私が暮らす街

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4月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第208回  『観 桜 記』

 日本人の桜好きは自他共に認めるところである。「三日見ぬ間の桜…」などの言い回しは、あれだけ待ったのにあっという間に散ってしまうことへの不満であろうが、これを「潔い…」と解釈する。阿部菜穂子の著書に「英国の桜は2カ月以上楽しめる…」と書いている、「羨ましい…」と口に出すことはしないけど「もう少し咲いていて」が正直のところだ。
 3月中旬に伊豆から「河津桜開花」の一報が届けられる。当地ではまだ日陰に雪が残っていることさえあり羨ましい限りだ。河津桜はソメイヨシノよりも色が濃いのに魅せられた人が、庭へ移植したのに端を発し、何人かがその孫枝を育てた。それがネズミ算式に増え、やがて「町の木」に選ばれた。それを記念し、学会でもヒカンザクラから独立させて「カワツサクラ」の品種登録が行われたのである。伊豆が大地震に見舞われ、傷んだ河津川の堤防へこの桜を800本殖えて「町おこし」を計ったのが昭和50年であった。
 復興を育樹にかけて、市民は除草や消毒などの奉仕活動に励み育てた。すくすく育ってくれたお礼にと、平成3年「市民桜まつり」を開くと3000人が集まったので、以来恒例行事として定着した。平成10年に東京のマスコミが取り上げたところ、翌年には100万の人出に膨れ上がり、以来全国花見のトップバッターに定着した。
 この地は相撲の決まり手「河津掛け」や、仇打ち「曽我兄弟」とも深い関わりがあり、その延長で当市の旧朝日村大鳥ともつながっている。ある年それらを確かめたく、伊豆へ調査に伺った。目的は達したのだが、河津へ立ち寄れなかったのをとても後悔している。
 吉野では「下千本、中、上、奥千本…」といわれるが、実数は10万本の山桜とか。山が桜林になったのは自然現象ではなく、大峯山信仰の開祖である役行者が桜木で蔵王権現像(本尊)を彫刻したことから桜を伐るのが禁忌とされ、これが10万本になる根源である…ともいうし、また信者が参詣後に祈願成就を込めて一本の桜を植えたのが始まり…ともいわれる。さらに京都の東山もまた山桜の名所である。
 当地でも4月に入るや堀の周りにボンボリが立ち始め、松の木橋のダンゴ屋開業が報じられると、やにわに胸が躍り出す。その頃になると私と同類の「春待ち人」が三々五々公園にやって来ては桜の枝先を凝視する姿を見かける。最近は少雪のせいで開花が毎年早まっているようだが、開いてから三分咲き、五分咲きとなり「この分では次の土日がピークか」と予想する。だがその後に戻り寒がやって来て記録的な満開日を延期されてしまう。それだけならまだしも満開を前に、強風や雨が襲うことがある。翌日の堀は一面の「花筏」となる。ひんしゅくを買いそうだが私はこの景色が大好きで、ペンネームにしているほどだ。「花筏」は弘前公園のものが有名だが、鶴岡の堀もそれなりのあじわいがある。
 これを機に売店も去りいつもの公園に戻る。最近は公益大前(旧テニスコート)や旧相撲場の近くの八重桜の下に幾組かの円陣ができる。小グループの楽しそうな笑い声が流れて来る。
 私の花見はまだ終わらない。「お山王はん」の本殿裏にある御衣黄(ギョイコウ)という品種の桜を静かに眺めるのを見おさめとする。大ケヤキの間にあるのでここの桜は、一層細い若木に見える。この桜のつぼみは濃いピンクで、どんなきれいな花を咲かすのだろうか…とわくわくさせる。ところが開花すると花弁はソメイヨシノの倍ぐらいあり、しかも八重咲きであるから、開花しだては羽化したばかりの蝶のように柔らかそうで、微風にも飛ばされそうな弱々しさだ。時間と共に白が濃くなり、さらに数日するとその白が薄緑に変化する。その頃になると若葉も大きくなっていて、花と葉を見紛ってしまうほどである。ふと、「つぼみの時のあの美しいピンクはどこへ行ったのか」と、花弁をよくよく凝視するとピンクの細いラインとして残っていた。このようにつぼみから散るまでの間、色々と変化を見せるこの木は、山王町内会が平成の初頭に植えたもので、当時の役員は「八重桜を注文したのだが…、数年後に咲いたのは御衣黄であった…」とのこと。
 この変身上手の花を知ったのは、十数年前に山形大学の知人から誘われて、構内の桜畑を見に行った時である。それっきり忘れていたが、たまたま日枝神社で巡り会い、すっかり魅了されてしまった。この花を見ていると「願わくば花の下にて春死なん…」と西行の心境に近づけるような気がしてくる。
 この桜が散る頃、北海道から花だよりが届く。札幌の手前まではソメイヨシノ地域だが、旭川周辺の道央ではエゾ山桜、さらに北東ではチシマザクラとか。日本の桜も正月の「啓翁桜」から数えれば、ざっと6カ月は楽しめるのである。

