寄稿 ・ 特別エッセイ

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4月1日号寄稿 中高一貫校並びに田川地区高校再編を考える市民の会 代表 大高全洋さん

『中高一貫校など田川地区高校再編を考える』

 昨年10月山形県教育委員会は「少子化に対応するため」などとして「田川地区の県立高校再編整備計画」〈第2次計画(骨子案)〉を公表しました。その計画案には、中高一貫校の設置や定時制・通信制高校を庄内町余目地域に移すなど、大きな問題点があることに多くの市民が驚いています。
 その後中高一貫校については、1月の決定を取りやめ新年度以降に協議することになりましたが、問題点について、考えてみます。

中学受験競争は小学生を苦しめます

 この計画案の最大の問題は、鶴岡南高(全日制)と鶴岡北高を統合して、県立中学校を新設する「併設型中高一貫教育校のモデルを設置する」ことです。
 1998(平成10)年の学校教育法改正で中高一貫教育制度が導入された時「偏差値による学校間格差を助長しないように」「受験競争の低年齢化を招くことのないように」など衆参両院で付帯決議がなされました。にもかかわらず、地域の進学校である鶴南と鶴北を中高一貫にすることは、決議を無視し、中学受験競争をもたらして小学校の教育、小学生の生活をゆがめることにならないでしょうか。

家計の状況が結果を左右します

 次に問題なのは、中学受験競争は早期からの塾の費用など家庭の経済状況が結果を左右し、経済格差と教育格差の悪循環を一層激化させてしまうことです。先発の東根市にある東桜学館は新年度で3年目ですが小学生の塾通いが増えているのが現実です。社会で問題となっている貧困の連鎖につながる可能性があります。

中学校間に格差が発生します

 また、県立の一貫中学校に学力の高い生徒を集めることによって、他の中学校との格差を発生させます。この格差は鶴岡・田川地区を超えて酒田・飽海地区にも波及することが懸念されています。
 現に酒田市の各界各層の関係者からは、酒田市内の中学校・高校の活力低下や教育環境の劣悪化を招く恐れがあると危惧する声が多く聞かれ、「中高一貫校の設置は、酒田・飽海地区を含む庄内地域全体の議論を踏まえて進める」ことなどを求める要望書が提出されています。庄内の中高一貫校の設置は「庄内の教育のあり方」を先に考え、その後に検討すべきです。

一貫高校の中でも格差が生まれます

 県教委は「6年間の中高一貫で生徒の能力を伸ばす」と説明していますが、「6年間の一貫した教育」を受けられるのは7クラスのうち2、3クラスの一貫中学校からの「内進生」のみです。高校から入学する「外進生」との間に格差が生まれることも懸念されます。「6年間の一貫した教育」を強調していることと矛盾が生じます。

「学力格差」を改める必要性

 県教委は、小中学校の全国学力テストの点数競争、高校の「『難関大学』、医学部進学者を増やす」ことに偏重している傾向があります。公教育には子どもたちの多様な目標を尊重し、豊かな人間性を身につけ、自立するための教育を地域住民と共に創る姿勢が求められます。公教育は学習塾ではなく、本来のあり方をもう一度考えるべきです。

定時制・通信制は通学の負担増を招きます

 定時制・通信制高校は、不登校などの困難を抱える生徒たちをも包み込んで、新しい進路を拓く大切な役割を持つ学校です。県教委は庄内町(余目)にある庄内総合高校に移す計画ですが、庄内総合高校までの通学は、多くを占める鶴岡市の生徒に大きな負担となります。鶴岡市南部からの通学は50`以上となってしまいます。

農業・水産・工業、特別支援教育、生徒会、部活動など

 庄内農業高校と加茂水産高校については、鶴岡中央高校の総合学科に統合し、専門学校の実習のために、移設が困難な既存の実習施設も活用する「校舎制」を検討する、としています。もっと多くの声を聞いて検討すべきです。そして、鶴岡南高山添校は2020年に募集停止する、などこれまで各高校が築いてきたさまざまな成果を引き継ぎ、今後発展させる道筋が示されないままに「募集停止」や「統合」することは納得できません。3月22日の署名活動で訴えのあった市民の声も含め、「3月27日の教育委員会で鶴岡南高山添校・鶴岡工業(定時制)の募集停止を先に決定すると聞いていますが、各校高が築いてきたさまざまな成果を引き継ぎ、今後発展させる道筋、通学環境の変化に伴う課題を考慮してから決定すべきではないでしょうか」等を県教委に要請しました。

まとめに

 地元・地域の教育は、子どもや孫たちの将来・未来にかかわる非常に重要な問題です。特に公教育は、市民との十分な話し合いと合意形成が必要です。わたしたちは昨年11月、共立社鶴岡生協と田川地区平和センターが呼びかけ団体になり「中高一貫校並びに田川地区の教育再編を考える市民の会」(略称「高校再編計画を考える市民の会」)を立ち上げました。そして対市、対県要請や市長との対話を積み重ねる一方、皆川治鶴岡市長と吉村美栄子山形県知事あてに「再編計画の見直し」を求める要請著名を行っています。読者各位のご意見を聞きながら運動を進めていきたいと考えています。
(事務局・〒997-0035鶴岡市泉町8‐57 田川地区平和センター TEL.0235-22-1776)

