私が暮らす街

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10月15日号寄稿  阿部 英明さん(酒田市住吉町)

第213回  『戊辰から150年。山形から鹿児島1836`自転車野宿旅』

 6月30日、台風が接近する中、私は自転車に荷物をのせ一路鹿児島までの旅をスタートしました。何か馬鹿げたことがしたいのと、もっと大きな仕事や人間力を身に付けたいからでした。2カ月前より準備して鶴岡信用金庫の若手経営者育成塾で宣言した時、担当の方より来年は戊辰戦争から150年目にあたると聞き、何か不思議な縁を感じたことも後押ししてくれました。酒田の南洲神社から鶴岡の荘内神社を経由して、新潟から日本海側を行くルートを計画。宿泊場は各地の道の駅と決めていました。初めての自転車旅に不安はあったものの、何か変われるきっかけがこの道の先にあると期待し漕ぎ続けました。
 新潟県を抜け糸魚川の土砂崩れで迂回し県境にたどり着いた時に、初めてベルギーから自転車旅に来た家族と出会いました。同じ目標を持った人との出会いは、言語が違っていても涙が出るほど嬉しかったです。毎朝7時30分にはスタートして1日多い時は150`漕ぎ続け、夜は22時になる日もありました。野宿は慣れてきましたが宿泊場所の道の駅は郊外にしかなく、夜は人がいない道が殆どです。また県境地帯のトンネルは恐怖です。側道が殆どないトンネルはトラックからあおられたりと、突入する時は荘内神社で頂いたお守りを握りしめて神頼みしていました。
 福井県に入りまた恐怖を体験しました。夜21時、街灯のない湖畔の山道を永遠と6`漕ぎ続けました。とてつもない恐怖感。坂道ではスピードは落ちて獣や幽霊が見えそうです。意識を殺そうと思いついたのが、「家族や両親、職場への感謝の言葉」でした。恐怖より今こうして旅ができていることを、何回も言葉に発しながらようやく灯が見えた時は涙が込み上げてきました。感謝。その夜は雷と豪雨。色々テントで考え抜いた結果、ルート変更をすることにしました。夜になっても民家やコンビニのあるルートです。それから急遽、滋賀県は琵琶湖に入り大阪を経由し、愛媛から九州に入ろうと決断! 滋賀県境は心臓破りの坂! なんとか乗り切った時、下りでリヤのブレーキパッドが効かなくなりました。重い荷物の影響で思ったより早くパッドが擦り減ったのです。しかし、幸いにも琵琶湖には多くの自転車ショップがあり、翌朝から部品交換ができました。おそらく日本海側を進んでいれば、今回の旅は終わっていたでしょう。
 京都、奈良、大阪と国道2号線は交通量も多く精神的に体力も消耗していきます。福山でも大雨で立ち往生しました。そして尾道を手前にまた事件です。今度は変速ギアが壊れてしまい変速が効かなくなりました。しかし尾道の自転車ショップにまた助けられました。コース変更は本当に良かったです。
 夢に見た自転車で初めてのしまなみ海道へ! そこはサイクリストの聖地と言われる自転車専用道路が続きます。多くの外国人が自転車で旅行に来ており沢山の友達ができました。しかし! 安心したその時にホイルの骨(スポーク)が折れるというハプニング! でも今治の自転車ショップが手作りで直してくれました。ここまで来たらなんとかゴールしたい思いが募ります。愛媛県では今回の旅のもう一つの目的がありました。それは児童養護施設を慰問することです。頑張っている大人を見て、人生に生きる目標を感じて頂くことができたと思います。
 やっとのことフェリーで大分県に入りました。しかし!佐伯市でまたスポーク2本が折れて交換。翌朝10号線で延岡を目指しトイレを借りたスタンドで、ペットで飼われている巨大イノシシ3頭を見ることができました。そして宮崎県の日南を南下して、鹿児島県を下から北上して桜島に入りました。猛暑でスタンドのホースで身体に水を浴びながら、汗の匂いと少し痩せた体でフェリーに乗り、その瞬間を噛みしめました。翌日南洲神社と知覧特攻平和記念館まで行き旅は終了しました。
 今回の旅で得たもの、それは未来や過去をあまり気にせず、常に今・ここ≠大切に生きることです。そして人生の目的(意味)を明確にすることだと思いました。今後は家族や職場、地域にもこの経験を生かしていきます。人生は変われる! 最後まで読んで頂きありがとうございます。
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【阿部英明(あべ・ひであき)さん プロフィール】
1974年、酒田市生まれ。
国際医療福祉大学大学院卒業。パワーリハビリテーションデイサービス、竹内式ケアマネジメントで治す介護と、スポーツ医科学に基づいたウオーキング&ランニングフォーム分析を提唱。世の中の人々の人生を、より豊かに導くことをミッションに活動中。庄内認知症あんしん生活実践塾実行委員長。鶴岡信用金庫若手経営者塾1期生