3月15日号寄稿 佐藤 大典さん(鶴岡市文下)

第207回  「寝たまま脱力体操」を広めたい

 この原稿を書いている今(2016年12月15日)、私は「鶴岡市ビジネスプランコンテスト2016」のビジネスプランを考え、書いている真っ最中です。私は「寝たまま脱力体操」というプランを書いています。締め切りはもう一週間ぐらいです。書いている最中は家の中を歩き回ったり、逆にずっと横になっていたり、独り言をブツブツ言ったりと、他の人にはけっして見せられない状態になっています。昔話の「鶴の恩返し」で「作っている時の自分の姿をけっして見てはいけないですよ」と言っている鶴の気持ちを自分も痛いほど感じてます。
 なぜ私がこの「鶴岡市ビジネスプランコンテスト2016」に応募するかというと、それは「鶴岡信用金庫若手経営者塾・マネジメントキャンパス」というものに私は入塾しているからです。そしてその若手経営者塾の卒業課題ということもあって、この「鶴岡市ビジネスプランコンテスト2016」に応募することになりました。
 この若手経営者塾の講義を聞いて、今まで馴染んできた「庄内」を新たに「ビジネス」という面で見ることができました。
 例えば、我孫子勝広先生の話ですが「加茂水族館」を例に挙げ「クラゲに絞りこむこと」で成功したという話も印象に残っています。また、アル・ケッチァーノの奥田政行先生が庄内地産の野菜を使って料理を作ってビジネスをしたりとか、慶応義塾大学先端科学研究所の研究を使ってビジネスをしたりとか、あらためてビジネスの面で「庄内」を見ると色々と素晴らしいことをやっていて、自分の庄内に対する認識も変わってきました。
 また、この経営者塾で先生や同じ塾生の人たちとお話をして、経営や起業などのビジネスについて具体的にイメージすることができるようになりました。今までは一人で考えていてばかりでよく分からなかったのが、自分のビジネス面について具体的にどこに相談すればいいかなどの情報が入ってくるようになりました。あと雑談で普通にビジネスの話ができる場ができたことも一つの収穫です。
 それで私は「鶴岡ビジネスプランコンテスト2016」で「布団で寝たまま脱力体操」のプランを思いつき書くことにしました。
 私は独学ながらここ10年以上の間、体をスムーズに動かすようにする体操や理論などを勉強、実践してきました。私の祖母が入院して寝たままたの姿を見て、また私の職場で肩、腰、膝など痛みを持って働いている人達の姿を見て、自分は何かできないかなと思いました。そして、そういう人達にもまた予防のためにも、布団で寝たまま体のメンテナンスなどをして快適に過ごせることを思って「寝たまま脱力体操」を周りの人達に広めるプランを考えました。
 また大学の時から心理学にも興味があり、心と体はつながっているということで「寝たまま脱力体操」をしながら「睡眠や夫婦仲、家族仲」など心理面や生活面も良くしていくことも同時にこのプランで考えました。
 私は庄内の人をはじめすべての人が心も体も快適になって、快適な生活ができることを願っています。私も「みんなの幸せ屋さん」として何かしていきたいと感じてます。
 そのためにもこの「若手経営者塾」で学んだことなどをきっかけにして実現していきたいと思います。 …………………………………………………………………………………………………
【佐藤大典(さとう・だいすけ=旧姓・劔持)さん プロフィール】
1973年、鶴岡市生まれ。文教大学人間科学部卒業。
その後、庄内に戻ってカジュアルファッションの店員、携帯電話売り場の店員を経て現在、大手スーパーで食品レジを担当。一方、20代の頃に「幸せ屋さん」を出版し、今は「みんなの幸せ屋さん」というブログを発信。鶴岡信用金庫若手経営者塾1期生

