私が暮らす街

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5月15日号寄稿 多機能型発達支援事業所潟<Oシィ 代表取締役 水原 元さん

第218回  『このまちに笑顔を広げる』

 広報『つるおか』5月号の特集は「このまちに笑顔を広げる」でした。地域に寄り添う民生委員、児童委員の皆様のご活躍を興味深く拝読させていただきました。
 特集内で民生委員の方は「お互いに笑顔で話せる関係にならなければ、この仕事は務まりません。そういう関係になって初めて心が通じ合うんです」と提唱していらっしゃいました。
 「このまちに笑顔を広げる」という活動は、民生委員の方々だけの仕事ではありません。地域で働くすべての人々が考えていかなくてはならない課題です。
 わたしたちの施設には、発達に凸凹のある100名以上のお子さんが通ってくださっています。ダウン症のお子さんたちも笑顔あふれる日々を送っています。酒田市から来てくれるSくんは、車から降りると真っ先に駆け寄って抱きしめてくれます。同じく酒田市のOさんは少しぎこちない歩き方ですが、わたしの手を握って楽しそうに教室へ入っていきます。Aくんは毎日お別れの時、投げキッスをしてくれます。
 わたしは彼らから「待たないこと」を教えられました。保育園年中のHくんの例をご紹介いたします。Hくんは極めて多動な特性を持った子です。ご心配されているおばあ様には「今のHくんの多動はやり残した宿題のようなものです。落ち着きなく床の上を暴れ回る時が過ぎると、次第にブランコに乗れる時期が来ます。そうしたらぐっと落ち着いてきます。それとともに言葉も増えますよ」とお伝えすると、安心してくださいました。Hくんのお兄さんも保育園の頃、Hくんの上をいく多動なお子さんでしたが、わたしたちの所に元気に通ってくれて、今では立派に小学校に通っています。
 わたしたちの仕事は、ほかの子と同じように作業ができなかったり、話す言葉の出ない子に付き添うなど、幼稚園や保育園で行っている加配の先生の役割に例えられます。
 今、鶴岡市の保育園の先生方は、感覚統合理論を2年間研修し、自閉症スペクトラムを持つ子どもたちの衝動性や感覚の過敏、鈍麻を軽減するための訓練をしてくれるようになりました。相談支援事業所の呼びかけでHくんの保育園の加配の先生とも和やかに話し合いができ、支援計画が固まりました。
 しかし、Hくんのおばあ様は「看護師さんが怖い」とおっしゃるのです。おばあ様の母親、つまりHくんのひいおばあ様のお見舞いにHくんを連れて行った時にその事件は起こりました。多動のHくんはおばあ様の手を振りほどき、病院の床をゴロゴロ這い出したのです。すると看護師さんから「廊下を這わせないでください!菌がうようよしていますから!!」と怒鳴られ、それ以来、一度もHくんを病院に連れて行ったことはないそうです。
 一方で発見もあったといいます。それは「看護師さんはマスクをしていることが多いけれど、目が笑っている人は安心できる」ということだそうです。
 この話を聞いた時、わたしも全く同感でした。ここ数年、何度か飛行機を利用する機会があったのですが、キャビンアテンダントの方の目を見た時、笑顔が素敵だなと感じました。キャビンアテンダントの方から、口元をかくした目だけでも笑顔を感じさせる訓練を行っていると伺いました。わたしたちもこうした何気ない所作で、人を幸せにする気遣いをぜひ見習いたいと感銘を受けました。
 わたくし事ですが、父と母が相次いで入院し、たくさんの看護師さんに巡り合いました。Hくんのおばあ様のおっしゃる通り、マスクで目しか見えないのですが、出会った看護師さんの目は優しく、言葉も大変丁寧でした。
 これから、わたしたちがHくんのために取り組んでいきたいことは「皮膚の感覚を目覚めさせること」と「友達意識が芽生えるまで、ほかの子と遊べる運動技能を身につける」ことです。それを小学校入学までにできれば、入学後に遊びの中で社会性を伸ばしていけます。
 発達に凸凹を持った子たちの思春期は遅れてやってきます。それまでお母さんとの愛着を形成し、生きるエネルギーを充電できれば社会に出ていけます。そのために、わたしたちは笑顔を創造する支援を行ってまいります。
 皆川治市長は広報コラム『一筆入魂』で「『サービスを提供してあげている』という上から目線の行政に陥っては市民の信頼、協力は得られない。(中略)要領よく仕事ができることよりももっと大事なことがある。公平・公正に、誠実に対応すること」と記されています。
 子どもの笑顔は、お母さん・お父さんの笑顔にもつながります。誠実さの中から、生き生きとした笑顔が生まれると信じ、わたしたちも児童発達支援を通し鶴岡市が笑顔の光るまちになるよう貢献したいと思います。
 俳句の季語「山笑う」がぴったりの季節となりました。皆様の良き出会いをお祈り申し上げます。

4月15日号寄稿 佐藤 伸浩さん(鶴岡通訳案内士の会)

