶴岡で感じる一皿の物語』
 鶴岡ってどこ? 一体何があるの? と思ったのが、私と鶴岡の最初の出会いでした。
 鶴岡市と辻調グループは2017年に包括的連携協定を締結し、「鶴岡フィールドスタディプログラム」が始まりました。このフィールドスタディは、学校を出て鶴岡市をフィールドに生産者と触れ合い、さまざまな体験を通して「皿の外の食を学ぶ」プログラムです。この取り組みは今回で2回目となります。
 羽黒山では、山伏の野口鉄雄さんの先導で「生まれ変わりの山伏修行体験」に臨みました。東京で生活している私には正直苦行でしたが、雄大な自然に囲まれ、清々しく感じました。
 出羽三山神社の宿坊「斎館」では、伊藤新吉料理長に精進料理について教えていただきました。「一緒に調理をする前に、食材を採りにいきましょう」と向かったのは斎館の目の前の草むら。皆「食べられるものがここにあるの?」と目を丸くしていました。伊藤さんとともに草むらにどんどん入っていき、自生している山菜の赤ミズ、青ミズ、芹を収穫しました。そして採ってきた山菜はそれぞれ異なる下処理をし、保存することを教えていただきました。
 「豊かな季節にはその恵みを頂きながら蓄える、厳しい季節にはその備蓄でしのぐ」というように、風土に寄り添って生きる。聞けば当たり前の生き方だけれど、今の社会の中で私たちがそのように意識することはほとんどないと思います。本来、人はそのように自然と共存してきたのだと理解を深めました。自然の恵みを受け取るという貴重な経験で、五感を使って出羽三山の歴史を感じることができました。
 幸運なことに今回は、在来作物の藤沢かぶの焼畑の現場に立ち会うことができました。万全のアブ対策をして圃(ほ)場に向かい、見えてきたのはなんと崖!? 切り開かれた、山肌の見えるところに円を囲むように大勢の人がいました。近くで見ようと登っていきますが、斜面が急すぎて立っているのがやっと。勢いよく広がっていく炎がパチパチと音を立て、熱気で顔が焼けそうなほどでした。衝撃的な迫力に圧倒され、食い入るようにまじまじと見つめていました。
 その中で、ひときわ大きな声で走り回るおじいさんがいらっしゃいました。この方が御年76歳の生産者・後藤勝利さん。ずっと藤沢かぶを守り、作り続けています。ここで私が感じたのは継承の難しさです。体力的に大変な作業であること、高齢化の問題などがあり、作り続けていくことの難しさを感じました。一方で手伝いに来る地域の方も大勢いらっしゃいました。在来作物が注目されることで、地域の交流の場が広がっていることが分かりました。
 農家レストラン「菜ぁ」では、小野寺紀允さんに「安心安全を考えたこだわりの食材」についてお話をお聞きしました。農家レストランの武器は食材の鮮度、そして食材を最後まで自らがプロデュースできるところであると思います。自家農園で食材を収穫し、その日のコンディションによって良いものを選び、調理法も変えることができます。ロスがぐっと少なることも大きな利点です。隣の畑から採れたての食材を頂くことができるレストランなんて、あまり耳にしたことがありません。食材の味を噛み締めながら頂いた夕食は、心に染みる一皿でした。
 小野寺さんのお話の中で印象に残っているのは「地域の食材を食べていない子供は、その地域に帰ってこない」という言葉です。誰にでも、恋しくなる〝あの味〟があるのではないでしょうか。観光客だけでなく、地域のお客様もたくさんいらっしゃるのは、美味しく、安心できる味だからなのだと思いました。農家レストランはその役割を担う、地域に必要な場所だと感じました。
 ここでは書き切れないほど、鶴岡で多くの方と出会い学びました。鶴岡について無知だった私ですが、実際に足を運び、食材がたどってきた環境や食の文化、かかわっている人々の思いを身をもって感じることができました。料理を作る上で大切にするべきことを、この地で教えていただきました。そんな皿の外の背景をも伝えられるような料理人を目指していきます。
【加納 美季さん プロフィール】
1994年兵庫県生まれ。バンタンデザイン研究所を卒業後、アパレル会社のインターンとして働く。食に携わる仕事がしたいと考え、2018年エコール 辻 東京(辻調グループ)辻調理技術マネジメントカレッジに入学。鶴岡フィールドスタディプログラムに参加した。将来は食材を主役にしたフレンチの料理人になりたいと考えている。

3月15日号 佐藤 宗雲さん(鶴岡市宝田二丁目)

