人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】 昭和37年鶴岡南高校卒業、41年慶応義塾大学卒業、49年東京教育大学大学院退学、61年明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。現在、鶴岡市史編纂委員。

10月1日号 第108回 寛政改革時の郡代白井矢太夫(一)

 白井矢太夫(重行)といえば、寛政改革の時の郡代として、また藩校致道館設立を説いた賢人として、庄内史ではよく知られた人物である。
 従来、ほとんどふれられていないが、今回はまず矢太夫の先祖について少し述べてみよう。
 『新編庄内人名辞典』では、白井矢太夫の祖である白井与三兵衛(与惣兵衛)のことが載っている。そこでは与三兵衛を白井惣右衛門(重敬)の二男とする。
 白井惣右衛門の家はもともと徳川家の直臣であったが、家康の命で酒井忠次に仕えたのであった(『大泉紀年』下巻)。
 さて『大泉紀年』(上巻)では、寛永十年(一六三三)に召し出されて新知を与えられた者として、
    白井吉兵衛二男
 高百五拾石 白井与惣兵衛
とあり、与三兵衛を白井惣右衛門ではなく、白井吉兵衛の二男とする。父親である吉兵衛こそが惣右衛門の二男であった(『新編庄内人名辞典』)。
 酒井家が元和八年(一六二二)に庄内に入部した当時、白井惣右衛門は組頭であり、家老に次ぐ地位にあった。白井吉兵衛は大山代官であった(『大泉紀年』上巻)。
 白井与三兵衛が知行百五十石を与えられた事情について、寛永十年(一六三三)に、
 公(忠勝)五条野へ御放鷹遊ばされ、御戻之節御馬を駈させられ、御供続き随ふものなかりしに、ひとり白井吉兵衛重敬か二男白井与惣兵衛、奔馬に引続き、御城中迄御供仕候付、即刻新知百五拾石を賜り…
         (同前)
とあり、最上川北岸の五丁野で放鷹が催され、終わると藩主忠勝は奔馬を駈って独り戻ろうとしたが、白井与惣兵衛が続いて城中に戻ったことから、即刻新知百五十石が与えられたとする。
 白井与三兵衛は右のように馬術に秀でていたのであろうが、実は別の面でも注目される人物である。
 例えば、寛文九年(一六六九)四月の「林崎村水帳」(鶴岡市郷土資料館)では、田三筆、苗代一筆、畑七筆、屋敷一筆、合わせて三十九筆、反別では四町一反二畝三歩の土地を所持していたし、他の村にも所持していた可能性があったことである。
 林崎村(鶴岡市)の場合、九畝十歩の屋敷を所持していたので、与三兵衛はおそらく同地に代家を営み、農民などを雇って、住まわせて、手広く田地を手作(自作)していたとみられる。
 庄内藩では、家臣が田地を所持して手作することは結構みられた。藩では禁止しなかった。そこで家臣たちは挙って田地取得に努めた。  白井与三兵衛はそれらの中でも代表的な家臣であったといえそうである。
 さて、忠勝の代に出頭人として小姓頭まで務めた家臣に荻原内匠という人物がいた。同人も新田を含めて広い田地を所持していたようである。
 寛永十六年(一六三九)頃の「達三公御代諸士分限帳」(『□肋編』上巻)に「無役衆」の中に、知行五百石の萩原内匠の名前がある。荻原が正しいとみられる。
 その内匠には男子がなく、内匠が没すると荻原家は断絶するが、一人娘は同家が以前から営んでいた林崎村の代家に住み、その後白井与三兵衛に嫁したという(「大泉雑録」郷土資料館)。両家が同じ村に代家を営んでいたことが縁になったものであろう。
 延宝六年(一六七八)九月の「諸士分限帳」(『□肋編』上巻)では、白井与三兵衛の知行二百五十石で屋敷は新町にあった。いつの頃か百石の加増があったわけである。
 白井久兵衛は矢太夫の祖父であり、おそらく十七世紀末から十八世紀初め頃に当主であったと思われるが、久兵衛からみて与三兵衛は五代前にあたるという(「大泉雑録」)。
 前述のように、庄内藩では、多くの家臣が田地を所持し代家を営んだりして手作(自作)をしていた。ところが、江戸中頃になると、貨幣経済の進展に伴い、家臣の多くが窮乏するのである。
 おそらく白井家でも、与三兵衛が所持していた林崎村などの田地が段々少なくなっていったことと推測される。
 因みに、享保十三年(一七二八)頃、天領大山領の角田二口村(三川町)に白井作右衛門という者が田地を所持していた(「享保十三申より子年御成箇迄五ヶ年定免名寄(帳)」二口文書、郷土資料館)。おそらく庄内藩の家臣であろう。
 この頃になると、手作(自作)ではなく、小作させていたようである。同じ白井姓でも、作右衛門という侍はどうやら白井矢太夫家の人ではなかったとみられる。

8月1日号 第107回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(下)