2月15日号寄稿  城戸 弘明さん(鶴岡市鼠ヶ関)

第206回  『鶴岡を盛り上げる「何か」を探しに』

 私が神奈川で勤めていた頃、当時付き合っていた彼女と「もしも宝くじが当たったらどう使うか」という、皆が一度は妄想するような夢の話をしたことがありました。初めは家を建てるだとか海外一周など、取りとめもない考えを言い合っていたと思います。しかし、私も彼女も鶴岡市の出身ということもあり、次第に「地元に農業体験メーンのテーマパークを作ろう」「温海温泉に岩盤浴入り放題の温泉施設を作ろう」など、宝くじの使い道というよりも、どうしたら地元である鶴岡が元気になるのかということについて真剣に話し合うようになっていきました。就職のために地元を出ていても「いつかは地元に戻って鶴岡が活性するようなことをしたい」。そんな心の奥底にあったぼんやりとした願望、自分の中の一種の地元愛のようなものに私はこの時気づいたのでした。
 彼女との結婚を機に2014年の春、私は地元鶴岡に戻り実家の家業を手伝うことになりました。家業とはいえ、また一から仕事を覚える日々が始まり「鶴岡を盛り上げる何か」を考える間もなく業務に追われ一日、また一日とあっという間に数カ月が過ぎていきました。
 それでも地元貢献したいという考えが消えたわけではありませんでした。結婚し、子供も生まれ、子供たちの世代にとって、もっと素敵な街になっていてほしい。むしろその思いは強くなったように感じました。そんな時に見つけたのが、鶴岡信用金庫主催の若手経営者塾の塾生募集でした。私は迷わず応募し、若手経営者塾へ入塾しました。
 鶴岡在住の経営者として「鶴岡を盛り上げる何か」を探すために経営者塾へ出席し様々な講師の体験・経験談、そして未来についての話を聞きました。貴重な話と共に、同年代で家業を継承する人や起業しようとしている人と繋がることができました。
 経営者に必要なものは何か? 経営者としてのビジョンの描き方とは? 経営者としての正しい判断とは? など入塾当初の私は経営者として何かを学び取らなければならないと前のめりになっていましたが、時間が経つにつれ考え方が変わってきました。前のめりで経営者とは? という自らの答えを探すばかりでは意義が無いということに気づいたのでした。「なにかを必ず得る!」と気負わずに肩の力を抜いて講義を受けるようにしたところ、今まで感じてこなかったものを感じるようになりました。それは経営者塾講師の「熱」です。どなたも自らの考えに「熱」を持っていました。地域や社会のためにできることを考え実行したリアルケースを講義で体験することができました。講師の中には実際に会社を経営している代表(社長)の方もいらっしゃいました。私は講義を通して経営者に一番必要なのは「熱」であるという単純で強烈な刺激を受けました。何かを成すために、当事者意識をもつことで「熱」を発し、その「熱」に共感した「熱」を持った仲間が集まりそれぞれに合うやり方で事業をすすめることが成功へと繋がると感じました。成功している誰かと同じようにしても同じ結果は得られない、成功した人と同じようにすることで自らの判断を誤る恐れがあると思いました。自分の描くビジョンについてとことん考えて実行することが重要だと思いました。
 そんな人たちと様々な話をしている内に私にも何かできることがあるのではないかと思うようになりました。そして「鶴岡を盛り上げる何か」を探すために地元でできることを思い切ってやってみることにしました。初めは、昨年に鶴岡・酒田で行われた「豊かな海づくり大会」へ自社製品を提供しました。実際にイベントで使用していただいたことで思っていた以上の手応えがあり「鶴岡を盛り上げる何か」に少し近づけた気がしました。
 今では、できない理由を探したり、言い訳をして諦めてしまうことがなくなりました。そして、全て前向きに考えるようになりました。できることを考えることで、できないと諦めていたこともできることに変わってきました。深く考えればほとんどのことはできることに変わると思うようになりました。こうしてできることを積み上げていくことでいつか仲間を集め「鶴岡を盛り上げる何か」を実現したいと考えています。
 最後に、若手経営者塾は今年第2期を迎えることになると思いますが、私は可能な限り2期の講義へも参加したいと考えています。そして、新たな「熱」を持った人と繋がり「鶴岡を盛り上げる何か」を実現する仲間を見つけたいと思います。そんな仲間と共に、子供たち世代に今よりもっと素敵な街「鶴岡」を残すことができたらと展望しています。
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【城戸弘明(きど・ひろあき)さんプロフィール】
  1987年生まれ 鶴岡工業高等専門学校卒業後、神奈川県川崎市内の会社に勤務。その後地元に戻り、家業の貴石加工業を継承。鶴岡信用金庫若手経営者塾1期生