第227回 とわずがたり其の十二『この街のゆくえ』
 県立高校の入試が終わり、結果を待つ受験生の多くは、生まれて初めて大きな試練と向き合ったのではないか。
 山形県教育委員会は、鶴南と鶴北を統合して中高一貫校を創設、通信制と定時制を庄内総合へ移管、これらを二〇二四年から実施する計画案を、庄内の各市町に提示し回答を求めていた。これには鶴岡市、三川町、庄内町は賛成。遊佐町は当初反対で後に賛成。酒田市は反対。県教委は意見集約ができず、実施を先送りする模様である。
 人口減少が止まらない。国や地方自治体が抜本的な施策を講じても効果が表れなければ人口の減少は続き、三十年後の鶴岡田川地域の人口は八万人以下になると予測されている。同地域の高校の再編は避けられない。十年かけて検討してきたという県教委の計画案には、この肝心な課題が抜けている。
 鶴岡田川地域には、戦前は、鶴南、鶴北、鶴工、庄農、旧家政(現鶴中央)、旧余目実科女学校(旧余目、現庄内総合)が創設され、戦後は、加茂水、農家等の子弟のために昼間に通学可能な三年制の定時制として創設された旧鶴西(旧大山、現鶴中央)と旧山添(現鶴南山添校)、温海が創設され、各高校は、各々その伝統と特色を生かし、教育や産業技術の進歩、工業・商業・農林水産業を支え、地元のみならず国内外で活躍する人材を輩出し貢献してきた。その後、人口減少と少子化による鉄道等交通の利便性の低下などにより入学者が減少した。このため温海は廃止され、旧鶴家政と鶴西は廃止のうえ鶴中央が創設された。これ以後も全体として生徒数が減少し、一部では定員割れが慢性化している状況が続いており、打開策が要請されている。
 その中にあって、鶴南は古くから高い進学率を維持している。平成三十年は三年生の六五%に相当する百二十九名が国公立の大学に合格し、全国屈指の実績を有する。鶴北は、同年に二五%に相当する三十名が国公立大学へ合格し、三十一年度は百二十名の定員に入学希望者が百八十一名に及び、その受験倍率は一・五倍を優に超えている。県教委は、この両校を統合しようというものである。
 中高一貫校創設の目的は、成績良好な生徒を集め、更に学力レベルを高めて難関大学に入学させようというもので、人口と高校数の多い大都市で導入しやすい教育システムといわれている。僅か人口十三万余人の鶴岡田川地域で、中高一貫校の創設により進路選択の幅が広がる生徒は、全体の一五%以内に過ぎまい。残る大多数の生徒の選択の幅は極めて狭くなる。これは、普通科を希望し、かつ中高一貫校に入学しない生徒が選択可能な県立高校は、鶴中央のみであることからも明らかである。
 鶴岡市は、県教委のこの計画案に賛成し、既に数年ほど前から強く創設を要望していたということを私が知ったのは、ごく最近の報道によってである。市の将来に関わる極めて重大な問題が、市議会に議案として上程されず、広報等で知らせることもなく、単に市と議員の質疑応答だけで決定されていたことに驚いている。先般、市は「中高一貫校の設置案が実現しなければ子どもたちが教育の場を選択する機会を失い、庄内全体のマイナスになる」と議会で説明している。どうしてそういう判断となるのか。
 批判するのみでは建設的でないので、愚案を提示する。誌面の関係で詳述できない部分は読者の推論に委ねたい。
 ①七校(本校)を順次、四校に再編し統合する。統合される校の歴史と伝統は後世のために統合後の校へ引き継ぐ②庄農と加茂水は鶴工に統合し、統合後の校名は例えば「鶴岡産業高校」とし、学科名は農林科や水産科などとする。学科の特殊性から各校舎は現状のまま。部活動等による移動はスクールバスで対応③鶴南山添校は本校へ統合④庄内総合は鶴中央へ統合⑤定時制と通信制は、余目では勤労者や自宅待機などの生徒の通学アクセスに大きな問題があり鶴南に設置する。就職・進学の両方へ対応しやすくするため普通科とする⑥鶴東と羽黒は、私立学校の建学の精神に基づき特色を展開した教育を行う⑦中高一貫校が必要なら、鶴中央を改編して中高一貫校を創設する⑧その先に鶴南と鶴北の統合があると思う
 この問題は難しい。私の家族の中でも意見は様々で、市民間にも多くの見解があると思う。世の中は常に変化している。人が考えることに完全なものはないが、一度失ったものを取り返すことはできない。であればこそ、市議会は党派の立場を離れ、こういう問題を議案として上程し、委員会による審議または調査会を設置するなどし、高校の再配置も考慮するなど多面的な見地から緻密に探究願いたい。市はこれらの情報を逐次、市民に提供願いたい。民主政治と地方自治の主権者である私たち市民は、この街の未来に責任を負っている。 
(浄土宗藤澤寺 住職)

