寄稿 ・ 特別エッセイ

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5月15日号寄稿 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

『ホトトギス』

 「目に青葉…」や「卯の花の匂う…忍び音もらす…」などと、ホトトギスの音色を待ちわびる時期である。その兆しの後で戻り寒に襲われると、信長の「鳴かざれば殺してしまへ…」が理解できるような気がする。
 鳥の名前はその鳴き声から付けられたものが多いそうだが、ホトトギスは昭和以前まで「テッペンカケタカ」と鳴く…と理解されていたのだが、最近は「特許 許可局」と聞こえる人が多いらしい。鳴き声が変わったのではなく、むしろ聞き取る方が変わったのであろうし、江戸家猫八の影響かもしれない。英語でホトトギスは「クックー」であるが、これはカッコウにも用いられる。
 ホトトギスの語源は「弟恋いし」の鳴き声による…と説明するものが多くあり、その関連から詩歌に詠まれた様である。初夏には昼夜もなくうるさいほど鳴くのであるが、その割に姿を見る機会は皆無に近い。だからツバメやスズメのような身近さはなかったのだが、明治31年に正岡子規が文芸誌「ほととぎす」を発刊し、徳富蘆花の小説「不如帰」がヒットしたことでぐんと身近な鳥になったものの、声だけの神秘性ある鳥として各地に語り継がれ、不如帰、時鳥、子規、杜宇などの字が当てられてきた。また蜀鳥(ショクチョウ)、杜鵑(トケン)沓手鳥(クツテドリ)、あやなしどり、とも書かれそれぞれに伝説や逸話が残されている。それだけ日本人の生活と深く関わってきたことが窺い知れる。ちなみに正岡子規の出生地である愛媛の県鳥がホトトギスであった。
 江戸っ子がホトトギスの初鳴きを待ちわびたのは、早く薄着になりたかったからである。その願望がそのまま「初音町」とか飲食店名の「初音」となって残された。蛇足ながら当市本町3の内川端にも戦時中まで料亭「初音」があった。
 ホトトギスも交尾や産卵はするが、巣作りや抱卵は放棄しウグイスの巣へこっそり卵を産む「托卵」の習性があり「無責任な母」としてよくテレビで放映される。親鳥の外出中に卵を産むが、大きさも色も見粉うばかりに酷似している。ここまでならウグイスの美談になりそうだが、ウグイスよりも3、4日早く孵化すると、このヒナがウグイスの卵を巣の外へ落とすのである。この残酷な行動は親鳥から叩きこまれたものではなく、ウミガメが孵化すると一目散に海へ向かってひた走るように、本能のなせるものであろう。こうして養母(ウグイス)の愛を受けてすくすく成長するのである。
 動物の多くは誕生後初めて接した動くものを「親とみなす」習性があるそうだが、この鳥はウグイスに親孝行どころか、翌年には托卵をするのである。しかしこの無責任な行為の成功率は1割以下であるとか。
 「初音」は江戸っ子だけではなく、田植えや山芋掘りの時期…の目安として農民も心待ちにしたようで、九州の阿蘇周辺には近年まで端午の節句に山芋を食べる習わしがあり、この日食べそこねた人はホトトギスになる…との俗信がある。
 「ホトトギス」は「弟恋いし」の擬音である…はよく見る説であり、同源であろうと思われる話が各地にある。「飢饉の折に食べ物を巡って弟を殺してしまった盲目の兄が、死後ホトトギスとなり前非を悔いて夜に鳴く…」と各地で語られている。
 ホトトギスの背は暗灰色と目立たないが、胸のまだら模様はとても目を引く。同様に秋に咲く「ホトトギス」も、控えめな小花であるが花弁の油滴模様が特徴である。
 鷹匠兄弟の宝物の鷹が病気になったので、弟に薬草探しを命じた。5日目に帰ってくると労をねぎらって、その夜は酒を勧めた。酔いと疲れで寝入ると兄は早速薬作りに入った。夜中に目を覚ました弟が星を見ながら小用を足していると、肩口から鮮血が吹き出した。一子相伝の秘薬であるがため、たとえ弟でも製造過程を見られた以上は命を頂かねばならないのが鉄則であった。丁重に葬ったのだが、後悔が押し寄せる波のように止めどなく繰り返された。秋になり見知らぬ花が咲いているのに気が付き、近づいて見ると鮮血が飛んだかのような模様の花が咲きこの時「石碑を建てよう」と決心した。