 山田弥十郎は文政四年(一八二一)二月に三人扶持を増されて、合わせて八人扶持となったので、年に玄米で十四石四斗ほど与えられることになった。
 それにより三カ月ほど前、弥十郎は三年十一月に最上川北岸に位置する五丁野谷地(酒田市西平田地区)を畑として開発し、その収穫などをもって、翌年から七カ年で鶴ヶ岡城内の本丸の館をはじめ、土蔵・門・櫓などすべての建物の屋根を萱屋根や小羽屋根に代えて瓦葺にし、そして八カ年目よりは鶴ヶ岡・亀ヶ崎の各橋二十一カ所を新しく架け直したいと、藩の普請方役所に出願した。
 当時の五丁野谷地は大きく二分され、東方は三十万坪(百町歩)弱、西方は二十万坪余あって広大な原野となっていた。
 それまで五丁野谷地は酒田町で預かってきており、町方の屋根の葺替え用の萱を刈ったりするために使用していた。その場合、請負人も置かれていた。
 それについて、近年は火防の必要上、萱屋根よりも小羽屋根の方が多くなっており、最近、二十年以来は萱の需要が少なくなって、販売しても思うように売れず、谷地の請負人が迷惑している状態であると弥十郎は述べている。
 そこで、これまでの請負金百両ほどに対し、弥十郎は百二十両を差し出すので、永く自分に谷地を預けて畑に開発させてほしいとする。
 五丁野谷地の辺りは民家もなかったため、交通とか治安などに問題があった。対岸の新堀村(酒田市新堀地区)では五丁野の方に渡守小屋一棟を建てたいとしているので、弥十郎としても渡守小屋を置き、近くに民家六、七軒も建て、舟一艘を備えて、風雨の時でも夜中に川を渡ることができるようにしたいし、万一の際には、旅人らを民家に一宿させることもできるとする。
 それらの提案をして、五丁野谷地を是非とも畑に開発したいと嘆願していた。
 それに対し、酒田の各組の大庄屋・町年寄十名が連名で、酒田町奉行所に対し、五丁野谷地が新田畑に開発されては、酒田の町方で萱が不足になって難渋するとして、中止を求めたのである。弥十郎は小羽屋根が多くなっていると述べていたが、小羽屋根は一割ほどしかなく残りは引き続き萱屋根であるとする。
 これまで通り谷地のままに差し置いてもらうと共に、一カ年に金二百五十両ずつ十カ年で二千五百両を提供するので、弥十郎にはそれで城中の諸屋根の瓦葺替えをしてもらい、酒田・本間家にも相談のうえ、その後も応分の負担をしていきたいとしていた(『旧山形県史』巻三)。
 結局、酒田の方の要望を入れて、五丁野谷地は当面開発されず、谷地として差し置かれたと思われる。後に遊摺部村が移転してくる。
 因みに、『荘内史年表』(昭和三十年発行)では、酒田の方の嘆願について、「これに対し酒田のもの、本間の仕入にて畑を拓かんことを請願」と記しているが、酒田の方では基本的に谷地として残すことを要望したものと考えられる。
 翌四年に三人扶持が与えられるのも、右のような弥十郎の藩や両町への「篤志」に対するものであったと思われる。
 実際弥十郎は同六年までに城中の諸屋根をすべて瓦葺にしたという(「鶴岡旧地温故便」鶴岡市郷土資料館)。もっとも、『鶴岡市史』(上巻)では文政十二年に瓦葺が終わったとする。
 それより先、同四年十二月に、弥十郎は老年になり近年多病で一人勤めは困難であると、二十九歳の伜円治との父子勤めを願い出て許可された(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。弥十郎は五十代後半ないし六十代初めぐらいであったろうか。
 山田家はその後また二人扶持が加えられたのであり、天保七年(一八三六)頃には、御用達並の一人として、
 拾人扶持 瓦御屋根方
        山田弥十郎
とあり、十人扶持となっていた。おそらく、山田家ではすでに代替わりがあって、伜円治が当主となっていて、弥十郎と改名していたとみられる。
 庄内藩の九代藩主に就任したばかりの酒井忠発が天保十三年七月に初入部したことから、同年十一月に町方の御用達らに対し、三日町(昭和町)平田太治右衛門家で料理が与えられた。弥十郎の名前もある(工藤a右衛門「諸用控」郷土資料館写本)。
 文久元年(一八六一)と推定される「御用達人別帳」(同館)では、三日町(本町一丁目)浄土宗金浄寺の旦家であったことが知られる。当時、山田家は八人家族であったが、使用人は下女一人であった。すでに富裕な商人の姿ではなかったようである。
 明治以降の山田家については全く不明である。

6月1日号 第106回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(中)