2019年2月15日号寄稿 古舘 由隆さん(鶴岡市温海川)

第226回  「福栄地区は【いとをかし】」
 あれは昨年の1月3日のことでした。関東の自宅からこれから住む温海川の家に到着すると、周りは自分の背丈より高い雪の壁…。呆然としていると、どこからか「おう、来たか」の声。見回しても誰もいない……が、屋根の上から自治会長が登場! 屋根の雪下ろしの最中でした。とんでもない所に来てしまったのではなかろうかと思った日から約1年が経ちました。
 私は地域おこし協力隊として福栄地区で活動しています。毎日のように家の中に虫が現れる自然豊かな環境は、驚きと楽しさにあふれています。春は桜と新緑、夏は青空と深緑、秋は鮮やかな紅葉、冬は全てを埋め尽くさんばかりの雪と、首都圏暮らしで忘れていた四季の移ろいを思い出させてくれます。
 一方で、違和感というか文化の違いも体験しています。それがまた【いとをかし】であります。私は外者視点を大切にしたいと思っているのですが、視点の相違で生まれる出来事が楽しいです。
 福栄地区では小・中学校が統合しており、現在では子供たちはバスで通学しています。都会では事故や犯罪に遭うことを心配して、車で送り迎えしている家庭もあります。満員電車の中でカバンを背負った小学生を見ると、かわいそうに思っていました。小学校時代に2㌔以上歩いて通学していた私が「バス通学できるなんて贅沢だな〜」と話すと、地元の人からは「仕方なしにしているんだ!」と怒られます。学校から自宅近くまでバスで送迎してくれるのは、特に都会の人から見たら贅沢なことだと思いますが、状況や立場、とらえ方によってかなり差が出るものです。
 食文化に関しても違いを感じる瞬間があります。この地域は温海カブが特産品ですが、かぶら漬けを作る際に使用する酢は【五倍酢】でなければ美味しくないと皆に言われます。私からすると「そもそも【五倍酢】とはなんだ?三杯酢なら知っているが…」という状況です。秋に関東から来た観光客向けにかぶら漬け体験のインストラクターをしたのですが、参加した方々も私と同じ様に「五倍酢って聞いたことがない!」と話していました。しかし、秋になるとあつみ温泉のスーパーには入口付近に普通に並んでいます。
 さらに私の出身地である岩手県の食文化との違いも知りました。福栄地区のお母さんたちに「クルミ餅は美味しいですよね~」と話したところ、「味噌にクルミを混ぜて焼いたやつか?」と聞かれました。「いやいや、クルミ餡をつけた餅ですよ」と答えると「しょっぱいやつか?」との返し。「砂糖を入れた甘いやつです」と言うと…不思議そうな表情をします。
 「かっ、会話が噛み合わない!」。それもそのはずで、クルミ餡を作って食べるのは、岩手県と宮城県あたりの食文化だと後から知りました。同じ東北であっても文化の違いはあり、それを学ぶことがその地域を知ることなのかなと思い、今はいろいろな違いを楽しんでいます。
 ただ、もったいないと思うこともあります。春に国道345号を車で走っていると、道路のすぐ脇にミズバショウの群生地を見ることができます。都市部では、ミズバショウの群生地に行くためのバスツアーがあったり、見ることができる場所では駐車場が混雑したりするほどです。希少な植物をあまりに簡単に見られるので「すごいですね」と集落の方に伝えたら「普通だろ、それ」。……それ、普通ではないのですよ。
 外から見ると素晴らしいと思う素材が、地元の人には当たり前のことだというのは、やはりこの地域が自然に恵まれた環境だということなんですね。それを活用して何かできればいいなとさまざまな妄想をしている最中です。
 鶴岡市の中心地付近に住んでいる何人かの方から「福栄に行ったことはないなぁ」と言われました。元々は別の自治体だった影響もあると思うのですが、これを読んでくださった方、何かの縁だと思って、ぜひ福栄地区にお越しください! 切磋琢磨しながら人と自然が共存している福栄は宝の山です! そんな福栄に、私もずっと住み続けることができればと思う今日この頃であります。

【古舘 由隆(ふるだて・よしたか)さん プロフィール】
1973年岩手県盛岡市生まれ。短期大学を卒業後、自動車リースや住宅建材などの営業職。20代後半でリクルートに契約社員として入社し、結婚情報誌「ゼクシィ」の営業・制作を担当。契約満了後、温泉宿の宿泊予約サイト運営の「ゆこゆこ」に転属し、福島県・山形県庄内エリアを担当。
 首都圏での生活10年を経て、地方で暮らすことを決意し、鶴岡市の地域おこし協力隊に応募。2018年1月に着任。趣味は磯釣りとプロ野球観戦。座右の銘は「おもしろき こともなき世を おもしろく」。