4月15日号寄稿 「読書のまち鶴岡」をすすめる会 代表 黒羽根 洋司さん

『よみかき市 鶴岡を』

 2011年3月11日に東日本大震災が起きてから6年が経ちました。復興への道まだ半ばの感がありますが、この間、私たちに多くの教訓や感動を与えてきました。
 仙台のある書店主の言葉もその一つです。「3月22日の再開の時、開店前から建物の前に300人くらいの行列ができました。翌日も同様。こんなことは初めてです」。人はどんな時にも本を求めるものだと確信させる話でした。
 陸前高田の避難所でS・Mさんは笑顔を見せながら「本を読んでいる間はホッとできる」と語っています。それに対して友人のS・Sさんは「まだ、本を読む気になれない。読もうとしても、目を通すだけになってしまう」と正直な気持ちを伝えていました。あの人がいなくなった、家もなくなった。これからの生活はどうなるのだろう、という心折れそうな日々の中から、口をついて出るお二人の言葉はどれもが真実なのでしょう。
 被災された人たちが、今どうしているのかと思いを馳せることがあります。好きだった読書ができようになった時が、生活に落ち着きを取り戻し、心の整理ができるようになった時なのかもしれません。たとえ苦境にあって、光明を与えてくれる一つである本を、きっとあの人たちはめくっていると信じたいものです。

 東日本大震災の発生と同じ2011年3月に、本を読むことの素晴らしさを語り合い、文化と知性のまち・鶴岡を誇り、守っていこうとする会が生まれました。以来、「読書で元気なまちをつくろう」をキャッチフレーズにして、さまざまな活動を展開してきました。
 良書は心の栄養剤であり、過去も現在もこれからも、人々に元気や勇気を与える糧なのです。被災された方々の語る言葉の数々は、私たちに確信を深めさせるものでした。あの人たちは、本はどんな時にも人々に日常を回復させる力を持ち、「活字が人々に与える力を信じていいのだよ」とさえ言っているようです。「信じよう、本の力を」という言葉こそが、震災と時を同じくして生まれた私たちの会に託された、彼らからのメッセージなのです。

 中央本線「南木曾(なぎそ)駅」近くに「読書村」という地名がありました。現在の木曽郡南木曾町大字読書ですが、読み方は「よみかきむら」です。明治4年の廃藩置県の際、長野と岐阜にまたがる「筑摩県」が生まれ、そこにあった七つの村のうち「与川」「三留野」「柿其」が合体した際に、それぞれの最初の音を使って「よみかき」村が誕生しました。「与三柿」でもよかったのに、どうせならばと「読書」をあてはめた明治人のセンスに脱帽です。何となく「読書」好きな村人がたくさん集まっているような錯覚すら覚えます。
 この地には「読書発電所」もあるそうで、以下は私の妄想です。そこでは村人たちが毎朝集まり、一心不乱に本を読み、やがて本を読むことによって起こるエネルギーが天井に集められます。それが大きな風車を動かして発電され、村の電力はそれでまかなわれているのです。大気汚染も温暖化も無縁の発電所です。
 発電所での仕事を終え、夕暮れの道を帰路につき、寝床であらためて、残りのページをゆっくりとめくる、こんな村の日常が浮かび上がります。
 「よみかきむら」が誘(いざな)った私の様々な妄想でしたが、「よみかき市・鶴岡」にしていこうという呼びかけならば、現実味をもったものとして皆さんの賛同を得られそうです。まずは、夢を語り合い、次世代に遺す優れた宝物を再確認する集まりに参加してみませんか。  ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆
「読書で元気なまちをつくろう・市民集い」は4月23日(日)午前11時から、市総合保健福祉センター(にこ・ふる)で。お問い合わせはTEL.0235-23-3803(五十嵐)まで。