3月15日号寄稿 鶴岡市大山一丁目在住 田中芳昭さん

『庄内に中高一貫校をC』

 最後に、高校再編について触れてみたい。
 先日、先輩の先生に「高校再編ではもっと同窓会に丁寧に説明しなければだめですよ」と諭された。また、別の方からは「鶴岡西と鶴岡家政を統合して鶴岡中央高校にする時、同窓生の方々のご理解をいただくのに大変苦労した」という話も伺った。
 平成10年から5年間、鶴岡中央高校の立ち上げの時期に勤務した私は「鶴岡西と鶴岡家政を母体とし、両校の伝統を引き継ぐ、全く新しいタイプの高校」と教えられた。大山在住の私は地元に高校がなくなる一抹の寂しさを感じたものだが、今、鶴岡中央はシルクガールズコレクションや観光甲子園での活躍などこの地域になくてはならない高校になっている。鶴岡西高校と家政高校の両同窓会の大英断に敬意を表したい。
 (言い訳に聞こえるかもしれないが)私は平成22年3月に高校改革室長の任を解かれ、今回の田川地区の再編には一切かかわっていない。利益誘導になるといけないので自分の出身地区の検討から外されたのかもしれない。
  ◇   ◇   ◇
 11月の地域説明会で「36年までに再編整備しなければならないという必然性がない」という意見があったが、私は「少子化は待ってくれない。36年でも遅すぎるくらいだ」と思って聞いていた。
 平成30年から32年の3年間で田川地区の中学卒業生は178人減少する。4、5学級程度の減少という計算になる。私はこの3年間に対してもっと早く改革推進室が対応するものと思っていた。
 「田川地区の県立高校の再編整備に係る検討委員会」の報告書が取りまとめられたのが平成24年10月である。北村山地区の場合は検討委員会の報告書が出されてから2年後に具体的な再編整備計画を公表した。ところが田川地区の具体案はなかなか公表されない。定員割れが続き、自然に学級減になるのを待っているのではないかと不信感を持った時もある。
 さらに生徒数の減少は続き、改革推進室試算では36年度まで8学級減ずる必要があり、学級減だけで対応すると(鶴南4、鶴北3、鶴岡工業5、鶴岡中央6、加茂水産1、庄内農業2、山添1、庄内総合2)になってしまうということだった。これではほとんどの学校で教員数が減少し、(理系・文系別、習熟度別、理科・社会・芸術の選択科目など)生徒の多様な進路希望に対応する教育課程が組めなくなる、団体競技や現在活躍している部活動も維持できなくなるなどの弊害は火を見るよりも明らかだ。歴史ある母校を失う同窓生の気持ちは分かるが、将来の子どもたちの教育環境を考えると統合もやむなし、と思う。
 庄内地区の中高一貫校も東桜学館のように新たな土地に新校舎を期待していた私にとって、昨年9月の報道は意外だった。特に「県立中学校になる」と報道された鶴岡北高校同窓会の方々の驚きは私の想像を絶するものだったに違いない。(同窓会に説明する予定だった日の前日にTV報道されたという)センセーショナルなマスコミの報道の仕方に疑問はあるが、県教育委員会の丁寧な説明を求めたい。  ただ、この間、多くの人たちのお話を伺い、私は「鶴岡南高校と鶴岡北高校を母体とし、両校の伝統を引き継ぐ、全く新しいタイプの進学校」と考えるようになった。説明会で指摘されたように、既存の両校舎を活用することは単独校舎での中高一貫校よりメリットは薄くなるかもしれないが、全く新しい所に移り、両校の敷地・校舎が(旧鶴岡西高校跡地のように)荒れ地になっていくことを想像すると、「全く新しいタイプの進学校の前期課程と後期課程の校舎」として思い出の場所を引き継いでいくメリットの方が大きいと思い始めている。   ◇   ◇   ◇
 2月9日の中高一貫教育シンポジウムの終わり頃に須貝英彦高校改革推進室長から気になる発言があった。「(中学卒業生の減少に伴って)学級減や統廃合は必ずやらなければならない。だが、中高一貫校は必ずしも設置しなければならないということではない」と。私は「単なる数合わせの7学級の普通科高校になるのではないか」と不安になった。将来の子どもたちにとって、中高一貫校と7学級の普通科高校とどちらが良いか、読者の判断に委ねたい。
(終わり)