第217回  『鶴岡通訳案内士の会CHATCHAT』ご案内

 いま、旅行の情報はたくさん入ってきます。テレビで、インターネットで。そして、どの場所にもちょっと飛行機に乗って数時間あまりを過ごせば、あっという間にそこへ到達してしまいます。おいしいものを食べて、お買い物に行って、あの博物館に入って、と夢はどんどんと広がります。ところが、いざ空港に到着すると、そこから目的の場所へどうやって向かうのか、切符はどうやって買うのか、なんとか予約したホテルにはどうやって行くのか。いろいろな問題がめじろ押しです。
 へたにそのまま行動してしまうと…、 予想しなかった場面を見てしまうことが起こるかもしれません。もしかするといつまでたっても空港を離れられないままになってしまうかもしれませんし、それではわざわざ日本へやって来た意味はありません。そんなところから、助けてくれるのが旅行ガイドでしょう。ガイドは旅行者の希望に応じて現れ、行く先を案内してくれます。
 日本を訪れる外国人の案内する旅行ガイド資格が「全国通訳案内士」という国家資格です。世界中の旅行者に英語を中心とした言語で旅行者の需要に応じたガイドをするもので、いわゆる有償ガイドと考えていいと思います。海外に出かけた時、添乗員さんではない人が旅行グループの案内をやっている場面を想像される方も多いと思います。全国通訳案内士はそういった案内をする仕事を請け負います。
 私たちは、CHATCHAT(チャットチャット)というグループで活動を始めましたが、全員が全国通訳案内士です。数年前に資格を取った者、まだ合格したばかりの者までさまざまです。試験は外国語、日本地理、日本歴史、一般常識(産業、経済、政治、文化)で構成され、具体的な内容で勝負されます。これを一次試験として、合格した者が外国語の口頭試問の二次試験に臨みます。そして最終的に合格した者が全国通訳案内士として活動が開始できます。ちなみにCHATCHATでは全員が英語に対応でき、ほかにスペイン語で仕事のできる者もおります。
 現状、全国通訳案内士には圧倒的に都会の仕事が多くなっているのが実情です。なかなか庄内地方で活躍の機会があるとは言えません。しかし、鶴岡市がUNESCOの食文化創造都市として選ばれて以来、食文化を研究する団体が継続的に来訪し、私たちもお助けするなど、これからも地元の通訳案内士が活躍できる機会が増えていきそうです。継続してイタリアから庄内の食文化について知識を深めに通ってくださる学校のみなさんのご案内をCHATCHATメンバーで行ったり、先日も食文化をさまざま体験するアメリカからのお客様を善宝寺などでガイドの機会を有した仲間がございました。
 CHATCHATとしても通訳案内士の活動につなげるための研修を行っております。鶴岡市内には観光対象として誇れる歴史的にも意義深い施設が多数ありますし、ほかにも自然も多く学ぶべきものが存在しております。いつどんな時にも外国の方の訪問に備え、絶えずそういった誇るべき庄内、鶴岡の観光対象を熟知すべくアンテナを張り巡らすと同時に、突発的な質問にも対応できるよう研さんを積まねばなりません。われわれ全員が全国通訳案内士として活動が可能なのですが、居住するエリアに関する知識が豊富であることは、海外の方へ日本訪問の際の深い印象を残してくれるものになろうと信じております。
 鶴岡にたくさんの外国人の方がお越しになることが決定しているわけではありません。それでも、小さな旅行であってもかなりコアな関心をトピックにしているようなものが存在しており、我々がお手伝いをさせていただいたことにより、満足の度合いを高めることができれば、とてもうれしいこととなるのではないかと思うのです。庄内に来たら庄内のガイドにお任せあれ、という気持でお客様に対応してまいりたいと思うのです。
 CHATCHATでは、鶴岡を訪問される外国の方に精一杯の満足をご提供し、それがポジティブな形で連鎖をしていくのを見守っていきたいと思います。