1月15日号寄稿  佐藤 宗雲さん(鶴岡市宝田2丁目)

第205回  とわずがたり其の九『善行のふるまい二』

 平成七年一月十七日(日曜日)の朝、国家公務員だった筆者は、中部地方の任地に戻るため、自宅を出て鶴岡駅で特急列車を待っていた。
 予定時間が過ぎても列車が来ない。待合室にいたら、NHKニュースで、神戸市とその一帯で大きな地震があり、数十人の死者が出た模様と伝えていた。その後は、死者が次々と増大する放送が続いた。列車の到着は遅れに遅れ、午後二時頃になった。その頃には死者が数千人に上っていると放送していた。容易ならぬ事態が起きていることを察した。羽越本線、信越本線、中央本線を乗り継いだが、どの列車も少し動いては止まりの繰り返し。任地の駅に着いたのは翌日の午前四時を回っていた。
 震災発生から六日後の土曜日、大阪在住の恩師に従い、浄土宗総本山の知恩院(京都市東山)に赴き勤行をさせていただき、そのまま総本山に一泊。翌日、恩師と分かれ、神戸へ向かった。電車は混んでいた。皆、帽子を被り、リュックを背負い、重い荷物を抱え、黙っている。少し離れた座席に小学校高学年と低学年の姉弟らしい子供がいた。周囲の人との話のやり取りから、二人はボランティアで、疲れた被災者や救援者たちの肩叩きをしようと来たようだ。こんな危険極まりない所へ我が子を送り出した親の心情は如何ばかりであったか。神戸の街は一面焼け野原。まだ煙が方々で燻っている。表現し難い異様な臭い。その中で、消防、警察、自衛隊、自治体の人たちが気忙しく動いている。大人たちに交じり、炊き出しなどの手伝いをしている小中学生もいた。長い列をなして静かに立ち並ぶ被災者の方々にパンや菓子などを黙々と手渡している人たち。不運のどん底にいる被災者たちと、これを助け、支えようと動いている人たちとの、何とも言えぬ一体感を観た。後日、視察に訪れた村山富市総理(当時)は、その姿に感銘し「侍じゃのう」と言われたとのこと。僧服で来た筆者も、関係者やご家族の要請を受け、僅か数時間ではあったが、発見の場所、ご遺体、遺品などをご廻向申し上げた。
 この震災では、ボランティア活動をする団体や個人が大きな役割を果たした。こういう事態が起きた時、官のみでの対処は、最早、不可能であることが明らかとなった。一方で、現場にいた自治体の救援担当者は「ボランティアの方々にはとてもありがたいと思っています。でも約束の日時の直前に『来れなくなった』と電話が入るとがっかりする。