3月1日号寄稿 鶴岡市大山一丁目在住 田中芳昭さん

『庄内に中高一貫校をB』

 平成21年8月、県内各学区で「山形県中高一貫教育校設置構想(案)」の説明会を行った。その当時またこの間に出された質問に私の考えを述べてみたい。
  ◇   ◇   ◇
 Q1 少子化の続く中で県立の中学校を新設することは、他の中学校の学級減など既存の中学校に与える影響が大きいのでは?
 A1 全国の実績を上げている一貫校を分析すると、共通していることの一つに「設置している市の人口が10万人以上、周辺地域を合わせると20万人以上」という人口規模があった。特定の小学校から多数の入学者が出ない限り、2、3学級の中学校ならば他の中学校の学級数にほとんど影響を与えていなかった。庄内地区(西学区)はこの条件に当てはまっていると思う。
 Q2 親の経済力による教育格差を生じるのでは?
 A2 県立の中高一貫校にこだわった理由の一つに(前述した京都市立堀川高校・西京高校をモデルに)「塾や受験産業に依存しない」「学校の授業と予習・復習をしっかりやれば、自分の進路を切り開くことができる」「親の経済力によらず、がんばれば誰でも自分の進路希望を実現できる」学校を作りたかったからである。
 「親の経済力によって、塾に行ける子と行けない子の差が生じる」。まるで「塾に行かないと進路希望が実現できない」かのような論調に私は違和感を感じる。生徒の進路希望を実現する学力(さらに言えば人生を切り開く生きる力)をつけるのは塾ではなく、学校の役割ではないだろうか?
 Q3 受験競争の低年齢化を招くのでは?
 A3 「山形県中高一貫教育校設置構想」では、受験競争の低年齢化を招くことがないように「面接、作文、調査書、適性検査、抽選などを適切に組み合わせ実施する」とし、当時問題になっていた小学校の学習指導要領の範囲を逸脱した難問・奇問を含む私立中学校の算数や国語など「教科の学力試験」は実施しないこととしている。「適性検査も学力試験だ」というならば、適性検査のない選抜方法も考えられるが、「抽選には反対。学力検査をしっかりやってほしい」という意見が多く、東桜学館の選抜では「抽選」が消えていた…
 昨年の「全国学力調査」に対して、県教育委員会は「小学校、中学校ともに、極めて厳しい結果となり…全国平均との差はこれまでにないほど拡大し…大変深刻な状況である…」とコメントしている。
 私は「学力」を「氷山」に例え、海上の見える部分を(試験の点数や通信簿等の数値化される)「見える学力」と、それを支える海面下の90%の部分を(生活体験・生活習慣・学習習慣等の)「見えない学力」と説明している。全国学力調査は「見える学力」のごくごくわずかの部分を定点観測しているにすぎないが、その定点が下がっているのに比例して、「氷山」=学力全体が小さくなっているのではないかと危惧している。「最近の子どもたちは宿題が多くて大変だ」という発言があったが、全国学力調査の結果では、家庭学習時間や読書量は減少している。
 なぜ家庭学習時間が減少したのか? 少子化が進みほとんどの高校ががんばって勉強しなくても入学できるようになったからではないか?  高校等進学率は99・4%と全国1位だが、大学進学率は44・7%(全国平均53・8%)と低迷している。15の春は泣かないが、18の春に泣いているのが現状だ。
 「中高一貫校は志願者が多く、競争が過熱する」と批判されるが、それでは、なぜ志願者が多いのだろう? それは「子どもたちが入りたい」「親が入れたい」魅力があるからではないだろうか。
  ◇   ◇   ◇
 「人格の完成ではなく、(企業誘致など)人材の流入を図る…中高一貫教育校に疑問」と批判される方もいるが、「人格の完成」はどの学校でも行うべき教育の土台である。今議論しているのはその土台の上にどんな特色を持った学校を作るかということだ。荘内日報紙上で「これからの進学校の在り方」について述べたが、県外に進学した生徒の3割しか地元に戻ってこないというデータがある。「センター試験の1点、2点を競う進学校」ではなく「地域を学び地域を活性化させる進学校」を作り、子育て世代の人材流入と将来地元に戻ってこられる環境を作らなければ、この地域の少子化は止まらない。(つづく)

2月15日号寄稿 鶴岡市大山一丁目在住 田中芳昭さん

『庄内に中高一貫校をA』

   平成13年度に設置された金山地区・小国地区の連携型の成果と課題を分析すると同時に全国の状況を調べ、一口に中高一貫と言っても成功している学校と、思うように成果が上がっていない学校があることが分かった。「百聞は一見にしかず。その違いを自分たちの眼で実際に見てこよう」と、手分けしてめぼしい学校を視察することになった。
  ◇   ◇   ◇
 本県の連携型中高一貫校については、「学校が地域に深くかかわりを持ち、その郷土色を生かした地域学習などを実施し、学校と地域が一体となって成果を上げている。しかし、連携型の中学校・高等学校は設置者が異なることから、併設型中高一貫教育校や中等教育学校と比べると、6年間を見通した系統的な教育課程が組みにくい状況にある」と総括している。
 中等教育学校は、本来の中高一貫教育の趣旨である6年間の計画的・継続的な教育活動を最も効果的に展開でき、子どもたち一人ひとりに応じたきめ細かい指導が期待できる。だが、本県では、「県立高校教育改革実施計画」に基づき、教育機能の維持・向上の観点から、高等学校の適正な学校規模(1学年当たり4学級から8学級)の確保を図っている。中等教育学校は、1学年の学級数が6年間固定されており、(本県の基準となる)適正な学校規模を確保すれば、前期課程(中学校)の学級数が1学年4学級から8学級となり、既存の中学校に与える影響は小さくないと考えられる。また、他県の2学級規模の中等教育学校では中だるみへの対応や人間関係の固定化が問題になっている所もある。
 連携型にしろ併設型にしろ、志願者数が減少していて学校存続のために中高一貫を特色とした所は、最初は物珍しさもあってか志願者が増えた時期もあるが、母体となる高校に魅力のない一貫校は衰退する所が多い。
 母体になる高校の設置学科は、小学校卒業段階において、将来の職業に大きな影響を与える決定をすることには困難を伴うと考えられることから、高校卒業後の進路選択の幅が広い普通科を基本とする所が多い。特に、進学実績のある県内の二番手・三番手の所が実績を上げている。
 最も影響を受けたのが、京都市の教育改革だった。
 京都市教育委員会では「蜷川府知事の時『15の春は泣かせない』と学校群を導入する制度改革を行った。当時としては大変有効な改革だったと思う。だが何年か経つと公立高校から希望する大学に進学できる生徒が減少してきた。『公立は4年制』と言われたこともあり、学力上位の生徒たちが近県の私立高校に流れるようになった。『京都の子供は京都で育てる』と今の教育改革に取り組んでいる」と言う説明を聞いた。
 京都市の教育改革というと、生徒一人ひとりが自分の研究テーマを持つ「探究科」を設置し、難関大学進学者を急増させたことで「公立高校の奇跡」と呼ばれた堀川高校があげられる。
 昨年11月の地域説明会で「中高一貫でなくとも探究学習はできる」というご意見をいただいたが、「探究型の学びを実践するには高校3年間では不十分だった。意識の高い生徒・探究に興味を持って入学して来た生徒でも、自分の研究テーマを見つけるまでが大変だった。そこで6年間の継続的な学びの中でじっくりと探究でき、生徒の進路実現を図る中高一貫校を設置した」と京都市の中高一貫校(西京高校)の校長先生の言葉が心に残っている…
 視察の結果を持ち寄り、「中高一貫教育校設置構想(案)」のコンセプトとして『6年間の継続的な学習』による6・3・3制では伸ばしきれない『個性の伸長』『体験の積み重ね』『探究的な学習』を盛り込んだ。
  ◇   ◇   ◇
 2020年から、大学入試も従来の「知識偏重」の問題から「課題解決力」「知識活用力」「語学力」を重視する問題に変わる。中高一貫校では、「探究的な学習」を継続的に行えるなどの利点のほか、6・3・3制でいえば中学を卒業して高校に入学する間の春休みに「海外語学研修」を行うなど、高校入試で生まれる空白を上手に活用している先進校が多い。(つづく)

