私が暮らす街
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5月15日号寄稿
ボーイスカウト山形第16団 団委員
株式会社樹建築工房 代表取締役 佐藤 昌明さん
第151回 『備えよ常に』
「そなえよつねに」とは、1907年に始まったボーイスカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン‐パウエル卿の言葉であり、世界共通のボーイスカウト運動のモットーである。
そもそもボーイスカウトとは、青少年の健全育成を目的とした世界的な運動で、イギリスのブラウンシー島で行われた小さなキャンプからスタートした。少年達の教育に大きな関心を持ち、このキャンプを主宰したイギリスの退役将軍であったパウエル卿は、インドや南アフリカでの体験をもとに様々な野外教育を通じて、少年達が男らしさを身につけ、将来社会に役立つ人間に成長することを願い、20人の子ども達と共に実験キャンプを行った。そしてこのキャンプの体験をもとに、翌年「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を著し、少年達の旺盛な冒険心や好奇心をキャンプ生活や自然観察、グループでのゲームなどの中で発揮させ、「遊び」を通して少年達に自立心や、協調性、リーダーシップを身につけさせようとした。これがボーイスカウト運動の始まりである。日本では少年団として明治41年に全国各地で始まり、ここ鶴岡でもいくつか結成されたようである。私の母方の祖父は、その中の城南少年団に入団し、常念寺の境内等で沢山の仲間達と野外活動をしたという。
私が入隊したのは約30年前の小学二年の夏であった。両親に連れられ、なんだか訳も分からないままに入隊したのであるが、祖父は私がボーイスカウトに入隊したことをとても喜んでいたようで、当時の自身の活動ぶりを時折話してくれたことが思い出される。多くの隊長や団委員の方々の指導と共に仲間達と支えあい、励ましあったおかげでカブスカウト、ボーイスカウト、シニアスカウトへと上進し、スポーツと学業とをなんとか両立させながら続けていたが、就職後は仕事が忙しくなり止むを得ず中断していた。指導者育成研修も受講していただけに、長い間心残りであった。
数年前に私の息子が入団可能な年齢になった時、どうしても自分と同じ体験をして欲しいと思い、現在長男はカブスカウト、次男はビーバースカウトに入隊し、私も微力ながら隊の活動のお手伝いをしている。私がスカウト活動を通じて得た知識と経験を少しでも今の隊の子ども達へ伝えたいと考えているのではあるが、まだまだ諸先輩方の足元には遠く及ばない。
ところで、ボーイスカウト出身者には、元総理大臣の麻生太郎氏、宇宙飛行士の野口聡一氏、歌手で俳優の吉川晃司氏、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏、ボーイスカウト活動で撮影した8_映画が処女作という映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏、サッカー選手のデビッド・ベッカム氏など、各分野で活躍している著名人の多さに驚く。人類史上初めて月面着陸したアポロ11号宇宙飛行士の二ール・アームストロング氏もそうなのだ。
さて、常々心がけているつもりではあるが、やはり忘れがちな備えるということ。「仕事は段取りが八割なんだぞ」と昔は諸先輩方に教えられたものだが、目の前の仕事に日々追われる毎日でなかなかそうは行かない現実に、呆れるのも通り越して笑うばかりである。
4月初旬の爆弾低気圧による暴風雨の被害は、昨年の東日本大震災の甚大な被害と比べて死傷者こそ少ないものの、市内の建物には相当の被害があった。家屋の屋根が飛ばされた、瓦が飛んだ、窓ガラスが割れたなどはまだ軽いほうで、老朽化した建物は半壊、全壊に近いものもあった。翌日から連日連夜次々と電話が入り、現地確認と写真撮影、応急処置と修理の見積り作業に追われた。保険会社ごとに対応も異なるため、先ずは事故発生の連絡をするようにと話して回る。数日がたち、各地の被害状況が明らかになった。驚くべきことに最大瞬間風速は、隣の酒田市で秒速41・4b。そのエネルギーは、震度5強の地震に相当するとの報道を見た。確かに、損傷度合いを見る度に尋常ではない風の強さであったであろうことに合点がいった。