割り振りを大至急再編しなければならないんです。ボランティアであっても責任感を持ってほしい」と語っていた。この震災が契機となり、ボランティア団体(NPOやNGO)に法人格を付与し、公益活動の範囲を定め、責任ある活動、組織運営と経理の公正化等を図るため、平成十年に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行された。法律制定の実現に先頭に立って奔走されたのは、郷土の先輩、故加藤紘一代議士だった。今後はNPO法人の活動の質と力量をどう高めてゆくかが課題と言われている。
 鶴岡市の新文化会館が姿を現し始めた。もう一年程で完成すると聞いている。良いものができるよう心から祈っている。「そんなことは判っている」と言われればそれまでだが、ここでおさらいをしておく。新会館の建設費は約百億円。コンクリート建物のため経験則では五十年前後で取り毀し。その取り毀し費用二十億円か。年間維持費が二億円とすれば五十年で百億円。その他、十数年に一度の割合で相当規模のメンテナンス工事も出てくる。とすると最低でも二百二十億円は上回る。収益を生まなければ殆どが国費と鶴岡市民の税金から支出されることとなる。宝の持ち腐れ、赤字の垂れ流しにならぬようにしたい。それには市民に最高の芸術文化(音楽・古典芸能・演劇、学術文化講演など)を数多く提供すること。魅力があれば入場料は多少高くとも人は来る。稼働日数を増やし、年間の維持費の半額の一億円くらい(年間二百五十日のフル稼働で一日四十万円。満席の千二百で割ると一席当たり三百余円)は新会館自体で収益を上げれば市の負担も減る。新会館の運営を受託するのはNPO法人と聞いているが、そんなに難しく考える必要はない。要は、市と市民の最大多数に喜ばれる活動をすればいい。
 鶴岡を離れ、長年、一人、東京で生活していた七十代後半の男性が昨年十二月、生涯を終えられた。東京と鶴岡にいる同級生たちは今も社会で活躍し多忙を極めている中で縁者と力を合わせて葬儀をされたという。筆者の親しい知人も同様の環境の中で二年前、縁者や友人たちに見送られた。非公表の葬儀に何十人もが駆けつけ、故人を偲んでくださった。故人の住まいはその遺志により、寄付を受けた公益法人の手により、一年後、働く母親たちのため、乳児用の保育園として蘇った。
 世の中は人々の助け合いの力で回っていることを思い知らされる。
 (浄土宗藤澤寺 住職)

12月15日号寄稿  水原 元さん(鶴岡市高坂)