4月1日号寄稿 鶴岡市日枝 三浦 宗平さん

『新文化会館から見える僕らの未来』

 新文化会館の建設が提案されて以来、仲間を集めて独自に担当者に実情を問い合わせたり、書面で意見を提出して参加したり、ワークショップでも同じ意見を伝えてきた。市会議員の方にも直接思いを語る機会を作ったりもして、出来る限りの働きかけをしたにもかかわらず、役所が出す議事録や、議会の議論を報ずる文書には、届けたつもりの自分たちの声は一切反映されることはなかった。
 あたかも儀式のように耳を傾けたポーズを続け進める役所や、会派の意向に重きを置き、市民の声に耳を傾けない議員たちの怠慢、建築費の高騰や、ランニングコストを未来の子どもたちに背負わせる結果を招いてしまった。
 2016年2月22日には、総建築費が93億7800万円に上る報道が世に出た。大多数がこれを認めているのかなと思っていたが、仲間うちの反応やSNSを見聞きしているうちに、自分の意見は決して少数派ではないという確信を得るようになった。
 翻れば2012年の45億円で建て替える基本設計から始まり、震災による材料と人件費の高騰を理由に数回の入札も不調に終わり76億円に増額された。
 2014年8月には9億7000万円が再増加され85億7000万円に、2016年2月に8億円がさらに増額され、とうとう93億7000万円にまで膨れ上がってしまった。4年間で実に48億7000万円が積み上げられ、当初の2倍以上になってしまったのである。
 建築費が高騰していく様子や、完成後の維持運営を芸術文化協会がNPO化して担当することを、情報の公開が乏しいままに進めようとする動きが根本的な問題だと思う。状況や経過説明から、協議し決定するプロセスを踏まず、市長や担当部署だけで進め、それを議論せず追認する議会の姿勢に私はまったく公正さを感じない。それどころか多様な意見を排除して、既得権益を守っているとしか思えない。
 声を上げる勇気を持たなかったばかりに、自分や仲間の子どもや孫に負担を押しつけていくのだ。問題は解決しないばかりか、膨大なツケが負の遺産となって苦しめていく事実を愛する人たちに知らなかったと、僕は言えない。
 膨大なお金で出来る新文化会館は、新たな施設が生むワクワク感に乏しく、使い勝手の悪いと予想される構造は、使用料の高い公共建物になっていく不安を払拭させてくれていない。
 人口が減る未来に生きる若者をマイナススタートさせるにつながる自己保身は、この新文化会館建築を機会に皆さんも考え直してみてはどうだろうか。
 議会制民主主義をいうルールを免罪符にして、役所と議会は市の重要事業を進めている。
 多数決の原理で、時として少数意見は無いものとして扱われる現実。不満や陰口を酒のつまみにして盛り上がっても変わらない現実。そして、翌日には日常生活に追われて忘れてしまう現実。声を上げず、無知と無力を装い、目の前の愛する人々が必要としていない負担を託す現実。
 子を持つ親として、
 孫を持つ家庭人として、
 納税する市民として、
 自分たちの目の前にあることとして捉えないで、未来の子どもたちに何を残すべきかを考えながら動きたい。誰かに任せる時代から、自らが関わる時代にすべきではないか。自己満足でなく、その先にある誰かのためにチカラを合わせて、鶴岡の未来を築く一人になってみてはどうだろうか。綺麗ごとでなく、最初は辛くても誰かが最初にやらなければならないこと。僕は覚悟を持って動いていきます。
 「誰が子どもを守るのでしょうか」
 「市役所でしょうか、議員でしょうか」
 まわりの知り合いに、新しい文化会館にどんな考えや意見を持っているかを聞いてみることから始めよう。自分が1票を入れた議員に思いのたけや疑問を、電話やFAXすることが、この鶴岡を自分たちの鶴岡にしていく大きな第一歩なのだ。