9月15日号寄稿  花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第212回  「『キビショ』と『セナギ』」

 耳慣れないカタカナ語が次々と流出し、とても覚えきれない。こんなことは若い人に任せて、旧来の日本語で暮らしたい…と思うのだが、外国との交流を欠いては一日たりとも生活できないという現状のためのようだ。そのせいか国会中継を聞いていてもやたらとカタカナ語が登場する。議員と言えば結構お年を召した人々…のイメージを抱いていたが、そんな方々でも上手にカタカナ語を使いこなしているから、さすがは先生達である。そうしないと国際感覚が希薄…と国民に疑われるから、無理して多用しているのかもしれないが…。
 各地にあるプロスポーツチームの名称や、新しくできた公的な建物の名称までもがカタカナの愛称で呼ばれている。その意味は名付け親しか分からないものが多いが、中には外国語と方言を混ぜた造語もあり、とても親しまれる…とは思われない意味不明なものもある。
 さて「キビショ」という方言をご存じの方はごくごく限られていることだろう。これは茶葉と湯を入れて茶を注ぐ急須のことである。我が家ではこの急須を「キビショ」と呼んでいた。しかし成長の後あちこちで暮らしたが、この呼び名を耳にしたことがない。我が家独自の造語であったのか、それとも近辺だけの方言かもしれない。うっかり口にしたら笑いものになる…と思い、長い間封印したまま忘れかけていた言葉である。それが最近ある本の中にこの単語が登場していたのである。
 図書館2階の資料館で見た『荘内』という雑誌に、庄内の方言集があったのを思い出し、「キビショ」を探すと、なんと「急須」とあるではないか。ここで初めて我が家だけの言葉ではないことを確認した。
 鎌倉時代の僧栄西が宋から茶の種を持ち込み、日本での茶道が始まった…が定説である。中国の中でも台湾に近い福建省が茶の発祥地で、今も本場とされている。当初は薬として用いたために他の薬草と同様、乾燥した茶葉を粉にひいて煎じた液を服用したのだが、江戸時代中期になって、粉ではなく葉を煎じて飲用する方法が普及した。それは「急須」と言う便利な器が発明されたからであった。この茶器は茶葉の販売促進の一環として発明されたようである。日本でもこの器によって貴族だけの茶道から、広く庶民にまで普及したのである。生産地宜興(キビシャオ)の名が器名となったらしい。関西には最近まで男児の性器を「キビショ」と呼んだ。まさに意を得た表現である。ちなみに北海道では「キビチョコ」と呼んだそうだが、今も残っているかは不明である。女児の場合は何故かテンマと呼んだそうだが、この解釈が難しい。辞典に頼れば「人を悪しき道へ誘う鬼」とある。
 「セナギ」も最近はまったく聞く機会がない。キビショよりも身近と言おうか日常生活に密着したものであった。これは方言ではなく『広辞苑』も「せせらぎ」と説明する共通語である。しかし私が子供の頃には「下水」をこのように呼び、「せせらぎ」とは縁遠く、汚くてプーンとドブの匂いが漂う場所であった。
 NHKの「ブラタモリ」で大阪に今も残る「太閤下水」に触れていた。当時の町割は大通りの両側が同じ町とされ、隣町とは背中合わせになっていた。境界が不鮮明にならないようにと、その間に共用の下水溝を走しらせて町境とした。これは鶴岡も同様で、隣町との間には細い排水路があった。しかし今ではその跡も確認し難く入り組んでいる。この下水を「セナギジリ」と呼んでいたが、共通語では何と言うのか…辞典を開くと「?」と書き「底の石が見える小川、セセラギ」とあった。セナギジリはその訛りだったのだ。大通りは店が連なって町境が不鮮明になったが、昔ながらの排水路がかすかに残り、現在も町内を分けているようだ。
 昭和30年代の「町名変更」で排水路の町境から、道路で町を分けるように変わってからは、この水路が注目されることもなくなり、また下水道の発達で注目度も薄れ、ますます肩身が狭くなったように感じる。しかし今でも町の境界となっている所もあり、目にすると、思わず(ご苦労様)と声をかけたくなる。

7月15日号寄稿  佐藤 宗雲さん(鶴岡市宝田二丁目) 