第204回  「2017年も『障害者に優しい街』でありますように」

 絵本に全く関心を示さなかったHくんが、赤い丸、青い丸、黄色の丸…を正確に指さしするようになったと言っては涙を浮かべるお母さん。何を話しているかわからなかったダウン症のSくんが朝「オハヨー」と言葉を出した日、お母さんと療育者は手を取り合って喜び…。
 この多機能型事業所が開設して半年間、さまざまなドラマがありました。
 ここに初めて来られたお母さんたち(自閉症、ダウン症、言葉の出ない重度障害まで)は涙を流します。障害を持つ子を産んだ自分を責め続けた日々、子育てで家族の協力を得られなかった回想、舅や姑から人並みでない孫ができたのは嫁のせいだと責められ苦汁をなめた時、ここは涙を拭いたティッシュの一番多く出るところです。
 そうした涙が、子供たちのささやかな変化を目の当たりにして、自分の子も日々成長しているんだという希望の涙に変わる時、共に喜び、使命感を新たにします。
 私は幸運なことに学生時代、国際関係論で博士号を取られた宇野重昭教授に学びました。先生は、工学部の市井三郎先生の講義を受けた方がよいでしょうと話してくださいました。それが市井三郎氏を知るきっかけでした。市井教授は、岩波新書で「歴史の進歩とは何か」を著しています。その著書で、歴史の進歩とは、自らに責任のない問題で苦痛を受ける割合が減ることによって実現されると述べています。
 発達障害は明らかにお母さんの責任ではありませんし、ましてや、子供たちの責任でもありません。
 鶴岡市の広報4月号で「障害のある人もない人も、ともに生きる社会の実現へ」を特集していました。その中で「障害がある人が使いづらい施設…、障害のある人を意識していない習慣・文化、障害のある人への誤解や偏見をなくする」と、謳っています。
 「先生、おれ上級生からきちがいと言われた」と訴えてきた発達障害の子がいました。親から馬鹿と言われ、暴力を受けてきた青年もいます。発達障害(DSM‐5)で自閉症スペクトラム障害の子たちは何で苦しんでいるのか。以前教師だった私が学校を離れて見えてきたことは、子供たちが家に帰ってきてからの悲しい実態でした。
 子供たちは、ある瞬間に目つきががらっと変わるのです。母親を殴り、壁に穴を開け、テレビを壊し、暴れ回るのです。そして落ち着くと、自分がやったことのあまりのひどさに、また自らを責めます。そうした子供たちは、平衡感覚、固有覚、前庭覚といわれる、体を無意識に制御する土台が凸凹なのです。そのため、味覚をはじめとして視覚、聴覚、触覚などの発達も不均衡です。姿勢もぐにゃぐにゃです。落ち着きません。集中できません。運動能力も不均衡なので集団ゲームが苦手です。幼稚園、保育園時代から遊びが成立しにくいわけです。ひいては子供集団の中ではぐくまれる仲間とのルール、善悪の判断などの社会性も身につけにくくなってしまいます。つまり、集団遊びができる運動能力と技能がないため、けなされ馬鹿にされやすいのです。
 もう一つ、毎日子供たちの自尊感情を傷つけているのが宿題です。カウンセリングに訪れる人の多くは自閉症傾向を持ち、国語が苦手という共通点があります。優秀な大学を出ても作文が書けないという人もいます。能力以上の特性を理解しない宿題で家族に批難され、逆に暴れる原因になっています。それを助長しているのがゲームや携帯です。自閉症傾向を持つ子たちは、ゲームやテレビなどの人工光に依存しやすい傾向があります。ゲーム依存によって、体を鍛えたり巧緻性を高める遊びを奪われ、学習意欲を消滅させられています。それだけでなくSNS依存は、一旦学習した内容も消すことがわかってきています。
 こうした悩みや苦しみを少しでも軽減させるため、鶴岡の相談支援事業所の皆さんが支援網を組織してくださっています。
 病院の先生の直接指導、診察情報、教育委員会の指導主事の指導、教育相談担当の皆さんの詳細な心理検査報告なくして支援の方針は立てられません。学校の校長先生、担任の先生、幼稚園・保育園の園長先生、保育士さん、社会教育担当の指導者さん、本当に充実したご支援に感謝いたします。そして何よりも行政、福祉担当の皆さんの温かいご理解に感謝いたします。
 障害も持った子と保護者の皆さんにとって、2017年が良き年になることを祈ります。そして、鶴岡の歴史の進歩に貢献してくださる、心優しき皆さんに幸多かれと祈ります。

11月15日号寄稿 花筏 健さん(鶴岡市本町一丁目)