2月15日号寄稿 鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

『酉年』

   干支は年賀状の主役となり、正月番組の主題にと引っ張りだこである。さらに始業日にはトップの訓話に引用され「今年は鳥のように大空を羽ばたく年になるように…」とか「空から俯瞰する広い視野を持って…」などと目標にされることが多い。しかし「酉」は「鳥類」全般のことではなく、ニワトリを指しているのであるから、大空を羽ばたいたり、俯瞰するのは不可能では…、でもこれは狭い私見かもしれないので幾つかの辞典を開いた。「酉」の字には「酒の容器、水を注ぐ、暦のとり年」と三つの意味が書かれているだけで「鶏」に限る…とはどの辞書にも書いていなかった。
 人間がペットを好むのは本能的なものらしいが、中でもニワトリが最古のものであるとか。その起源はメソポタミア文明に発し、日本へ伝わったのは稲作とほぼ同時…と考えられているのは、ニワトリのハニワが出土するからであろう。当時は卵や肉を目的にしたのではなく、夜明けを知らせる時計として用いたようだ。したがってオスドリが飼育の対象であった。鳥の名前は、その鳴き声を語源にするものが圧倒的に多いようだが、この鳥は「コケッコ」でも「コッコー」でもなく「にわとり」と呼ばれるのは、庭へ餌をやると時々やって来るのでこの名前になったのではないか…。
 「腐鶏」と書く言葉に出会った。「腐」が付くことからも尊称ではなく、蔑称ではと推測される。中国へ入った鶏はとても珍重され、時代が下るにつれその数も急増した。ある国の王はめっぽう夜に強いが、朝は大の苦手であったのは低血圧のせいかも知らぬ。とりわけ薄暗いうちからコケコッコーと高鳴きする鶏には耐え難く「うるさい鶏め…」が「くそ鶏の野郎め」となり「国中の鶏を皆殺しにせよ…」と命令した。その情報が敵国へ漏れ、朝駆けであっさりと滅ぼされたとか。「三千世界のカラスを殺し 主と添い寝をしてみたい…」と明治の都々逸があるように、朝寝の願望は誰の胸にも潜んでいるものかも…。
 またある本の中で「粥粥」の文字を見た。シュクシュクと読み、元来は薄い粥を表す言葉であったものが、何故かメス鶏が仲間と交わす「コッコッコ」の低い声のことを指すようになったとか。さらにこのとき首を前に振る姿が、主にべったりのイエスマンに似ていたためか「お世辞笑い」の意味にも使われる…と付記してあった。
 3〜6世紀の中国では、新年になると門扉に鶏の血を塗り、魔除けとする風習があったそうだ。大切な鶏を生贄にして新しい年を迎えるのだが、貴重品の鶏を失うことが問題視された。そこで代わりに鶏の絵を用いるように変わったとか。
 明治20年、日本へ初めてレグホンとフラマという西洋種の鶏が輸入された。これまでの鶏は土佐の尾長鳥とか、秋田の比内鶏などのような茶褐色の鶏が主であったものが、突如白色の鶏が現れたのである。1つがい1円で売り出したものが大人気となり、3年後には30円に値上がりするほどであった。当時、小学校教員の初任給が6円であるから、ペット熱の恐ろしさを感じる。これは愛玩に産卵という副産物が加わったための現象ではないだろうか。これに着眼した読売新聞は翌年「鶏卵の栄養価」を連載し、国民の意識改革を興した。これを機に鶏飼育は一時的な流行ではなく、国民の生活に組み入れられた。その余波で邸宅に限らず町の長屋でも軒下や裏庭を利用した飼育が普及した。明治中期に山口県八代村で村民が身を挺して鶴の保護活動をした…との新聞記事がある。鶏の飼育は卵による利益だけではなく、むしろ根底にある愛鳥精神の成し得たものであろうと思わせる。
 それが高度成長期になると「鳴き声がうるさい、臭い」などと周囲の声に押され、飼う人が激減した。そんな中で突如現れたのがバタリー式という飼育法であった。これは鶏の団地で、身動きもままならぬ狭い個室に押し込められたまま、ただ餌を食べるだけの生活が強いられた。運動もせず土も踏まず、ひたすら食べるだけである。そして産卵成績が落ちれば容赦なく生後8カ月で食肉にされた。計算された新しい経営方法なのであろうが、門外漢の眼には虐待としか映らなかった。毎年鳥インフルエンザで数万羽が殺処分される。ふとあのバタリー式の復讐ではないか…と思う事がある。