第210回  とわずがたり其の十『鶴ヶ岡から松ヶ岡へ』

 明治元年(一八六八年)、庄内藩は、新政府より朝敵とされ討伐を受ける立場となった。同年七月四日(旧暦)、二個大隊二千名が鶴ヶ岡城の二の丸広場に集結した。一番大隊長は家老松平甚三郎(二十三歳)、二番大隊長は中老酒井玄蕃(げんば、二十五歳)。藩首脳の激励の後、各大隊長に指揮され、大手門を通り三雪橋を渡り進軍して行った。
 玄蕃がこのころに詠んだ漢詩のうち二首を意訳する。
  「出発の時、  鶴城の空に二羽の白鶴が  現れて大きく翔舞し、我  らの行先をいざなうかの  ように東方へ去った。皆、  吉兆と喜ぶ。漢の武帝の  頃、善く外敵の侵攻を防  ぎ世民の尊敬を集めた衛  青と霍去病の二人の名将  のように我らもありたい」。  「北顧(新政府軍の南下  による脅威)を憂う。東  方(内陸や会津)の状況  も悪い。何としても庄内  の地と民を護らねば…」
 詩には玄蕃の清らかな人間性と国の命運を一身に担う決意を秘めた青年の姿を見る。
 その後、増設された三個大隊は、各前線に展開する前記二個大隊を補翼し戦闘に入った。各大隊には応募した農民や町人ら二千名が混成され、支藩の松山兵を加えると総数五千を超えた。ほぼ全員に近代銃が支給され、近代式野砲三十門を有する庄内の装備は敵味方の中でも特に優れ、苦戦したのは近代的装備を有する佐賀藩の兵のみだったという。米沢地域を除く現在の山形県全域を転戦し制圧して、鳥海山を越え秋田へ軍を進め、終始敢闘した。しかし、八月までに仙台と米沢、九月中旬に会津が降伏。孤軍となった庄内は、今は官軍となり、その先兵となった米沢の厚意を受け、九月二十六日降伏。戦死者三百二十二名、負傷者四百十二名。今年は戦死者の百五十回忌に当たる。
 敗戦で誇りと自信を失った藩士に追い討ちをかけ廃藩置県が断行され職を失う。若干の退職一時金を手にしても多くの藩士と家族が生活に窮乏し、街には生きる希望を失った無頼の若者が徘徊するようになった。心を痛めた旧藩の指導者たちは開墾を決断する。明治五年、旧藩士のうち二千九百十四人は、絹を作る桑畑を開墾するため、毎日、鶴ヶ岡城下から東へ十`程の後田(松ヶ岡)に鍬を担いで歩いて通った。大木を倒し、巨岩を取り除き整地する作業は過酷だった。食事以外は全くの無報酬。開墾には田川地域から三万六千余人、飽海地域から二千余人の農民たちが無償で参加した。当時、一般に農民の身長体重は武士たちより大きかった。武士は剣術などで体を鍛えていたが、婚姻し役に就くと殆どしなくなる。農民は体が続く限り農作業に明け暮れ汗を流している。体力の差は歴然。農民の参加は旧藩士たちをいよいよ奮い立たせ開墾作業は加速し、明治七年までに三百十一町歩の桑園を創出した。
 松ヶ岡開墾の主たる目的は、士族の授産(生活援助)ではなく、彼らに自信の回復と生きる勇気を甦らせようとするものだった。このことは開墾終了後に松ヶ岡に残った者が開墾者のたった一%の三十二戸だったことでも分かる。外に帰農を希望する者が若干いたが、耕地面積等から松ヶ岡へ残れなかった者たちは近在の山林や農地を求め、開墾して養蚕を始め、松ヶ岡に蚕を供給するようになる。旧藩士たちは、自信を取り戻し、官員、教員、警察官、軍人、北海道開拓農民、絹織物工場、農業倉庫、金融業などの殖産興業の荷い手となり、松ヶ岡を巣立っていった。
 今年、文化庁は、鶴岡市を「サムライゆかりのシルクのまち」として「日本遺産」に認定し、公益財団法人日本城郭協会は、全国五百の城郭から百の城を選び「続日本百名城」を発表し、これに「鶴ヶ岡城」が入った。早速訪れた全国の「お城ファン」は「城らしい物が何も無く、がっかりした」と言っていた人が多かったという。堀と土塁が僅かに残っているのみでは、どんな城だったのか分からない。歴史学や考古学は過去の資料や遺構から人間の行動を推認し今後に示唆を与える学問だ。山形市は半世紀以上も前に霞ヶ城の復元作業を始め、今も続けている。庄内の歴史は酒井氏の治世と鶴ヶ岡城を抜きにして語れない。
 批判を承知で言えば、御隅櫓の一つでも復元できないか。図面が残されており復元は容易。費用は二億円程度で足りよう。遺構の復元は大きな意味がある。整備されれば「城下町鶴岡」を象徴する場となり、観光客の興味も呼び、求心効果も高まる。これが契機となり庄内史を研究対象とする学者の増加も期待できる。公園の中に茶屋などの休憩の場を設ければ、多くの方が訪れてくださるように思う。
 時流に飛びつかず、地味で息の長い研究(復元)活動は市が提唱する「鶴岡ルネサンス」(学術と文化の復興運動)そのものといえる。再現された御隅櫓は松ヶ岡の蚕室と並び史跡として永く残り、鶴ヶ岡と松ヶ岡を結ぶ道は「絹の道」となる。
(浄土宗藤澤寺 住職)