2月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第216回  「スキー余話」

 スキーは北欧の猟師が雪上での移動をより速くするために考案したものらしいが、日本で生まれたカンジキは滑り止めである。この発想の違いが面白い…とあれこれ探ると、岐阜県飛騨に「橇田」と書きカンジキダと読む名字があった。「橇」はソリと読むのが一般的だから、あるいはカンジキも当初は滑る道具であったのかも…。
 中世の欧州ではスキーを軍隊の行軍に用いた。それが山岳地へと伝わり滑降用に改良されて今日のスタイルにたどり着いたのであるが、昨今はスノーボードに主役の座が奪われてしまい、スキーの原点が「走り」と「射撃」から発したことを忘れそうになる。
 日本のスキーは明治44年オーストリアのレルヒ少佐が軍人に指導したのが嚆矢(こうし)とされている。その以前にも欧州からスキーを持ち帰り紹介したとか、札幌農学校の外人教師が紹介した…等々がある。レルヒの講習会は陸軍が招聘した公的なもの、と言うだけではなく翌年同地でスキー大会が開かれたり、家具屋や車大工がスキー板を作り始めたなど、その影響の大きさが初伝来説を肯定している。しかしレルヒのスキーは軍人用の歩くことを主力とするもので、急斜面を滑り下りるものではなかったようだ。
 「明治3年、ノルウェーで凶悪な囚人たちを改心させるために、スキーを履かせて崖から飛ばせたのがジャンプの始まり…」との逸話がある。真偽は別として、立っている地面が突然無くなるのは、想像を絶する恐怖である。これには彼らもドギモを抜かれたことだろう。これに懲りて「改心する囚人が続出した…」との記録はないが、それなりの効果があったものと推測する。それなのに昨今では女子選手がこれをサラッとやってのけ、恐怖感などは微塵も見せない。それは10歳前後からこの道で鍛えているから…とか、ほとほと敬服する。
 世界初のジャンプ大会は明治12年にオスロで開かれた。これは「囚人飛行説」の30年前である。日本でのジャンプは大正11年秋、札幌の三角山に日本初のジャンプ台完成から始まる。その完成を祝し「第1回全日本スキー選手権大会」が小樽市で開催された。これが冬季国体の前身である。高田、大鰐(青森)、樺太、野沢温泉(長野)、小千谷(新潟)、大舘(秋田)、札幌、日光などと毎年会場を替えて普及を図ったのである。その成果であろうか昭和3年、日本は冬季五輪に初参加し、安達五郎がジャンプで8位に入賞した。これで日本のスキー熱は燃え上がったのであるが、如何せん雪国に限られてしまうのは致し方ない現象であった。
 それを打破するようなことが起こったのは、昭和13年甲子園での「第1回全日本選抜ジャンプ大会」であった。雪とは縁のない関西の野球場で実物のジャンプを見て貰おうと、外野席の上に丸太で櫓を組んで滑降路を造り、そこへ新潟県から貨車30両分の雪を敷き、36人の選手が妙技を披露した。この時の最長不倒は27bであった。今日の記録に比べればママゴトのようなものだが、関西人を驚嘆させるに余りあるものであった。さらに1カ月後に東京でも開かれた。これは前年秋に完成した後楽園球場を宣伝する目的もあったのかも…、甲子園よりジャンプ台を高くしたのは「関西以上…」の意気が感じられる。その会場設営を請け負ったのが「日本工房」で、社員の土門拳(酒田出身)が一連の写真を残している(阿部博行著『土門拳』)。雪は新潟県から貨車で水道橋駅へ、さらにトラックで球場へ運び、そこから籠に入れて人夫が担ぎスタンドへ積み上げ、厚さ30センチのコースを造った。この雪が大会の2日間だけでは勿体ないと思ったのか、「指導者講習会や大会後の一般開放などを催し、のべ5千人に雪滑りを体験させた」と記事は伝えている。
 この「全日本選抜スキー・ジャンプ大会」を「全日本選手権大会」と錯覚しやすく、また甲子園と後楽園の大会名が同じなので紛らわしいが、雪には縁の浅い地域に急設したジャンプ台としては立派なもので、スキージャンプの概念を未知の人々に知らしめる役割を果たした。昭和14年の後楽園大会はラジオで全国へ中継放送されたし、甲子園大会は観客4万人を集める盛況であったが、雪の輸送費との兼ね合いから2回で終わり、第3回は後楽園大会のみであった。しかしそれも太平洋戦争開戦の前年であるだけに関連記事も極めて少なく、見落としがちである。そしてこれが最後となった。
 そのスキー熱は当地へも及び、小さな「湯田川スキー場」が誕生した。と言ってもブルドーザーで山肌を整地し、リフトを備えたものではなく、萱刈り場に雪が積もっただけのものであったが、それでもそれなりの賑わいを見せたのは、温泉との組み合わせで誘客したからであろうか。今日の湯殿山スキー場は勿論、バブル期の羽黒や熊出、三瀬などよりもはるかに質素であったが、十分満たされたようだ。

1月15日号寄稿  水原 元さん(鶴岡市高坂)

