サンプルホーム

寄稿 2018年

掲載インデックス

「ロケット」

2018年9月1日号  鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

寄稿バックナンバー
・2023年寄稿 ・2022年寄稿 ・2021年寄稿 ・2020年寄稿 ・2019年寄稿

2018年9月1日号 「ロケット」
 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

 昨年初夏も、酷暑が続きうんざりしていた頃「日本初の民間宇宙ロケットを発射」というニュースに体がシャキッとなった。胸をときめかせながら待っていたら、濃霧のためとか、機器の不調などで発射が2度も延期されて、7月30日に発射と発表された。日本の宇宙ロケットはこれまで「種子島の宇宙センター」がお定まりであっただけに、民間会社が北海道から発射させるのには少なからず興奮させられた。
 宇宙へのロケットは、できるだけ赤道近くから発射するのが燃料費の節約になる…と何かで読んだことがあるが、何故北海道なのだろう…それは日本のロケットが東北から始まったからではないか。
 昭和30年8月6日は、秋田県由利郡岩城町(現由利本荘市)でロケットの研究を重ねていた東大の糸川英夫教授を中心とするグループが、日本で初のロケット打ち上げに成功した日である。当地からお送りいただいた資料によれば「ロケットは全長が23㌢、直径1・8㌢のマジックペンのような形に尾翼を付けたもので、水平に3分間飛んだ…」とある。
 この実験地が何故秋田なのか、当時『国際地球観測年』で、日本での観測範囲が秋田周辺に指定されていたからであった。このロケットは「ペンシルロケット」と呼ばれ、中学生だった私にも親しみが持てるものであったが、この実験成功が、今後の生活にどのような影響を及ぼすのだろう…などと興味半分で話し合った覚えがある。新聞やラジオを懸命に探ったり、先生に質問したりしたのだが、納得できる答えに出会うことはなかった。
 糸川教授は明治45年に東京で生まれ、昭和10年東大を卒業して中島飛行機へ入社。16年東大へ移りロケットの研究に入るが、戦後は「ポツダム宣言」により、日本は航空機の製造、研究が禁止される。糸川は足をもぎ取られたカニ状態となり、仕方なくチェロ演奏やヴァイオリン製造に情熱を注いだとか。28年シカゴ大の客員教授に招かれ、そこでロケット開発との運命的な出会いがあった。帰国後も研究を進めていたところへ地球観測年の仕事が入る。早速その拠点を探すが、戦後の日本は食料不足からの脱出に向けて、耕地拡大を国策に掲げて、開発整備が進められていた。そんな中で研究所の用地を探すのは一苦労であった。火薬を使うことから人家や工場から離れているのが条件だし、田を埋め立てるなどはもってのほか、峠を越えた山奥ではトンネルが必要となるし、橋を架けねばならないので論外である。当時コンクリートの防波堤はまだ少なく、白砂青松の地が多かったが、港の近くは避けねばならないし、鉄道が通っていてはだめだ。これらの条件をクリアしてやっと由利本荘市の海岸に定まったのである。最初の打ち上げ日には近隣から1000人余の人が詰めかけ、アイスキャンデー屋も数人来た…と記事にある。「シュッ」の音を残し海へ向かって飛んだロケットは23秒後に海水へ入った。一瞬の出来事ではあったが関係者も観衆も大満足した。その後何度も打ち上げ実験が行われたが、その度ロケットが大型化した。研究員にすればこれは成長であろうが、周辺住民にとっては不安の膨張であった。そんな最中の37年5月、88機目の打ち上げ直後、ロケットが爆発炎上し、破片が飛び散り実験場が火の海と化した。近隣の住民に害がなかったのは不幸中の幸いであったが、周辺住民を不安に陥れてしまった。これを機に実験場移転の声が高くなり、取りあえず能代市(秋田)へ移り、翌年完成した鹿児島県内之浦へ移転した。
 当時はロケットに人が乗れるなどとは想像すらできなかった時代ではあったが、自分がロケットの運転席に座る姿を想像しながら成長したのである。
 老人になっても、そんな夢が心の底にくすぶっているのか、『せめて実物のロケットが飛び立つ雄姿だけでも一目見たいものだ…』と、かつてのロケット少年たちが、孫の車に乗って発射場近くに駆けつけた。発射予定が午前から午後4時に延期されたが、不平も漏らさずジーッと待つことができるのだろう。エンジンの振動がかすかに伝わると、もう息が止まりそうになるほど興奮し、自分も機内の人になりきっていた。噴射した機体がやがて視界から消えるが、それでも誰ひとりとして腰を上げず見守り続けていた。
 大気圏と宇宙空間の境となる高度100キロを目指したのだが、機器が損傷したらしくロケットからの送信が途絶え、これ以上飛ばすのは危険と決断してエンジンを停止させた。「狙った軌道にほぼロケットをコントロールできていた。今回は失敗でも長い目で見ればすごく大きな一歩だった…。近く再挑戦したい」と会社創業者の堀江貴文氏は語った。
 今年の6月30日、再び打ち上げに挑戦し残念な結果となったが、糸川教授も秋田で88機を発射し、5回の失敗があったようだ。堀江氏の3度目の正直に期待したい。