6月15日号寄稿 酒井 忠順さん(致道博物館 副館長)

第209回  『松ヶ岡愛』

 4月28日の「日本遺産」認定の鶴岡市記者発表。致道博物館館長であり松ヶ岡開墾場総長でもある父・酒井忠久の代理で出席した。「ついにこの日が来たか」。これまでのことを思い出して涙が出そうになった。
 小学生の頃、祖父に連れられて、松ヶ岡のお祭りに行った。私の中の記憶はそこが出発点。松ヶ岡の人たちは皆とても楽しそうに笑っていた。当時の長老の方々は私にも丁寧すぎるくらいに話しかけてくれ、可愛がってくれた。この頃は松ヶ岡がどういうところかもよく分かっていなかったのだけれど。
 昭和59年、父が中心となり、松ヶ岡の第一番蚕室に松ヶ岡開墾記念館を開館し、その向かいにある第二番蚕室で「一翠苑」という食堂を始めた。松岡物産株式会社を創業し、毎晩、遅くまで食堂に隣接する事務所で残業していた父に、母と一緒によく夜食を届けにいった。大変そうだったけど、何だかとても楽しそうだった創業期。
 母も事業を手伝うようになり、「ギャラリーまつ」を主宰。当時からバイタリティーの塊のようだった母は企画展を多数開催した。致道博物館館長となった父に代わって松岡物産の社長になってからも、特産品販売、シルク製品の企画販売と事業を広げていった。この頃の両親は本当に多忙で、子ども心にまるでスーパーマンのように思えた。
 私は大学に進学して上京。学芸員の資格を取得しそのまま東京で就職した。その頃、松ヶ岡はちょうど変革期を迎えた。藤沢周平さんの「蝉しぐれ」が映画化されることになり、松ヶ岡にオープンセットが完成。第5番蚕室には「蝉しぐれ資料館」(現在の映画村資料館)もオープンした。
 平成18年3月、両親の希望もあって故郷に戻った。地元のことをもっと勉強した方がよいということで荘内銀行に入行。平成21年3月に母から松岡物産株式会社を引き継いだ。
 それから毎日、松ヶ岡開墾場に通うことになるのだが、今思えば、あらゆる物事を両親からただ引き継いだだけのことだった。はたして松ヶ岡に対する両親の熱い情熱と想いについてもきちんと継承できているか? と自問自答する今日。
 両親の松ヶ岡に対する想いには今でも本当に頭が下がる。松ヶ岡が大好きで、「松ヶ岡に向かっているとき、本当にワクワクするのよ」と母。松ヶ岡を魅力的にするために「ギャラリーまつ」の運営に力を尽くし、父はそれを陰ながら温かく支えた。
 一昨年、松ヶ岡でお客様と待ち合わせをしていた母は、通りすがりの別の観光客の御一行にも話しかけて、開墾記念館に誘って一緒に入館。そのまま館内を案内していた。本当にすごいなぁと思った。母曰く「せっかく松ヶ岡にお越しいただいたのに、ここがどういうところか分からずにお帰りになるなんて…もったいない!」今も昔もただひたすらに「松ヶ岡愛」の人なのだ。
 昨年7月、国指定史跡松ヶ岡開墾場の土地と建物(蚕室5棟)を鶴岡市が正式に取得。史跡の保存・修復の懸念は払拭された。鶴岡市の英断であり、日本遺産認定を本気で目指す鶴岡市の覚悟でもあったと感じる。
 出来る限りの努力はしてきたのだが、明治8〜10年建立の木造建物群をはじめとする史跡を致道博物館と松岡物産で所有し修復、保存していくのは本当に限界があった。
 昨年9月、天皇陛下・皇后陛下が行幸啓で松ヶ岡開墾場をご視察され「これだけの建物をよく残してくださいました」との御言葉を頂戴した。これまでの先人・先輩方、そして両親の苦労が報われた瞬間だった。たくさんの松ヶ岡愛が、その心が、今回の日本遺産認定につながったのだと思う。
 日本遺産認定は出発点であり、今後どのように活用していくのかが重要となるだろう。松ヶ岡愛を心に抱き、熱い情熱と想いのあふれる人たちが集結し、松ヶ岡がこれからも多くの人々に愛される特別な場所であり続けることを心から期待したい。  ふと気づくと、車を走らせて松ヶ岡に向かっていることがある。本当、ごく自然に。そこには私なりの「松ヶ岡愛」があるのかもしれない。
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【酒井 忠順(さかい・ただより)さん プロフィール】
1974年鶴岡市生まれ。旧荘内藩主酒井家19代。羽黒高等学校を卒業後、獨協大学大学院経済学研究科修士課程、立教大学学芸員過程を修了。2006年に荘内銀行に入行。09年から松岡物産株式会社(現・株式会社荘内藩)代表取締役。16年から致道博物館理事・副館長。東北公益文科大学評議員、日本刀剣美術保存協会庄内支部支部長も務めている。