住宅の建物の保険は火災保険には九割方入っているようではあるが家財保険にはそのうち3割程度、地震保険には昨年以降は加入が増えているようだが5割程度とまだまだ少ない状況のようだ。ここ庄内地方の中でも鶴岡市内は、昨年の震災時も大きな被害がないばかりか、停電すら起きない地域もあったのだが、こういった機会に現在加入している火災等の保険の内容を見直すのも良いのではないだろうか。車庫、物置、塀を含むという特約が無い為に保険対象外になりうることもあるから、今回被害が無かったからと言っても何時そういった事故に遭うかは誰にも分からない。近年は大雪による被害も多い。
折角の機会だ。遅きに失することにならぬよう病気になる前に、自分の生命保険も見直すとするか。備えよ常に
4月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)
第150回 『山菜と木の実』
草餅の香りに魅せられて、ヨモギのおひたしを試みた。これが料理本に載っていない理由がよく分かった。戦後しばらくは、冬の惣菜といえば根菜や豆であったから、雪解けを待って山菜採りに出かけたものだ。「ビタミンや食物繊維が豊富…」との健康的な見地からではなく、家計の一助であったのだ。山菜には「苦み」や「エグミ」が付きものだから、「あく抜き」が不可欠だ。「あく」は「悪玉」と理解されがちだが、冬季間に体内へ蓄えられた、悪質成分を排泄させる働きがあるそうだ。先人たちはそれを知っていたのかも…。ところが最近はビニールハウスで育った山菜が出回り、「苦みが無い」と受けている。お金持ちが料亭で珍重する分には結構だが、これがスーパーに並んでは、本来の味を知らない人ばかりになってしまう。
最近「エグミ」を説明するのに苦労する。「イガラッポイ味」(喫煙しない人が煙草を口に入れてしまった時の感じ…)と説明しても、理解して貰えないのは、ハウス育ちの山菜のせいか。我が家には毎年新潟の友人から、採りたての山菜が届けられ、本物の味を堪能している。
山菜料理はてんぷら・おひたし・ゴマ和えが定番だが、これらは苦みやエグミを消すのではなく、やわらげるだけで共存しているとか。中でもクルミ和えは抜群の味である。ただ炒って、割って実を取り出すのに手間取るためか、現代の主婦からは敬遠されがちで、料理番組にもゴマ和えばかりが登場する。平成の初頭まで大泉橋下流にあった「マーケット」で、七輪でクルミを炒り、割っていた八百屋のおばさんの姿が懐かしい。最近は殻から取り出し、小袋に入れて売っているのだが、買うのは昭和の主婦ばかりと聞く。(スリ鉢がないか)
写真のピカンはクルミの親戚筋にあたる北米産の木の実である。先年の米国旅行で、平原のピカン園を目にして以来気になっていた。「ピカンは例年11月の感謝祭に食べるんです」。感謝祭は日本でも「カボチャの仮面祭」としてかなり浸透しているが、本来は米国へ移住した大先祖が、原野を拓き初めて収穫物を手にしたときの感動を偲ぶ祭りであった。その収穫物はカボチャの地が多いのだが、他のものもあり、ピカンの実を入れたパイが主役の地も少なくない…と話を聞いて以来「どうしても一度食べてみたい…」と思い立ち、義姉におねだりした。「今年は不作で…息子がカリフォールニア出張でやっと見つけた…」と送ってくれた。大きなドングリ形で、栗のような堅い皮は指では割れない。味はピーナツをやや淡白にした感じで、カヤの実に近い…と直感した。カヤは子供の頃に1、2度食べたことがあるものの、記憶はかなり怪しい。しからば食べ比べてみよう…と八百屋やスーパーを回ったが「カヤ…? どんなものですか…」と若い店員から逆に問われる始末。分厚い立派な碁盤はこの榧(カヤ)の大木(樹高20b)から作られるものだが、東北のカヤはその半分以下にしか育たない種類とか。近年までこの実は食用油の原料や虫下しや夜尿症の薬になったそうだが、今は需要が無い。