2月1日号寄稿 鶴岡市大山一丁目在住 田中 芳昭さん

『庄内に中高一貫校を@』

   昨年9月末「鶴岡南高校と鶴岡北高校を統合し併設型中高一貫校を設置する」旨がTV・新聞で報道された。「例年、高校再編関連事項は2月県議会だったのに、鶴岡北高校創立120周年を目前にしたこの時期になんで…?」というのが正直な気持ちだった。10月初旬に「田川地区の県立高校再編整備計画(骨子案)」が正式に公表され、11月1、2日に地域説明会が行われた。それぞれの質問や反対意見を聞き終わって「中高一貫」と「鶴岡南高校と鶴岡北高校の統合」は別々に議論すべきではないかと思った。
 平成21年に「山形県中高一貫教育校設置構想」を作成した時、高校改革推進室長だった者として「なぜ山形県に併設型中高一貫校を設置しようと思ったか」について述べてみたい。
  ◇   ◇   ◇
生徒が入りたい学校・保護者が入れたい学校を作る

 平成20年4月、突然、高校改革推進室に異動になった。
引き継ぎの時、「中学校卒業者数が昭和40年をピークに急激に減少して、平成16年度から平成26年度の10年間で約3000人の減少が見込まれており、その後も減少が続く。第4次山形県教育振興計画(4教振 平成6〜16年)では、地域の学校を残すために学級減で対応してきたが、(学級減だけでは)県全体の3分の1の高校が1、2学級の小規模校になり、生徒の希望に対応できる多様なカリキュラムや部活動など、魅力ある教育環境を提供できなくなってしまう。その総括を踏まえて、5教振(平成17〜26年)では、学校統合も含めて検討を進めている」と説明された。
 私たち改革室のメンバーは「単なる数合わせでなく、生徒が入りたい学校・保護者が入れたい学校を作る」と言う事を合言葉に、全国で志願倍率の高い(いわゆる人気のある)学校を探した。その中の一つに「中高一貫校」があった。
 (老婆心ながら)中高一貫校のタイプを復習しておきたい。
@連携型=既存の市町村立中学校と都道府県立高等学校など、異なる設置者による中学校と高等学校が、教育課程の編成や教員・生徒間交流等で連携を深める形で中高一貫教育を実施するもの。施設面の課題が少なく、比較的容易に導入できる。(例)山形県では平成13年より、金山地区、小国地区で実践されている
A中等教育学校=一つの学校として、6年間一体的に中高一貫教育を行うもの。6年間の課程は、前期課程(3年)と後期課程(3年)に区分される。原則として生徒集団が同一メンバーに固定される。1学年の学級数が6年間固定されており、適正な学校規模を確保すれば、前期課程(中学校)の学級数が1学年4学級から8学級となり、既存の中学校に与える影響は小さくないと考えられる。(例)新潟県立村上中等学校(1学年2学級)
B併設型=中等教育学校より緩やかな設置形態であり、同一の設置者による中学校と高等学校を接続するもの。中学校から選抜試験なしで高校に入学する内進生と、他の中学校から学力検査を受けて入学する外進生がある。
【平成11年4校から始まった中高一貫校は平成27年度には595校に増え、その中でも併設型(459校)が突出している】

それと同時に、進学校の在り方も検討課題の一つだった。年々、大学等への進学者数は増加しているものの、難関大学や医学部への進学者数が低迷していた。
 さらに、地元の山形大学への入学者が他県から圧倒され始めていた。【参考 山形大学への本県からの入学者が平成18年度30・6%に対して平成27年度は23・3%】センター試験の結果からも、大学進学に関しては山形県の相対的な学力は低下していると言わざるを得なかった。  それでは、山形県の教員のレベルが低いかというと決してそうではないと思う。他県では中高一貫校などを積極的に導入し、教員の人事交流によってその成果を他の進学校にも波及させている。競い合う土俵が違ってきているのだ。
 医学部や難関大学進学が全てではないが「生徒の進路希望を実現できる学校」を作りたいと思った。(つづく)