4月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第208回  『観 桜 記』

 日本人の桜好きは自他共に認めるところである。「三日見ぬ間の桜…」などの言い回しは、あれだけ待ったのにあっという間に散ってしまうことへの不満であろうが、これを「潔い…」と解釈する。阿部菜穂子の著書に「英国の桜は2カ月以上楽しめる…」と書いている、「羨ましい…」と口に出すことはしないけど「もう少し咲いていて」が正直のところだ。
 3月中旬に伊豆から「河津桜開花」の一報が届けられる。当地ではまだ日陰に雪が残っていることさえあり羨ましい限りだ。河津桜はソメイヨシノよりも色が濃いのに魅せられた人が、庭へ移植したのに端を発し、何人かがその孫枝を育てた。それがネズミ算式に増え、やがて「町の木」に選ばれた。それを記念し、学会でもヒカンザクラから独立させて「カワツサクラ」の品種登録が行われたのである。伊豆が大地震に見舞われ、傷んだ河津川の堤防へこの桜を800本殖えて「町おこし」を計ったのが昭和50年であった。
 復興を育樹にかけて、市民は除草や消毒などの奉仕活動に励み育てた。すくすく育ってくれたお礼にと、平成3年「市民桜まつり」を開くと3000人が集まったので、以来恒例行事として定着した。平成10年に東京のマスコミが取り上げたところ、翌年には100万の人出に膨れ上がり、以来全国花見のトップバッターに定着した。
 この地は相撲の決まり手「河津掛け」や、仇打ち「曽我兄弟」とも深い関わりがあり、その延長で当市の旧朝日村大鳥ともつながっている。ある年それらを確かめたく、伊豆へ調査に伺った。目的は達したのだが、河津へ立ち寄れなかったのをとても後悔している。
 吉野では「下千本、中、上、奥千本…」といわれるが、実数は10万本の山桜とか。山が桜林になったのは自然現象ではなく、大峯山信仰の開祖である役行者が桜木で蔵王権現像(本尊)を彫刻したことから桜を伐るのが禁忌とされ、これが10万本になる根源である…ともいうし、また信者が参詣後に祈願成就を込めて一本の桜を植えたのが始まり…ともいわれる。さらに京都の東山もまた山桜の名所である。
 当地でも4月に入るや堀の周りにボンボリが立ち始め、松の木橋のダンゴ屋開業が報じられると、やにわに胸が躍り出す。その頃になると私と同類の「春待ち人」が三々五々公園にやって来ては桜の枝先を凝視する姿を見かける。最近は少雪のせいで開花が毎年早まっているようだが、開いてから三分咲き、五分咲きとなり「この分では次の土日がピークか」と予想する。だがその後に戻り寒がやって来て記録的な満開日を延期されてしまう。それだけならまだしも満開を前に、強風や雨が襲うことがある。翌日の堀は一面の「花筏」となる。ひんしゅくを買いそうだが私はこの景色が大好きで、ペンネームにしているほどだ。「花筏」は弘前公園のものが有名だが、鶴岡の堀もそれなりのあじわいがある。
 これを機に売店も去りいつもの公園に戻る。最近は公益大前(旧テニスコート)や旧相撲場の近くの八重桜の下に幾組かの円陣ができる。小グループの楽しそうな笑い声が流れて来る。
 私の花見はまだ終わらない。「お山王はん」の本殿裏にある御衣黄(ギョイコウ)という品種の桜を静かに眺めるのを見おさめとする。大ケヤキの間にあるのでここの桜は、一層細い若木に見える。この桜のつぼみは濃いピンクで、どんなきれいな花を咲かすのだろうか…とわくわくさせる。ところが開花すると花弁はソメイヨシノの倍ぐらいあり、しかも八重咲きであるから、開花しだては羽化したばかりの蝶のように柔らかそうで、微風にも飛ばされそうな弱々しさだ。時間と共に白が濃くなり、さらに数日するとその白が薄緑に変化する。その頃になると若葉も大きくなっていて、花と葉を見紛ってしまうほどである。ふと、「つぼみの時のあの美しいピンクはどこへ行ったのか」と、花弁をよくよく凝視するとピンクの細いラインとして残っていた。このようにつぼみから散るまでの間、色々と変化を見せるこの木は、山王町内会が平成の初頭に植えたもので、当時の役員は「八重桜を注文したのだが…、数年後に咲いたのは御衣黄であった…」とのこと。
 この変身上手の花を知ったのは、十数年前に山形大学の知人から誘われて、構内の桜畑を見に行った時である。それっきり忘れていたが、たまたま日枝神社で巡り会い、すっかり魅了されてしまった。この花を見ていると「願わくば花の下にて春死なん…」と西行の心境に近づけるような気がしてくる。
 この桜が散る頃、北海道から花だよりが届く。札幌の手前まではソメイヨシノ地域だが、旭川周辺の道央ではエゾ山桜、さらに北東ではチシマザクラとか。日本の桜も正月の「啓翁桜」から数えれば、ざっと6カ月は楽しめるのである。