しかし相撲界には不可欠の品。国技館の土俵は毎回表面から約1b余を剥がして再築される。場所前に完成すると土俵祭が行われ、土俵中央に小穴を掘って、その中へ米・塩と搗栗(かちぐり)・カヤ・コンブ・するめを(素焼き皿に入れ)土中に収めて本場所の安全を祈る。本場所はそのお供え物の上で競技しているのである。搗栗とは乾燥栗のこと。戦後しばらくまでは保存食として見かけた。搗が「勝」につながることから、武将が出陣式に用いたのを角界が倣ったものらしいが、最近は製粉された菓子材として流通する。土俵祭りの搗栗も時代に押され粉になったか…と相撲博物館へお尋ねすると、「外皮、渋皮をとった、まるい栗の実」と写真を添えて丁寧にご教示頂いた。
過日戦時中の月刊誌『荘内』を見ていたら、「正月のお供え餅には昆布、ホンダワラ(海藻)、クルミ、カヤ、搗栗、串柿、ミカンを添えて三宝に飾った。これを『オデガゲ』と呼んだ」とあった。初めて知る風習である。これは士族の風習かもしれないが、農家にもこれに近いものが伝えられていた。このようにカヤは全国的に一般家庭でも用いられていたと思われる。戦争がこれらを消してしまったのではないだろうか。
山菜は食感だけではなく、薬効もあると分かったが、「子供に食べさせても大丈夫だろうか…」「ハイ、3歳以上なら…」。
3月15日号寄稿 伊藤 進さん(鶴岡市海老島町)
第149回 『小学生を見守る交通指導員として』
一昨年の四月、鶴岡市から交通指導員の委嘱を受け、登校する小学校の子どもたちの朝の交通指導を引き受けて約二年になる。担当する小真木原公園の正面入口前は、市内でも主要な県道だけに道幅は広く、登校時間と重なる朝の出勤時間帯は、交通量もかなり多い。
そこの、四季折々の情趣がある自然豊かな小真木原公園の杜の前を、元気に登校する子どもたちの安全を守るのが私の役目であるが、毎日「おはようございます」と、大きな声と共に通り過ぎる子どもたちには、こちらの方が癒される思いである。
通り過ぎる子どもたちを見送りながら、ふと自分の小学生時代と比べてみると、隔世の感がある。
まず目につくのは服装である。大人たちのファッションを映したかのようにカラフルでおしゃれ。そしてスタイルの良さは、さながらファッションショーを見ているようで、ご家族の子らに向けての期待と愛情の深さが垣間見え、実に微笑ましい。
ただ、大きな声で元気よく話す子どもたちの会話の中から、方言がほとんど聞かれないのは、それだけ都会的になったのだと思いつつも、私たちの年齢にしてみれば、味のある古里意識が次第に薄れてゆくようで、どこか寂しいものがある。
登校時間は、学校で決まっているようであるが、早い子と遅い子では四〇分ぐらい違いがある。はじめのうちは、早い子は学級当番にでも当たっているのかと思っていたが、そうではなく、早い子、遅い子の通る時間はほぼ毎日同じなのである。それには、ご家族の出勤時間など家庭の事情もあると思えるが、そこには子どもたちの性格が影響している部分もあるように感じる。
一人黙々と歩いて来る子、夢中になって話し込んで来るグループ、横断歩道が近づいてくると駆け出して来る子、「登校時間に間に合うのだろうか」と、心配するほど遅く通りながらも、何やら遊びながらゆっくりと通り過ぎる子などなど、好天の日ばかりでなく、雨の日も、風雪の日も、少しもひるむことなく元気に通り過ぎる子どもたちを見る限り、諸事不透明な世を憂うこころも吹き飛び、日本の将来も悲観するばかりでなく、どこか希望の光を見る思いで勇気が湧いてくる。
近年は、礼儀作法が軽くなったと嘆く方がおられる。子どもたちの中でも「おはようございます」という大きな声をあげるのは、一年生から三年生ぐらいまでで、あとは特に男の子は次第に声が小さくなる。
そんな中で三年生ぐらいの男の子が「おはようございます」の声と共に、私の指示で横断歩道を渡ってゆく時に「ありがとうございました」と、挨拶をしてくれるのである。その子を見る時、清々しさと共に家庭でのゆき届いたしつけが想像でき、いつも感心しながら、良い意味でその子の「ご両親の顔が見てみたいもの」と思ってしまう。