 その後の山田弥十郎家のことを主として、同家の「先祖勤書」から述べてみる。
 藩校致道館の切石御用を数カ年に及んで精勤したが、それが良くできたし、そのうえ寸志として所々の普請のために切石を納めたが、それらもすべて良くできたことから、文化二年(一八〇五)五月に一人扶持(玄米で約一石八斗)が増されて三人扶持となった。
 なお、前年六月の「象潟大地震」で破壊した籾蔵や村々の郷蔵の建て直しも行った。
 右のように切石の御用をはじめ、諸工事に出精したことから、文化三年十二月に「切石御用達」という名称で、藩の御用達商人に連なることになった。そのため、藩主の参勤交代に際しては、赤川の手前松原まで出向くことを命じられたし、年始・五節句の祝儀を表するために役宅まで出向くことも命じられた。役宅とは内川端にあった鶴岡町奉行の役宅のことであろうか。
 引き続き精勤したうえ、切石の寸志提供の件もあって、文化五年十二月にも一人扶持を増されて四人扶持となった。
 文化六年には藩の米蔵七ツ蔵の火防にと、寸志の形ですべて瓦屋根に替えた。
 また、おそらく城内の諸建物のことであろうか、木羽屋根の修覆の請負金として六十二両三歩余が年々藩から与えられたが、途中から三十両余を寸志として差し上げたいと願い出た。許されたことであろう。
 しかも、すべて瓦屋根にすることにして、そのためには莫大な金子が必要となるので、領内のうち川南(田川郡)五組村々から小物成(雑税)の一つとして納入される縄・藁の類を手当分に与えられたのであった。
 文化十年三月までに、御米蔵・籾蔵とも残らず瓦屋根になり、堅固にできたので、冬期でも米の痛みがなくなったという。
 そのほか、郷方の御普請所の請負では、藩の利益になるべく精勤したので、また一人扶持を増され五人扶持となった。
 それらとは別に、郷方の御普請をいずれも堅固に仕上げたので、結果として普請の個所も減少したようであり、そこで文化十一年までは年々金三歩が与えられたし、同十二年に金二歩が与えられたという。
 それより先、文化七年十二月に、藩主の参勤交代の時に、赤川渡河に際し使用する船橋のことと思われるが、それを保管する蔵を建て直したし、また中川通にある橋々を堅固に普請し、やはり結果として普請個所が減少したようであり、称誉として金一歩が与えられた。
 同八年六月から九月上旬まで、川北・飛鳥村(旧平田町)の川水除の大修理に際し、必要の諸品を納入する件で、入札で山田家が落札したが、実際にはその落札値段よりも二割引きにして納入したという。最上川の堤防工事であろう。
 文化十年には大督寺の庫裏の立て直しに際し、経費を減じたので、藩の利益になったとして、郡代所から称誉として山田家に金三両、輩下の大工に三歩が与えられた。かなりの経費減となったためであろう。
 文化十二年十一月に、八代藩主に就任した酒井忠器の「新政」により、藩校致道館が大宝寺の地から城内の三の丸に引き移されたが、屋根瓦代金の見積もりを低く抑えたことから、郡代所から称誉として金三歩を与えられた。
 ところが、同年十二月に山田家は困窮しているとして、郡代所に金子の拝借願いをした。幸いそれまでの務め方が評価されたばかりか、これからも御用に立つ者であるとして、別段の沙汰であると、七ツ御蔵修覆金に金十両ずつ四カ年分、合わせて四十両を増金として与えられたうえ、ほかに金三十両の拝借を許された。同時に、山田弥十郎が生涯を通じて年々上納するとしていた寸志の切石(高三尺・長十五間)の分は以後上納するに及ばずとされた。
 山田家はかなり無理をして御用に励んでいたものであろう。
 以上、主に山田家の「先祖勤書」によって、同家の「御用達」商人としての事績を述べてきたが、右の「先祖勤書」は山田弥十郎本人が文化十三年(一八一六)八月に書き上げ、鶴ヶ岡大庄屋の宇治勘助・河上四郎右衛門両人あてに提出したものであった。
 その時点での弥十郎の肩書きは、
 切石御用達・五人扶持
となっていた。
 文政四年(一八二一)二月に三人扶持を増されて、八人扶持となった。
 有力町人の一人として弥十郎は御目見が許されていたが、同年の城中席順の記載では、
 御用達並 山田弥十郎
となっていた(『鶴岡市史』上巻)。

4月1日号 第105回 致道館建設に関わった一日市町 山田弥十郎(上)

 庄内藩の藩校致道館の普請に関わった一人として一日市町(本町二丁目)に山田弥十郎という商人がいた。
 弥十郎の先代ないし先々代は弥次兵衛と称した。同家はやはり一日市町在住の山田曾兵衛家の分家であるという(『新編庄内人名辞典』)。
 元禄九年(一六九六)「鶴岡城下大絵図」(享保四年写)には弥次兵衛や弥十郎の名前は見当たらないようであり、おそらく十八世紀中頃に分家したところの、比較的新しい商人であったかと推測される。
 今のところ、山田家についての初出の史料は次のような明和六年(一七六九)十月のものである。
一、一日市町弥次兵衛、丑十 月質屋願被仰付候
 (『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)
 質屋開業を願い出て許可されたというのである。同家では質屋をその後も長く営業した。
 天明七年(一七八七)四月に盗品を質物に預かったうえ、質札を持参した女に質物を返したことから、六月になって過料として質物料の銭二貫六百文を納めさせられて、戸〆を命じられることがあった。戸〆は十日間で宥された。十日間営業停止させられたわけである。
 享和二年(一八〇二)八月のこととみられるが、鶴岡の質屋の改めがあり、一日市町に山田弥次兵衛の名前があって、山田家が引き続いて質屋を営んでいたことが知られる(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。因みに、大宝寺を含む鶴岡の質屋は当時五十軒もあり、しかも間もなく一軒増したのである。
 そんなに多くの質屋があって、商売が成り立ったものかと心配になるが、当時鶴岡に住む住民のかなりの部分がその日暮らし程度の生活をしている者たちであり、彼らにとっては質屋が不可欠な存在であったのであろう。
 享和三年四月の時点で、質屋年番が三名いたが、山田弥次兵衛もその一人であった(同前)。その頃になると、山田家は質屋としては古参の方になっていたのであろう。
 さて、藩校致道館の建設は享和三年一月に着手されたが(『鶴岡市史』上巻)、間もない同年三月に、山田屋弥次兵衛が藩校普請用の石材の寸志願いを学校役所あてに行った。
 すでに前年頃から弥次兵衛は普請用の切石の細工を命じられており、そのような御用を務めることは「末々拙者名も相残」るので、誠に冥加至極で有難いとして、やはり切石であろうが、冥加として一カ年に幅一尺、厚さ七、八寸ぐらいのものを三ツ重ねにして、高さ三尺・長さ十五間の分を宮沢山石で、生涯中年々寸志として差し上げたいと申し出たのである。なお、宮沢山・金沢山は石材の採石のため藩から山田家が預かっていたのである。
 もちろん藩からは許可された。
 そして、同年四月に称誉として生涯二人扶持(年に玄米三石六斗ほど)が与えられることになった。合わせて切石御用世話役を命じられた(同前)。
 ところが、文化十三年(一八一六)八月に伜弥十郎が書き上げた山田家の勤書が残されているが(「勤功録」鶴岡市郷土資料館)、それでは致道館の普請が享和元年(一八〇一)からのこととし、実際よりも二年早いことと記しており、しかもすでに弥十郎の代のこととする。しかし他の史料などから、やはり弥次兵衛の代のこととするのが正しいと思われる。
 それはともかく、右の勤書によれば、致道館の切石の件は初め櫛引通の石切りたちに命じられたが、山田家が半分の料金で石積みを行いたいと申し出たところ、藩にとっても大いに利益になるとして、山田家に命じられたという。
 切石の普請が完成すると、殊の外良くできたと称誉されたので、山田家は冥加として城内の堀の土留めのための切石として高さ三尺・長さ十五間の分を生涯、年々寸志として提供したいと願ったともいう。もちろん許可されたことであろう。
 因みに、享和二年秋に弥次兵衛が川北・遊佐郷に来て、今度鶴ヶ岡城の普請を命じられたので、同地の石切りたちに石垣の石の切り出しをするように言い、もし石切り出しができないのであれば、代銭四貫五百文ずつを差し上げるようにと指示したのである。それを聞いた一部の石切りが代銭を出すのは困窮の自分たちには大いに迷惑であるとして、石を切り出すことにしたとする(『遊佐町史資料』第十五号)。
 どのような事情があって、右のような指示がされたのか不明であるが、そのようにして石切りを確保することにより、かなり低い料金で石切りの普請を行うことができたものかと推測される。