3月15日号寄稿 佐藤 大典さん(鶴岡市文下)

第207回  「寝たまま脱力体操」を広めたい

 この原稿を書いている今(2016年12月15日)、私は「鶴岡市ビジネスプランコンテスト2016」のビジネスプランを考え、書いている真っ最中です。私は「寝たまま脱力体操」というプランを書いています。締め切りはもう一週間ぐらいです。書いている最中は家の中を歩き回ったり、逆にずっと横になっていたり、独り言をブツブツ言ったりと、他の人にはけっして見せられない状態になっています。昔話の「鶴の恩返し」で「作っている時の自分の姿をけっして見てはいけないですよ」と言っている鶴の気持ちを自分も痛いほど感じてます。
 なぜ私がこの「鶴岡市ビジネスプランコンテスト2016」に応募するかというと、それは「鶴岡信用金庫若手経営者塾・マネジメントキャンパス」というものに私は入塾しているからです。そしてその若手経営者塾の卒業課題ということもあって、この「鶴岡市ビジネスプランコンテスト2016」に応募することになりました。
 この若手経営者塾の講義を聞いて、今まで馴染んできた「庄内」を新たに「ビジネス」という面で見ることができました。
 例えば、我孫子勝広先生の話ですが「加茂水族館」を例に挙げ「クラゲに絞りこむこと」で成功したという話も印象に残っています。また、アル・ケッチァーノの奥田政行先生が庄内地産の野菜を使って料理を作ってビジネスをしたりとか、慶応義塾大学先端科学研究所の研究を使ってビジネスをしたりとか、あらためてビジネスの面で「庄内」を見ると色々と素晴らしいことをやっていて、自分の庄内に対する認識も変わってきました。
 また、この経営者塾で先生や同じ塾生の人たちとお話をして、経営や起業などのビジネスについて具体的にイメージすることができるようになりました。今までは一人で考えていてばかりでよく分からなかったのが、自分のビジネス面について具体的にどこに相談すればいいかなどの情報が入ってくるようになりました。あと雑談で普通にビジネスの話ができる場ができたことも一つの収穫です。
 それで私は「鶴岡ビジネスプランコンテスト2016」で「布団で寝たまま脱力体操」のプランを思いつき書くことにしました。
 私は独学ながらここ10年以上の間、体をスムーズに動かすようにする体操や理論などを勉強、実践してきました。私の祖母が入院して寝たままたの姿を見て、また私の職場で肩、腰、膝など痛みを持って働いている人達の姿を見て、自分は何かできないかなと思いました。そして、そういう人達にもまた予防のためにも、布団で寝たまま体のメンテナンスなどをして快適に過ごせることを思って「寝たまま脱力体操」を周りの人達に広めるプランを考えました。
 また大学の時から心理学にも興味があり、心と体はつながっているということで「寝たまま脱力体操」をしながら「睡眠や夫婦仲、家族仲」など心理面や生活面も良くしていくことも同時にこのプランで考えました。
 私は庄内の人をはじめすべての人が心も体も快適になって、快適な生活ができることを願っています。私も「みんなの幸せ屋さん」として何かしていきたいと感じてます。
 そのためにもこの「若手経営者塾」で学んだことなどをきっかけにして実現していきたいと思います。 …………………………………………………………………………………………………
【佐藤大典(さとう・だいすけ=旧姓・劔持)さん プロフィール】
1973年、鶴岡市生まれ。文教大学人間科学部卒業。
その後、庄内に戻ってカジュアルファッションの店員、携帯電話売り場の店員を経て現在、大手スーパーで食品レジを担当。一方、20代の頃に「幸せ屋さん」を出版し、今は「みんなの幸せ屋さん」というブログを発信。鶴岡信用金庫若手経営者塾1期生

2月15日号寄稿  城戸 弘明さん(鶴岡市鼠ヶ関)