毎日、登校する最後の子を見送ったあと、ホッと緊張から解放された瞬間に「今日も無事に子らを守ってやれた」という何ともいえない充実感と共に、この仕事を引き受けて本当によかったという喜びがこみ上げてくる。
子らを巻き込んだ交通事故のニュースを聞く度にこころが痛む。将来の豊かな日本、そして世界を築いてくれるであろう「宝物」。家族の愛情をいっぱいに受けて育つ子らを交通事故から守ってくださるよう、運転者の皆様に切に願いたい。
2月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)
第148回 『モッケと笑止』
言を聞く機会がとみに減った中で、「モッケダノ」だけはよく耳にする。老若男女を問わず、「ありがとう」の意味に使っているが、高度経済成長前には、若者が「サンキュウ」で、年寄りは「オオギノ」を多用していた。これは関西弁の「オオキニ」の訛であろう。
かえりみると「モッケダ」は「オオギ」や「サンキュウ」よりも一段強い謝意を表す大人言葉で、感謝の中に『恐縮』を含ませた丁寧語であった。
感謝といえば出雲や愛媛の「ダンダン」は、その響きから謝意がよく伝わるし、置賜の「オショウシナ」も、角が取れたホンノリとした温かさがどこか「モッケダノ」に通じるように感じられる。言葉の好感度を測定する計器があるなら、きっと同じくらいの数値が現れそうだ。
「オショウシナ」を知ったのは米沢の友人からである。しかし友人よりもその母の方が一層味わい深い。同じ食材の郷土料理でも、味に差が生じるのと似ている。
これを初めて聞いた時、庄内の「ショウシ」(恥ずかしい)と関わりがあるように思えた(宮城、新潟でも「恥ずかしい」の方言)。
「些細なことに、そんな丁寧なお礼をされては却ってこちらが恥ずかしい…」といった謙譲さがにじみ出るからであろう。これは恐縮の「モッケ」と相通じるところで、へりくだった言い回しが相手へ伝わるのだろう。
「有り難い」は「あり得ない」の変化とか。すなわち人間業ではない、神業…が語源である。メルシーもグラッチェも「神の恵み…」の意味が起源だそうだから面白い。
「モッケ」「オショウシナ」がいい気分にさせるからと言って、より強調しようと思い「ドーモ」を加えるのはむしろ逆効果であろう。最近は「ドーモ」が氾濫し、忙しいせいかその後に続くべき「有難う」や「すみません」などが省略約されてしまうことが多い。本来は意味を強め、丁寧にするものであったはずの「ドーモ」だが、本来の意味を履き違えて、乱発する芸能人のコメントを耳にすると、興ざめしてしまう。
このドーモは「ドーモドーモ、高橋…です」のアナウンサーが流行らせた…のではなかったか? しかし調べると、意外にも江戸時代の流行語であった。最近の普及ぶりはいささか目に余るが、柳田国男は1942年の著作で見事にこれを予言している。しかし当時のドーモは「ドウシテモ」「どう考えても…上手くいかない」などとその後ろに否定的な言葉をつなげるのが主流の使い方であったようで、ほかに「どうにもこうにも言いようがないほどお世話になりました…」などと用いたそうだ。なのに今や「接頭語」として一本立ちし、NHKのCMで活躍するまでに成長した。
方言はかつての共通語が、時代や風土というフルイにかけられ、淘汰された末に限られた地域にのみ残されたものが多い。すなわちその土地に住む人たちが選んだ言葉であるだけに、味わいがあるのはもっともなことである。
いつからドーモが独り歩きを始めたか、言語学の柴田武氏は「50年代初め日本語の勉強に来た米学生が、横浜に上陸するなり戸惑って発したのが『ドーモ』であった」と書いている。さらにこの言葉がどんな場面にも適応する万能薬であるのに気が付き、どんどん新しい使用法が開拓されたのである。それが江戸時代以来の第2「ドーモ流行期」を起こした真相のようだ。70年代谷川俊太郎は「御挨拶」という詩を書いた。「どうもどうも やあどうも いつぞや いろいろ このたびはまた まあまあひとつ まあひとつ そんなわけで なにぶんよろしく なにのほうは いずれなにして そのせつゆっくり いやどうも」。平成5年の『朝日新聞』より