2月1日号 第104回 富裕な納方手代の万年庄吉家(下)

 文化元年(一八〇四)六月に象潟地震が起こったりして、川北(飽海郡)は不作となったが、万年庄吉らは年貢取り立てに精勤し、正米で皆済させたとする。
 同四年分の年貢米を翌五年に大坂に廻米したところ、米拵えなどが良く、加賀藩の加州米よりも高い値段となったので、家老たちに誉められた。納方手代一同のことであろうか。
 同五年、初めて藩主となって国入りをした酒井忠器が翌年四月に川北を廻ったが、その際にも精勤したという。人馬などの調達などを担当したものか。
 同十二年四月、難渋の著しかった櫛引通で村々の立て直しの仕法を行うことになって、万年庄吉も右の担当を命じられたので、しばらく櫛引代官所手附・組外並となって櫛引通の勤めとなった。それに伴い、櫛引役所から手当米五俵と金二歩ずつが与えられた。そして、右の仕法替えが十四年四月に終了したので、元の平田組に戻った。
 同年五月、庄吉に実子がなかったので、同じ平田郷の納方手代鈴木源太夫の従弟米次郎を養子にすることになった。米次郎は六月から見習い勤めとなった。
 文政二年(一八一九)六月に庄吉が病死したので、米次郎が跡を相続し内役となった。三年後の五年五月に納方代となって、十月に正式の納方手代となった。翌六年十二月に庄吉と改名した。
 文政六年十二月に平田役所の「差引掛リ」を命じられた。納方手代の取りまとめの役であったと思われる。二人勤めであった。役所米から年
々米二俵を与えられることになった。
 同七年十二月に会所に於いて農政のトップである郡代に面謁した。名誉なことであった。
 同九年九月に藩主忠器が酒田に行き、本間家の饗応を受けたりしたが、庄吉らは人馬割を行い、また五丁野に詰めて諸事を取り計らった。  それより先、平田郷浜畑地について、文政五年に再検地取調掛を命じられたので、同七年まで再検地などを実施し、年貢米が三十九俵余増加したという。
 役所の「差引掛」はそれまで二人で務めてきたが、文政十一年から相役の者が病気になって、その後しばらく一人勤め同様となった。天保二年(一八三一)十二月まで一人勤め同様だったので、格別骨折って勤務したとして、勤役中は米四俵が与えられることになった。
 天保四年六月の大洪水に際し、酒田の新井田蔵に詰めていたので、水防のためいろいろ苦心したとする。
 同年は大凶作で、いわゆる「巳年の飢饉」となったので、翌五年春に平田郷村々の難渋者に対し、庄吉自身が米十俵を施行したとして、家老たちの御誉めの言葉があり、また鶴岡三日町平田太郎右衛門宅で料理を与えられた。
 万年庄吉は天保九年正月に「留飲之症」を煩って、四月に病死した。「留飲之症」とは食道がんのような病気であろうか。
 庄吉の跡を継いだ庄太郎は、庄吉と改名するが、内役を経て、天保十二年八月に納方手代になった。
 ところで、天保年間には、納方手代たちが催す無尽に関する史料が三点残されている。天保飢饉のことが影響していたものか。
 まず、中断していた「仲間無尽」が天保五年十二月に再出発した。初め仲間十八名であり、その後二十名となった(「仲間無尽帳」郷土資料館万年家文書)。同九年十二月には「刀剱無尽」が始まった。人数二十四名で、年一回で掛金が一人前二歩であった(「刀剱無尽帳」)同文書)、同十四年十二月には「金壱両掛印旛無尽」が始まった。同年六月に庄内藩が下総国印幡沼の普請手伝いを命じられたので(九月に工事中止)、それに因んだ無尽だったのであろう。人数二十一名で年一回掛金一両であった。
 いずれの無尽も、納方手代八十数名の四分の一程度の人数であり、比較的裕福な者が加入したのであろう。万年家はいずれの場合も二人前の加入であった。
 天保十一年十一月に酒井家に突如命じられた越後・長岡転封令に際して、万年庄吉は農民たち説得のためか、度々出郷すると共に、諸調査のため昼夜精勤したという(万年家「勤書」)。移転に必要な帳簿類を整理したものか。
 慶応四年(一八六八)の戊辰戦争では「数度元方」を務めたとする。物資の調達の仕事であろうか。
 明治四年(一八七一)十一月に第二次酒田県が発足するが、翌五年七月の時点で万年庄吉は「租税御雇」として奉職していた(『荘内史要覧』)。同八年二月には第一大区七小区の計算掛となった。七小区は大宝寺村などが属した。
 その頃も万年家は、中野新田村(朝日地域)などにかなりの田地を所有し、小作米を取り立てていた。