中高一貫教育シンポジウム(鶴岡市教育委員会主催)2月9日(金)午後7時〜 中央公民館

1月1日号・特別エッセイ  作家 佐藤 賢一さん

『鶴岡中高一貫校』

   鶴岡南高校と鶴岡北高校を合併して、併設型中高一貫校とする。かかるニュースが駆け抜けたのは、平成二十九年九月末のことだった。正直なところ、驚いた。山形県教育委員会の発表だったが、鶴岡市役所や現場の教職員の方々も、ほんの一部を除いて全く知らされていなかったという。まさに寝耳に水であり、驚きが反感に転じても、それは無理からぬ話か。
 両校の在校生、卒業生とも、母校がなくなるというのだから、まずは愉快であるわけがない。ことに鶴岡北の在校生、卒業生にすれば、中高一貫校では校舎が新設の中学に使われることもあり、合併とは名ばかりで、実質的には吸収ではないか、いや、鶴岡南の存続、鶴岡北の廃校ではないかと、腹立たしくさえあるかもしれない。他方で鶴岡南の在校生、卒業生にすれば、がんばって地域で一番の高校に入ったのに、これからは二番の高校と一緒にみられてしまうのかと、プライドを傷つけられる部分もあるか。
 嫌だと思えば、設置されるという中高一貫校にも懐疑的になる。今の高校のままで悪いのか。中高一貫校などという、もっともらしい御題目を唱えるだけで、海のものとも山のものとも知れないような学校に、わざわざ替える意味があるのか。完全な新設というならまだしも、伝統ある地域の一番高、二番高をなくしては、かえって鶴岡の教育レベルを下げるのではないか。そんな風に、在校生、卒業生、さらに市民一般を含めても、疑問、反対の声は少なくないと思われるのである。
 そのことを承知しながら、私はといえば、中高一貫校に賛成の声を上げたい。
 関東、中部、関西などの都市圏で中学入学といえば、今や私立に行くか公立に行くかが、ごくごく普通の会話になる。私立中学は一部の良家の子女に与えられるのみならない、しごく一般的な選択肢になっているのだ。かたわら都会の大学、ことに難関大学に進んで、公立高校の出身だといえば、ああ、地方から出てきたのかと決めつけられる時代でもある。私立中学というが、ほとんどが中高一貫校であり、そこで高校まで学んだ生徒が難関大学に合格する確率が、他とは比べられないくらいに高いからだ。開成、灘、ラサール然りで、鶴岡南で学年に一人出るか出ないかという東大進学者を、何十人の単位で出している通りである。私立の中高一貫校出身者の塊がいくつかあり、そこに地方の公立校出身者がポツリポツリと混じっているというのが、難関大学の実態になりつつあるのだ。
 もちろん中高一貫校も、ピンからキリまであるわけだが、それぞれのレベルで届くかぎりに偏差値の高い大学に生徒を送り出している。中高一貫校というのは、要するに大学受験がしやすいのだ。簡単にいえば高校受験がないからで、中高六年のスパンでカリキュラムを組める、中三の段階でそれまでの学習を復習する手間がいらない、高校二年の、早ければ夏頃にも高三までの学習を終えてしまい、あとの一年ないし一年半を今度こそ復習に、つまりは受験勉強に使える等々、とてもメリットが多い。中卒など滅多に聞かず、ほぼ高校全入という時代において、高校受験はナンセンス、やるなら中学受験で、あとはじっくり大学入試に取り組むというのが、都市圏の主流になりつつあるわけだ。
 昨今は、中高一貫校に入りたいので、地方から引っ越すという子供たちもいなくない。いや、そうさせてはいられない。地方も負けていられない。こちらの私立に限界があるならば、公立で中高一貫校を設置しよう。そうした動きも出てきていて、宮城県の古川黎明、仙台青陵、仙台二華、秋田県の秋田南、大舘国際情報学院、御所野学院、横手青陵学院、そして山形県の東桜学館と、近県本県でも確かめられる。この流れで鶴岡にも設置したいとなったわけだが、それら前例は成功しているかというと、微妙な答え方にならざるをえない。なんだかんだいってみても、やっぱり伝統ある名門校だろう、宮城で大学に行きたいなら、やっぱり仙台一、二、宮城一、二だろう、山形なら山形東で、わざわざ東根までやる意味があるかとなって、実績が乏しい中高一貫校には優秀な生徒が集まりにくいのだ。
 そこで鶴岡だが、私は鶴岡南、鶴岡北を母体にする中高一貫校だからこそ、成功する可能性が高いと考えている。中学から入るにせよ、高校から合流するにせよ、この地域の優秀な生徒たちは、他の学校には行きようがないからだ。その生徒たちがより良質な勉強ができるのだから、大学進学実績も、難関大学の合格者数も、飛躍的に伸びるに違いない。目下は鶴岡南でも山形県のナンバー2だが、鶴岡北とともに中高一貫校に移行すれば、山形東を抜いてナンバー1に躍り出ることも夢ではない。そうなれば、子供が出ていくどころか、子供が引っ越してくる。全県から優秀な生徒が集まって、鶴岡こそ教育のメッカになる、いや、そうならなければ、中高一貫校の設置は意味がない。なれると信じているから、私は賛成票を投じたいのだ。