もう一つ、会話で語尾を上げれば質問の形になるのだが、最近この語尾上げをよく耳にする。これも外人が「この言葉でいいですか…」と、用いたのを真似たものらしい。
1月15日号寄稿 佐藤宗雲さん(鶴岡市宝田二丁目)
第147回 『とわずがたり‐其の三』
年の「成人の日」は一月九日。合併前の旧鶴岡地域では八日に成人式典が行われた。
明治初年頃までの日本の乳幼児死亡率は五割程度と推定されており、極めて高く、特に男子は十五歳位まで生存することは僥倖なことと社会は受け止めていた。このため、親達は、男子がその年頃になると、日取りを決め、祝いの儀式を急いだ。長命の祈りを込め、名を幼名から正式(成人)の名に変えた。元服の「元」という字は、新しく生まれ変わるという意味がある。身分の上下を問わず、男子は前頭の生え際の丸い髷(まげ)を取って頭頂部を全部剃りあげ、月代(さかやき)にした。女子はそれまで垂らしていた前髪を伸ばして後ろ髪と一帯にし、額(ひたい)を上げた。このようにして子供達は祝福され、大人として生きてゆく決意を迫られた。戦後、一月十五日が「成人の日」とされ、国民全体で成人を祝うこととなったが、厳粛というべき成人の日は、祝日法の改正により、毎年、日にちが変わっている。改正の理由は連休日を増やすためだったという。
昭和二十七年頃、私は、六軒小路(現山王町)の自宅から市立新形保育所(現新形保育園)まで半里ほどの道のりを通園していた。同年代以上の方々はほぼ同じ体験をされていると思うが、日本は戦後の落ち着きを取り戻し、産業も大部回復していたようだが、衣類等の物資は十分には出回っておらず、有っても高額だった。貧弱な外套をまとった五歳程度の幼児にとって吹雪く冬の道を一人で歩いてゆくのは結構辛かった。毎朝、自宅前を多くの高校生が通学していた。ある朝、自宅を出ると、通りがかった高校生のお姉さんが、マントを広げ、中に入るように促してくれた。家政高の校門前まで来ると、お姉さんは「あとは自分で行げるの」と言ってマントを開けた。私はブルッと震え、一目散に保育所まで走った。時には誰一人自宅前を通らない日があった。今なら冬休みや試験休みということが理解できるが、幼い自分には知るべくもなかった。こうして冬は、ときにマントやオーバーに入れて貰いながら保育所に通った。
この時節になると、名も知らぬ方々から受けたそういう親切の記憶が、六十年近く経っても清冽に甦ってくる。当時の高校生達の振る舞いは、既に成人以上であり、世間もそう扱っていた。私達が成人した昭和四十二年頃には、自家用車を保有している世帯は殆ど無く、便利な携帯電話も無かったが、今日のような浪費家も多重債務者もいなかった。親に仕送りをしている若者も大勢いた。
ところで、世の中をどう観るかは人それぞれだし、視点をどこにどう宛てるかによっても異なってくると思うが、読者の批判を承知で言えば、いつの時代も「世の中は間違っている」ということだ。社会には理不尽なことや解決困難なことがいつも存在する。現代は「誠に遺憾に存じます」では済ませられない状況だ。科学がこれほど進歩しても、いまだ世界から戦争は無くなっていない。人類の三割に当たる数の人々が、独裁者によって言論と自由を封じられ、人間の尊厳を奪われ支配されている。自分が奴隷に等しい状況にあることすら認識できない人さえいる。国内では、非正規雇用が全勤労者の三割を超え、年収二百万円未満の低所得者や失業者が増大している。これに昨年三月の東日本大震災や原発事故という悲惨な出来事が重なった。
いい話もある。引き篭もりの青少年達が、家屋の倒壊によって自分の部屋を失い、否応なしに大勢の人々と顔を合わせることとなった。声を交わし、助け合い、援助物資を配り、集団生活を過ごしているうちに積極行動が高まり、快癒改善されているという。人間が生きるということは、そもそもすさまじいほどのエネルギーと懸命の努力が必要となることを意味する。社会の支えが無ければ人は生きてはゆけない。特段の事情が無ければ、自分が食べるものぐらいは自分で稼がなくてはならない。いつまでも親に頼っていてはいけない。