第203回  『マゴビシャク』

 活字を追っていて「マゴビシャク」という不可解な言葉に出会った。早速辞書を見ると「針葉樹の根株に発生する、高さ10〜15aのキノコ」とある。「美味なのかナ…」。毎年繰り返されるキノコの食中毒は、このような好奇心から引き起こされるのかもしれない…などと思いながら、植物図鑑を開いた。
 黒褐色のカサに少し凹凸があるキノコの写真に「サルノコシカケ目マンネンタケ科」と書いてある。人間でいえば人種まで明記した戸籍のようなものであるが、私の最も知りたいのは「毒キノコなのか」「美味なのか」であるのに、それには触れていない。
 写真を見る限りではカサが開ききったナメコのようで、どう見ても旨そうではない…。
 説明には「成熟期になると、カサの上がココア状の粉に覆われ、それを拭き取ると黒い漆塗りのような光沢のある表面に変わっている。これはキノコ自身が塗料のニスに似た物質を分泌するためで、これを境に肉が硬いコルク質に変わっていく…」とある。塗料のような物質を有するとか、コルクに変わるなどの性質を知った瞬間から「美味」の期待は吹き飛んだ。
 しかしこの珍奇なキノコを乾燥させたものを中国では「霊芝」と称し珍重した。「霊芝」とは「幸福をもたらすキノコ」の意味で、それを遣唐使か遣隋使が学習し日本へ持ち込み、薬品としたのだそうだ。どんな病に効くのだろうかと薬草の本を瞥見すると「鎮咳(せきどめ)、去痰、肝臓保護、不整脈、消化不良などに効果あり…」とある。
 この「霊芝」は吉祥茸、神芝、福草とも書き、どれを見てもめでたい、ありがたいキノコである。一般的には日本の在来種であるマンネンタケを指し、以来「マンネンタケ」が一躍注目を浴びて、貴重なキノコとして躍り出た歴史があった。日本にはそれに酷似したマゴビシャクも既存していたのだが、当時このキノコはマンネンタケの同種…と解されてしまい、話題の貴重品にはなり得ないでいた。
 「マゴビシャクは私が与えた名…」と平成元年刊の『原色日本新菌類図鑑』に著者の今関氏が書いている。別種であることを公言したのであるが、それが何年のことなのかは不明だ。昭和36年出版の『牧野新日本植物図鑑』では、まだ同種と見なされていたらしく「マゴビシャク」は掲載されていないので、命名は昭和40年代ではないだろうか。
 この人は明治37年東京に生まれ、東京帝大卒後農林省林業試験場勤務、日本植物病理学会長、菌類学会長を歴任したキノコ博士である。
 今関氏がどのようないきさつから「マゴビシャク」という名称を思いついたのかが、とても興味深い。芭蕉の『湯雁記』に「北国街道(現福井県南越前町)の湯ノ尾峠にある茶屋の側にある「孫杓子神社の碑」のことが書いてあるとか。安倍清明がこの地を通った折に「疱瘡の神」と出会い、苦闘の末ここへ封じ込めて「命は助けてやるから、疱瘡を封じる方法を聞かせろ…」と迫り、ついに聞きだした。その病気除けが「孫杓子」であった。この経緯は近松の『傾城反魂香』や十返舎一九の『湯尾峠孫杓子』にも登場し、全国に広く知られることになったようだ。
 理系の学者は専門分野にぞっこんで、どちらかといえば世事にやや疎いような先入観を持たせるが、今関氏がこれらにも熟知した粋なお方…と拝察した。
 このキノコの軸はカサの中心からややはずれているのが特徴でもあり、これが杓子に見えなくもない。そんなことからこの名前が付いたものか。
 これを書いていて、我が家にもこのキノコに似たものがあったことを思い出した。20〜30年前に西郷コミセンで「相撲話」をした時、聴衆の一人から乾燥したキノコを頂いた。初対面の方でもあり、ろくに説明も聞かなかったのだが、キノコを寝かしておくのも気が利かないので、台を作って飾っていたのを思い出した。戸棚を探すと奥から当時のツヤを保ったままの姿で出てきた。今思えば貴重品を惜しげもなく下さったことに改めて深く感謝している。

10月15日号寄稿  菅原 義勝さん(致道博物館 学芸員) 