12月1日号 第103回 富裕な納方手代の万年庄吉家(中)/h2>

 小南(万年)庄吉は富裕な家の出身だったものか、あるいは納方手代の仕事には余禄のある場合が多く、それを少しずつ蓄えてのことか、かなり早くから屋敷や田畑を購入したのである。  同家に残されている土地の買い入れ証文の中では、明和三年(一七六六)十月に島村分天神町の屋敷十六歩余を、代金三両で永代に買い入れたものがもっとも早いのであるが、買い取り主が所左衛門とあるので、少々疑問も残る。庄吉と所左衛門の関係が不明なのである。
 いずれにせよ、庄吉が住んでいたと思われる天神町に所在する屋敷のことであり、小南(万年)家の家屋敷の一部となったのであろう。
 なお、天神町は農村である島村の一部が町場化したのである。足軽など下級家臣などが多く住んだようである。
 天神町にあった小南(万年)家の家屋敷は、藩から提供されたものではなく、同家が買い取ったりした所持地であったとみられる。
 次いで、安永五年(一七七六)十一月に、嘉左衛門という者から、島村分の田地二十八歩余を金十両で買い入れた分であるが、実際には田地としてではなく、家屋敷として使用していた土地であった。
 安永七年四月にいせや八右衛門という町人から金四両二歩で田地二畝歩を買い入れたが、これも「島村分屋敷売渡申証文事」とあるので、屋敷として使用されていたのである。
 やや後年になるが、寛政六年(一七九四)二月には、鶴岡三日町の米商人林駒之助から島村分屋敷一畝歩弱を地引金七両で買い入れていた。
 それらはいずれも、小南(万年)家の家屋敷となったものであろう。そこに立派な邸宅を建てて住居していたのである。
 因みに、納方手代という身分にもかかわらず、大変立派な家であったため、寛政四年在国中だった藩主酒井忠徳の不興を買い、上司から説諭されて、家屋敷の一部を取り壊したりしたわけであるが、その直後に屋敷を拡げていて、ほとんどこたえていなかったといえよう。
 家屋敷ばかりでなく、安永十年(天明元年、一七八一)四月には、中野新田村(朝日地域)で、田畑合わせて一町九反一畝五歩(高十五石六斗七升四合一勺)を、一度に地引金百三十両で三年季で買い取っていた。
 この分は九人ほどの農民に小作させたのであり、取り立てられる小作米は九十五俵七升に及んでいた。
 右の田地を小南(万年)家は長く保有したのである。つまり、質入れ主三カ年で受け戻すことができず、質流れとなって、長く同家の所持地となったのであった。
 さて、明和二年(一七六五)に遊佐郷納方手代に召し抱えられた小南(万年)庄吉であったが、同六年に庄内・由利天領が庄内藩の預地となったので、同年五月に預地の納方手代に移った。翌七年春に、天領村々の江戸・大坂廻米などの業務を監督するために、酒田湊にある御米置き場(瑞賢倉)に出役した。おそらく出役が三月頃から数カ月に及んだものと推測される。
 安永元年(一七七二)四月になって、預地担当から櫛引通の納方手代に移った。ところが同年七月に江戸藩邸が類焼したことから、小南(万年)家は寸志米百俵を献じたのであり、翌二年正月に藩の会所で郡代に会い、寸志米の件が藩主や家老の耳にも入り、喜んでくれている旨が伝えられた。名誉なことと思ったことであろう。
 次に、安永五年八月に平田郷の納方手代に移り、代官所付となった。納方手代の仕事をまとめるような役目となったのであろう。なお、その年前回記したように、苗字を小南から万年に改めたのであった。
 寛政元年(一七八九)十月、庄吉が二十数年にも及んで納方手代を勤めてきたことに対する報奨として、忰林七が平田郷の内役に召し出された。数年すれば一人前の納方手代になるはずである。林七はどうやら別家したようであり、納方手代の万年家は二軒になったのである。
 庄吉の二男庄五郎も同三年八月に納方手代の見習いとなった。そして、庄吉が病身になったとして、翌四年六月に休役となり、代わって庄五郎が相続して、やはり内役となった。
 寛政九年七月に、藩の寛政改革の一環として、納方手代の待遇が改められ、「給人並」となったし、高六石二人扶持と他に手当米二十五俵が与えられることになった。庄五郎はすでに同七年四月に納方手代になっていたので、同様の待遇となったのである。享和元年(一八〇一)、村々の水帳改の御用を努めた。

10月1日号 第102回  富裕な納方手代の万年庄吉家(上)