第215回  「『頂を目指す』 過渡期の出来事」

 明けましておめでとうございます。
 小さな出来事は大きな出来事によって上書きされてしまい、ともすれば思い出されることもなく消えてしまうことがほとんどです。それでも苦しい時、人から受けた優しさや思いやりはふとしたきっかけで心の中に浮かんできて、日々流されていくわたしたちの歩みを止めてしまう時があります。
 ある日、突然「泳げるようになりたい」とか「自転車に乗れるようになりたい」とか決心する日があります。大人の目には小さなことにしか感じられなくなっていますが、その時の子どもにとっては大きな成長の過渡期の出来事です。
 近所でアニキ分的存在のS君とわたしと弟の3人が遊んでいる時、「山登りしよう」と話が出ました。
 早速、晴れた日曜日、家族には「ベントもちしてくる」(弁当を持ってハイキングに行く)と言って朝早くから出かけました。行く先も知らずS君の後に黙々と付いていきました。家に着いたのはもう薄暗くなってからでした。家に帰ってから振り返り「あの山さ行ってきたんだぜ」と言って指さす尾根を見てビックリ。それが母狩から金峰山への登山だったということを知りました。S君が中2、わたしが小学6年、弟が3年の春のことだったような…。
 こんな記憶から、6番目に赴任した小学校で5年生を担任した時、隣のクラスのY子先生と相談して金峰登山を計画しました。保護者の協力を得て金峰の登山口まで車で送ってもらい出発しました。お父さん、お母さんの年齢を考えて母狩登山は止めて湯田川に下り正面湯に入るコースにしました。総勢90名。
 数日前に大雨が降ったので、登山の前日下見に行きました。仕事を終えた夕方6時頃から出発し、ゆっくり登って10時くらいには湯田川に着きました。2日間、連続で登ってもそれほど疲れてはいなかったように思います。
 この時、わたしは50歳を超えていました。42の時に膵臓を3分の1と脾臓を全摘していて、5年生きられればいいかなと思っていました。血糖値をコントロールする機能も低下していたので、糖尿病の不安を抱えての生活でした。外見はまったく他の人と変わらないので、人並みに働かなくてはなりません。術後の5年間が一番苦しい時期で、潰瘍にもなってしまいました。この登山は手術から10年目、癌の心配が消えた記念碑的行事でした。
 島木赤彦という歌人が作った「高山の頂きにして親と子の心相寄るはあわれなるかな」という歌があります。
 人生の中には、家族みんなで高山の頂を目指す努力をしなければならないような過渡期の出来事があるように思います。後で振り返った時、あんな高山に登ってきたのかと自分の力に感心したり、家族に感謝したりするのは下山してからです。
 父親が単身赴任しなければならなくなった時、子どもが入試や就職や結婚する時など、人生行路の中の定期航路のように、目に見えることだけではありません。子どもの思春期、女性の更年期など、目には見えなくても一人の人間にとって頂を極めるような、ときに家族の協力が必要な時があります。
 また、こうした出来事は往々にして「不幸」な衣装をまとってわたしたちの目の前に突然降りかかってくるようにも思います。
 「子どもが学校に行かなくなった」とか「父親が事故に遭った」とか「母親が病気になった」「子どもに障害があった」等。その時家族全員が頂を目指す決意と行動を示すことで、新しい道が拓けてくるように感じます。
 昨年11月、父が脳梗塞で倒れ、一緒に住んでいた母のところに毎朝様子を見に行きます。神棚に灯明を上げ水を替え拝み、母とほんの少し話をして職場に向かいます。
 母の生活を支えてくれるヘルパーさんとWさん。雪が降った日は、隣のHさんと裏に引っ越してきたMさんが家の周りの雪除けをしてくれます。家族だけでなく、地域の人にも職場の同僚にも支えられての毎日です。
 頂を目指す過渡期の出来事は、苦しいことや哀しいことだけではありません。冬の日、幼い子の冷たくなった手のひらを、お母さんが温かい手のひらで包み、息を吹きかけるように…、手のひらだけでなく心も和ませ、心の傷を癒してくれる、そんな出来事が今年もあなたの心に静かに積もっていくようにお祈り申し上げます。良きご縁が結ばれますように。

1月1日号寄稿  花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第214回  『旱蓮木』

 漫ろ歩いていると思わぬ不思議と出会うことがある。木々の葉が色づき始めた頃、庄交モール近くの長泉寺(通称烏明神)境内で藤の実に似た大きな豆状のものが下がっているのを見つけた。珍しいのでコップに入れて眺めていたら、数日後にパックリ割れて中から鮮やかなダイダイ色の種子がのぞいた。これを図鑑で調べると「シデコブシ」だと分かった。この種を蒔けば春には芽が出て、やがては花をめでることができるのでは…と再び寺へ行き見回すと、昨年の種が黒く変色したまま散らばっていた。鳥が見向きもしないほど美味しくないのだろう。植物が天から与えられた、子孫を残すという特性を生かすこともなく、無残に散らばっているのが妙に気の毒に思え、4、5個を拾って鉢に埋めて来春を待つことにした。
 木を増やすには株分け、挿し木、種を蒔いて育てる「実生」の方法があるが、種を埋めたことを忘れかけた頃に新芽が顔を出しているのを発見した時の感動は格別なものである。来春そんな感動に出会えるかも…。
 たまに通る小道で、梢に緑色のプラタナスのようでもあり、栗のイガのようにも見える果実を見つけた。しかし葉や木肌からしてそのどちらでもない。以来「気になる木」になり、通るたびに見上げていた。やがて紅葉し、ちらほら葉が散り始めて、果実がよく見えるようになると益々不思議は募るばかりだ。
 そんなある日強風が吹いたので翌日、あの不思議な果実が落下していないか…と期待をふくらませながら木の下に視線を走らせると、すぐに果実は発見できた。手にとって見るとイガの針は意外と太いもので鉛筆を平らにしたぐらいあり、素手でつかんでも痛くないものであった。さらに栗のようにイガの中に果実があるのではなく、イガの一本一本が果実であり、そこに種子が入っているのであった。「へ―」と感心し、もう少しこの木の生態を知りたくなった。早速植物図鑑を開いたのだが、名前が判らないのであるから、1枚ずつめくってもこの植物に到達するのには遠い道のりになる。そこで「歩く植物辞典」こと水野重昭氏へこの果実を持参して名前のご教示を賜った。
 「8月頃に白い花をネギ坊主のような形で咲かせる。その花の一つ一つが結実して、次第に太り「柿の種」形になる。完熟とともに緑色から黄色に変わり来春の準備を完了する。この樹は旱蓮木(カンレンボク)といい、その名称からして中国原産であることを匂わせる。そんなことから横浜市は「中華街」のイメージアップにと街路樹にこの木を植えた通りがあるそうだ。近年は果実や根に、抗ガン作用の成分が含まれている…と注目されている…」と最新の情報まで付け加えて教えてくれた。
 拾ってきた果実をバラバラにし、鉢に入れて土をかぶせて軒下へ置いた。春になり、大分暖かくなっても発芽の兆候がないので半ば諦めていた頃に新芽が確認できた。1房分約20個を埋めたのに芽を出したのはわずか2本だけ、丈夫そうに見えるがとてもデリケートな木のようだ。
 荘内病院近くにピンポン玉ぐらいの果実を沢山つけた庭木があった。折よく知人宅なので樹木の名前を伺うと「ハンカチノキ」とのこと、「春に白い花が咲きます。だがこれは花ではなく、ハナミズキなどと同様に苞なのです…と教えてくれた。植物辞典を開くと「ハンカチノキ科に属す…」とあるが、ハンカチノキ科はほかに兄弟や仲間もない極めて珍しい樹のようだ。春の満開時は枝々にハンカチが揺れている様…そんなさまからこの名前になったことは容易に推測できる。
 植物には通称の呼び名の外に学名とか、戸籍上の名前が存在するはずだ…と調べてみると中国西部の原産で「ダウィ ディア インウォルクラタ」と舌をかむような長い名前であるらしいが、今は「ハンカチノキ」がそのまま本名となっているようだ。これまた来春の開花が待ち遠しい。