10月15日号寄稿   鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

『鉄道記念日』

   明治5年10月14日、新橋と横浜の間に日本で初めて汽車が走った。だがそれ以前に「品川へ行けば黒牛のような陸蒸気(おかじょうき)と言うものが走っているそうだ…」との噂が広まっていた。これは試運転を見た人々から出たものだろう。物見高いは人の常で20年前黒船を見に浦賀まで歩いた江戸っ子も少なくなかったとか。しかし停泊している船とは違い汽車は何時来るかわからない、一日中待ったが空振りで帰宅する人さえいたとか。開業記念日なら「確実に見られる」と沢山の人々が新橋へ押し寄せた。それを見越し駅では多くの臨時警備員(バイト)を雇っていた。「その中にあの平手造酒(ひらてみき)もいた…」と『明治鉄道物語』に書いてある。と言ってもその「平手」を知らない人ばかりかもしれない。戦前に空前の大ヒットを放った浪曲『天保水滸伝』の主人公である。「利根の川風タモトに入れてエーエー」と2代目玉川勝太郎が放った名調子は一世を風靡し、子供でも口ずさむほど広まった。その余波が戦後の「のど自慢」にも登場したのであるから今日のヒット曲とはいささか違う。つい最近まで「金も要らなきゃ女もいらぬ、私ゃもう少し背が欲しい…」の玉川カルテットもこの玉川一門である。
 平手は若い時分、神田お玉ケ池の名門千葉道場で将来を嘱望される俊英であったが、酒の上の過ちから破門され下総を流浪中に大親分の笹川繁蔵に出会う。縄張り争いの絶えぬ業界であるだけに剣豪を抱えていれば百人力となる。とうとうその日がやって来た。ところが平手の刀が見当たらず、しかたなく親分からやくざの脇差しを借りて出陣した。これが雑な造りで間もなく鍔元から折れてしまい、11カ所の切り傷を受けて落命する…という物語である。一宿一飯の義理を通した男気が人々に受けて人気を博した。
 これは創られた話とばかり思っていたが、その本人が新橋駅のアルバイトに現れたのであるから驚く。「この日平手は野袴に陣羽織姿で警備に着いていた…」とあり、出入り直後の30歳で亡くなったという浪曲での死亡説を覆している。計算ではこの年58歳である。平手も笹川も実在の人であったことを知り、何か得をしたような気になった。
 鉄道開業記念日に人々は新橋の「ステン所」(ステーション)に集まった。駅前広場での開業式が終わると招待者は桟敷に収まり配られた弁当を食べた。その後一般市民も入場が許され、機関車を見て「牛よりはるかに大きい…」と驚き、駅員の制服に接しては恐れ入る人々でごった返した。この本には鉄道に関わる「珍事件」も載っている。
 明治6年4月、乗客の男がこらえきれずに車窓から小用をして罰金10円。終点まで53分のため、当時の貨車には便所が無かったようだ。14年には放屁し5円の罰金等々。小用はともかく屁の罰金はちと高すぎるようだが、耐えられない匂いだったのか。7年10月には新橋駅構内で機関車と貨車1両が転覆、客車2輌が脱線する事故が起こったが乗客は無事…これが初の鉄道事故。当時の乗車料金は上等車が1円50銭、中1円、下50銭と下でも米1斗(14`)が買える値段であった。
 明治7年5月には大阪神戸間にも鉄道が開通した。1時間10分を要したが料金は東京より安い。注目点は日本初の鉄製橋が架けられたこと。多摩川の橋は木製であったが10年11月に鉄製に掛け替えられた。
 汽車の本数が増加し、市民の時間感覚が大きく変わって、明(あけ)6つと暮(くれ)6つ(午前と午後の6時)の鐘だけでは不便を感じるご時世となった。そこで「芝増上寺の梵鐘を海抜26bの愛宕山頂へ移し、毎時に鳴らそう…」という案が浮上したが、移動経費や寺側の反対などから沙汰止みになったとか。ちなみに正午の知らせに「ドン」の号砲を旧江戸城で鳴らしたのは明治4年9月からで、昭和4年5月サイレンに代わるまで続いた。