2019年1月15日号 水原 元さん(多機能型発達支援事業所㈱メグシィ 所長)

第225回  「鶴岡発SST(さわやか 幸せ セラピスト)』」
明けましておめでとうございます。
 『広報つるおか』1月号に掲載された新春座談会「鶴岡で働くこと」の中で、ある出席者の方が「今日一番言いたかったこと」として「市民全体の空気を変えていくことが大切だと思う」と述べ、そのために「『ここ(鶴岡)での人生は幸せだよ』と語ってあげてほしい」と提言していました。
 私は、本当にその通りだと思います。そして今、確実に幸せな空気がここ鶴岡に広がってきていることを感じます。
 国家に歴史的ターニングポイントがあるように、一人の人間にもそれがあります。四半世紀前の1995年は、私にとってもそんな年だったと考えます。当時、私は小学校の教員をしており、6年生の担任でした。新年を迎え、卒業までの3カ月間にどれだけ楽しい思い出を作れるかを考え、緊張していました。
 朝は早い方で、家族が起床する前の5時前後には起きています。朝からテレビをつけることはめったにないのですが、1月17日はなぜかつけていました。そして5時半過ぎ、当時の村山首相が阪神・淡路大震災の発生と政府の対策を告げていました。
 これだけだったらターニングポイントとは感じなかったと思いますが、この年の3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きました。高学歴のエリート集団がその能力を使って、同じ国の人間を無差別に殺傷するという行為に大きな衝撃を受けました。
 この事件をきっかけに、関東関西方面ではカウンセラーという職業は信用を失墜しました。オウム真理教は、魂を救済するカウンセリングから発生した団体だったのです。偽霊能力者は人を脅して財産を奪い、人格を支配し、洗脳して家族も分解させてしまう危険なものだというイメージが広がったからでした。孤独と不安で心の軸が揺れ動いていれば、簡単にクモの糸に取り込まれてしまうような危うさを日本人の何割かは感じたのではないでしょうか。
 私たちは誰でも、ほかの人たちを不幸にすることなく、さわやかに幸せに生きたいと願います。
 分かりやすくするために、幸島の人間と不幸島の人間という単純な図式で考えてみましょう。人間は時として幸島に滞在したり、不幸島に滞在したりします。その滞在期間が比較的幸島に長くいる人は、セラピストとして合格だといわれています。
 人は不幸要素が強い時、おかね、もの、社会的地位などを得ることが人生の目標や喜びになりがちです。
 心豊かで穏やかな家庭の中で温かくはぐくまれた人たちは、それだけで「さわやか幸せセラピスト」になる土台が出来上がっているといわれます。それは当たり前といえば当たり前です。いつも心が幸せに満たされている人は、自分の食べたい物を腹いっぱい食べるより、そばにいる人と分かち合うことを自然に考えるからです。
 あの事件を起こした集団は、絶対的な幸せ飢餓状態にあったということができます。みんな援助者、教育者としてキャリアをスタートした人たちでした。ほかの人に喜ばれる仕事をするという気高い意識が、利己主義や物質主義に侵されると変質してしまいます。クライアントやお客様のためというより、自分が所有している財産、地位を守ることに意識がいってしまいがちになります。
 しかし、鶴岡では職業人として喜ばれる仕事をして、経済的にも安定し、さらに相手のために何ができるかを考える「さわやか幸せセラピスト」が着実に増えています。
 我が子を競争の中で「頑張れ、頑張れ」と追い立てても、心が病んでいくだけだと気づいた優しいお母さん。
 学校に来ることだけが大切ではない、宿題で苦しませ、ますます勉強嫌いにしてしまうことに気づいた先生たち。
 自分の敷地の柿畑や梅林の下草を刈って子供たちの遊び場として開放してくれたKさん。田んぼを開放してオタマジャクシやザリガニ取りを許してくれたAさん。子供たちが虫取りを楽しめるよう、少し下草を残して刈ってくれるIさん。工作の好きな子供たちに大工道具を提供し、使い方を教えてくれたNさん。聴覚過敏で騒がしいところが苦手な子供に、自宅の静かな部屋を使ってもいいよと提案してくれたMさん。近くの市から、我が子が発達凸凹で勉強に付いていくのが大変だった経験を生かして指導に来てくれたSさん等々。子供たちの笑い声に「やかましい」と怒鳴りつけていたおじいさんもいましたが、風が、空気が変わってきました。
 そうしたグループがあちこちで増えていけば、障害を持った人たちにももっと優しい街になります。
 私たちもSST(Sawayaka Shiawase Therapist)グループの一員として、幸島鶴岡の幸せの渦の中で確かな歩みを進めていきたいと考えます。
 皆さん、今年も良い年でありますようにお祈り申しあげます。