10月15日号寄稿  阿部 英明さん(酒田市住吉町)

第213回  『戊辰から150年。山形から鹿児島1836`自転車野宿旅』

 6月30日、台風が接近する中、私は自転車に荷物をのせ一路鹿児島までの旅をスタートしました。何か馬鹿げたことがしたいのと、もっと大きな仕事や人間力を身に付けたいからでした。2カ月前より準備して鶴岡信用金庫の若手経営者育成塾で宣言した時、担当の方より来年は戊辰戦争から150年目にあたると聞き、何か不思議な縁を感じたことも後押ししてくれました。酒田の南洲神社から鶴岡の荘内神社を経由して、新潟から日本海側を行くルートを計画。宿泊場は各地の道の駅と決めていました。初めての自転車旅に不安はあったものの、何か変われるきっかけがこの道の先にあると期待し漕ぎ続けました。
 新潟県を抜け糸魚川の土砂崩れで迂回し県境にたどり着いた時に、初めてベルギーから自転車旅に来た家族と出会いました。同じ目標を持った人との出会いは、言語が違っていても涙が出るほど嬉しかったです。毎朝7時30分にはスタートして1日多い時は150`漕ぎ続け、夜は22時になる日もありました。野宿は慣れてきましたが宿泊場所の道の駅は郊外にしかなく、夜は人がいない道が殆どです。また県境地帯のトンネルは恐怖です。側道が殆どないトンネルはトラックからあおられたりと、突入する時は荘内神社で頂いたお守りを握りしめて神頼みしていました。
 福井県に入りまた恐怖を体験しました。夜21時、街灯のない湖畔の山道を永遠と6`漕ぎ続けました。とてつもない恐怖感。坂道ではスピードは落ちて獣や幽霊が見えそうです。意識を殺そうと思いついたのが、「家族や両親、職場への感謝の言葉」でした。恐怖より今こうして旅ができていることを、何回も言葉に発しながらようやく灯が見えた時は涙が込み上げてきました。感謝。その夜は雷と豪雨。色々テントで考え抜いた結果、ルート変更をすることにしました。夜になっても民家やコンビニのあるルートです。それから急遽、滋賀県は琵琶湖に入り大阪を経由し、愛媛から九州に入ろうと決断! 滋賀県境は心臓破りの坂! なんとか乗り切った時、下りでリヤのブレーキパッドが効かなくなりました。重い荷物の影響で思ったより早くパッドが擦り減ったのです。しかし、幸いにも琵琶湖には多くの自転車ショップがあり、翌朝から部品交換ができました。おそらく日本海側を進んでいれば、今回の旅は終わっていたでしょう。
 京都、奈良、大阪と国道2号線は交通量も多く精神的に体力も消耗していきます。福山でも大雨で立ち往生しました。そして尾道を手前にまた事件です。今度は変速ギアが壊れてしまい変速が効かなくなりました。しかし尾道の自転車ショップにまた助けられました。コース変更は本当に良かったです。
 夢に見た自転車で初めてのしまなみ海道へ! そこはサイクリストの聖地と言われる自転車専用道路が続きます。多くの外国人が自転車で旅行に来ており沢山の友達ができました。しかし! 安心したその時にホイルの骨(スポーク)が折れるというハプニング! でも今治の自転車ショップが手作りで直してくれました。ここまで来たらなんとかゴールしたい思いが募ります。愛媛県では今回の旅のもう一つの目的がありました。それは児童養護施設を慰問することです。頑張っている大人を見て、人生に生きる目標を感じて頂くことができたと思います。
 やっとのことフェリーで大分県に入りました。しかし!佐伯市でまたスポーク2本が折れて交換。翌朝10号線で延岡を目指しトイレを借りたスタンドで、ペットで飼われている巨大イノシシ3頭を見ることができました。そして宮崎県の日南を南下して、鹿児島県を下から北上して桜島に入りました。猛暑でスタンドのホースで身体に水を浴びながら、汗の匂いと少し痩せた体でフェリーに乗り、その瞬間を噛みしめました。翌日南洲神社と知覧特攻平和記念館まで行き旅は終了しました。
 今回の旅で得たもの、それは未来や過去をあまり気にせず、常に今・ここ≠大切に生きることです。そして人生の目的(意味)を明確にすることだと思いました。今後は家族や職場、地域にもこの経験を生かしていきます。人生は変われる! 最後まで読んで頂きありがとうございます。
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【阿部英明(あべ・ひであき)さん プロフィール】
1974年、酒田市生まれ。
国際医療福祉大学大学院卒業。パワーリハビリテーションデイサービス、竹内式ケアマネジメントで治す介護と、スポーツ医科学に基づいたウオーキング&ランニングフォーム分析を提唱。世の中の人々の人生を、より豊かに導くことをミッションに活動中。庄内認知症あんしん生活実践塾実行委員長。鶴岡信用金庫若手経営者塾1期生