7月1日号寄稿 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

『お中元』

 お中元商戦たけなわであるが「お中元とは何の日」と思う。調べてみると古代中国で1月15日の「上元」と10月15日の「下元」の2度「生き延びたことを祝った」と解説している。それが2回では足りない…と7月にも祝うことになり、それを「中元」と言った。生きることがそれだけ大変だったのだろうが、「我田引水気味で軽薄すぎる…」との意見も出た。そこで為政者は、世の中が納得するような大義はないものかと賢者に相談すると「この日は成仏できずに迷っている亡者を済度する(救う)日としたら重厚さも備わるのでは…」と提案しそれが定着した。
 それ以前からこの日は「親へ鯉を贈る日」として定着していた。先祖供養も結構だが、それよりも存命中の親を大切にせよ…との教えであろうか。鯉を贈ることが最高の孝行とされたのは、鯉が魚の王様だからである。最大の魚であり、寿命が200年と言われているからである。またまな板に載せられると覚悟を決めたように微動だにしない態度も尊ばれた理由であろう。そんなことから人生訓や逸話に取り上げられたのだろう。そんな中で最も品格を上げたのが、滝を登り切った鯉がやがて龍となって天に昇った…という『登竜門』であろう。だがこれは黄河上流の洪水多発地の村々を水害から守るために、新しい水路を切り拓いた能吏の話であるとか、こちらの方が身に迫るのに…。また「竜王の太子が鯉に化身して河を遊泳していると漁師に捕えられてしまった。まな板に載せられ包丁が下されようとした時、貧しい男が通りかかり「その鯉を分けて下さい」と有り金をはたいた、鯉を買うと近くの川へ放した。その夜、一人の女が訪ねきて一夜の宿を求めた。やがてその男の妻となり裕福になった『鯉女房』の話は、日本の『鶴の恩返し』の原型とも言うし、また亀や鯉を寺の池に放す仏教行事の『放生会』の原点とも言う。
 継母が鯉を食べたいと言うので、寒中に裸で氷に伏し鯉を捕った『二十四考』の話は有名だ。これを聞かされた男が「俺も孝行を…」と思い立ち「鯉を食べたくないか…」と老母に尋ねると「ワシは鯉が嫌い…」の落語がある。
 鯉を贈る習慣が日本へ入り、「お中元」とはお世話になった人へ贈物をする日になったのでは…。日本では鯉に代えて海の魚の干物や塩漬け、農村では魚の代用品が考え出された。そんな中で最も好評を博したのが素麺であった。その人気はやがて夏季の贈物の代名詞となり、大正から昭和初期にはボーナス袋の面書きに「素麺料」と書く事業所が多かったという。これは袋の中身が素麺を買うぐらい…と謙遜したものではなく、ボーナスそのものが夏の贈り物のために発生した制度であることを表すものである。
 鯉は中国において最大の魚であり、またまな板に載せれば覚悟を決めて微動だにしない態度が人々から尊ばれた理由である。さらに宮廷で調理中の鯉の腹から白絹に書かれた手紙が出てきたという『鯉素』の話から、鯉は文字を書く…と博学の意味にも用いられた。美形で気品があり、知識もあるのだから魚の王として不動であった。そんなことから中華料理のメインデッシュが「鯉の唐揚げ甘酢かけ」に定着したのだろう。勿論結婚式にも不可欠の食材であるが、この時調理人が気を配るのが腹ビレの処理である。これは「子留めのヒレ」と称し、妊娠しても赤ん坊を出産しないで腹の中に留めてしまう…との迷信がある。若い時何度かこれを食したが、食欲に負け腹ビレを確認する余裕などなかった。だから今も叶えられぬ夢がそのまま体内に留まっているのかも。

5月15日号寄稿 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

『ホトトギス』

 「目に青葉…」や「卯の花の匂う…忍び音もらす…」などと、ホトトギスの音色を待ちわびる時期である。その兆しの後で戻り寒に襲われると、信長の「鳴かざれば殺してしまへ…」が理解できるような気がする。
 鳥の名前はその鳴き声から付けられたものが多いそうだが、ホトトギスは昭和以前まで「テッペンカケタカ」と鳴く…と理解されていたのだが、最近は「特許 許可局」と聞こえる人が多いらしい。鳴き声が変わったのではなく、むしろ聞き取る方が変わったのであろうし、江戸家猫八の影響かもしれない。英語でホトトギスは「クックー」であるが、これはカッコウにも用いられる。
 ホトトギスの語源は「弟恋いし」の鳴き声による…と説明するものが多くあり、その関連から詩歌に詠まれた様である。初夏には昼夜もなくうるさいほど鳴くのであるが、その割に姿を見る機会は皆無に近い。だからツバメやスズメのような身近さはなかったのだが、明治31年に正岡子規が文芸誌「ほととぎす」を発刊し、徳富蘆花の小説「不如帰」がヒットしたことでぐんと身近な鳥になったものの、声だけの神秘性ある鳥として各地に語り継がれ、不如帰、時鳥、子規、杜宇などの字が当てられてきた。また蜀鳥(ショクチョウ)、杜鵑(トケン)沓手鳥(クツテドリ)、あやなしどり、とも書かれそれぞれに伝説や逸話が残されている。それだけ日本人の生活と深く関わってきたことが窺い知れる。ちなみに正岡子規の出生地である愛媛の県鳥がホトトギスであった。
 江戸っ子がホトトギスの初鳴きを待ちわびたのは、早く薄着になりたかったからである。その願望がそのまま「初音町」とか飲食店名の「初音」となって残された。蛇足ながら当市本町3の内川端にも戦時中まで料亭「初音」があった。
 ホトトギスも交尾や産卵はするが、巣作りや抱卵は放棄しウグイスの巣へこっそり卵を産む「托卵」の習性があり「無責任な母」としてよくテレビで放映される。親鳥の外出中に卵を産むが、大きさも色も見粉うばかりに酷似している。ここまでならウグイスの美談になりそうだが、ウグイスよりも3、4日早く孵化すると、このヒナがウグイスの卵を巣の外へ落とすのである。この残酷な行動は親鳥から叩きこまれたものではなく、ウミガメが孵化すると一目散に海へ向かってひた走るように、本能のなせるものであろう。こうして養母(ウグイス)の愛を受けてすくすく成長するのである。
 動物の多くは誕生後初めて接した動くものを「親とみなす」習性があるそうだが、この鳥はウグイスに親孝行どころか、翌年には托卵をするのである。しかしこの無責任な行為の成功率は1割以下であるとか。
 「初音」は江戸っ子だけではなく、田植えや山芋掘りの時期…の目安として農民も心待ちにしたようで、九州の阿蘇周辺には近年まで端午の節句に山芋を食べる習わしがあり、この日食べそこねた人はホトトギスになる…との俗信がある。
 「ホトトギス」は「弟恋いし」の擬音である…はよく見る説であり、同源であろうと思われる話が各地にある。「飢饉の折に食べ物を巡って弟を殺してしまった盲目の兄が、死後ホトトギスとなり前非を悔いて夜に鳴く…」と各地で語られている。
 ホトトギスの背は暗灰色と目立たないが、胸のまだら模様はとても目を引く。同様に秋に咲く「ホトトギス」も、控えめな小花であるが花弁の油滴模様が特徴である。
 鷹匠兄弟の宝物の鷹が病気になったので、弟に薬草探しを命じた。5日目に帰ってくると労をねぎらって、その夜は酒を勧めた。酔いと疲れで寝入ると兄は早速薬作りに入った。夜中に目を覚ました弟が星を見ながら小用を足していると、肩口から鮮血が吹き出した。一子相伝の秘薬であるがため、たとえ弟でも製造過程を見られた以上は命を頂かねばならないのが鉄則であった。丁重に葬ったのだが、後悔が押し寄せる波のように止めどなく繰り返された。秋になり見知らぬ花が咲いているのに気が付き、近づいて見ると鮮血が飛んだかのような模様の花が咲きこの時「石碑を建てよう」と決心した。