1月1日号 特別エッセイ 作家 佐藤 賢一さん

『大河ドラマ』

  なんだかんだいうものの、NHKの大河ドラマは話題になる。巷にブームを巻き起こすし、それがゆかりの土地では観光ブームになったり、町おこしの追い風になったりする。平成28年は『真田丸』のおかげで、長野県や大阪府はどれだけ盛り上がったことか。羨ましいなあと、溜め息ばかりが際限なく出るかと思いきや、鶴岡にも微風くらいは吹きそうだというから、書かないではいられない。
 平成29年の大河ドラマは、『おんな城主 直虎』である。戦国時代、身内の男子が次々倒れるという数奇な運命で、直虎は女ながら遠江井伊谷の領主となり、御家の存続に奮闘する。養母として盛り立てたのが、はとこに当たる井伊直政で、これが徳川家康に仕えて「徳川四天王」の一角に数えられる。家康が天下を取り、江戸に幕府を開いて後は、彦根に知行を与えられ、幕末の大老井伊直弼を出すにいたる名家になる。その井伊家の礎をなしたのが、つまりは直虎という稀代の女傑だったのだ。という話なわけだが、ここで見逃すわけにいかないのは「徳川四天王」というキーワードである。徳川家康に使えた四大功臣のことだが、それは誰かと問えば、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、そして酒井忠次の四人になる。その酒井忠次を継いでいるのが酒井左衛門尉家で、江戸時代に入ると彦根ならざる庄内に領地を与えられた、つまりは鶴岡の殿さまなのだ。
 酒井忠次も『おんな城主 直虎』に登場するに違いない。当然ながら脇役だが、かなり重要な脇役になるだろう。わけてもドラマの後半など、徳川四天王なくしては成り立たないくらいになるかもしれない。井伊直虎といえば、先日も女でなく男だったと説が挙げられ話題になったが、土台が謎の多い人物で、資料も極端に少ないという。本当にわからない、酒井家ゆかりの文書に少しでもわかる資料はありませんかと、NHKのスタッフが鶴岡まで来たとも聞いている。資料的にも四天王頼みであるからには、酒井忠次が端役に終わるわけがないのだ。
 となれば、世の関心は井伊ゆかりの土地、静岡県浜松市や滋賀県彦根市だけでなく、四天王ゆかりの土地、例えば酒井ゆかりの山形県鶴岡市などにも向くかもしれない。微風くらいは吹きそうだという所以だが、まあ、微風の話である。が、それも一度ならず二度まで続けば、ほんの微風では済まなくなるかもしれない。
 NHKの大河ドラマは、もう平成30年の作品も決まっていて、『西郷どん』である。幕末の薩摩藩士、明治維新の三傑のひとり、いわずと知れた西郷隆盛の生涯を描くものだが、その西郷隆盛といえば、やはり鶴岡と縁が深い。幕末の庄内藩士、明治の鶴岡県士族と交流があったからで、つながりの密なことをいえば、今も鹿児島市と鶴岡市が姉妹都市になっているくらいだ。これまたドラマの後半になるだろうが、『西郷どん』でも庄内藩士や鶴岡が登場する可能性は高い。いや、これまた鶴岡なくしては成り立たない。西郷隆盛の思想を今に伝えるのが『南洲翁遺訓』だが、これは鶴岡の士族がまとめたものなのだ。
 鶴岡が再び注目されること請け合いである。しかし、だ。食文化、クラゲの水族館、バイオ産業、羽黒山等々、鶴岡が誇る地域の資源は数多ある。歴史もそのひとつだと私は考えているのだが、市民一般の関心は世辞にも高いとはいえないようだ。鶴岡は城下町だったと、それくらいは知っていても、どんな殿がいて、どんな家来がいて、何をやってきたかとなると、意外なほど知らないのだ。ましてや多くに知らせたいという熱意など感じられない。これでは仮にブームが来て、訪れる人が増えたとしても、迎えるこちらは満足に会話もできない。
 市民諸氏には微風が吹きそうな平成29、30年をきっかけに、ひとつ興味を持たれることをお勧めしたい。

10月15日号寄稿  荘内教会 牧師 矢澤 俊彦さん

『出せない声をめぐって〜なお抑圧が強い社会〜』

 「あのばあさまは、生涯モノも言わずに死んだっけ」「ムコはナンボなっても肩身がせまい。やたらなこと言えないよ」「姑にはもう黙って従いましたよ」「とにかく周囲に波風は立てんでおくれ」「(東北では)議論しちゃダメだよ」 「あの子は口数の少ない子だね」(ほめ言葉)…
 こんな言葉のリストをさらに広げることができます。それはこの城下町に限らず、地方ではおしゃべりを嫌い、あまり「騒がず」に社会生活を送ってきたことが推察されます。これは、さほど言葉を必要としない、以心伝心と察しあいの社会だったからなのでしょう。親しき者たちが肩を寄せ合って、懸命に生きてきたのです。
 でも、それは江戸の封建時代から続く、さまざまな抑圧の強い社会でもあったのではないか。人の目を恐れ、世間体を、またお上を恐れて心を萎縮させて生きてきたのではないでしょうか。  今もって本音では話せない人間関係。私たち日本人はまだ真底からの声を出してはいない、という気がします。議論討論のできる機会や広場が無いのは、さびしい限りです。憲法では「言論表現の自由」を保障していますが、多くのタブーもあり、なおこの国の言論の自由不在を感じます。
 そこへいくと、キリスト教の入った国は、伝統や社会秩序維持以上に、それが神意に合致しているか、を問題にします。人々は騒ぎ、しばしば革命に訴えました。日常も国によりますが、日本よりはるかにおしゃべりです、神様のほか、恐れるものがないからかもしれません。
(以上は、小生の近著『キリストによるマグマ爆発』に記したものです)