9月15日号寄稿  花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第212回  「『キビショ』と『セナギ』」

 耳慣れないカタカナ語が次々と流出し、とても覚えきれない。こんなことは若い人に任せて、旧来の日本語で暮らしたい…と思うのだが、外国との交流を欠いては一日たりとも生活できないという現状のためのようだ。そのせいか国会中継を聞いていてもやたらとカタカナ語が登場する。議員と言えば結構お年を召した人々…のイメージを抱いていたが、そんな方々でも上手にカタカナ語を使いこなしているから、さすがは先生達である。そうしないと国際感覚が希薄…と国民に疑われるから、無理して多用しているのかもしれないが…。
 各地にあるプロスポーツチームの名称や、新しくできた公的な建物の名称までもがカタカナの愛称で呼ばれている。その意味は名付け親しか分からないものが多いが、中には外国語と方言を混ぜた造語もあり、とても親しまれる…とは思われない意味不明なものもある。
 さて「キビショ」という方言をご存じの方はごくごく限られていることだろう。これは茶葉と湯を入れて茶を注ぐ急須のことである。我が家ではこの急須を「キビショ」と呼んでいた。しかし成長の後あちこちで暮らしたが、この呼び名を耳にしたことがない。我が家独自の造語であったのか、それとも近辺だけの方言かもしれない。うっかり口にしたら笑いものになる…と思い、長い間封印したまま忘れかけていた言葉である。それが最近ある本の中にこの単語が登場していたのである。
 図書館2階の資料館で見た『荘内』という雑誌に、庄内の方言集があったのを思い出し、「キビショ」を探すと、なんと「急須」とあるではないか。ここで初めて我が家だけの言葉ではないことを確認した。
 鎌倉時代の僧栄西が宋から茶の種を持ち込み、日本での茶道が始まった…が定説である。中国の中でも台湾に近い福建省が茶の発祥地で、今も本場とされている。当初は薬として用いたために他の薬草と同様、乾燥した茶葉を粉にひいて煎じた液を服用したのだが、江戸時代中期になって、粉ではなく葉を煎じて飲用する方法が普及した。それは「急須」と言う便利な器が発明されたからであった。この茶器は茶葉の販売促進の一環として発明されたようである。日本でもこの器によって貴族だけの茶道から、広く庶民にまで普及したのである。生産地宜興(キビシャオ)の名が器名となったらしい。関西には最近まで男児の性器を「キビショ」と呼んだ。まさに意を得た表現である。ちなみに北海道では「キビチョコ」と呼んだそうだが、今も残っているかは不明である。女児の場合は何故かテンマと呼んだそうだが、この解釈が難しい。辞典に頼れば「人を悪しき道へ誘う鬼」とある。
 「セナギ」も最近はまったく聞く機会がない。キビショよりも身近と言おうか日常生活に密着したものであった。これは方言ではなく『広辞苑』も「せせらぎ」と説明する共通語である。しかし私が子供の頃には「下水」をこのように呼び、「せせらぎ」とは縁遠く、汚くてプーンとドブの匂いが漂う場所であった。
 NHKの「ブラタモリ」で大阪に今も残る「太閤下水」に触れていた。当時の町割は大通りの両側が同じ町とされ、隣町とは背中合わせになっていた。境界が不鮮明にならないようにと、その間に共用の下水溝を走しらせて町境とした。これは鶴岡も同様で、隣町との間には細い排水路があった。しかし今ではその跡も確認し難く入り組んでいる。この下水を「セナギジリ」と呼んでいたが、共通語では何と言うのか…辞典を開くと「?」と書き「底の石が見える小川、セセラギ」とあった。セナギジリはその訛りだったのだ。大通りは店が連なって町境が不鮮明になったが、昔ながらの排水路がかすかに残り、現在も町内を分けているようだ。
 昭和30年代の「町名変更」で排水路の町境から、道路で町を分けるように変わってからは、この水路が注目されることもなくなり、また下水道の発達で注目度も薄れ、ますます肩身が狭くなったように感じる。しかし今でも町の境界となっている所もあり、目にすると、思わず(ご苦労様)と声をかけたくなる。

7月15日号寄稿  佐藤 宗雲さん(鶴岡市宝田二丁目) 