12月15日号 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第224回  「虹」
 子供の頃は虹を見ると大ハシャギしたものだが、年齢と共に次第にうすらぐもの…と思っていた。今秋のある日、虹を見てとても気分が高揚した。それはアーチの一部ではなく、出発点からもう一方の接地点までの全容が何にも遮られることなく見えたからである。こんな体験は初のことで、「何か良いことがあるのでは…」と乙女チックになった。七十余年の人生で初めてのことであったからついつい興奮してしまったようだ。しかし「これは…今夏の桁はずれの猛暑や豪雨、地震などと何らかの因果関係があるのでは…」と現実に引き戻されるのも早かった。
 虹はにわか雨と太陽光が織りなす現象であるから、虫偏よりも「霞」「霧」などのような雨冠の字にすれば、理解しやすかったのではと思う。漢字が誕生する頃の中国にはまだ自然現象であるとは理解されていなかったのだろうか。
 虹は「女心(男心)と秋の空」と言われるように秋に多く見られる現象であるが、これは東洋に限られたものではなく世界中に見られるのである。他の国々では虹とどのように接し、どんな考えや風習があるのか…と思い、書籍をめくってみた。
 虹は「天と地を結ぶ通路で、神が天から降った時に渡った…」と伝えられている地が圧倒的に多い。これはギリシャ神話の女神が渡ってきたという話が広まったものであろうか。中には死者や悪魔がこの橋を渡って天界から攻めてくる…と考える地もあるようだ。最も多いのが大蛇(中国では龍)の化身で、水と結び付ける考え方が広まっているようだ。「虹は七色」が一般的だが、メキシコの一部には青、黄、赤の三色と信じている地域もある。また「虹は神が◯◯を予告している現象…」とか「虹を見た人には福をもたらす…」などの「神のお告げ」的な現象と捉える国や地域も少なくない。これは日本人が初日の出を遙拝したり、また海に沈む夕日に手を合わす習性に共通する心境であろうか。ところが「虹を指差してはならない」という風習が中南米やオーストラリア周辺に多く残されているのに興味がそそられた。
 これは日本の皇室が菊を紋章にしたように、中国の皇帝が龍を家紋に用いたことに端を発するのでは…。すなわち皇帝を指差すことは「不敬な行為」として禁じられたのではないか、その習慣が時代は移っても尾を引いて現存するのではないか。
 龍神が水神として人々に浸透していた中国では、虹が雨と深いつながりを持っていると察知して以来、虹を指差すことは龍(皇帝)を指差すことであり、これは「不敬の行為」である…と解釈して広まったか。これが中国やその近隣だけならばこの推測もご納得いただけるだろうが、メキシコやオーストラリア周辺の島々にまで伝播しているのでは、理解に苦しむ。もし「虹へ指を差すな」の源が中国ならば、地理的に考えて日本のどこかに「虹を指差してはならない…」の風習がひっそりと残されている気がしてならない。
 世界には虹を「神のお告げ」として受け止める所が多いのに、日本の『格言ことわざ辞典』を見ても虹に関するものは「晩に虹を見たら鎌を研げ、朝に虹を見たら隣へ行くな」しか見当たらない。これは夕方の虹は明日の晴天、逆に朝の虹はその後の雨天の前ぶれである…とすこぶる現実的なもので、味も素っ気もない。
 古代中国では虹を「龍」の姿…と重ねたようである。それなら雨冠の下に龍と書いて「ニジ」と読ませればよかったのに…と思ってしまうが、当時はまだ虹が自然現象とは思わずに、天に棲む動物の姿と設定したためであろうか。
 ヨーロッパでは「虹」が蛇の姿として伝えられたようで、両端の接地点には『黄金』が埋まっている…と信じた。アフリカ西部では地下に棲む大蛇が水を飲むために空へ現れた姿…。南米では少女が飼っていた小蛇が巨大になり、エサを求めて人々を呑み込んだ。そこで鳥たちが力を合わせてこの大蛇を退治した。その争いの中で鳥の羽根は血に染まり、カラフルな翼が生まれた…と伝えられている。オーストラリアでは「虹が世界を創造した神で、男女両性を具有し水と豊穣を掌る…」とされる。インド東部のベンガル湾沿いの諸国では、虹が不吉な兆しとして位置付けられている珍しい地域もある。
 1年を24に区切った「二十四候」は俳句作りには不可欠の「季語辞典」でもあるが、それをさらに細かくした「七十二侯」があり、こちらはあまりテレビの天気予報などに引用されることもなく、十一月下旬の「北風この葉を払う」とか十二月上旬の「熊穴にこもる」などと聞き慣れないものが多い。
 そんな中の一つに「虹蔵不見」は「虹隠れて見えず」と読み、十一月下旬の頃を指す。にわか雨もこの頃になると姿を消して秋の長雨から初雪に変わり、虹も見えなくなる。