成人に達すると、社会は大人としての振る舞いと責任を要求する。人の出自と条件も千差万別だ。いずれにせよ、これから出会う様々の問題は、自分が置かれた状況のもとで、思考し、決断し、対処してゆくほかないことにおいて変わりはない。人生は自分の思うようにはならず、自分が望む人生を歩むことができるのは一握りの人かもしれないが、辛抱強く努力を続けてゆけば、自分の環境をいい方向に向けてゆくことはできる。大切なことは、長い年月と体験を経て得たものを、一人占めするか、他者に分け与え、喜びを共にして生きてゆくかということではないか。
私の孫の世代が成人する頃、世の中はどうなっているだろうか。若い人の力が存分に発揮され、彼らに支えられる未来を信じたい。
12月15日号寄稿 叶野 幸喜さん(鶴岡市東堀越)
第146回 『農業は面白い』
農家なんて面白くないっていうのが、最初に自分が就農した時に思っていた正直な気持ちです。そんな自分がなぜ今、農業をしているのか。
それなりに、自分の意思で農業をしなくてはならないとは、なんとなく勝手に思っていました。高校を卒業して、とりあえず北海道に農業研修で行きました。大型のトラクター、見た事もない作業機、乗るのは最高に気持ちよく、楽しかったのを覚えています。ただ、何を目標にするとかでもなく、言われた作業をするだけ…。今思えば、なんてもったいない事をしてしまったのか…、めちゃくちゃ悔しいです。もっと色々学びたかった。
北海道から帰省後、農業を始めるわけですが、なかなか身が入りませんでした。やはり、ただ言われた作業を黙々とこなして、時間ばかり気にしながら仕事をしている毎日。
しかし2年程前から、家にこもりっぱなしではなく、様々な人に会ったり、会話したりしてみようと、少しずつ色々な場所に顔を出しました。庄内にも様々な考えを持っている方々が沢山いました。農業者だけでなく異業種の方々ともお話をして、とても刺激になりました。
そこから何故か、農業の魅力にどんどんはまってきました。少しずつではありますが、土や野菜の特徴などに興味が出てきて、気がつくと農業がどんどん楽しくなってきていました。
例えば、じゃがいもは世界に2000品種も存在します。家の農場では8品種のじゃがいもを栽培していますが、種類によって煮崩れしやすかったりしにくかったり、揚げ物に向いているものなど、人と同じでじゃがいもも一つ一つ性格が違います。
ですから、ただ売るのではなく、野菜の特徴などを知るため、自分で料理もしてみることにしました。すると購入してくださる方に「おいしく食べられましたか?」と尋ねたり、逆に「こうやって使っても美味しかったですよ」と教えてもらったり、楽しいコミュニケーションが生まれました。特に「叶野さんの野菜は味が濃い、違う」と言って頂いた時は、最高の喜びの瞬間です。人と話し合うと色々な情報を聞くことができてすごく楽しい。それを参考にしながら、自分で作った野菜は、自分で納得のいくように販売したいと思うようになりました。
ところで、農業は天気の影響を受けやすく、毎年同じように野菜を育てても、上手く出来ないこともあります。特に管理が難しく、毎日が勉強です。それにしても最近は、雨の降り方や気温の変化などが激しく、天候が異常な感じがします。
楽しくなかった農業がどんどん楽しくなり、打ち込めるようになった一番の理由は、やはり両親の存在です。ここ山形の農業は、稲作中心の経営が大半の中、我が家は畑作専門、野菜中心でやってきました。ほかと違うことをやってきたのですから大変だったと思いますが、逆にやり甲斐もあったのでしょう。常に前に進むことを考え、真剣に取り組む姿勢は、知らない間に自分に大きな影響を与えていたのです。面白さもようやく実感できるようになり、仕事への誇りを持つことも出来ました。
農業を初めて10年ぐらい経ちますが、まだまだ解らないことが沢山あります。少しずつ情報を集めたり勉強をして、質の高い、納得のいく野菜を作り、販売していきたいと思います。
今は日本だけでなく、世界中で様々な問題が起こり、大変な世の中になっています。この中で自分はどのように農業経営をしていかなければならないのか、前向きに考えていこうと思っています。
最後に、農業は面白いです。