 庄内藩の下級家臣の中には、かなり多額の米金を藩に献じたり、貸金を行ったり、田地を所持して小作させたり、といったようなことを行っている富裕な家もあった。
 今回紹介する納方手代の万年庄吉家もそのような富裕な下級家臣の一家であった。
 納方手代とは、代官配下の下級役人である代官手代のことである。主として、年貢米の収納に関する一切の業務に携わったのであった。代官手代は、召し出されると、まず内役となって、代官のもとで雑務などを行いつつ、手代としての仕事を覚え、数年経って仕事に慣れてくると一人前の納方手代となるものであった。
 ところで、初めに納方手代を下級家臣と記したのであるが、実のところ納方手代は長い間正式の下級家臣として扱われてこなかったのであり、家臣の中でも極めて身分の軽い役人として扱われてきた。
 例えば、下級家臣の序列を記した「役順」書が数点残されている。そのうち天和二年(一六八二)の分や十八世紀後半の分とみられる「役順」書には、代官手代とか納方手代とかの記載はない。足軽はもとより中間(ちゅうげん)などよりも下で、通常の家臣とはみなされていなかったのである。
 第七代藩主酒井忠徳の天明八年(一七八八)十一月の申し渡しの中でも、納方手代について、
 軽き者なれハ心得違ひ必有る事と存候
  (「酒井家世紀」巻之九)と言われていた。
 納方手代は右のように身分は低かったものの、下級家臣としては収入が多かったのである。そこで、藩では寛政改革の一環として、郷村支配機構の整備のためとして「代官手代を給人身分に引き上げ身分を安定」(『鶴岡市史』上巻)させたが、同時に納方手代の給米等の削減をはかったのである。
 長い年月を経て、寛政改革によって、納方手代は寛政九年(一七九七)に正式の下級家臣の待遇となったのである。
 右のように身分は低かったものの、納方手代の中には富裕な家があったのである。万年家はその代表的な家といえよう。
 万年家に関して、江戸時代から割合知られている出来事として次のようなことがあった。
 寛政四年に在国中であった藩主忠徳が鷹狩りに出かけた帰り道、天神町(神明町)のところを通ったが、納方手代万年庄吉の家の前でしばらく立ち止まり、その家屋敷が身分にそぐわず立派であるのを眺めていたようだという。
 その後の藩主の態度をいぶかしく思った家老が人をやって確認させたのである。そして、身分不相応な立派な邸宅であるとして、支配頭を通じて万年庄吉を説諭し、目立つところを取り払わせたという。その頃、庄吉は平田代官所勤務だったとみられるので、支配頭は平田代官ということになる。
 右の件について早速狂歌もつくられた。
 万年も続く
  家をはこは(壊)されて
     身の納方何と庄造
  (「酒井家世紀」巻之十)
 藩主忠徳からの特別な咎めはなかったという。不正な蓄財によるものではないわけで、咎めることができなかったのであろう。
 さて、手代といっても、納方手代だけでなく、庄内藩には種々の手代がいた。藩政初期には大肝煎(大庄屋)配下の手代もいた。
 代官手代(納方手代)と大肝煎手代は役目が重なる点が多かったと思われる。そこで、庄内藩の享保改革の一環として、享保六年(一七二一)に大肝煎手代が廃止となり、代官手代に一本化された。
 それに伴い、代官手代が増員されたことと関連があろうが、その頃から町人や農民より納方手代に採用される者がみられるようになった。
 万年庄吉家は、それらより遅れて、初代庄吉が明和二年(一七六五)五月に採用され、遊佐郷の納方手代となり、高六石・二人扶持を与えられたという(天保九年閏四月「覚(先祖勤書)」鶴岡市郷土資料館万年家文書)。二人扶持は一年に三石六斗ほどなので、六石と合わせて、年収が九石六斗ほどである。当時、藩が上米などを実施していたので、それをそのまま受け取れなかったはずである。
 なお、その頃納方手代の給米は藩の正規の物成米から支給されたのではなく、口米、四合物など、いわば雑税の内から与えられていたようである。
 初め、万年姓ではなく、小南姓であったが、安永五年(一七七六)に願い出て万年姓に改めたのであった。
 「先祖勤書」には、万年家の出身は記されていない。

8月1日号 第101回    寛政改革を行った七代藩主酒井忠徳(下)