6月15日号寄稿  鶴岡市本町一丁目  花筏 健さん

『ございました』

 テレビのクイズ番組に出た30代のタレントたちがエモンカケ、ズック、アベック、月賦などの意味を知らなかったのに驚かされた。これらは限られた社会の専門用語でもなく、今日ではハンガー、スニーカー、カップル、ローンと書かれる庶民の日常語であり、知っているから「ものしり」と尊ばれるようなものでもない。しばらく耳にする機会がないまま市民生活から離れて30〜40年が経過しているため、30代の人が知らなくても無理からぬことである。
 それに代わって昨今は、カタカナ語が肩を怒らし闊歩するので、高齢者は理解に戸惑うことが多い。中学生のころ漢字の多い文章に辟易したのを彷彿とさせる。漢字なら文字からそれなりの意味を推測出来たが、カタカナ語ではそれが出来ないのが口惜しい。そんな訳で日々置き去り感を強めていたが、この時ばかりは胸を張った。しかしこれは知識などと言える範疇ではなく、ごく当り前の日常語である。
 カタカナ語は若者に限られたものではなく、国会の先生たちも年齢の割には多用する。一見知をひけらかすようで滑稽にも見える。言語だけなら黙視できるが、これを文章化すると字数がやたらに多くなり、一種の無駄につながる。国会の先生を倣ったのか、役所からの通知等にもカタカナ語が多く、受け取った高齢者を悩ませている。
 言葉の過渡期は生活の過渡期とも言い、今日に似たような現象が、明治維新にも起こったことを歴史が教えてくれる。混乱を避けるためにもと、小学の英語教育が制定されたのだろうが、それまでは少々時間を要する。その間高齢者向けの知らせなどにはカタカナ語の後ろにカッコで漢字を付記するような親切を施すのも一案では…と考える。
 伝統行事には「男性に限られる」ものが多かったのだが、少子化や高齢化などからその存続が危ぶまれるものも少なくないようだ。そこで子供たちの力を借りて存続させようとする動きがあちこちに見られる。行事の意義や経緯を、この子たちに伝えておく必要があることから地元小学校への出前授業が行われるようだ。またその土地の伝統農産物を持続させる目的から、子供たちにその味を留めさせようと、給食へ提供し生産者の話を伺う…などの活動が時々テレビで放送される。
 心温まる映像であるが、この時の子供代表の謝辞が決まったように「……有難うございました」である。
 ついこの間までは「有難うございます」であったように記憶しているが、いつから「…ございました」と過去形になったのだろう。
 「おいしさ」を感じるのは舌であるから、食物が口の中にある時点の形容であろうが、「ノド越しの爽やかさ…」とも言うので、少し範囲を広げてもせいぜい食道を通過するまでであろう。それを過ぎれば「おいしかった…」と過去形にするのが自然である。「ご馳走様でした」とか「お世話になりました」の例もあり「有難うございました」だけに過去形だと目くじらを立てるのは筋違いで、むしろ「…ました」のほうが正当なのかもしれない。
 だが「有難うございます」には、「感謝は今なお続いています…」のような温かさが含まれているし、さらに持続する…との憶測さえ感じさせる。ところが「…ました」とすると、それらを一刀両断にバッサリ切り捨てるように感じる…のは私だけだろうか。
 昔のようにのんびりとしてはいられない時代であるから、子供たちの言葉に現れたのだろうか。しかしこの「お礼の言葉」の原案はきっと先生が作ったものではないか、やはり大人社会の言葉である可能性が濃い。
 そんな事を頭の隅に置いていたある日、歳末助け合い運動が始まった頃、そこへ幼稚園児が列になりやって来て郵便局長へ貯金箱を贈った。その時なんと局長が「有難うございました…」とお礼を述べた。
 「…ました」はとっくに市民権を得て、立派な日本語に成長していた事を知った。

4月15日号寄稿  鶴岡市鳥居町 本間 勝喜さん

『鶴岡かるた若葉会 創立100周年記念誌を刊行』

  鶴岡かるた若葉会が一昨年二月に創立100周年を迎えて、今年二月に記念誌『鶴岡競技かるたのあゆみ』が刊行された。歴代の会長が資料の保存に努めたのであり、会の歩みが詳述されている。
 鶴岡若葉会は大正三年(一九一四)に創立された。百人一首かるたをするのは特別な人たちではなく、当時から一般庶民の間で盛んであった。
 鶴岡は東北でも屈指の先進地であり、年々の県大会も鶴岡で開かれたし、大正十三年十月に鶴岡が市になったので、翌年二月に記念のかるた大会が開かれ、山形や新潟県などからも参加者がいた。
 戦前の鶴岡では、かるた大会は一大イベントであり、競技は深夜に及び、有名な商店がこぞって賞品を提供したという。戦争による中断はあったが、戦後すぐからかるた大会が開かれ、NHKラジオが中継するほど盛況であった。
 ただ、昭和三十五年(一九六〇)前後から鶴岡のかるた競技が一旦衰微し、若葉会も活動を停止した。
 ところが、昭和五十一年に「子ども祭り」の一つとして百人一首かるたが行われ、翌年に鶴岡生協に「楽しみながら覚える百人一首」の会が発足するなど、再びかるた競技に関心が高まり、昭和五十六年に若葉会も再興された。翌年二月には「庄内少年少女百人一首かるた競技大会」も始まり、小学生を中心に子供たちの間でもかるた競技が活発に行われるようになった。
 その後も、参加者の増減はあるが現在に至るまで、若葉会を中心にかるた競技が盛んである。競技かるたが鶴岡の大事な伝統文化であることが、本書から明らかとなる。
 A4判138n、税別2000円。問い合わせは星野正紘(TEL.0235-22-8010)まで。