第206回  『鶴岡を盛り上げる「何か」を探しに』

 私が神奈川で勤めていた頃、当時付き合っていた彼女と「もしも宝くじが当たったらどう使うか」という、皆が一度は妄想するような夢の話をしたことがありました。初めは家を建てるだとか海外一周など、取りとめもない考えを言い合っていたと思います。しかし、私も彼女も鶴岡市の出身ということもあり、次第に「地元に農業体験メーンのテーマパークを作ろう」「温海温泉に岩盤浴入り放題の温泉施設を作ろう」など、宝くじの使い道というよりも、どうしたら地元である鶴岡が元気になるのかということについて真剣に話し合うようになっていきました。就職のために地元を出ていても「いつかは地元に戻って鶴岡が活性するようなことをしたい」。そんな心の奥底にあったぼんやりとした願望、自分の中の一種の地元愛のようなものに私はこの時気づいたのでした。
 彼女との結婚を機に2014年の春、私は地元鶴岡に戻り実家の家業を手伝うことになりました。家業とはいえ、また一から仕事を覚える日々が始まり「鶴岡を盛り上げる何か」を考える間もなく業務に追われ一日、また一日とあっという間に数カ月が過ぎていきました。
 それでも地元貢献したいという考えが消えたわけではありませんでした。結婚し、子供も生まれ、子供たちの世代にとって、もっと素敵な街になっていてほしい。むしろその思いは強くなったように感じました。そんな時に見つけたのが、鶴岡信用金庫主催の若手経営者塾の塾生募集でした。私は迷わず応募し、若手経営者塾へ入塾しました。
 鶴岡在住の経営者として「鶴岡を盛り上げる何か」を探すために経営者塾へ出席し様々な講師の体験・経験談、そして未来についての話を聞きました。貴重な話と共に、同年代で家業を継承する人や起業しようとしている人と繋がることができました。
 経営者に必要なものは何か? 経営者としてのビジョンの描き方とは? 経営者としての正しい判断とは? など入塾当初の私は経営者として何かを学び取らなければならないと前のめりになっていましたが、時間が経つにつれ考え方が変わってきました。前のめりで経営者とは? という自らの答えを探すばかりでは意義が無いということに気づいたのでした。「なにかを必ず得る!」と気負わずに肩の力を抜いて講義を受けるようにしたところ、今まで感じてこなかったものを感じるようになりました。それは経営者塾講師の「熱」です。どなたも自らの考えに「熱」を持っていました。地域や社会のためにできることを考え実行したリアルケースを講義で体験することができました。講師の中には実際に会社を経営している代表(社長)の方もいらっしゃいました。私は講義を通して経営者に一番必要なのは「熱」であるという単純で強烈な刺激を受けました。何かを成すために、当事者意識をもつことで「熱」を発し、その「熱」に共感した「熱」を持った仲間が集まりそれぞれに合うやり方で事業をすすめることが成功へと繋がると感じました。成功している誰かと同じようにしても同じ結果は得られない、成功した人と同じようにすることで自らの判断を誤る恐れがあると思いました。自分の描くビジョンについてとことん考えて実行することが重要だと思いました。
 そんな人たちと様々な話をしている内に私にも何かできることがあるのではないかと思うようになりました。そして「鶴岡を盛り上げる何か」を探すために地元でできることを思い切ってやってみることにしました。初めは、昨年に鶴岡・酒田で行われた「豊かな海づくり大会」へ自社製品を提供しました。実際にイベントで使用していただいたことで思っていた以上の手応えがあり「鶴岡を盛り上げる何か」に少し近づけた気がしました。
 今では、できない理由を探したり、言い訳をして諦めてしまうことがなくなりました。そして、全て前向きに考えるようになりました。できることを考えることで、できないと諦めていたこともできることに変わってきました。深く考えればほとんどのことはできることに変わると思うようになりました。こうしてできることを積み上げていくことでいつか仲間を集め「鶴岡を盛り上げる何か」を実現したいと考えています。
 最後に、若手経営者塾は今年第2期を迎えることになると思いますが、私は可能な限り2期の講義へも参加したいと考えています。そして、新たな「熱」を持った人と繋がり「鶴岡を盛り上げる何か」を実現する仲間を見つけたいと思います。そんな仲間と共に、子供たち世代に今よりもっと素敵な街「鶴岡」を残すことができたらと展望しています。
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【城戸弘明(きど・ひろあき)さんプロフィール】
  1987年生まれ 鶴岡工業高等専門学校卒業後、神奈川県川崎市内の会社に勤務。その後地元に戻り、家業の貴石加工業を継承。鶴岡信用金庫若手経営者塾1期生

1月15日号寄稿  佐藤 宗雲さん(鶴岡市宝田2丁目)