第210回  とわずがたり其の十『鶴ヶ岡から松ヶ岡へ』

 明治元年(一八六八年)、庄内藩は、新政府より朝敵とされ討伐を受ける立場となった。同年七月四日(旧暦)、二個大隊二千名が鶴ヶ岡城の二の丸広場に集結した。一番大隊長は家老松平甚三郎(二十三歳)、二番大隊長は中老酒井玄蕃(げんば、二十五歳)。藩首脳の激励の後、各大隊長に指揮され、大手門を通り三雪橋を渡り進軍して行った。
 玄蕃がこのころに詠んだ漢詩のうち二首を意訳する。
  「出発の時、  鶴城の空に二羽の白鶴が  現れて大きく翔舞し、我  らの行先をいざなうかの  ように東方へ去った。皆、  吉兆と喜ぶ。漢の武帝の  頃、善く外敵の侵攻を防  ぎ世民の尊敬を集めた衛  青と霍去病の二人の名将  のように我らもありたい」。  「北顧(新政府軍の南下  による脅威)を憂う。東  方(内陸や会津)の状況  も悪い。何としても庄内  の地と民を護らねば…」
 詩には玄蕃の清らかな人間性と国の命運を一身に担う決意を秘めた青年の姿を見る。
 その後、増設された三個大隊は、各前線に展開する前記二個大隊を補翼し戦闘に入った。各大隊には応募した農民や町人ら二千名が混成され、支藩の松山兵を加えると総数五千を超えた。ほぼ全員に近代銃が支給され、近代式野砲三十門を有する庄内の装備は敵味方の中でも特に優れ、苦戦したのは近代的装備を有する佐賀藩の兵のみだったという。米沢地域を除く現在の山形県全域を転戦し制圧して、鳥海山を越え秋田へ軍を進め、終始敢闘した。しかし、八月までに仙台と米沢、九月中旬に会津が降伏。孤軍となった庄内は、今は官軍となり、その先兵となった米沢の厚意を受け、九月二十六日降伏。戦死者三百二十二名、負傷者四百十二名。今年は戦死者の百五十回忌に当たる。
 敗戦で誇りと自信を失った藩士に追い討ちをかけ廃藩置県が断行され職を失う。若干の退職一時金を手にしても多くの藩士と家族が生活に窮乏し、街には生きる希望を失った無頼の若者が徘徊するようになった。心を痛めた旧藩の指導者たちは開墾を決断する。明治五年、旧藩士のうち二千九百十四人は、絹を作る桑畑を開墾するため、毎日、鶴ヶ岡城下から東へ十`程の後田(松ヶ岡)に鍬を担いで歩いて通った。大木を倒し、巨岩を取り除き整地する作業は過酷だった。食事以外は全くの無報酬。開墾には田川地域から三万六千余人、飽海地域から二千余人の農民たちが無償で参加した。当時、一般に農民の身長体重は武士たちより大きかった。武士は剣術などで体を鍛えていたが、婚姻し役に就くと殆どしなくなる。農民は体が続く限り農作業に明け暮れ汗を流している。体力の差は歴然。農民の参加は旧藩士たちをいよいよ奮い立たせ開墾作業は加速し、明治七年までに三百十一町歩の桑園を創出した。
 松ヶ岡開墾の主たる目的は、士族の授産(生活援助)ではなく、彼らに自信の回復と生きる勇気を甦らせようとするものだった。このことは開墾終了後に松ヶ岡に残った者が開墾者のたった一%の三十二戸だったことでも分かる。外に帰農を希望する者が若干いたが、耕地面積等から松ヶ岡へ残れなかった者たちは近在の山林や農地を求め、開墾して養蚕を始め、松ヶ岡に蚕を供給するようになる。旧藩士たちは、自信を取り戻し、官員、教員、警察官、軍人、北海道開拓農民、絹織物工場、農業倉庫、金融業などの殖産興業の荷い手となり、松ヶ岡を巣立っていった。
 今年、文化庁は、鶴岡市を「サムライゆかりのシルクのまち」として「日本遺産」に認定し、公益財団法人日本城郭協会は、全国五百の城郭から百の城を選び「続日本百名城」を発表し、これに「鶴ヶ岡城」が入った。早速訪れた全国の「お城ファン」は「城らしい物が何も無く、がっかりした」と言っていた人が多かったという。堀と土塁が僅かに残っているのみでは、どんな城だったのか分からない。歴史学や考古学は過去の資料や遺構から人間の行動を推認し今後に示唆を与える学問だ。山形市は半世紀以上も前に霞ヶ城の復元作業を始め、今も続けている。庄内の歴史は酒井氏の治世と鶴ヶ岡城を抜きにして語れない。
 批判を承知で言えば、御隅櫓の一つでも復元できないか。図面が残されており復元は容易。費用は二億円程度で足りよう。遺構の復元は大きな意味がある。整備されれば「城下町鶴岡」を象徴する場となり、観光客の興味も呼び、求心効果も高まる。これが契機となり庄内史を研究対象とする学者の増加も期待できる。公園の中に茶屋などの休憩の場を設ければ、多くの方が訪れてくださるように思う。
 時流に飛びつかず、地味で息の長い研究(復元)活動は市が提唱する「鶴岡ルネサンス」(学術と文化の復興運動)そのものといえる。再現された御隅櫓は松ヶ岡の蚕室と並び史跡として永く残り、鶴ヶ岡と松ヶ岡を結ぶ道は「絹の道」となる。
(浄土宗藤澤寺 住職)