10月15日号 農業生産法人エルサンワイナリー松ヶ岡㈱ 代表取締役 早坂 剛さん

第223回 『2018 松ヶ岡に想いをこめて』
 松ヶ岡は明治5(1872)年、庄内藩士が刀や鉄砲を鍬に持ち替え、原野を切り開き、桑を植えてシルク産業を興した地です。私たちは、遺徳の畑を守りながら次世代に繋ぐには、この土地をブドウ畑でいっぱいにできないかと考えました。微力ではありますが、仲間を増やして、シルクとワインのコラボの町を目指し、新たな文化(農業×化学×ART=文化)を作ろうと取り組んでいるところです。
 これまで私たちは社員旅行で、米国カリフォルニア州サンフランシスコのナパバレー、スペインのカバ、イタリアのアルバやキャンティなど有名なワインの産地を見てきました。そこで感動し、松ヶ岡もきれいなワインバレーにしたいと、あこがれを抱いたのかもしれません。
 2016年3月29日、ある人の紹介でブドウの苗屋さんを訪問しました。「忙しいので15分くらいしかお会いできない」と言われた若い主人は開口一番、「ワイン用の苗は、新規に手に入れるのが難しい状況」と説明してくれました。しかし、私たちがワイン用のブドウに取り組む目的や、松ヶ岡への想いを熱く説明していくうちに、少しずつ耳を傾けてくれるようになりました。
 30分くらい話をしていると私たちを信用してくれたのか、苗がある倉庫を見せてくれました。予約されている苗ばかりで、どれも立派なものでした。別棟も案内していただくと、こちらもヨーロッパ種の立派な苗。「良い苗だな~」と感心していたら、このうち約500本は今朝、依頼先からキャンセルがあり、ほかへ回すのだというのです。そこで恐る恐る「この苗を分けてもらえませんか」とお願いすると、しばらく考えていた主人から「いいですよ」と返事が返ってきました。「えー、本当?」。私たちはびっくり。内心はうれしさでいっぱいでしたが、冷静に「全部いただきます」と答え契約が成立。結局1時間以上滞在し、訪問先を後にしました。
 車の中で「ラッキー! 出だし良し」と、上機嫌で2軒目の苗屋さんを訪問しました。こちらも大きな苗屋さんでしたが、1軒目と同様に「新規にすぐ苗を求めるのは難しいですよ。4月半ばごろに再度電話してください」と言われ、丁重に「お願いします」と頭を下げ、帰路に就きました。
 4月半ばに苗が手に入るとは考えてもいなかったので、途中から建設会社に電話し、夕方までには戻るので松ヶ岡の現地でお会いする約束をしました。土地は松ヶ岡の方々から2カ所、約1町歩(約1㌶)を借りる契約をしておりました。柿畑だったので根を掘り起こし、トラクターで畝を作り、杭を立てて番線を張りました。どれくらい時間がかかるのかも分からない全くの素人集団。でも気持ちだけは誰にも負けないとがんばって作業をしました。ただ工事屋さんには大変ご苦労をかけました。また、山形大学農学部の俵谷教授には地質調査、肥料調査などをお願いし、指導も受け、大変助かりました。
 正面には雪の綿帽子をかぶった月山、はるか後ろには鳥海山がそびえる中、いよいよ、先人たちが切り開いた聖地松ヶ岡にブドウの苗木を植える時がやってきたのです。2017年の4月前半は雨が多く気温が上がらず、同月下旬から5月2日までに1500本を植えることができました。完了した時には、社員と工事スタッフの皆で「よくここまでやったな~」と、喜びでいっぱいでした。2軒目の苗屋さんからも1000本を用意していただきました。苗屋さんには心から感謝!感謝!です。
 今年2018年は約1000本を植えております。2年目の苗は順調に成長し、1年目の苗とは成長が全く違うことも分かり、子供の成長と同じようにかわいいと思うようになり、農家の方々の喜びも少しずつ理解できるようになった気がします。来年はさらに3500本を植え、第1期目標の6000本になります。2021年には初めてのワインの出荷ができるように、今は畑作りに集中しております。気候データ、苗の成長やブドウの分析データなどは、慶應義塾大学先端生命科学研究所、鶴岡工業高等専門学校、山形大学農学部から、学術的な支援をいただきながら共同研究中です。
 松ヶ岡をブドウ畑でいっぱいにしたいという夢に向かい開拓中です。