第202回  『致道博物閑話』

 10月1日、致道博物館が開館して以来初めての光景が広がった。駐車場を埋め尽くす人、人、人。多くが若い女性たち。余裕をもって作っておいたはずの整理券200枚も全く足りず、手書きで100枚追加。並んでいただいたお客様は500人近くにのぼった。
 現在、開催中の展覧会「SAMURAIの美  出羽庄内藩酒井家ゆかりの名品」の開幕式に参加するため、多くの方々にお越しいただいたのである。
 皆さんのお目当ては当館所蔵の重要文化財「短刀 銘
吉光(名物信濃藤四郎)」。昨今の刀剣ブームを牽引しているオンラインゲーム「刀剣乱舞‐ONLINE‐」で、この4月に登場した「刀剣男士 信濃藤四郎」のモチーフとなった短刀である。
 まずは率直な感想。きっかけはゲームであっても、貴重な資料の数々を多くの方から見ていただけるのは、準備を続けてきた職員の一人として、とてもうれしい。
 致道博物館は、昭和25(1950)年に旧庄内藩主酒井家より土地と建物、伝来の文化財などが寄付されて創立した。もとは御隠殿(藩主の隠居所)と土蔵2棟に庭園があるのみだったが、明治時代に建てられた擬洋風建築物の旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署庁舎(現在修復工事中)、江戸時代に建てられた古民家・旧渋谷家住宅が移築され(すべて国の重要文化財)、建物内では歴史から民俗資料までバリエーション豊かな常設展示を行っている。
 私たち職員が新館≠ニ呼んでいる建物2階で開催中の同展では、酒井家伝来の名品を、これでもかというくらいびっしり並べている。 
 織田信長と徳川家康から拝領した国宝の太刀二振りをはじめとする名刀の数々、酒井家初代・忠次から3代・忠勝までの甲冑や国指定重要文化財の墨跡「潮音堂」、本間美術館所蔵の茶道具、日本美術刀剣保存協会所蔵の刀剣や掛軸、黒川能(春日神社、上座・下座所蔵)の装束・能面など、普段は目にすることのできない名品45点を一堂に公開している。
 ところで、新館が建てられたのは昭和35(60)年。鉄筋コンクリート造りで改築もしていて、しっかりした建物だ。けれども半世紀前からの呼び方が現在まで続いているのが新参者の私には ビックリだ。さすが博物館といったところか。それでも誰がなんと言おうと新館は新館である。まあウチでは新しい方だし。
 今回、解説文などを作成してあらためて思うのは、名品と呼ばれる資料ひとつひとつは、当然モノとしての芸術性が高く、それを巡る歴史的背景が備わっている。この背景が資料との対話を促してくれるひとつの要素ともなる。
 ポスターやチラシに「行き交ひて、名品」という文句を謳った。名品は作られた当初から名品である。名品であるがゆえに、人から人、土地から土地へ行き交い、歴史という深煎りした味≠烽ワた加わるのである。
 今回の展覧会では、「刀剣乱舞‐ONLINE‐」の原作を制作した株式会社ニトロプラスさんの協力を得て、コラボ企画を行っている。少し具体的に言えば、「刀剣男士 信濃藤四郎」の等身大パネルの設置(当館と荘内神社)、コラボカードの配布、コラボグッズの販売、ゲーム案内役「こんのすけ」の開幕式での登場だ。  周辺の飲食店の協力により、特別メニューや特典も用意していただき、町を挙げて盛り上げていただいている。これもまた当館としては初めての試みである。  展覧会初日、実のところ館職員は皆、大慌てで来場者をご案内していた。しかし、刀剣ファンの皆さんには整然と列を作っていただき、混乱もなく終えることができた。本当にありがたく思っている。
 また、いわゆる刀剣女子の皆さんの中には、全国の刀剣を見て回っており、専門的な用語を使って評価する人もいて、目の肥えた方たちが多いことにも驚かされた。
 注目の的となっている「短刀 銘 吉光(名物信濃藤四郎)」は、作られた当初の姿をよく保ち、美しく気品のある名刀である。国宝二振りをはじめ素晴らしい名品が並ぶ「SAMURAIの美」展。10月30日までの会期中ぜひ一度足を運んでいただきたい。