6月15日号寄稿 酒井 忠順さん(致道博物館 副館長)

第209回  『松ヶ岡愛』

 4月28日の「日本遺産」認定の鶴岡市記者発表。致道博物館館長であり松ヶ岡開墾場総長でもある父・酒井忠久の代理で出席した。「ついにこの日が来たか」。これまでのことを思い出して涙が出そうになった。
 小学生の頃、祖父に連れられて、松ヶ岡のお祭りに行った。私の中の記憶はそこが出発点。松ヶ岡の人たちは皆とても楽しそうに笑っていた。当時の長老の方々は私にも丁寧すぎるくらいに話しかけてくれ、可愛がってくれた。この頃は松ヶ岡がどういうところかもよく分かっていなかったのだけれど。
 昭和59年、父が中心となり、松ヶ岡の第一番蚕室に松ヶ岡開墾記念館を開館し、その向かいにある第二番蚕室で「一翠苑」という食堂を始めた。松岡物産株式会社を創業し、毎晩、遅くまで食堂に隣接する事務所で残業していた父に、母と一緒によく夜食を届けにいった。大変そうだったけど、何だかとても楽しそうだった創業期。
 母も事業を手伝うようになり、「ギャラリーまつ」を主宰。当時からバイタリティーの塊のようだった母は企画展を多数開催した。致道博物館館長となった父に代わって松岡物産の社長になってからも、特産品販売、シルク製品の企画販売と事業を広げていった。この頃の両親は本当に多忙で、子ども心にまるでスーパーマンのように思えた。
 私は大学に進学して上京。学芸員の資格を取得しそのまま東京で就職した。その頃、松ヶ岡はちょうど変革期を迎えた。藤沢周平さんの「蝉しぐれ」が映画化されることになり、松ヶ岡にオープンセットが完成。第5番蚕室には「蝉しぐれ資料館」(現在の映画村資料館)もオープンした。
 平成18年3月、両親の希望もあって故郷に戻った。地元のことをもっと勉強した方がよいということで荘内銀行に入行。平成21年3月に母から松岡物産株式会社を引き継いだ。
 それから毎日、松ヶ岡開墾場に通うことになるのだが、今思えば、あらゆる物事を両親からただ引き継いだだけのことだった。はたして松ヶ岡に対する両親の熱い情熱と想いについてもきちんと継承できているか? と自問自答する今日。
 両親の松ヶ岡に対する想いには今でも本当に頭が下がる。松ヶ岡が大好きで、「松ヶ岡に向かっているとき、本当にワクワクするのよ」と母。松ヶ岡を魅力的にするために「ギャラリーまつ」の運営に力を尽くし、父はそれを陰ながら温かく支えた。
 一昨年、松ヶ岡でお客様と待ち合わせをしていた母は、通りすがりの別の観光客の御一行にも話しかけて、開墾記念館に誘って一緒に入館。そのまま館内を案内していた。本当にすごいなぁと思った。母曰く「せっかく松ヶ岡にお越しいただいたのに、ここがどういうところか分からずにお帰りになるなんて…もったいない!」今も昔もただひたすらに「松ヶ岡愛」の人なのだ。
 昨年7月、国指定史跡松ヶ岡開墾場の土地と建物(蚕室5棟)を鶴岡市が正式に取得。史跡の保存・修復の懸念は払拭された。鶴岡市の英断であり、日本遺産認定を本気で目指す鶴岡市の覚悟でもあったと感じる。
 出来る限りの努力はしてきたのだが、明治8〜10年建立の木造建物群をはじめとする史跡を致道博物館と松岡物産で所有し修復、保存していくのは本当に限界があった。
 昨年9月、天皇陛下・皇后陛下が行幸啓で松ヶ岡開墾場をご視察され「これだけの建物をよく残してくださいました」との御言葉を頂戴した。これまでの先人・先輩方、そして両親の苦労が報われた瞬間だった。たくさんの松ヶ岡愛が、その心が、今回の日本遺産認定につながったのだと思う。
 日本遺産認定は出発点であり、今後どのように活用していくのかが重要となるだろう。松ヶ岡愛を心に抱き、熱い情熱と想いのあふれる人たちが集結し、松ヶ岡がこれからも多くの人々に愛される特別な場所であり続けることを心から期待したい。  ふと気づくと、車を走らせて松ヶ岡に向かっていることがある。本当、ごく自然に。そこには私なりの「松ヶ岡愛」があるのかもしれない。
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【酒井 忠順(さかい・ただより)さん プロフィール】
1974年鶴岡市生まれ。旧荘内藩主酒井家19代。羽黒高等学校を卒業後、獨協大学大学院経済学研究科修士課程、立教大学学芸員過程を修了。2006年に荘内銀行に入行。09年から松岡物産株式会社(現・株式会社荘内藩)代表取締役。16年から致道博物館理事・副館長。東北公益文科大学評議員、日本刀剣美術保存協会庄内支部支部長も務めている。