3月1日号寄稿   鶴岡市本町一丁目 花筏 健さん

『琴奨菊』

   1月場所優勝の琴奨菊は平成18年1月の栃東以来10年振りの「日本人力士の優勝」と話題になった。この間は朝青龍から白鵬へと引き継がれ、両者とも極めて安定していたため、他の力士にはチャンスが薄かった。しかし強豪にも怪我や峠はあるのだから、日本人力士にもチャンスが皆無ではなかったはずだ。しかしそんな好機も琴欧州、日馬富士、把瑠都、鶴竜といった外国人力士に奪われた。24年5月に平幕優勝した旭天鵬は現在日本国籍を取得しているが、ご存じの通りモンゴル力士の第1号として来日した人である。そんなわけで琴奨菊の優勝まで10年かかってしまった。
 それがニュースとして報じられ10年ぶりの優勝 ばかりが話題になるが、琴奨菊にはこの外にも隠れた晴れがましい記録が残っている。平成23年7月大関魁皇が場所中に引退を発表し、大関は把瑠都、日馬富士、琴欧州の外人3力士になった。その時横綱は白鵬一人であったから、大関以上が全員外国出身の力士になったのである。
 国技 としては窮地に置かれた。そんな翌場所関脇の琴奨菊が12勝3敗の好成績を残し、殊勲、技能賞を土産に場所後に大関へ推挙された。魁皇以来4年ぶりの日本人大関の誕生であった。相撲ファンはその勢いで横綱へと進む…と願望したが、しかしその後は怪我に見舞われ、横綱を望むどころかカド番に追いかけられる場所が多かった。10年振り優勝 を喜ぶ裏面で「相撲も折角国際的になったのに…」と顔を歪めるファンもいるとか。
 横綱候補の声が消えた頃から、仕切り直しで最後の塩を持ったとき、上半身を思いっきり反らせる動作を始めた。初めは「これはなんじゃ」と言った目で見ていた観衆も、やがてこの動作に拍手が湧くようになった。最近ではこれをスケートの「イナバウアー」をもじり「コトバウアー」と呼ぶほどである。
 観衆には見えないが花道の奥でも両手を目一杯伸ばしたり、足を付け人に持ち上げさせたりする独特の動作を、毎日判で押したように繰り返す。
 誰でも支度部屋で汗をかくほどの準備運動を済ましているのだから、これらの動作には『今さら…』の感がしないでもない。しかしこれは準備体操ではなく、ラグビーの五郎丸選手と同様の精神統一の動作、ルーティンに属するものらしい。
 実力紙一重の者同士で争うのだから、精神的なものの影響は大きい。昔から『ゲン担ぎ』と称し、負けると着物を替えたり、場所入りの道順を変えたりする。それでも勝てないのでいついつ遠回りしてしまい、取り組みに遅れて不戦敗になった…などの笑い話もある。最も多いのは負けるとひげをそり、勝つと剃らない…そんな人は現在でも多いようで、連勝力士がひげ面であるのはよく見かける。
 優勝者インタビューで「毎日のルーティンを付け人が懸命に維持してくれた…」と披露した一言に、この人の人間味を知った。花道で手伝うこの付け人は十両経験者であり、彼の祖父も立浪部屋の十両力士であった。
 一躍話題の人となった琴奨菊は、場所後も結婚披露宴や節分の豆まきと話題の人として忙しい日々であった。先代師匠の墓参後「先代は32歳で横綱昇進であった。私も…」と連続優勝と横綱への野心をちらつかせていた。
 現師匠は尾花沢出身の元琴の若だが、スカウトしたのも育てたのも元琴桜の先代親方である。この人は柏鵬時代の昭和42年、豊山、北の富士、玉ノ島の中へ割って入り大関となり、柏鵬引退後の48年に横綱へ昇進した。遅咲きであったため49年7月に引退と短命ではあったが、初志を貫徹した人である。「私も…」と語尾を濁しながらも、野望を見せた。