9月15日号 伊藤 進さん(鶴岡市海老島町)

第222回 『もっと折り紙に親しもう』
 私は生涯学習の講師として、長い間折り紙を教えてきました。  毎年の鶴岡市子どもまつり、児童館、コミュニティセンター、町内会、老人クラブ、学校など、指導先も多岐にわたっています。
 ところが今は、ゲーム機の普及などで折り紙をやろうとする子供が少なくなった上に、祖父母など折り紙を知っている高齢者と一緒に暮らす子が少なくなったこともあり、多くの家庭で折り紙から遠ざかることにつながっているようです。
 折り紙は、日本で古くから親しまれてきた文化であり、海外ではとても珍しがられているそうです。私も最近、毎年行われている出羽庄内国際村のワールドバザールで折り紙を教えていますが、とても珍しそうに私の指先をじっと見入っている外国人が多いことに気づきます。
 とはいっても、やはり日本人の折り紙離れは年々顕著に進んでおり、指導をしている私としては残念でならないのです。
 そんな中でも、特に多くの動物などの折り方の基本になっている「折り鶴」を作れない人がかなりいます。それが、若い頃親しんだはずの老人クラブの高齢者の半数以上になっていることは驚きと共に、日本の伝統文化が消えていくようで、とても寂しく思うのです。
 私は、折り紙を指導する先
々で、手順さえ踏んでやれば容易にできて笑顔になる人たちの姿を見ます。ですから、新聞広告など身の回りにあふれている紙を使って、もっと多くの人に喜んでもらえる折り紙を普及させたいと思っているこの頃です。
 先日、一人暮らしの高齢者からの連絡を受けて、折り紙作りのお相手をしました。喜んでいる相手の姿を見ながら、折り紙を覚えていて本当に良かったとしみじみ思いました。
 そして、私の実生活の中でも、折り紙は最大限役に立っています。というのも、私は一人っ子であることから人間関係がどうもぎこちなく、すらすらと思うように話せないところがあるのです。それが集会や宴会の場などで、例えば弁当の包み紙や天ぷらを載せる紙で、亀や白鳥、季節の折り紙などを作ってあげたりすると、周囲の人たちからとても喜ばれ、珍しがられ、思いがけない反響を受け、座が盛り上がるのです。私自身も楽しい気分になります。
 このように、ゲーム機などに興味が移る中にあって、身近にあってしかも数分にして、まるで生きているように仕上がる折り紙はどこに行っても大人気で、場を和ませてくれます。そのことは私の自信であり、ストレス解消にもつながっています。
 以前、胃のポリープ摘出で一週間ぐらい入院した時、ベッドの脇に十数個の折り紙を作って置いていました。すると、看護師さんがとても珍しがって、ほかの病棟にも話したらしく、以後数十人の看護師さんが私の病室に折り紙を見に来ました。そのうち、折り紙を教えてくださいという人もあり、喜んでばかりもいられず、悩ましく思ったりしたこともありました。
 また、友人の子供が入院した時、見舞いに行って折り紙を作ってあげたところ、とても喜ばれ、退院したらもっと教えてとせがまれたこともありました。周囲の多くの人たちを手軽に楽しくさせる折り紙は、どんなに高齢になっても、たとえ目が少々悪くてもできる、何よりその人にとって生涯の財産となる日本の伝統文化だと思います。
 それともう一つ、折り紙講習をしながら、特に「折り鶴」を作るのを見ていると、折り方の順番がかなり違っていて、いかにもやりにくい方法で折っているのを見かけます。そんなことが折り紙を難しく考えてしまう原因なのかと思うことがあります。
 折り紙は、手順を踏んで進めれば、皆さんが思っているより意外に容易にできてしまうものなのです。私も高齢ではありますが、まだまだ元気なので、できるだけ折り紙指導を続けるつもりです。いつでもご連絡ください。

8月15日号 佐藤 宗雲さん(鶴岡市宝田二丁目)