 七代藩主酒井忠徳は文化二年(一八〇五)二月に大宝寺に藩校致道館を完成させた。
 その年九月に隠居した。一応やるべきことやったという思いだったのであろう。まだ五十一歳であった。左衛門尉を改め、左兵衛佐と称した。
 八代藩主には忠徳の二男忠器(ただかた)が就任した。新しい当主となって左衛門尉を称する。
 忠器の代になっても、寛政改革を中心となって遂行した竹内八郎右衛門・白井矢太夫は引き続き健在であった。八郎右衛門は文化二年四月に、中老から家老に昇進した。
 矢太夫は文化三年に小姓頭に進み、さらに同五年一月に中老に昇進するとともに、加増を重ねて同七年には知行八百石となった(『新編庄内人名辞典』)。しかも竹内・白井の一門与党は藩の要職を占めて、隆盛を極めていた。
 そんな中、思わざる事件が起きた。
 文化六年六月に、江戸詰の元締役の坂尾儀太夫が、藩の書類を持って江戸より庄内に下る途中、福島から上ノ山へ抜ける街道の仙台藩領関駅(宮城県七ヶ宿町)において、宿屋最上屋の主人を無礼討ちにするという事件を起こした。帰国した儀太夫から事情を聴取した白井矢太夫らは、仙台藩へその調書を添えて書状を送った。まずは穏便な措置がとられるものと期待してのことであったが、仙台藩との交渉は難航した。
 仙台藩では事件を幕府に届け出ることも辞さないという態度を示したので、庄内藩側は大いに困り、結局坂尾儀太夫が当時精神錯乱していたとして、知行(百五十石)を取り上げ永蟄居を命じたことで、ようやく仙台藩の了解を得ることができたのである(『鶴岡市史』上巻)。
 翌文化七年九月に、藩主酒井忠器が参勤交代で、江戸より庄内に下る際に、関駅で何か不快なことがあったようであり、翌八年五月の出府に際して、従来の参勤のコースを一部変更し、上ノ山から福島へのコースをとらず、上ノ山から米沢を通り板谷峠を越えて福島に出るコースをとることにした。
 どのような事情があれ、参勤交代の通路を勝手に変更することはできず、前もって幕府に届け出て許可を得る必要があった。
 もちろん、幕府の許可を得るために飛脚を派遣したのに、許可の報告が予定通りに届かず、そのため発駕予定の十八日を一旦延期したが、参勤の期日も迫ったため、やむなく竹内家老の決断によって、二十一日に幕府の許可なしに出発した。
 忠器の一行は六月六日に無事江戸に到着した。
 ところが、幕府の許可なしに参勤コースを変更したことで幕府の不興を買ったらしく、そのため同月十六日、忠器は従行した竹内家老の嫡男竹内修理・二男竹内門弥を籠居させるべく庄内に下らせたし、さらに江戸家老の加藤衛夫を国元に遣し、君命を伝えさせた。
 君命とは、家老竹内八郎右衛門・中老白井矢太夫に対し、御役を免じ隠居を命じたものである。白井家は同時に知行八百石が半減されて、四百石とされた。
 竹内・白井の一門一統で御役御免となったものは数十人に及んだという。
 寛政七年(一七九五)以来十六年にも及んで、藩政を担当してきた竹内派は失脚し、政権は再び水野派に移った。水野東十郎(重栄)が中老に就任し、藩政の中心となる。
 白井矢太夫はすでに文化七年冬に病に倒れていた。中風により半身不随になっていたが、翌九年六月に失意の中に病死した。六十歳であった。
 前藩主の酒井忠徳も中風となり、同年九月に江戸で没した。五十八歳であった。遺骸は鶴岡に運ばれ、大督寺で盛大に葬儀が行われた。
 さて、蟄居を命じられた坂尾儀太夫(宋吾)は文政元年(一八一八)に許された。蟄居中から庄内の古記録に関心を抱き、それを記録し整理して「大泉叢誌」を編集したのであり、その作業は子の坂尾万年、孫の坂尾清風に受け継がれ、全部で百三十九巻に及ぶ大著述となった(『新編庄内人名辞典』)。庄内の群書類聚と称すべきものである。
 ところで、藩校致道館では、放免派と恭敬派という二つの学派が存在して対立した。放免派は、荻生徂徠の学風や言行を強く信奉し、瑣事に拘泥しないことを信条とした。恭敬派は、徂徠の高弟太宰春台の学風や性格を受けて、謹厳な生活態度を重んじた。
 二派の対立は政治の派閥抗争と結びついた。恭敬派と結んだ水野政権によって、十年ほど前に建設されたばかりの藩校致道館が、政教一致の方針のもと、城内の十日町口に移された。移転工事は酒田・本間光道の奉仕によった(『鶴岡市史』上巻)。

6月1日号 第100回  寛政改革を行った七代藩主酒井忠徳(中の三)

 酒井忠徳の業績の一つとして数えられるのは、藩校致道館の創設である。
 当時、庄内藩でも藩士の士風の退廃が著しく、華美な風潮が拡がり、武士に似合わない高級な衣類を着し、派手な造りの大小を差し、茶屋や遊郭に遊び、芝居を好むのが普通となり、中には博奕をする者もあり、軽佻浮薄の風がみなぎっていた。
 そのため藩士の家計は不如意となり、役人は富裕な者と結び不法を行い、私腹を肥やすことも珍しくなかった。
 他方、粗暴で無法な風潮も強くなり、町人・百姓・漁師などと喧嘩をしたり、中には徒党を組み、気に合わない者があれば、家の門扉を打ち壊し、汚物などを屋内に投げ入れることもあって、士風の頽廃が著しかったという(『鶴岡市史』上巻)。
 忠徳はそのような風潮を憂えた。とはいえ、厳しく取り締まっても一時は収まっても、いつしかまた元に戻ってしまう。そこで、厳しい処分を科すことも考えられるが、家臣たちは自分一代で取り立てたのではなく、何代も前に召し抱えられて、それぞれ数代に及んで奉公してきたわけである。当人が若気の至りで起こした咎により、譜代の家を潰してしまうことは忍びないと思われた。
 そこで、どうしたらいいのかを家臣の白井矢太夫に相談したのであった。
 矢太夫は寛政三年(一九七一)に物頭から大目付に就任している(「諸役前録」上、郷土資料館)。それ以前から忠徳に儒学を講義したりしていたので、相談したのはその頃の話であろうか。
 それに対し、矢太夫は大体次のように答えた。
 家臣たちの不行状は平和が永く続いたことで、武士の心も柔弱になり、恥を恥と思わなくなったことによるから、簡単には行直りがたいことである。厳重に取り締まっても効果は一時のことであり、かえって罪人のみが多くなってしまう。
 もし風儀を改めるのであれば、少し遠回りのようであるが、学校で教育を行う以外に解決策はない。教育を行っていけば、数十年もすれば、恥を知るようになる。そして、藩の役人は学校出身者から選ぶようにすれば、風儀も自然に改まるはずであるというのである(白井重固「野中の清水」郷土資料館)。
 つまり、学校を創設し、藩士や子弟に教育を行うことしか根本的な解決策はないと答えたのである。
 右のような経過を踏まえて、庄内藩では寛政改革の一環として藩校が創設されることになった。
 藩校建設に当たり、岡山藩の閑谷学校や岡山城下学舎の絵図面を参考にして造営に着手したといわれる(荘内文化財保存会『史跡庄内藩校致道館』)。
 そして、寛政十二年(一八〇〇)八月に、建設地として大宝寺村のうち下山王社(日枝神社)の東側の地が選ばれた。
 そこで、下山王社の東隣に広い屋敷を所持していた羽黒修験の宝憧院は移転させられた。
 建設は享和三年(一八〇三)から始まり、文化二年(一八〇五)二月に完成した(致道館)。
 藩校致道館は藩士の子弟の教育を目的とし、句読所から始まり、終日詰、外舎、試舎生、舎生までの五段階に分かれていて、進級に際しては厳重な試験が行われた。
 卒業生は能力に応じて、藩の役人に登用され、実際の藩政に携わることになった。
 因みに、『新編庄内人名辞典』では、鶴岡下肴町(本町一丁目)の富商だった葛岡庄右衛門が選ばれて致道館に入り儒学を修めたと記しているが、この記述は疑問であり、庶民に致道館での修学が本当に許されていたのであろうか。
 致道館の教育は個性と自主性を尊重したといわれる。「野中の清水」などからは、徂徠学の創始者荻生徂徠に倣い、白井矢太夫が自由豁達な気風を重んじており、確かに創設当時の致道館の教育は個性や自主性を重んじていたのであろう。
 しかし、その後藩に政変が起こり、白井矢太夫らの勢力が藩政や致道館から排除されていった。
 代わって、荻生徂徠の高弟太宰春台の謹厳な生活態度を重んずる学風を信奉する犬塚男内らのいわゆる恭敬派が致道館教育の中心に据わるのであり、まず規律を大事にしたとみられ、当然個性や自主性を尊重する教育は、否定されないまでも、後退したはずである。
 致道館教育が一貫して個性や自主性を尊重していたという見解は再検討する必要があろう。