1月1日号 特別エッセイ  作家 佐藤 賢一さん

『大鶴岡市』

 いわゆる「平成の大合併」から十年がたつ。鶴岡市、藤島町、櫛引町、羽黒町、温海町、朝日村の一市四町一村による鶴岡市は、着実な歩みを続けている。が、ここに来て、もうひとつ合併話が出てきた。なんのことはない、前回の合併から抜けた三川町の話だ。
 自立を選択した三川町だが、ごみ処理は今も鶴岡市に委託している。しかし市では、合併特例債で新焼却施設を建設する。一緒に借金を背負わない町の面倒はみきれない。だから合併を考え直してほしい。そういう話だが、また揉めそうだなあと思う。水道問題のときと同じだ。三川町は合併しない、鶴岡市が引き受けないなら酒田市に頼むとなるのは、目にみえているのだ。酒田市がごみ処理を引き受けるなら構わないが、駆け引きの具に使われたあげく長期戦に持ちこまれ、最後には鶴岡市が間尺に合わない負担を強いられるなら看過ならない。鶴岡が駄目なら酒田という論法からして、なんだか釈然としない。いや、それは鶴岡、ないしは酒田の感情であって、両者の中間にいる三川町の感覚では自然なのだと返されるかもしれないが、しかし、待て。そもそも三川町は本当に中間なのか。庄内というエリアを地勢学的に南北に分けるとき、その境界線となるべきはどこなのか。
 それは最上川だと私は思う。古くから川北、川南といわれてきた通りだ。生活実態に即さないと反駁されて、なお強く思うのは、少なくとも赤川は鶴岡の川だろうと。そこから南にある地域は「鶴岡市」としてまとまるのが、本来あるべき自然な姿なのではないかと。
 してみると、三川町が「鶴岡市」に入るのは当然である。のみならず、庄内町も「鶴岡市」だ。ごみ処理、水道、消防と今は酒田市に委託しているが、それこそ三川町の論法で、鶴岡市でも引き受けられるのだ。さらにいえば、酒田市に含まれている最上川以南、あるいは赤川以南も、「鶴岡市」でおかしくない。住民の感覚からしても、いわゆる湊酒田とは一線を画している。そもそも両市間の海岸地域というのは、どちらに帰属するか大いに迷うところがあり、湯野浜地区などにしても、かつて住民投票で鶴岡市に入った経緯がある。酒田市の川南でも住民の選択が問われて、別におかしなことはないのだ。
 繰り返すが、「平成の大合併」で生まれた鶴岡市は、着実な歩みを続けている。このままなら、このままでよい。が、三川町との問題を抱えて、どのみち合併という難事に再度取り組まなければならないなら、ここは腹を括って最上川以南、あるいは赤川以南における「鶴岡市」、つまりは大鶴岡市をめざすという道も、ひとつの決断なのではないか。
 口でいうほど簡単ではあるまいが、展望が開けないでもない。例えば新市名を「鶴岡市」でなく、「庄内市」にすればどうか。大英断になるが、それなら相手自治体、相手住民の感情も違ってくる。いや、それは感情だけの話でなく、未来構想の話でもある。新自治体で再び着実な歩みを続けられれば、いよいよ次は酒田市と遊佐町の吸収合併、つまりは大庄内市の建設になるからだ。大鶴岡市、または「庄内市」は、そのための第一歩なのだ。
 実際のところ、鶴岡市と酒田市がほぼ対等であるかぎり、対立ばかり、綱引きばかり、それどころか自治体のためとの美名の下に、各々のエゴが臆面もなく前面に出されるばかりになって、ひとつの庄内市=大庄内市など夢のまた夢である。ありえるとすれば、大自治体による小自治体の吸収、つまり力の差がはっきりしているために、かえって相手の事情に配慮せざるをえなくなる合併だけだ。大鶴岡市ができれば人口十六万、酒田市が十万五千、遊佐町が一万五千、この一市一町が合併した場合でも十二万だから、最小でも四万の開きが生まれる。逆に大酒田市ができても、その人口は最大で十五万に留まり、鶴岡市が今で十三万だから、差は二万だけである。また対立、また綱引き、また自治体エゴだ。ひとつの庄内市=大庄内市を造るためにも、やはり大鶴岡市による「庄内市」しかないと思うが、いかがだろうか。