第221回 とわずがたり其の十一『少年の日の夏』
 月のお盆の頃になると、時折、小学一年の時の記憶が甦ってくる。  昭和二十九年八月十二日の午後、私は鶴岡駅から一人、汽車に乗った。お盆礼のため父(明治二十六年生まれ、昭和二十三年病死)の実家のある藤島へ行くためだ。父の死後は母が行っていたが、その頃、体調が優れず、私が一人で行くことになった。お仏前に供える熨斗袋と私の着替え用の衣類を風呂敷に包み、斜めに背負い、汽車に乗った。子供の運賃は大人の半額で、藤島駅までは十円だったか。二十分ほどで着いた。駅には伯父(亡父の兄、明治二十二年生まれ)の孫で、私より十歳上の「T男はん」が迎えに来てくれていた。家に着くと、座敷の大きな囲炉裏の正面に座っている伯父に挨拶をする。伯父は「一人で、よぐ来たのう」とひと言。無口で怖い顔をした老人だが、物心ついた頃から母と来ており、歓迎してくれていることは分かっていたので、それで十分だった。
 伯父の家は、その祖父(私の曾祖父に当たる)が、明治の初期、藤島に農地を得て養蚕農家となった。伯父はその三代目。母屋に接して蚕室があった。総二階で各階は五十畳ぐらいか。南側が出入り口、窓は北側にあるのみで室内は暗い。室の真ん中を隔てて両側は何段もの棚になっている。そこに底の浅い箱を一列に並べ、蚕(かいこ)が飼われていた。桑の葉を食べ続けて成長すると、口から糸を吐き出し続け、自分の身の周りを厚く包み込み、白い繭玉となる。これを集め、松ヶ岡に納めていた。
 翌十三日の早朝、T男はんが「魚しめさ行ご」と私に声をかけ、幅七十㌢ほどの三日月網(竹の棒を半月状に曲げ、左右の先端を真っ直ぐの竹で繋ぎ、その中に網を張ったもの)を持たせられ、二人で近くの藤島川へ行った。底が浅く、深くても五十㌢ほどの水溜まりに近い場所があった。パンツ一丁となり、教えられたとおり、三日月網の片方を泥状の岸に押さえ付け、泥の穴を片手で掻き回す。フナ、ナマズ、ドジョウなどが次々と網にかかる。場所を変え、繰り返す。驚いたのは、黒く細い長さ五十㌢ほどの獲物が入った時だ。私が「蛇だ!」と叫ぶと、T男はんは「それはウナギだ」と言って破顔した。この時、生まれて初めてウナギという食べ物を知った。
 夕暮れ時、大人たちと近くの墓地へ向かう。墓前に花と線香を供え、蝋燭に火を点け、皆で合掌する。その後、私が持たせられた小さな提灯の蝋燭に墓の火を移し、家に向かう。大人たちは、この火を、大切な御先祖様方が途に迷わぬようにする「迎え火」と言っていた。家に着くと、お仏壇の蝋燭へ私の提灯の火を移す。お仏壇には両華とお膳が一つ、その下の段に餅、菓子、細かく切った茄子や胡瓜が供えられている。皆で合掌する。当時、これらの意味を厳密には分からなかったが、大切な行いであることは理解できた。その後、皆で御飯と御馳走を頂いた。
 お盆は、古代インド語で「ウラン・バーナ」という。漢語の音訳では「盂蘭盆」(うらぼん)という。「逆さの炎、逆さ吊りの苦しみ、よこしまな怒り」と解されている。釈尊の高弟の目蓮は、或る日、亡き母の夢を見た。貧しい母が目蓮に乳を与えるためとはいえ、盗みや非道を重ねた報いで、死後、餓鬼の世界にいた。心が荒廃して凄まじい形相の亡母を見て、愕然とし、懊悩する。目蓮は「亡母を何とかして助けたい」と師に訴える。釈尊は「周りの僧たちに三日間、あらん限りの食物を供せ、そして亡母のために一心に祈れ」と言う。目蓮はこれを実行する。その後、夢の中に、人間の心を取り戻し、他者と睦まじく過ごしている亡母の姿があった。目蓮は救われた。お盆は、この逸話に由来する。日本では七世紀から今に続いている仏教行事である。江戸時代には、僧侶の「お棚経」、民衆には「盆踊り」、「送り火」や「灯篭流し」が広がった。
 善人であるといわれる人も時に悪心を抱き、他者を害することがある。一方で、人は誰もが他者や諸々の支えで生きている。だから他者を敬い、助け合う。先祖がいたから現に此の世に自分が生きている。先祖が安穏であるようにとの願いと自省の積み重ねが、自己の傲慢や他者への恨み怒りを滅し、心を豊かにする。お盆は、私たちに多くの示唆を与えてくれている。しかし、近時、これらの仏教行事や民俗行事が揺らいできている。現代の日本は、大人も子供も、とにかく忙しい。忙し過ぎる。夏休みが来ても「休み」でなくなっている。「死んだ人より生きている人が大事。法要やお盆供養などに何の意味があるのか」などという声を聞くこともある。受け留めておきたい。
 八月十四日の朝、私は、土産に頂いたお米でズシッと重くなった風呂敷包みを背負い、T男はんに見送られ、藤島駅から汽車に乗り、鶴岡の自宅へ帰った。二泊三日のお盆礼の旅はこうして終わった。
(浄土宗藤澤寺 住職)

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