第205回  とわずがたり其の九『善行のふるまい二』

 平成七年一月十七日(日曜日)の朝、国家公務員だった筆者は、中部地方の任地に戻るため、自宅を出て鶴岡駅で特急列車を待っていた。
 予定時間が過ぎても列車が来ない。待合室にいたら、NHKニュースで、神戸市とその一帯で大きな地震があり、数十人の死者が出た模様と伝えていた。その後は、死者が次々と増大する放送が続いた。列車の到着は遅れに遅れ、午後二時頃になった。その頃には死者が数千人に上っていると放送していた。容易ならぬ事態が起きていることを察した。羽越本線、信越本線、中央本線を乗り継いだが、どの列車も少し動いては止まりの繰り返し。任地の駅に着いたのは翌日の午前四時を回っていた。
 震災発生から六日後の土曜日、大阪在住の恩師に従い、浄土宗総本山の知恩院(京都市東山)に赴き勤行をさせていただき、そのまま総本山に一泊。翌日、恩師と分かれ、神戸へ向かった。電車は混んでいた。皆、帽子を被り、リュックを背負い、重い荷物を抱え、黙っている。少し離れた座席に小学校高学年と低学年の姉弟らしい子供がいた。周囲の人との話のやり取りから、二人はボランティアで、疲れた被災者や救援者たちの肩叩きをしようと来たようだ。こんな危険極まりない所へ我が子を送り出した親の心情は如何ばかりであったか。神戸の街は一面焼け野原。まだ煙が方々で燻っている。表現し難い異様な臭い。その中で、消防、警察、自衛隊、自治体の人たちが気忙しく動いている。大人たちに交じり、炊き出しなどの手伝いをしている小中学生もいた。長い列をなして静かに立ち並ぶ被災者の方々にパンや菓子などを黙々と手渡している人たち。不運のどん底にいる被災者たちと、これを助け、支えようと動いている人たちとの、何とも言えぬ一体感を観た。後日、視察に訪れた村山富市総理(当時)は、その姿に感銘し「侍じゃのう」と言われたとのこと。僧服で来た筆者も、関係者やご家族の要請を受け、僅か数時間ではあったが、発見の場所、ご遺体、遺品などをご廻向申し上げた。
 この震災では、ボランティア活動をする団体や個人が大きな役割を果たした。こういう事態が起きた時、官のみでの対処は、最早、不可能であることが明らかとなった。一方で、現場にいた自治体の救援担当者は「ボランティアの方々にはとてもありがたいと思っています。でも約束の日時の直前に『来れなくなった』と電話が入るとがっかりする。割り振りを大至急再編しなければならないんです。ボランティアであっても責任感を持ってほしい」と語っていた。この震災が契機となり、ボランティア団体(NPOやNGO)に法人格を付与し、公益活動の範囲を定め、責任ある活動、組織運営と経理の公正化等を図るため、平成十年に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行された。法律制定の実現に先頭に立って奔走されたのは、郷土の先輩、故加藤紘一代議士だった。今後はNPO法人の活動の質と力量をどう高めてゆくかが課題と言われている。
 鶴岡市の新文化会館が姿を現し始めた。もう一年程で完成すると聞いている。良いものができるよう心から祈っている。「そんなことは判っている」と言われればそれまでだが、ここでおさらいをしておく。新会館の建設費は約百億円。コンクリート建物のため経験則では五十年前後で取り毀し。その取り毀し費用二十億円か。年間維持費が二億円とすれば五十年で百億円。その他、十数年に一度の割合で相当規模のメンテナンス工事も出てくる。とすると最低でも二百二十億円は上回る。収益を生まなければ殆どが国費と鶴岡市民の税金から支出されることとなる。宝の持ち腐れ、赤字の垂れ流しにならぬようにしたい。それには市民に最高の芸術文化(音楽・古典芸能・演劇、学術文化講演など)を数多く提供すること。魅力があれば入場料は多少高くとも人は来る。稼働日数を増やし、年間の維持費の半額の一億円くらい(年間二百五十日のフル稼働で一日四十万円。満席の千二百で割ると一席当たり三百余円)は新会館自体で収益を上げれば市の負担も減る。新会館の運営を受託するのはNPO法人と聞いているが、そんなに難しく考える必要はない。要は、市と市民の最大多数に喜ばれる活動をすればいい。
 鶴岡を離れ、長年、一人、東京で生活していた七十代後半の男性が昨年十二月、生涯を終えられた。東京と鶴岡にいる同級生たちは今も社会で活躍し多忙を極めている中で縁者と力を合わせて葬儀をされたという。筆者の親しい知人も同様の環境の中で二年前、縁者や友人たちに見送られた。非公表の葬儀に何十人もが駆けつけ、故人を偲んでくださった。故人の住まいはその遺志により、寄付を受けた公益法人の手により、一年後、働く母親たちのため、乳児用の保育園として蘇った。
 世の中は人々の助け合いの力で回っていることを思い知らされる。
 (浄土宗藤澤寺 住職)