4月1日号 第99回  寛政改革を行った七代藩主酒井忠徳(中の二)

 庄内藩の寛政改革は寛政七年(一七九五)五月頃から始まった。
 改革に先立って、同年春に山浜通の代官和田伴兵衛が同通村々の不納米三千二百七十六俵を、藩の許可を受けず独断で切り捨てとした。農民の困窮がひどかったからである。藩の主脳たちに大きな衝撃を与えた(『温海町史』上巻)。
 この事件が契機となって、急ぎ郷村改革が実施されることになったと思われる。
 同五月には、改革の御用掛に、中老竹内八郎右衛門、同酒井吉之助、郡代白井矢太夫などが順次任命された。
 そして、藩主酒井忠徳から竹内・酒井両中老に郷方改革についての直書が渡された(『贈従三位酒井忠徳公』)。いよいよ改革の開始ということになる。
 同年十月に、郷方改革に当たり旧不納米や拝借米など、多額の米金が下され切にされた。切捨てになり、返済や上納の必要がないことになったのである。
 切捨てられたのは、藩庫よりの貸付の分が米八万三千俵余・金一万三千八百両余をはじめ、代官役所の脇才覚により貸し付けた分が米三十万八千七十九俵余・金七千四百三十五両にのぼった(『鶴岡市史』上巻)。
 なお、村々では、外に大庄屋・肝煎らの内才覚による多大な借米金が残っていたが、今回それらは切捨ての対象とはならなかった。それでも、農民は拝借の分が減少し、暮らし向きがかなり改善されることになった。
 ところで、同じ七年のこと、荒町(山王町)小野田吉右衛門が藩に以前融通していた分、金一万八千九百二十七両と米二万三千六百九十一俵が指上げ切となった(竹内家「日記」鶴岡市郷土資料館)ように、藩では豪商・豪農から借用している米金を基本的に指上げ切にさせる方針をとったようである。藩が借用している米金を改革に協力させるとして、返済しないでよいことにしたものである。
 その結果、藩の抱える借財の多くが消滅したことで、藩の財政が好転することになった。
 従来から藩による村々に対する拝借米金の切捨ての件は述べられてきたが、豪商・豪農の藩への貸付米金の切捨てのことはほとんど指摘されることがなかったといえる。
 なお、同年十一月に、押切組三本木村(三川町)阿部彦右衛門は中川通困窮者の救済のために寸志金三百両を差し出した(『新編庄内史年表』)。
 さて、寛政八年一月に村々に入作田地・潰跡田地の扱いについて申し渡しがされた。これは農村の本格的立て直しに関する施策である。
 寛政改革以前、庄内では持ち主のいない田畑がかなり存在していて、それらは村上地として村方の管理となっていたが、今回改めて持ち主を定めて耕作させようというのであり、主付と称した。
 主付されて、新しく田畑の持ち主となった農民に長期に及んで所持し耕作してもらうには、助成策を講じる必要があった。主付される田畑はもともと条件の良い土地でないので、そのままでは長く田畑を所持し耕作し続けることは無理であった。そのため助成米の支給などが不可欠であった。
 そこで、村々に田畑を所持している豪商・豪農に、年貢の外に困窮与内米という名目で新たに追加税を課し、その分を助成米に向けるというのである。それを、主付された農民に一定期間支給するのである。
 それらの施策によって、持ち主がおらず村上地となっていた分の解消を目指したのである。村上地の存在は村方の一層の困窮を招くものであったからである。
 寛政十二年十月に、川北(飽海郡)大庄屋九人が過分の村上地の主付を実施し、そして正米年貢皆済に出精したとして、御紋付の上下が与えられた(『新編庄内史年表』)。
 また同十一月に西郷組林崎村(鶴岡市)では村民たちからの主付請書が代官所に提出された(『山形県史近世史料』2)。田川村(鶴岡市)でも、同年に不納米・借米の片付けや村上地の主付など、村方の立て直しに取り組むことになった(『田川の歴史』。)
 それから、寛政十二年(一八〇〇)頃までに、かなりの村々で主付が実施されたことが知られる。持ち主のいない田畑の多くが姿を消したことになる。
 もっとも、主付は村ごとに行われたのであり、村方の事情も様々であったことから、例えば京田組青山村(三川町)では文化四年(一八〇七)に実施されたように(本間『庄内近世史の研究』第一巻)、主付の実施がかなり遅れた村もあったのである。