4月15日号寄稿 「読書のまち鶴岡」をすすめる会 代表 黒羽根 洋司さん

『よみかき市 鶴岡を』

 2011年3月11日に東日本大震災が起きてから6年が経ちました。復興への道まだ半ばの感がありますが、この間、私たちに多くの教訓や感動を与えてきました。
 仙台のある書店主の言葉もその一つです。「3月22日の再開の時、開店前から建物の前に300人くらいの行列ができました。翌日も同様。こんなことは初めてです」。人はどんな時にも本を求めるものだと確信させる話でした。
 陸前高田の避難所でS・Mさんは笑顔を見せながら「本を読んでいる間はホッとできる」と語っています。それに対して友人のS・Sさんは「まだ、本を読む気になれない。読もうとしても、目を通すだけになってしまう」と正直な気持ちを伝えていました。あの人がいなくなった、家もなくなった。これからの生活はどうなるのだろう、という心折れそうな日々の中から、口をついて出るお二人の言葉はどれもが真実なのでしょう。
 被災された人たちが、今どうしているのかと思いを馳せることがあります。好きだった読書ができようになった時が、生活に落ち着きを取り戻し、心の整理ができるようになった時なのかもしれません。たとえ苦境にあって、光明を与えてくれる一つである本を、きっとあの人たちはめくっていると信じたいものです。

 東日本大震災の発生と同じ2011年3月に、本を読むことの素晴らしさを語り合い、文化と知性のまち・鶴岡を誇り、守っていこうとする会が生まれました。以来、「読書で元気なまちをつくろう」をキャッチフレーズにして、さまざまな活動を展開してきました。
 良書は心の栄養剤であり、過去も現在もこれからも、人々に元気や勇気を与える糧なのです。被災された方々の語る言葉の数々は、私たちに確信を深めさせるものでした。あの人たちは、本はどんな時にも人々に日常を回復させる力を持ち、「活字が人々に与える力を信じていいのだよ」とさえ言っているようです。「信じよう、本の力を」という言葉こそが、震災と時を同じくして生まれた私たちの会に託された、彼らからのメッセージなのです。

 中央本線「南木曾(なぎそ)駅」近くに「読書村」という地名がありました。現在の木曽郡南木曾町大字読書ですが、読み方は「よみかきむら」です。明治4年の廃藩置県の際、長野と岐阜にまたがる「筑摩県」が生まれ、そこにあった七つの村のうち「与川」「三留野」「柿其」が合体した際に、それぞれの最初の音を使って「よみかき」村が誕生しました。「与三柿」でもよかったのに、どうせならばと「読書」をあてはめた明治人のセンスに脱帽です。何となく「読書」好きな村人がたくさん集まっているような錯覚すら覚えます。
 この地には「読書発電所」もあるそうで、以下は私の妄想です。そこでは村人たちが毎朝集まり、一心不乱に本を読み、やがて本を読むことによって起こるエネルギーが天井に集められます。それが大きな風車を動かして発電され、村の電力はそれでまかなわれているのです。大気汚染も温暖化も無縁の発電所です。
 発電所での仕事を終え、夕暮れの道を帰路につき、寝床であらためて、残りのページをゆっくりとめくる、こんな村の日常が浮かび上がります。
 「よみかきむら」が誘(いざな)った私の様々な妄想でしたが、「よみかき市・鶴岡」にしていこうという呼びかけならば、現実味をもったものとして皆さんの賛同を得られそうです。まずは、夢を語り合い、次世代に遺す優れた宝物を再確認する集まりに参加してみませんか。  ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆
「読書で元気なまちをつくろう・市民集い」は4月23日(日)午前11時から、市総合保健福祉センター(にこ・ふる)で。お問い合わせはTEL.0235-23-3803(五十嵐)まで。